「民主主義は資本主義社会だけの専売特許ではない」 ―― 王力雄著「セレモニー」から
- 2022年 6月 29日
- 時代をみる
- 中国共産党民主主義田畑光永資本主義
7月1日は中国共産党の創立記念日である。結成は1921年だから、昨年のこの日はちょうど100周年であった。北京の天安門広場にいっぱいの民衆を動員し、故毛沢東主席を思わせるグレイの人民服姿で登場した習近平総書記が「いかなる外部勢力の圧迫も許さず、台湾問題を解決して祖国の完全統一という共産党の歴史的任務を果たす」と演説した姿を覚えている人も多かろう。
1年後の今年はどんな行事になるか、2月に始まったロシアのプーチン大統領のウクライナ侵攻を支持して、国際世論の少数派に回っているだけに、習近平がどんな振る舞いに出るかが注目されるところではある。
それにしても、最近の中国は国内状況についての他国からの批判を「余計な口出しをするな」の一言で退ける傾向が強い。とくに民主とか人権とかの、彼らの言う「敏感な問題」ではとくにそうである。勿論、外からの批判はあくまでも批判であって、それ以上のものではありえない。ただ、批判が中国の一般市民にどう受け取とられているのかは知りたい。
そんなことを考えていたところ、最近、たまたま遭遇した文章で皆さんにお読みいただきたい一節があったので、ここにご紹介する。
王力雄という中国人作家の作品で、「セレモニー」(原題『大典』。金谷譲訳、藤原書店刊)というのがある。これは技術進歩によって中国がより一層厳しい監視社会になった中で、国のトップが人工毒バチで暗殺されるという一種のSFだが、ご紹介したいのは、暗殺事件で一瞬、国の中枢をになう形となった登場人物が来るべき社会像を、その年の建党記念日に天安門広場に集まった群衆に語る場面である。やや長いので一部省略してあるーー
「マルクス主義が求めたものは、人民が統治権を手にすることでありました。歴史上の人民革命もそれを目標としております。中國共産党もまた、本来は民主主義を旨としていたのであります。・・・・
民主主義は資本主義社会だけの専売特許ではありません。西側社会だけのものでもないのです。それは、革命の無数の先達たちが、その赤い血をもって贖(アガナ)ってきた人類の文明と進歩そのものであります。毛主席が行った文化大革命は、権力を人民に付与するべく行われた一大実験でありました。人民を信じ、人民に依拠し、言論の自由、結社の自由を支持した文化大革命は、空前の大民主主義を現出したのであります。それは、毛主席の抱いた民主主義の理想を十分に展開するものでありました。
中国共産党が政権を樹立した当初は、敵の包囲やそれによる圧殺に対抗するために、一定の期間をかぎって独裁が必要でありました。しかしそれはあくまで暫時であるべきで、永久的な体制とはなりえないものであります。それは手段ではあっても目的ではないのであります。政権が安定し、強固なものとなった暁には放棄されるべきものであります。しかるに、独裁時期に形成されたところの特権階級は権力の返還を望まず、それどころか、権力をして個人の私有に帰せしめるまでに至りました。その結果、各種の権力闘争、路線闘争、果ては宮廷闘争とさえ呼んで然るべきものを引き起こし、ついにはこの度の党主席暗殺という未曽有の事態へとたち至ったのであります。これはすでに亡党亡国の淵に居ると言うべき状況でありましょう。我々は、これを教訓として深く反省しなければなりません。そして、権力を人民に授与した毛主席の英明さと偉大さとに、いまいちど目を向けるべきなのであります。
文化大革命は、毛主席の理想を完全に実現するに至りませんでした。その原因は、革命の激情に主導された大民主主義が秩序と手続きの性格(ママ)を欠いていたからであります。これでは政治の日常的運営において長続きはいたしません。でありますから、革命が規則や規定に基づく常態へと回帰したとき、管理の職務と能力を有する官僚集団が再度復活するのは自然の成り行きでした。彼らは権力をその手に取り戻し、以前にもまして人民を敵と見なし、毛主席が彼らに授与した権力を徹底的に奪いました。この経験から私たちが学ぶのは、制度化され、手続き化した民主主義の建設が不可欠ということであります。さすれば毛主席の理想も、ついには実現することが可能となるでありましょう。しかしながら、その中でもとりわけ鍵となるのは、権力の座にある者に対して、人民による普通選挙を実施することであります。権力者は、人民の選択の結果、権力を授与されるべきものでありますから。
中国共産党建党祝賀式典のこの場において、私はここに、偉大なる中国共産党がその歴史的使命を完了したこと、同党は独裁を放棄し、権力を人民に返還することを、宣言いたします。これから人民は、普通選挙によって国家の指導者を選択することになります。かかる意義において、本日の祝賀式典は、たんに歴史を記念する議式としてではなく、人民に権力を返還するための儀式となったのであります。
本日以降、人民への権力移譲の過渡期が開始されます。二年以内に、憲法改正を完了し、新憲法に対する国民投票を実施します。三年後の本日、新憲法に基づく普通選挙を実施いたします。しかるのち、全ての権力は、新たに選出された政府へと移譲され、軍隊の国家化と徹底的な司法の独立が実行されることになります。地方の各レベルの中国共産党組織はすべて、政権との関係を断絶します。地方は、新憲法の枠組みのもと、地方選挙を行い、地方政府を組織します。
全党および全人民は以下の認識を確固として持たねばなりません。民主主義こそが国家の最大の安全保障であること、そして人民の安寧と幸福の根本的な保障であることであります。・・・・・・
最後に、私は世界各国の政府に向けて呼びかけたいと思います。中国の民主主義への転換を支持されることを。また、皆さんからの援助の申し出がなされることを期待します。中國はいま、世界の民主的社会の大家庭に加わろうとしています。人類共通の価値観や普遍的人権のために、国際社会と協力すべく、その第一歩を踏み出そうとしております。・・・・・・・・」
どうだろう、この作者の頭の中の民主主義と我々のそれとはなんの違いもない。そればかりか、日本人は天皇制下の軍国主義から民主主義への移行は米占領軍の命令で進められたから、自分の頭で筋道を考える必要はなかったが、中国では共産党独裁体制を民主主義へ変えるには何をどうするかを自分たちで考えなければならない。それにも作者は気を配っている。
こういう文章が中国の新聞雑誌に普通に載るようになれば、民主化は実現したも同然だし、それだけで社会は明るくなる。私は鄧小平の主導のもとで改革・開放に中國が舵を切った時期に北京に駐在していたが、その1978年秋から翌春にかけての時期、北京には各所に壁新聞が現れて様々な言論が吹き出した。「民主の壁」は中国人の体内に積もり積もった「言いたいこと」の展示場となった。もとよりそれは路線転換を容易ならしめるために鄧小平らが慫慂した結果でもあったのだが、「言論の自由」の舞台として、それは感動的でさえあった。
訳書の紹介によれば作者の王力雄氏は1953年生まれで、「民主の壁」に参加したとのことである。しかし、この作品は「民主の壁」から半世紀近くが経過した今でも(あるいは、今だから)中国国内では出版されず、世に出たのは日本と台湾でだけとのことである。
間近に迫った7月1日に習近平は姿を現すだろうか、何かを言うだろうか。間違ってもこの作品のようなことは言わないだろうから、何か言ったら、どこが違うか、中国人ともども我々も聞き耳をたてよう。ウクライナがどういう形で決着し、それが自分の長期政権ねらいにどう影響するか、習近平は今、不安の塊となって日々を過ごしているはずだ。その顔をじっくり見るだけでもいい、出てきてくれ。
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