『第三次世界大戦はもう始まっている』(エマニエル・ドット) もう一つのウクライナ戦争論
- 2022年 7月 27日
- 評論・紹介・意見
- ウクライナ戦争エマニエル・ドット三上 治
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安倍暗殺事件があってメディアも人々の関心もそちらに手中して、ロシアのウクライナ侵攻は人々の関心から遠のいているようにみえる。侵略 5 か月を過ぎ戦争は膠着状態なっているようにみえるから一層のそのようにおもえるのかもしれない。この戦争の今後予測は経たないものとはいえ、僕らにとってこれを成り行きまかせにみておればいいというものではあるまい。そうするほかないことは事実なのだが、この戦争の原因や今後について僕らの認識を磨くことは重要事と言わなければならない。この戦争を契機に憲法改正や核武装推進動きもでてくるだろうから、僕らはこの認識に努めなければならないのだ。エマニエル・ドットはポール・ニザンの孫で人類学者であるが、反グローバリニストして注目された。
ロシアのウクライナ侵略はまさに 20 世紀型の典型的な侵略戦争だというのが一つの見解なら、これはアメリカやNATOによって開始された戦争(そそのかされた戦争)というのがもう一つの見解である。戦争はどのような経緯であれ、二つの相対する国家の対立であるから、相対立する見解が出てくるのは当然である。ロシアの仕掛けた戦争(侵略、侵略戦争)だというのがウクライナ側に立つ人たちの見解でるとすれば、これはアメリカの仕掛けた戦争だというのがロシア側の言い分である。このエマニエル・ドットの見解はロシア側の見解に近いと言っていい。彼は第三者的な見解であり、一人の歴史家の見解だといたいのであろうが。これはロシア側の見解というべきだろう。
彼はロシアのウクライナ侵略がはじまった後に、日本の「核武装」を提案して注目された。安倍元首相の「核共有議論」の提唱に対応していた、といえる。彼は『文藝春秋』2022 年 5 月号に「日本核武装のすすめ」を書いたが、それは本書に掲載されているだけでなく、本書の重要な構成要素になっている(第1章)。僕はこれがロシア側に立つ見解であるというよりは、一人の歴史家の視点だとして読もうとした。
でも、これはロシア側の見解に立つものではないのかという疑惑を消せなかった。彼はアメリカ学者ジョン・ミアンシャイィマーの最終結論と言われる「いま起きている戦争の責任は、プーチンやロシアではなく、アメリカと NATO にある」というのに同意しているからである。
ロシアは今回の侵略という行為を戦争とは語らず、「特別軍事作戦」と称しているし、この戦争が西側のロシアに対する脅迫(安全保障上の脅威)にあると称してきた。また、ロシアの見解に同調する人でない人も、アメリカや NATO に原因があるという人は少なからずいる、僕はこういう見解には異論があって、多くの反論も書いてきたが、このエマニエル・ドットの基調(基本的見方)はそこにあるので、そこは違和感を持った。
著者は「ウクライナの NATO 加盟、つまり NATO がロシア国境まで拡大することは、ロシアにとっては正存に関わる『死活問題』であり、そのことをロシアは我々に対して繰り返し強調してきた」というミヤンシャイマーの見解を明快な指摘で賛成だという。
NATO の東方拡大、そのロシア国境までの拡大がロシアの危機、ここでの言葉をつかえば「正存に関わるしかっ問題」だというが、この主張に僕は疑念を持つ。
これはロシア側の言い分だし、ロシアが西側からいじめられている、という物語にもなっていることだ。
NATO はロシアの安全保障にとっての本当に脅威あるのか。ロシアがそういっているのだから、というのは当たらない。
他国家の軍備強化が自国の安全保障を脅かすというのは、どこの国家の指導層ではいうことである。自国の軍備をするため口実である。他国を軍事的に侵略する、あるいはされることが当たり前であった時代ならともかく、これには検討がいるのだ。
「戦争とは、相手に自らの意思を強要するための、実力の行使である」とはよく知られた言葉である。そして戦争は国家当然の行為とみなされていた時代もあった。現在でも国家に戦争の権利は認められているが、それは自衛的な戦争に制限されている。こういう時代にあって他国の軍事の強化が自国安全保障上での脅威というのは検討のいることなのである。古典的な力の政治(パワ―ポリテックス)論を安易に使ってはいけないのだ。エマニエル・ドットはそこが安易なのだ。
このことは NATO がロシアにとって侵略の恐れのある軍事的脅威、つまりはロシアへの軍事的侵攻の野望を持った存在かということである。僕はここでは当たり前のごとくに論じられて,前提のごとく言われることに疑問を持つ。かつて西欧諸国にとってロシアが軍事的脅威であり、逆にロシアとって西欧諸国が軍事的脅威であったと言われた事にも僕は疑問を抱いてきた。冷戦構造下でのアメリカ・西欧諸国とソ連。及びソ連圏諸国は相互に軍事的脅威であったのか疑問である。国家が軍備をするための他国軍事的脅威が不可欠であり、相互に利用し合っていただけである。
たしかに NATO は軍事同盟だし、かつてはロシア連邦【旧ソ連】を中心国とするワルシャワ条約機構と対抗関係にあった。このワルシャワ条約機構は自己解体し、旧ソ連邦も解体した。この過程で NATO は軍事介入したわけではない。このことは NATO が攻撃的な軍事同盟というよりは防衛的な同盟であった、ということである。それなら、ワルシャワ条約機構が解体した後に、NATO は解体すればよかったではないか、といわれる。あるいはこの本でもいわれているように「NATO の東方への 1 寸の拡大もしない」という約束を破ったではないかなどと言われる。これは違うように思う。
軍事的な脅威は対立する相互の国家間に存在するとは言うものの脅威はロシア国家にあったのである。言い換えればプーチンの国家対応にこそそれはあったのだと思う。旧ワルシャワ条約国が何故にNATOに参加したか、最近のフインランドやスエーデンうごきを見れば明瞭になるではないか。
ドットはアメリカがロシアの従属化のためにウクライナ―のNATO入りをすすめたというが、これは違っている。ロシアが他の国家に対して軍事的脅威というべき存在になったのはソ連邦の解体後のプーチンの支配する国家になってから強まったことである。ロシアは NATO の拡大が軍事的な脅威ではないこと、つまり、その拡大で自国軍事的に侵攻される危機にはないことは十二分に知っていたと思う。
「生存に関わる『死活問題』」ということではないし、そんな根拠はないことは熟知していたのだと思う。これは西欧側の考えというよりは、史的にみて当然のこととして推察できることなのだと思う。僕は著者らが「ロシアの正存に関わる『死活問題』としていた」ことを疑いもなく、前提のようにしているのに疑念をもった。
ここは今回のロシアのウクライナ侵攻を見る場合の要をなすところである。この見方が狂えば、評価がちがってくる。この本はアメリカの誤算。あるいはロシアの誤算など、いろいろの知見があっておもろく、触発されるところもあるが、基本的な認識のところでは同意出来ない。
今回のロシアのウクライナ侵攻を「NATO の東方拡大」に帰する見解は、それがロシアの内部の事柄(政治)に要因があることを見抜けず、プーチンの国家統治の構造(政治構造)を認識できていないためだと思う。著者にしても、ミヤンシャイマーにしても、戦争の要因を国家対立という外部事情に求めて、内部要因からみることができてはいない。プーチンの権力の動きが分かりづらいこと、彼らは理解していないことにある。プーチンの政治含めたロシアの国内的な事柄、そこにある戦争の要因の考察が足りないのだ。プーチン権力から出てくる戦争の分析が欠落している、というか。
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今度のロシアのウクライナ侵攻は歴史のアナロジーとしては「ミュンヘン会談」(ヒットラー暴走を許した)や日本の大陸侵攻(シナ事変)に似ていると言われるのだが、彼はそれを否定し、キューバ危機に似ているというが、これは間違いである。日本の中国大陸への侵攻からこの事件の認識は役立つことが多くあると思うがいずれにしても彼のアナロジーは間違いである。
今度の戦争で人々を驚かしたことにロシアの核兵器使用の示唆(脅かし)と原発占拠があった。
核兵器は相互に使えない兵器として抑止力を持つものであり、核兵器を持つ国はそれで戦争の抑止力を得ていると言われてきた。プーチンが核兵器の使用の示唆で、アメリカや NATO 諸国の参戦を阻止していることはありえる。核の使用が核戦争に発展するかもしれないという危惧のため、通常の兵器を持っての戦争も阻んでいるようにみえる。アメリカや NATO 諸国が参戦を控えている理由はほかにもあるだろうが、その一端とみなせないことはない。この本ではこう述べられている。
「ウクライナ危機は、歴史的意味を持っています。第二次世界大戦後、今回のような『通常戦』は小国が行うものでしたが、ロシアのような大国が「通常戦」をおこなったからです。つまり、本来『通常戦』に歯止めをかける『核』であるはずなのに、むしろ『核』を保有することで「通常戦」が可能になる、とういう新たな、事態が生じたのです。これを受けて、中国が同じような行動に出ないと限りません。これが現在の日本を取り巻く状況なのです」(80P)
核兵器の脅しを持って古典的な戦争、ここでは「通常戦」と呼ばれていることが可能になった。
この認識では僕は著者とあまり違っていない。核兵器故に大国は主体になっての戦争はしないだろうと思っていたが、核兵器を脅しに使って大国間の戦争を抑止して、侵略戦争ができるということである。大国間は核兵器と戦争の違法化の合意をしてきたのが戦後だったが、それをやぶり、大国が主役の戦争の道を開いた。
また、プーチンの核兵器の示唆は核兵器の使用が権力者次第であり、核兵器が核兵器の使用を抑止するというのが幻想であることをしめした。今回の戦争でプーチンが核使用も辞さないことを示唆したことを受け、すぐに、安倍元首相が「核の傘」を「核の共有」に発展させるべきだという議論を提唱した。著者はこれをうけてかは知らないが、「日本の核武装のすすめ」を書いた。彼の提言は「核の傘」も「核の共有」もナンセンスで核武装をすべきだというものだ。
核兵器は使用すれば自国も核攻撃を受けるリスクのある兵器だから、中国や北朝鮮がアメリカ本土を攻撃する能力を持てば、アメリカが核兵器を持って日本を守ることはないという。だから、日本は自国で核武装するか、しないかしかなく、日本は核武装することで東アジアの不均衡から出して安定化に寄与するというのだ。
中国や北朝鮮を念頭においての提起だろうと思う。プーチンが権力者次第で核兵器の使用がありえることをしめしたことは、核兵器が核兵器を抑止するということを破ったもので、核兵器に核兵器へ持って対抗するという抑止論が意味のないことを示唆した。そう考えるべきだ。核兵器も含めてその使用を禁ずる権力を創りだすか、どうかが課題となるのだ。これは戦争を発する権力の問題であるし、その権力を、非戦を基本にする権力に変えるか、どうかである。プーチンが核兵器の使用をしたことから、注目すべきはプーチンが国連憲章での戦争に関する最低の合意(侵略戦争の違法)すら意に介しない権力者であることを示したことである。
プーチンはなにをやるかわからないという怖さを持った権力者である、同じように中国の権力もそうである。中国や北朝鮮と不均衡は彼らの核兵器に対抗して、日本が核武装したからと言って安定するものではない。核兵器を持つ権力の暴走に対しては核兵器を持って対抗できないことをむしろ考えるべきだ。
著者の「核武装のすすめ」は核を持つこと、つまりは国家が武装することは国家が自律することだという。だから、次のように言う、「過去の歴史に範をとれば、日本の核保有は、鎖国によって『孤立・自立状態』にあった江戸時代に回帰するようなものです。」(85P)。日本は憲法 9 条によって『孤立・自立』という状態できたという評言を想起した。日本の憲法には戦争を発動させる権力構造の変革ということが含まれていたが、この核保有論にはそれがない。日本が自律するか、どうかで重要なのはどういう権力形態かである。憲法は国民主権をうたっているのはそのためである。自律が戦争の主役にならないために。著者にはそれはない。どうしてだろうか。
著者には戦争の主役はアメリカであり、アメリカが悪の根源であるという認識がある。この本でも「アメリカは今回、私の住むヨーロッパで戦争を始めたからです。これによって、私のアメリカへの敵意は絶対的なものになりました。著者には世界を戦場に変えるアメリカという認識がある。また、日本はアメリカの戦争に巻き込まれる危うい状態にあるという危惧がある。そういうリスクがあるという。だから、そこからの自律が必要で、それには核武装が必要であるというのだ。今回の戦争はアメリカが主役だという見解は、それなりに流布されてあるものだ。左翼の多くにあるそれは戦争とは帝国主義戦争で、アメリカ帝国主義の戦争だという観念に縛られているためである。伝統的左翼の帝国主義戦争論である。
エマニエル・ドットは近代西欧の近代化を批判する立場が色濃い。「西欧は『世界』の一部でしかない」というものであり、その意味でアジアの抵抗に同情的なところがある。それはプーチンやロシアの無意識の擁護となっている。戦争と権力の関係についての史的考察が彼にはない。どういう権力と戦争が相関するのかの考察がない。
今回のウクライナ侵攻で衝撃的事件の一つにロシア軍の原発占拠ということがあった。ウクライナには原発事故で有名なチエリノブイリ原発があるのだが、ロシア軍はこの原発を一時占拠した。
これをどうしようとしたかは現在のところ不明だが、原発が凶器に転ずる可能性を示したのである。
日本の原発ではテロ対策が講じられるようになっているが、原発は攻撃する側から見れば恰好の核兵器になることを示したのだ。原発は相手国の攻撃から防ぐことは不可能と言われるし、原発から撤退するしかない。僕はそういう議論に発展することを期待したが、これはいつの間にか立ち消えになった。ちょっと残念である。 7 月 25 日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion12221:220727〕
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