わたしと戸籍 ― 「戸籍」私史(その6)
- 2022年 9月 2日
- 時代をみる
- 戸籍池田祥子
Ⅱ子どもの居る暮らし
(1) 手探りの「(無認可)0歳児保育園」
新井薬師のお寺さんのお婆さん・・・今から思えば、本当に昔風の「子ども預かり寺」だった。預かってもらうのに「審査(書類提出)」もなかったし、託児を頼みに行った次の日からOKだったし、困っていた身としては、どんなに助かったことか・・・。
ただ、たまたま見ることになった不衛生な(?)台所や、赤ん坊のウンチも、当てている布オシメの端っこで拭くだけ。もっとも他の子どもたちは「馴れている」のだろう、誰もお尻を爛(ただ)れさせてはいないようだった。私の子どもだけは、病院で教わった通り、ウンチの後はその都度、消毒綿で拭くのが当たり前だったから、そのお婆さんの保育園に行き始めると途端にお尻が爛れ、薬を塗ってもなかなか治らなかった。
「子育ても文化」・・・私自身、昔の子育てを知らない訳ではない。わが子のお尻の爛れも「馴れて来る」と大丈夫!とも思ったけれど、オシッコだけでも沁みるのだろう、ヒイヒイ泣く声は耐えがたかった。大袈裟ながら、0歳から始まる「近代化」という時代の流れはやはり大きい。「当たり前」だった事柄が、いつしか「不衛生」と断じられるようになる。
このお寺さんは嫌だな~という思いは、やはり私にとっては無視できなかった。早速その日の夜、大学の時の1年先輩に電話をかけて「0歳児のもう少しいい保育園」について相談した。そして、中野駅寄りの無認可ながら「まあまあ丁寧だよ」という「0歳児保育所」を紹介され、早速そこを訪ね、ベテランらしい「保母=園長」に託すことになった。これはこれでラッキーなことだった。1970年半ばのことである。
(2)短大への就職
初めての子育てとアルバイト(保育実践のまとめ)で日々やりくりしていた頃、もはや大学院に行くことはなかった。ところがある日、指導教官から突然電話がかかってきた。
私が事務担当をしていた保育研究会(教育計画会議部会)のメンバーでもあった「おばあちゃん先生」が、中野区にある東京文化短大(現在の新渡戸文化短大)の理事をしているとのこと、その先生からの話で、何でも今回新しいコース(教職・教養コース)を増設するので、一度面接を受けるべし、という内容だった。
もちろん、私は悩んだ。主観的には、指導教官にはお世話にはならない!と思っていたし、あと2教科で東京都の保母資格も取得できる・・・
だが、一方で私なりの危惧もあった。というのは先輩の保母をしていた友人が、40歳前で「頚肩腕症候群」に罹って職場闘争をしていたからだ。「保母」という職業を選ぶからには、「若い内が華!」、40代過ぎれば、他の仕事を選ばなければならないかもしれない・・・と、どこかで覚悟はしていたのだが。
表向きには、指導教官の電話がすでにして「命令ごときもの」だったため、断るわけには行かない、ということもあった。しかし、内々の声として、「短大の教員だったら年とっても働ける!」という少々計算高い誘惑があったのは事実である。さらに、そのおばあちゃん先生(厚生省の元課長)を含めて、私が「東大全共闘」に参加していたことは周知の事実だったし、「暴力はいけない!」と彼女からも批判されていた。だから、「就職のために」身元を隠す?必要はなかった。
いま一つ、初めて耳にするその短大が、何と妹の女子美術短大受験の日に、その前を通った地味な学校だったという、かすかな「ご縁」を感じたことも背中を押した。実際は、新渡戸稲造、有島武郎が関わった大正期のモダンな女子経済専門学校が前身だったのではあるが・・・(とはいえ、戦後はかなりの「良妻賢母」教育になっていた)。
命令されて出かけて行った「面接」の場は、指導教官と、おばあちゃん先生とその短大の新しい教務部長が揃っていた。「面接」というより、「私を抜きにして」すでに話は進んでいた。教務部長から、私の担当は、新しいコース・クラスの「担任」と、教科は「育児学」「フランス語」その他、と伝えられた。
今から思えば、「東大大学院」という名前、私の指導教官の政治力? 厚生省の元課長だった「おばあちゃん先生」の社会的影響力? それらが一つの政治的な力として、私の短大就職を支えたのだと思う。共に「全共闘」に関わった仲間の中には、「自己否定」というテーゼを律儀に捉え、問題の多い教育界への就職を断念した人も居るし、「政治セクト」の専従になった友も居た。その意味では「後ろめたさ」が全くない訳ではなかったが、後に、その短大のある教員が「伊藤先生は、全共闘の活動家だったのに、それを隠して就職した!」という噂を流したことがあるが、そういう事実に反するデマの類は全く無視することができた。ただ、せめてもの私の意地としては、次の年、東京都の保母試験2教科を受けて、無事「保母資格」の免許を取得したことだった。
(3)「私立短大」での規則無視?
お茶の水女子大や東大の教員と接してきた私は、「大学の先生というものは、授業と会議だけはしっかり任務を果たす」と勝手に思い込んでいた。それ以外の時間は、それぞれ自由に、研究をしたり、調査をしたり・・・それで良し!と思っていた(それは、いまでもそう思っているのだが・・・)。
しかし、実際に就職してみると、とりわけ私立短大、しかも付属の幼・小・中・高が併設されている総合的な「私立学園」では、短大の教員も、事務職員と同じく、朝は「8時30分から勤務」が規則だった。とはいえ、教授会やその他の会議などは、夕方から始まって、議題が盛り沢山だったり、揉める内容だったりすると、延々と延びるのだったが、そのことについては誰も問題にする人は居なかった。考えて見れば、短大の教員は、男性と、独り身の女性あるいは子育ての終わった中高年の女性だったからだろうか。
短大への就職に先だって、私は、公立保育園の近くに引越しをして、そして「1歳児からの保育」を確保していた。しかも、小・中学校以来殆ど乗ったことのなかった自転車を買い、フラフラしながらも「自転車通勤」の準備はしていたのである。
けれど、朝、子どもを保育園に連れて行って職場まで行くのに、どうしても8時30分までの登校は無理だった(もちろん、私のワガママではあるが、子どもや私自身の一日の生活リズムは変えたくなかったし・・・)。急いでも9時30分頃になる・・・明らかに「規則違反」だ。しかし、「仕方のないものは仕方がない」と私は動じなかった。
ただ、授業を1時間目から入れられるのは困る・・・というので、大きな模造紙を拡げて時間割を組んでいる教務部長の元に行って、「すみません、私の授業、2時間目からにしてください」と必死に頼み込んだのだった。教務部長の私情・温情に縋(すが)るとは・・・!
当時の私は、他の人から見ると明らかに「傍若無人」・・・20代終わりの新人講師、東大大学院在籍だったかどうかは別にして、朝は澄まして遅い出勤、しかも、最初の教授会の席で、当たり前に疑問や意見を言う・・・後に、気の弱そうなオジサン先生が、「大体、教授会で意見を言うのは、1年くらい様子を見てからですよ」とやんわり諭してくれたのだったが・・・。どう見ても「厚かましい、困った新人」だったであろう。中にはもちろん、仲良くなった教員や事務職員もいない訳ではなかったが、中枢を占めていた「調理学研究室」の主任教諭他大半の教員たちからは「白い目」で見られ、頭の上から足の先までの露骨な服装検査まで日常茶飯事だった。
それでも、時間的にはギリギリだったが子育ては楽しかったし、私立の短大生の授業中のオシャベリや「勉強嫌い」には驚きながらも、彼女らに伝えたいことが山ほどあったから、めげずに授業はいろいろと工夫した。その結果、反発を食らう学生もいたけれど、大半は、年齢の近さという親近感にも支えられたのか、「伊藤(当時の私の姓)先生ファン」も多かった。学生たちの支えがなければ、図々しい私の振る舞いが、どこまで貫けたかどうか・・・今になって心許ないのだが。
(4)「子育て」へのヘルプ!—義姉との軋轢
朝の勤務時間については、以上のように教務部長に取り入りながら、厚かましくやり過ごしてきた私であったが、夕方から始まる教授会やその他の会議の時は困った。議題や審議によって「終わりの時間」は定まらない。高校の教師をしていた別の友人は、「子どもの保育園のお迎えの時間」のため、いつもひとりお辞儀をして早退している、とのことだったが、小さな私立短大、教員たちは全部で10人いたかどうか・・・そこで早退するのはあまりに目立ちすぎるし、議事にも支障が出て来るし、私の信条としてもそれはしたくはない。だったら、会議日には、他の誰かに頼まなくては・・・。
通常ならば、この子育て担当のための日程・時間調整は、どれほど喧嘩になろうとも、夫との間でヤリクリするものなのだろうが、私には「労働組合運動」への特別視(神聖視?)が未だに強かったのであろう。夫が、団交の間に抜けて来るだの、オルグしているのを中断する、というのは想定外だったのだ。
そうすると、頼めるのはお店を止めて近所に移って来た夫のお義姉さんしかいない(彼の母親=姑・子どもの祖母=は、私の子どもが生まれてまもなく亡くなっている)。
という訳で、何回かお義姉さんに夕方からの、保育園へのお迎え、夕飯、入浴、(下手をすると就寝まで?)、を頼むことになった。
お義姉さんにとって、夫は母子ほど年の離れた一番下の弟、可愛がってもらってきたようだし、夫(と私)の子どもも、関係としては「甥っこ」なのだが、「孫」のように可愛がってくれた。しかし、私も迂闊だったが、当時はそろそろ更年期障害を迎える年齢だったし、長年の「水商売」=お酒を付き合う仕事だったために、体のアチコチが不調を起こし始めていたのは事実だったのだろう。その点への理解は、私の方に決定的に欠けていた。「若かった」というのは弁解だが、やはり今にしてとても申し訳ない思いだ。だが、当時、週に一回か二回、夕方から夜の子育てを頼もうとすると、「その日は都合が悪い」「ちょっとこの所、体の調子が悪い」・・・と必ず一言入り、快く引き受けてくれることが少なかった。それじゃ~~他の人に頼むしか・・・と思い始めていると、しぶしぶの態で、引き受けてはくれるのだった。
このような、お義姉さんの感情や日程を配慮しつつの「お願い」が何とも煩わしくなり、いっそのこと、「お金」を支払うことでドライに頼めるのではないかと思いついた。
ところが、これまた意外だったのだが、義姉はひどく立腹した。「家族なのだから・・・姉弟なのだから・・・」お金なんていらない!という理屈あるいは「水臭い」という感情からなのだろうか。あるいは、もっと基本的に、「私」という「弟の嫁」が気に食わないという部分があったからなのだろうか。その点は、当時も、今も分からない。
止む無く、しばらくお義姉さんに頼むことが続いた後、別の保育専門学校の学生に、アルバイトを頼むことを思いついた。やはり同じように困った時に、学生アルバイトを頼む人もチラホラ見かけるようになっていたからである。
もちろん、そのことは事前にお義姉さんに了解をとったはずである。しかし、いざそのアルバイトの学生さんがやってくるや、何だかんだと「ついでの用事」を口実にして、私の家にやって来るのだった。そして、その学生アルバイトの至らない所、「こんなモノを食べさせていた」とか・・・それをわざわざ私に報告するのだった。
要するに、お義姉さんは、義姉以外の人に頼むのも気に喰わないのだ。早々に、学生アルバイトを断ることになった。
当時、私は一人で、その義姉との相性の悪さを嘆いていた。ただ、子育てと仕事を回していくためには、それは耐えなければならないことだとも思っていた。しかし、今から思えば、その頃すでに、私と夫との間に、真面目な「関わり」は消えてしまっていたのだと思う。自業自得でもあるのだが・・・。(続)
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