書評:山下紘加『あくてえ』
- 2022年 9月 9日
- 評論・紹介・意見
- 山下紘加野島直子
今回とりあげる小説『あくてえ』(河出書房新社、2022年)は、山下紘加の芥川賞候補作。表題となった「あくてえ」は、小説のなかで「あたし」の祖母の出身地とされる山梨のことばで、「悪口」や「悪態」を意味する。
語り手(=あたし)のゆめは19歳。物語の途中で20歳をむかえる。派遣社員。小説家になりたいと思っている。90歳の要介護の祖母を当人の目の前以外で「ばばあ」と呼び、口達者で頑固で気丈な彼女に「あくてえ」をつきまくる。
母のきいちゃんは、パートに出ている。パート職を選んでいるのは、正規雇用の仕事を選べなかったからという可能性もあるが、祖母の週四回のデイサービス利用との両立のためというのが大きいだろう。彼女は、ゆめと好対照で、義母(元夫の母)である祖母に言葉でも態度でも優しく尽くしている。
父は、三年前、浮気して子供をつくり、離婚し、家を出ていった。その際、祖母を連れて出たのだが、うまくいかず、祖母は、ゆめときいちゃんのいる家に舞い戻り(靴も履かずに逃げ出してきた)、今では三人で暮らしている。
これは、とりわけきいちゃんにとっては理不尽な状況である。しかし、きいちゃんは不平を言わず、パートと介護に明け暮れる。ゆめはそんな母を愛し、そして不満をもっている。祖母だけでなく、この状況をつくった無責任な父親にあくてえをつくのも、そんな母のありかたと無関係ではない。
母はかつて幼いゆめのめんどうを見てくれた祖母に恩義を感じていると言うのだが、ゆめにしてみれば、「今しかわからない。わからないから、この現実に不満を並べ立てるしかできない」。もっとも、ゆめは、「幼い頃、自分が小児喘息で苦しんでいたことも、あたしの看病のために共働きの両親に代わってばばあが故郷の山梨から出てきたことも、その土地で生まれ、人生の半分以上をそこで過ごした人が、故郷を離れるということが、その覚悟が、つらさが、あたしには理解できない」と言っており、わからないと言いつつ半ばわかってもいるのだが、この問題を意識下に追いやっている。介護はまったなしだが、介護する若いゆめの生もまったなしなのだ。ゆめの論理はこうだ。
「…きいちゃんを見ているとわかるが、優しくしすぎると人はつけあがるし、毎度寛容であれば舐められる。底なしの柔らかさを前に、人は遠慮しない。どこまでも沈み込んできてずぶずぶになる。親父は女にだらしのないクズで、ばばあは面の皮が厚く、すぐ善意につけこむ。あたしは隙をみせたくなかった。…わがままで高慢で強気で怒りっぽく、言葉で相手をなじり、責め立て、憎たらしいあくてえばかりつく手に負えない女だと思われていた方が楽だった。その方が、傷つかずに済んだ。人に期待せずに済んだ。先に相手を傷つけた方が、自分は傷つかずに済むと信じていた」。
かくして、ゆめは、母に「お義母さんに優しくしてあげて」と言われながらもそれはできない相談で、祖母とあくてえのバトルを、毎日展開することになるのだ。
「…あんたのその貧乏根性があたしは大っ嫌いなんだよ!」
「あくてえばかりつきやがって、この孫は」
「優しく言っているうちはきかねえだろうが」
バトルを繰り広げることからわかるように、祖母の介護度は重度というわけではない。食事も自分でとれる。しかし、年相応にいくつかの病気をかかえており、着替えや食事の用意など基本的な生活で介助を要する場合が多い。おむつもしている。水虫や眼の薬など生命の危機に直結しないこまごまとした世話も数が増えればけっこうやっかいだ。祖母にあわせた料理も減塩で、ゆめにはものたらない。
頭脳はよく働き口達者で介護者をやりこめるし、よく物をなくして、その責を他人に転嫁する介護者泣かせでもある。祖母が所望したので、なけなしのお金でそれなりの手続きをふんで補聴器を買っても、「はっきり聴こえん」と言って、自らはずしてしまったりする。また、トイレの便器ではなく、床やスリッパの上に糞尿をたらすこともある。
こうした介護のトラブルは引きも切らない。母はそれを営々と引き受けるが、ゆめはあくてえをつくことなくそれを引き受けることができない。おまけに、介護を引き受けているのはゆめたちなのに、祖母の心は、父と再婚相手の息子にあって、いつだって会いたいと思っているのだ。ゆめたちには愛情が相対的に希薄であることが、ゆめには手に取るようにわかるのである。
ここで素朴な疑問、なぜ、このままの状況に身をゆだねるのか、たとえば、祖母を介護施設に入れればいいのではないかという疑問も当然出てこよう。しかし介護施設に入れるにもお金がいる。派遣社員のゆめ、パートの母からなるこの一家には払えない。当初は父から祖母の生活費が送られていたが、父の借金のためそれが滞ってしまっている。そのこともあって、こういった状況下で介護施設への入居の選択肢はない。もっとも、選択肢があることをうらやみながらも、その選択肢をとりたいという気持ちはゆめたちにはなさそうなのだが、ともあれ、どうしようもなく、気づいたらこの状況の中にいて、苦しいながらも三人で身を寄せ合い、生き続けなければならなくなっていたのだ。
宇佐見りんは、『くるまの娘』の中で「…もしかすると、何らかの制度と自分の苦しみとはつながっているのかもしれないし、遠い未来、いくらか改善されることもあるのかもしれない。だがすべてが遅かった。何もかも遅かった。人が傷つく速度には、芸術も政治もなにもかも追いつかない」と書いていたが、まさに、ここでは、政治や福祉の追いつかない苦しみが日々生まれている様が描かれているといってよい。
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このように『あくてえ』の世界は過酷で、ゆめの放つあくてえは言葉としては貧しい。実際、ゆめは、あくてえを「浅はかで卑しい言葉の羅列」だと言っている。だが、他方で、あくてえがもたらす世界は不思議と生命力がみなぎっており、爽快感さえあるのも事実である。
なぜか。
ひとつには、ゆめの祖母に対するあくてえには、妙なわだかまりがないからである。「ばばあ」とは、「皮肉や悪態や嫌みの応酬といった言い争い」の中でこそ、コミュニケーションが成立するし、「互いに気が済むまで言葉でなじりあうことで、怒りを放出させてきた」からである。たとえば恋人の渉との間でのように、「些細な違和感や苛立ち」を「いつまでも心の内に消化不良のまま滞留し続ける」ことがないのである。だからこそ、祖母も、「きいちゃんやあたしに叱られて拗ね、『みんなあたしを責めなんでくりょう!そんなにいやなら、あたしをよそにやっちゃってくりょ。あたしみたいのはおっちんじまった方がいいだから』と弱気な発言をした翌日には、『あたしゃ、長生きするだよ。百まで生きるだからね!』と胸を張るのだ」。
実際、あくてえをつくとき、相手があくてえをはねのける力があることが条件であるし、こちらの介護の手も確かなのだということを忘れてはならない。というか、相手があくてえをはねのけられない人であるとき、またこちらの介護の手が緩むとき、悪態はつけない。それでは虐待になってしまうからである。ゆめはしっかり「ばばあ」の生命を介護で支えながら、屈強な「ばばあ」とあくてえをつきあう空間を保持しているのである。
とはいえ、それは理性による余裕の産物ではない。そもそも、あくてえをつかないという選択肢はゆめにはない。なぜなら、「そうしなければ、自分の身体が、ままならない状況への憤怒で蝕まれていくような気がした」からである。あくてえは、「ままらならない状況への憤怒で蝕まれていく」ことを防ぐ手段なのであり、かろうじてコントロールされた攻撃欲動(=死の欲動、タナトス)の産物であり、ぎりぎりの生の発露なのだ。
そして、あくてえのもたらす世界に生命力があるもうひとつの理由は、ゆめたちには、「鳩の帰巣本能」ともいうべき「戻るべき場所に戻ろうとする習性」が働いていることである。これは、「傷を負った箇所の皮膚が時間をかけて再生していくように、もとの状態に戻ろうとする力」とも説明されている。家庭は父が出ていった時点で大きな傷を負っているが、修復する力は日々働いている。祖母と父を見捨てないのは、「血でも義理でも責任でもな」く、そうした修復力によって「崩れそうで崩れない生活」が続いているだけなのだ、とゆめは言う。
鴻巣友季子は、毎日新聞の書評(2022年8月20日)で、こうした修復力について、タイの作家の『鶏闘師』という小説をあげて、「どんな不利な対戦でも闘いつづける」闘鶏の鶏たちの強さを疑ったうえで、これと対比し、真の強さをもつ「レジリエンス」とよんで注目している。『あくてえ』は「打たれてたわんでも跳ね返して元に戻ろうとする」レジリエンスの物語だというのだ。
評者は、こうしたレジリエンス=修復力を、フロイトの言う、死の欲動=タナトスと対立する生の欲動=エロスだと考えるものだが、確かにこの小説の構成上、崩れそうで崩れない日常を形成するものとしての、傷を修復する力=エロスの要素は大きい。
しかし、この小説で評者が特筆したいのは、他者から被った傷を修復するエロスだけではなく、自ら行使したタナトスと、それに歯止めをかけコントロールするエロスとの協業によって、ゆめが独自に行っている行為である。若さと活力のあるゆめは、派遣の仕事もがんばっていて、正社員の声もかかるくらいなのだが、とくに注目したいのは、仕事と介護のはざまで小説の言葉を繰り出し続けていることだ。先にあくてえが、「かろうじてコントロールされた攻撃欲動(=死の欲動、タナトス)の産物であり、ぎりぎりの生の発露なのだ」と書いたが、書くこともタナトスの産物である。死へと突き進みながらも、ぎりぎりのところでエロスによって歯止めをかけられ、コントロールされたタナトスの産物なのだ。
小説を書きたいという欲望は確固としてそこにあり、「この目の前にある現実」は「仮の人生」であり、「小説家になったその瞬間から、あたしの人生は始まるのだ」と信じるゆめは、書くことによって、自らの欲望に忠実に生きながら、こうした苦しみの状況から距離をとっている。恋人と過ごす一夜においてさえ、ゆめは夜中に小説を書いている。ゆめは、今回投稿しようと思った文芸誌の文学賞には間に合わなかったものの、前回投稿した文芸誌では二次予選を通過していてその結果待ちなのである。
評者はここに、ドゥルーズ+ガタリのいう「逃走線」をみてみたくなる。自らを襲った状況から逃げるわけではない、むしろ引き受けるわけだが、状況とともにありながら、傷を修復する力に身をゆだねるだけでなく、文章を書くことで自己破壊すれすれの線を形成しながら、それを積極的な生命線へと変容させているからだ。そして、これはまた、祖母だけでなく、この状況をつくった憎い父や、優しいが違和感を感じる恋人からの逃走でもあるからだ。
むろん、状況は厳しい。「理不尽だから割に合わないから腹が立つからくやしいからだからあたしは声を張るのに、誰も耳を傾けない。…感情的に怒鳴り散らし、負担のかかった声帯と痛んだ喉を抱えた自分に残るのは圧倒的な徒労だけだ」、「優しくしようと穏やかな気持ちで思った直後に殺したいほどの憎しみが襲ってくる。家族三人で頑張ろうと決意を固めた翌日には、三人で死んでしまえたらと本気で思う」―そんな日々でもあるのだ。
それゆえ、ゆめたちを待っているのは、いたずらに闘って困憊するだけの日々かもしれない。すでに、鴻巣が「どんな不利な対戦でも闘い続ける」鶏闘の鶏たちの強さに疑問を投げかけているところを引用したが、じつは、ゆめの逃走は、タナトスの作動する先行きの見えない闘いでもあり、闘鶏の鶏にならないという保証はどこにもないのである。今のところ、ゆめの逃走は、エロスの力でぎりぎりコントロールされているが、いついかなる時に崩れ落ちてしまうかもしれないものなのだ。それを避けるために福祉の介入が必要とされることもあろう。そもそもそうなる前に、祖母は、あくてえをつく元気を失うかもしれない。そうなれば、ゆめも変わっていかざるをえないだろう。
しかし現時点で、ゆめは、過酷な現実を生きながら、日々、介護の手を緩めずにあくてえをつき、崩れそうで崩れない生活を維持し、仕事をし、とりわけ小説を書くことでかろうじて生き延びているのだ。
ドゥルーズ+ガタリは書いている。「創造する逃走線か、それとも破壊線に転化する逃走線か。たとえ少しずつであっても構成されていく存立平面か。それとも組織と支配の平面に転化してしまう存立平面か」。私たちがこの小説で目撃するのは、家族や介護の、あくてえをつくほかない理不尽な状況だけではない。なによりも見逃せないのは、ゆめの、ときに破壊線へとよろめきそうになりながら「少しずつであっても構成されていく存立平面」としての生命線=逃走線なのだ。
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91歳の母を介護する評者の眼から見ても、90歳の祖母の病気や体調、そして介護内容の記述はすこぶるリアルだし、甲州弁のあくてえのつきあいの描写もおもしろい。だが、この小説は、以上のような意味で、介護という主題を超えて、何であれあくてえをつくしかない理不尽さを前にして、傷を修復する力と書くことによって、かろうじて生き延びるトポスをみごとに現出させているという点で特筆すべきものがある。
だから、こうしたゆめのありようを相対化するであろう、90歳の祖母やきいちゃんの立場に立った世界の描写は、また、別の作家の、あるいは著者自身の未来の小説に求めるべきだと評者は考えている。そこでは、老いは別の相貌を見せるだろう。しかしそのことが、ゆめを語り手としたこの小説の価値を損なうことはないだろう。
芥川賞受賞は逃したが、作品の力が新たな読者をつかみ続けていくにちがいない。
(2022年9月2日)
初出:「宇波彰現代哲学研究所」ブログ
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion12366:220909〕
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