リハビリ日記Ⅴ ⑲⑳
- 2022年 5月 27日
- カルチャー
- 阿部浪子
⑲ 女性史研究家、隅谷茂子のこと
先方からあまい香りが漂ってくる。おやっ、こんな所に。低いブロック塀の上部に白いジャスミンの花が咲いている。清らかで、優美である。
先週、「健康広場」の大瀧先生が歩行訓練中に〈スピードがついてきましたね〉といった。しかし、せかせかしては危ない。腕をゆっくり前後にふって、大股で歩こう。ドラッグストア、ウエルシアはすぐそこだ。
外が騒々しい。窓を開けると、黒い、でっかい車が敷地内に停まっていた。その窓は不透明なので中が見えない。こわーい。〈どなたの車ですか〉降りてきた男は〈車ぐらいいいじゃないか〉と、ぬかす。人をくったような態度だ。いくらボロ家でも人は住んでいる。女住人にも感情がある。この中年男は、無断侵入をわるびれていない。
ここは浜松だ。都会とちがって、わが家の門はまったく無防備で、施錠はされていない。インターフォンのやりとりも無用なのだ。男は勝手に侵入してきたのである。わが心中は、不安と恐怖でふるえている。生身の人間だ。それをこの男に表明してなぜわるい。わがおちょぼ口は大きくなる。怒りで血管が破裂したらどうしよう。疲れた。
60すぎの男だと思う。高価そうなズボンを着け、柔らかそうな靴を履いている。しかし、それに見あった言葉をもっていない。金持ちかもしれないが教養はなさそうだ。道義もない。貧者、弱者をふみつけて平然としている。
人が人として尊重されない、みじめな時代だ。病後6年目になっても、わたしは後遺症に悩んでいる。いやな気分は解消されない。わびしい。
*
〈上野千鶴子の発言は、すでに、わたしたちが主張してきたことですよ〉といったのは、女性史研究家の隅谷茂子だった。女性学、社会学が専門の上野の発言はとりわけ新しいものではないと、先輩格の隅谷はいいたかったのだ。その反発はわかる。
1963年、隅谷は、井手文子や村田静子などと、三井礼子編『現代婦人運動史年表』(三一書房)を刊行している。
松戸の県営住宅に独り住んでいた。小柄で、地味な人だった。1室が雑誌と著書の閲覧室になっている。戦後買いあさったという雑誌類があった。浜松高女(現、浜松市立高校)を卒業した隅谷は、早稲田大学の聴講生になって歴史を学んでいる。
1947年9月に設立された労働省婦人少年局に勤めたが、初代局長、山川菊栄とはげしく対立し、辞職する。山川は、共産党員の隅谷を排除したかったのだろうか。山川の推薦でその秘書になった石井雪枝は、のちに女性労働行政官に昇格し、出世している。
その後、隅谷は「敗戦直後の労働者たち」などの論文を発表。婦人問題懇話会で活動。晩年は、夜間中学の指導にたずさわるのだった。女性史研究家の牧瀬菊枝とは、親交があった。その夫で沖縄問題評論家の牧瀬恒二とは、いとこだ。
「週刊文春」のスタッフのかれは、ここで同居していたのだろうか。〈あたしはずっと、かれとは夫婦別姓でしたよ〉隅谷の表情がかがやき、得意げだった。愛のかたちはさまざまだ。隅谷は、女性解放を理論のみならず実践してきた。先駆者なのだ。経済生活はけっして豊かそうには見えなかった。隅谷茂子もまた、八木秋子のように、立身出世のバスに乗りおくれてしまった1人かもしれない。しかし、向学心は彼女の一生をつらぬいている。
持参した京樽の巻きずしを、わたしたちは、分けあって食べたのだった。
⑳ 隅谷茂子の鷹野つぎとの出会い
五月晴れの日がつづかない。朝起きても、家の中に光がささない。くらぼったい。辺りは静まりかえっている。みんなどこへ行ったのやら。声が聞こえてこない。
先月の「リハビリ日記」に、わたしは町内の一斉清掃について書いた。参加しないと〈罰金〉をとられることも。しかし、その後の話し合いで〈罰金〉の徴収は、とりあえず中止になった。
もう一点、自治会費、年10440円は高すぎるとも書いた。
5月15日付「中日新聞」を見てびっくりする。「わが町の自治会費 高い?安い?」という見出しの、高橋雅人さん担当の記事が掲載されていた。市内の無職の男性が疑問を投稿してきたという。男性の自治会費は年14400円。「非常に高いと思うので他の町のことが気になった」と。
「市内には現在、七百四十四の自治会があり、会費は各自治会で決めている。」年4000円という自治会もあるそうだ。男性の疑問は、1人だけのものではないはず。心の中では多くの人が疑問に感じているにちがいない。しかしなぜか、みんな黙っている。
わが自治会費、10440円は、たしかに高い。〈新年会を盛大にやってるからでしょ〉という陰口もちらほら聞こえる。〈大酒を飲む人が何人か、いるのよ〉という噂も。
自治会は任意団体ではあるが、家・世帯単位で入会している。町内の意思決定もひとにぎりの男たちによってなされてきたのではないか。そこには女たちの意見は反映されてこなかった。今こそ旧来の体質を脱皮し個人単位の任意団体に変わってほしいものだ。自治会費は、むろん、安いほうがよい。
リハビリ教室「健康広場佐鳴台」に行く。四津谷先生が車で迎えにきてくれた。目のきれいな人。介護職に就いてまだ新しい。〈他人のためになれることがうれしいわ。実感できています〉と話す。先生は子育て中のようだ。
授業のスタートは準備体操である。藤田先生の指導だ。彼女の目も澄んでいる。1週間ぶりの体操に、硬くなった腕、手、脚がだんだんほぐれていく。生徒一同、椅子に腰をかけて行なう。
次は滑車運動である。どこの教室でも導入している機器だ。椅子に腰をかけた状態で1人で行なう。頭上の滑車に通したロープの両端をにぎると、先生がロープの長さを調節してくれる。両腕を交互に上げたり下げたりする。筋力アップの体操なのだ。わたしはわかいころ四十肩をわずらっている。発病後の後遺症もある。右腕を上げると、ちょっと、つかえる感じがする。
所定のテーブルにもどり、緑茶をいただく。おいしい。机上では、左右の絵をみくらべて異なる部分をさがすなど、脳の活性化運動を行なう。このテストがなかなかむつかしい。視力もいっしょに試される問題だからであろう。
*
〈鷹野つぎは、とりすましていましたね〉と話したのは、女性史研究家の隅谷茂子だった。〈もし、つぎが、からだが丈夫で行動的であったら、そのイメージは崩れたかもしれない〉とも。隅谷は、日々の研究プロセスで、作家、鷹野つぎが浜松高女の先輩であることを知ったという。
つぎは9人の子を出産し7人の子をなくしている。遺子の鷹野次弥が他界後、隅谷は、もう1人の遺子、鷹野三弥子をたずねている。父、鷹野弥三郎の実家のある南佐久郡に独り住んでいた。つぎの資料がまだ整理されていないとき。それらをどうしたらよいか。相談をうけた。
その後、隅谷は同窓会会長から会報に寄稿するよう依頼される。つぎについて書いた。つぎの存在は、次第にクローズアップされるようになる。『鷹野つぎ著作集』全4巻(谷島屋)の刊行のさいも隅谷は協力している。しかし、われこそ発掘者だと思う不遜な研究者がいて、隅谷の功績は知られずにきた。隅谷こそ先鞭をつけた研究者にちがいない。
隅谷は、鷹野文学の代表作として『幽明記』(著作集4)をあげた。随筆集だ。わたしもそう思っている。
つぎは結核療養所で人間の壮絶な死を見つめている。つぎでなくては描けぬ、思索的、内省的な文学世界であろう。文芸評論家の板垣直子が「感傷的に流れていない」「落着いて、一種の厚みも感じられる」と評価する鷹野文学のなかの1作である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture1077:220527〕
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