猪瀬直樹の対朝日提訴に勝ち目はない。
- 2022年 9月 9日
- 評論・紹介・意見
- 澤藤統一郎猪瀬関連表現の自由
(2022年9月8日)
猪瀬直樹が、朝日新聞社と三浦まり(上智大学教授)両名を被告に1100万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起した。一昨日(9月6日)のこと。これがスラップではないかと、話題になっている。
6月12日、東京・JR吉祥寺駅前で参院選の街頭演説の際、維新の応援弁士であった猪瀬が隣にいた東京選挙区の候補者海老沢由紀=落選=の肩や胸元付近を手で触っている動画が交流サイト(SNS)上に拡散した。この行為をセクハラと報じられたことによって名誉を傷つけられたとするのが、猪瀬の主張。猪瀬氏は同月17日、自身のツイッターで「軽率な面がありました」と投稿したそうだ。が、どこで気が変わったか、朝日とコメンテーターを訴えたのだ。
報道では、訴状の内容として、朝日新聞は6月17日付の電子版記事に、猪瀬の行為について「間違いなくセクハラではないでしょうか」などと批判する三浦のコメントを掲載したとし、これを名誉毀損と主張している。
朝日の電子版を見ると、問題とされたのは『「たとえ本人がよくても…」 演説中に女性触った猪瀬氏、その問題点』と題する記事。その中での三浦コメントの主要部分は次のとおりである。
「映像では、胸に触れていたように見えました。間違いなくセクハラではないでしょうか。その場では女性本人も拒絶することができない、そういう瞬間だったと思います。
今回の猪瀬氏は応援弁士の立場。応援してくれる人に対して、この立候補予定者は余計に立場が弱く、抗議しにくい背景があります。
(立候補予定の女性本人は16日午後、「まったく気にしてませんでした」「胸にあたってもいない」などとツイート)
たとえ、本人がよくても、見ていた人たち、特に若い女性にとっては、立候補しようとする人はセクハラを我慢しないといけないという誤ったメッセージになってしまいます。」
私は、このコメントを適切で立派なものと思う。このような言論を妨害してはならない。到底、違法を追及されるような内容ではない。しかし、猪瀬の主張は、《海老沢氏本人がセクハラではないとの見解を示していることなどから「三浦氏の発言は事実ではない」というもの》と報じられている。以上を前提に、猪瀬の提訴はスラップであるのか、そうではないのか。
スラップとは、法律用語ではない。法や訴訟が社会の中でどのような役割を果たしているのかについての言わば法社会学的な概念であって、厳密な定義があるわけではない。だが、正当な言論を萎縮せしめる効果を狙っての民事訴訟というダーティなイメージに満ちた用語ではある。
法的問題として捉える以前に、憲法感覚やジェンダー感覚、社会的良識が問われねばならない。国政選挙の女性候補者が、同じ政党の男性候補者の応援演説で、女性候補の身体を触るという奇妙な行為に及んだ。その不審で無神経な行為に「間違いなくセクハラではないでしょうか」という批判が果たして不適切だろうか。非難に値するものであろうか。
三浦コメントも指摘しているとおり、身体を触られた女性の立場は、同じ党に所属の著名な年配の男性応援弁士。これにセクハラ抗議の声を上げることの困難さは言わずもがな。とすれば、この女性が猪瀬をかばってなんと言おうとも、猪瀬の行為を批判する言論は、適切なものでこそあれ、到底非難に値するものではない。
法的にはどうであろうか。猪瀬の行為は動画にも写真にも記録されている。隠しようも誤魔化しようもない。三浦は、その動画を観て、猪瀬の行為を「映像では、胸に触れていたように見えました。間違いなくセクハラではないでしょうか」と述べたのだ。
常識的には、「映像では、胸に触れていたように見えました」は《事実の摘示》で、「間違いなくセクハラではないでしょうか」は《意見の表明》である。
名誉毀損訴訟では、《事実の摘示》と《意見ないし論評》の区別が重要になる。
これは、判例に定着している「公正な論評の法理」にもとづくもので、「名誉毀損記述」となる文章を「事実の摘示」と「論評(ないし意見)」とで構成されているとして、そのどちらかに区分する。裁判所の対応の姿勢は「事実摘示」の名誉毀損言論に対しては厳格であるが、「論評(ないし意見)」の表明には頗る寛容である。論評・意見の表明の自由は幅広く認められ、極端な人格攻撃をともなわない限り、論評(ないし意見)は自由と考えてよい。
事実の摘示としての「映像では、胸に触れていたように見えました」には、当該の記述の「真実性」ないしは、真実であると信じたことの「相当性」が問われる。その立証あれば、違法性が阻却され、あるいは過失がないとして、請求は棄却されることになる。「映像では、胸に触れていたように見えました」の真実性立証が困難なはずはない。ましてや、相当性においておやである。
そして、「間違いなくセクハラではないでしょうか」は、「映像では、胸に触れていたように見えました」という真実たる事実を前提にした《意見の表明》であって人格攻撃の要素などもない。この部分の有責はあり得ない。
結局のところ、猪瀬側に勝ち目のない訴訟と評せざるを得ない。そのことを猪瀬自身が知らぬはずもない。ではなぜ、敢えて提訴か。自分に対する批判の言論に対する萎縮効果を狙ってのものと考えるしかない。これがスラップである。
むしろ本件は、明らかに法的・事実的な根拠を欠いた民事訴訟の提起とされる可能性がある。猪瀬がその根拠を欠くことを知りながら提訴におよんだか、あるいは、通常人であれば容易にそのことを知り得たのに敢えて提訴におよんだと認定されれば、この民事訴訟提起自体が不法行為となり、猪瀬に損害賠償が命じられかねない。それが判例のとる立場。
猪瀬は今、危ない橋を渡り始めたのだ。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2022.9.8より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=19917
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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