福島原発震災と企業の社会的責任─復興の精神と日本の帰路(5)─
- 2011年 7月 22日
- 評論・紹介・意見
7月22日
暑さは人から冷静さを奪う。同じ熱さでもこちらは違う。「なでしこジャパン」から伝わってきたのはこの熱さであるが、経団連の夏季セミナ―における菅首相や政府批判はどうやらこちらの暑さのようだ。新聞やネットで伝えられるところによればセミナ―では菅首相批判の嵐のようだ。とりわけ、脱原発発言に対する批判が強く、原発の再稼働が止められたことへの苛立ちが高まっているようにうかがえる。このままだと電力供給が逼迫し、やがては電力コストが上昇し企業は海外に移転するというものだ。このことは雇用の喪失につながるという、半ば脅しのような発言が続いている。原発によるコストの安い電力に未練たらたらのような発言なのである。
日本の大企業、とりわけ経団連を構成する企業は福島原発震災に責任はなかったのだろうか(?)。また福島県の復興構想の最初に「原発依存からの脱出と再生エネルギーへの転換」が掲げられていることをどのように認識しているのか(?)。さらに日本の企業は大震災からの復興において企業の在り方がどうなるかを考えているのだろうか(?)。思いつくままに列挙しただけでもこのような疑問がでてくる。原発は国家の政策(国策)であり、それに従っただけとでもいうのか。東京電力をはじめとする電力各社がエネルギー政策も含めて産業政策に重要な役割を果たしてきたが、それには企業の共同的役割もあったはずである。原発を産業政策として推進してきたのは電力会社だけではなく、企業も関与し、その一端を担ってきたのだ。経団連が日本の企業の指導部的役割を持つものそれが原発推進の大きな役割を演じてきたことも明瞭ではないか。
原発が人類史的にみて人間のための自然の生成史の先端に位置してきたことは自明である。だからこその可否と今後ついて人類史的な判断がいるのだ。これは日本の一企業の問題ではなく、世界史的なことである。経団連は産業史の中でエネルギー産業の推進者であると同時にその使い手である。つまりはエネルギーの供給者であるとともに最大の消費者である。それだけに矛盾もふくめて複雑な立場にあると推察できる。それだから、これまでの原発推進政策についての反省を含めた見直しをやってもらいたいし、人類史的な視点に立っての見識や構想を提示して欲しいのだ。それが企業の社会的責任である。私企業といえども社会性が問われることはまたあるのだ。原発推進は「原子力の平和利用」や「安全神話」の流布に企業が果たした役割についてメディアへの批判は強いが、同じことがまた企業に向けられていることを自覚すべきである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0558:110722〕
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