津波と原発の被災地の村と浜から(中)≪原発と農民≫種をまくということ
- 2011年 7月 19日
- 時代をみる
- 大野和興東日本大震災
放射能は農民のこころを引き裂いた。この春、福島の農民は悩みながら種をまいた。大なり小なり土が汚染されていることは間違いない。そこに種をまき、田植えをして果たして大丈夫なのあろうか。収穫をしたものを食べてくれる人がいるのか、そんな土地に作物をつくっていいのだろうか。それでもみんな種をまき、苗を植え、田植えをした。なぜと問われたら、「百姓だから」というほかはない。
◆それでも種をまくー郡山の中村さん夫妻―
いつもは明るく、よく話す中村喜代さんだが、その日は寂しげで、不安そうにみえた。東日本大震災の日からほぼ3週間が経った四月初め、福島第一原発の暴走はその行き先も定かではないことが次第にはっきりしてきていた。ふいに喜代さんがまるで歌うようにいった。
「百姓は種まいて百姓、つくって百姓」
そして、さあと掛け声をかけて台所に立って行った。瞼が光っているように見えた。連れ合いの和夫さんはそれを受け、「補償とか、そんなことではなく時期が来れば田んぼを起こして、水を入れ、田植する、それを続けないと百姓としてやっていけなくなる。そんなものです」と自分に言い聞かせるようにゆっくりと話した。
郡山市逢瀬地区で代々の百姓を継ぎ、もう四〇年を超える。有機農業に転換してかなりになる。何年も冬水田んぼもやってきた。その田んぼには時期になると白鳥が百羽以上やってくる。喜代さんは地域の一角に仲間の女たちとビニールハウスで野菜の直売所を作り、生産と販売・加工を手がける事業を続けている。
長年積みあげてきたそうした試みが原発で一瞬にして吹き飛んだ。野菜は放射線が検出されたということで出荷停止や自粛になり、直売所は閉鎖したまま、いつ再開できるかのめどもなかった。
そんな話をお二人から聞きながら、「今年の作く付けは」と質問したときのお二人の応えである。「それでも種をまく」、そんな言葉が頭をよぎった。百姓だから出てきた言葉なのだと思った。
◆「休むと百姓でなくなる」-三穂田の高田善一さんー
同じく郡山市の三穂田地区で集落仲間と稲作生産組合をつくり、六〇ヘクタールを経営する高田善一さんは五月、例年だと否応なく張り切る時期なのに、今年は何とも気合が入らない、と悩みながらトラクターに乗っていた。秋、本当に食べられるものができるのか、なにより放射能が降り積もった土地に作物を植えていいのだろうか、それを考えると、好きな酒も飲めない、仕事の後一杯やるのが仲間の楽しみだったが、あの三月一一日以来、誰も飲もうといわなくなった、と語る。
高田さんは稲作のほか乳牛を八頭飼っている。乳を搾るだけでなく、田んぼに入れる堆肥を手に入れるためにも牛は欠かせない。その牧草からもセシウムが出た。五月半ば、ふらっと訪ね、作業場で待っているとトラクターで帰ってきた。牧草をすき込んできたのだという。「切ないですね」というと、「切ないね」といった。
それでもみんな耕し、種をまき、田植えをした。なぜと高田さんに問うた。中村さんと同じ答えが返ってきた。「百姓だからね、休むと百姓でなくなる」。
種を購入し、肥料をまき、燃料代を消費して機械を動かし、自分の労力は計算に入れなくても結構お金をつぎ込んでいる。そうして作った作物が食べられるものになるのかどうか、誰にもわからない。それでもみんな種をまいた。
日刊ベリタ(2011年07月18日)より、著者の許可を得て転載
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