『マードック帝国』に最大の危機 -問われる政治とメディアの関係-
- 2011年 7月 29日
- 評論・紹介・意見
- マードックメディア伊藤力司
英国のタブロイド日曜紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」(News of the World=NoW)が、スキャンダル取材に関係者の携帯電話を盗聴していた事件が表面化し、「メディア王」ルパート・マードック氏の帝国に最大の危機を招いている。主として英米の新聞、テレビ、映画、出版などの分野で大きなシェアを持つ「マードック帝国」は、メディアの持つ巨大な影響力を世界の政治・経済・社会に及ぼしてきたが、この盗聴スキャンダルはこれまで順調に拡張を続けてきた帝国」に蹉跌をもたらしそうだ。
オーストラリア生まれで現在80歳のマードック氏は20代から父親譲りの新聞経営に携わって業績を挙げ、現在ではオーストラリアの全国紙、地方紙を合わせて約150紙のオーナーである。これを足掛かりにオーストラリアにとって父祖の国である英国に進出して、1843年創刊という歴史あるNoW紙を買収したのを手始めに、英国きっての由緒ある高級紙タイムズとタイムズ日曜版の経営権を握り、さらに大衆紙サンも傘下に収めた。
余勢を駆ってマスメディア大国の米国に進出、まず名門映画会社の「20世紀フォックス」を買収した。「フォックス」の知名度を生かして1986年にフォックス放送会社(FOX Broadcasting Company)を設立、これが全米のケーブル・テレビジョン網を通じて流れるFOXニュース、FOXビジネス・ネットワーク、FOXスポーツ・チャンネルなどのフォックスTV銘柄に成長した。いまや既存全国ネットのABC、NBC、CBS、CNNに引けを取らない、時には既存ネット局を凌駕するまでに成長しているのだ。
フォックスTVが存在感を発揮したのは、とりわけブッシュ政権による2003年のイラク侵攻作戦の時だ。フォックスTVはイラクに攻め入った米軍各部隊に多数の従軍クルーを張りつけ、現地の戦果をデカデカと母国に中継し、愛国報道の先手を担った。既存ネットが、どちらかと言えばリベラルな報道姿勢だったのに対し、FOXは保守派のキャスターやコメンテーターを登場させて愛国路線に徹し、フセイン・イラク政権打倒をプレーアップして伝えた。イラク開戦当初米国世論が圧倒的にブッシュ政権を支持した背景には、フォックスTVの存在が大きかったのである。
さて米国に進出したマードック氏は米国市民権を取得して、アメリカにビジネスの本拠News Corporation(ニュース社)を設立した。このニュース社の傘下に20世紀フォックス映画社など映画グループ、フォックスTVグループの他、ウォール・ストリート・ジャーナル、ニューヨーク・ポストなどの日刊紙、経済情報誌のバロンズなどを収めている。とりわけ2007年に経済通信のダウ・ジョーンズ社の買収に成功したことは、米国経済史上の“事件”と見なされたほどだった。ダウ・ジョーンズ社とは、米金融・証券界に君臨する、150年以上の歴史とダウ平均株価の持ち主であり、ウォール・ストリート・ジャーナルの発行社でもある。
マードック氏はこのニュース社を母体にNews International(国際ニュース社=NI)を設け、英国で所有するメディア各社や香港のスターTVなどを、その傘下に収めている。マードック氏は何年か前に、日本の朝日TVの株式買収攻勢を仕掛けてきたことがあった。しかし間もなくTV朝日買収を断念して手を引いたが、もしマードック氏の買収が成功していたなら、TV朝日はNI社の傘下に入っていただろう。
News Corporationの2010年決算書によると、同社の全収入は327億ドル(約2兆6千億円)でその内訳は、ケーブル・テレビ関係が70億ドル、映画関係が76億ドル、新聞関係が61億ドル、フォックスTV関係が42億ドル、世界各地の衛星テレビ関係が38億ドル、出版関係が13億ドル、その他が27億ドルとなっている。これだけのメディア帝国を築き上げたマードック氏は「その国の愛国心を煽るのがメディア・ビジネスの経済合理性だ」とうそぶいていたそうだ。
さて「マードック帝国」のピンチを招いたのは、NoWことニューズ・オブ・ザ・ワールドの盗聴事件だ。発端は2005年に遡る。去る4月に華燭の典を挙げた英国のウィリアム王子がひざに怪我をしたというトクダネが同紙に載った。王子の怪我は限られた側近しか知らない事実だったので、英王室は王子の側近の携帯電話が盗聴されたのではないかと疑い、ロンドン警視庁に捜査を依頼した。
翌2006年、NoWの王室担当クライブ・グッドマン記者と私立探偵グレン・マルケー容疑者がウィリアム王子側近の携帯電話盗聴容疑で逮捕された。裁判の結果2007年1月にグッドマンに禁固4カ月、マルケーに同6カ月の判決が下ったことで事件は一応、一件落着となった。この時同紙のアンディ・クールソン編集長は、自分は盗聴に関与していなかったが責任を取ると言って辞職した。
しかし英下院文化・メディア・スポーツ委員会は同年3月この盗聴事件をめぐって公聴会を開き、マードック氏の長年の側近で当時NI社の会長だったレズ・ヒルトン氏を呼んで、その証言を聴いた。ヒルトン氏は「一部の記者が関与しただけ」と主張し、NoWの編集局は無関係と言い続けた。しかしやがて、この証言が嘘だったのではないかと疑われる新事実が続々と表面化した。
2009年7月左派系の英高級紙ガーディアンが「NoWは、ウィリアム王子側近だけでなく4000人にも上る人々の携帯電話の番号を不正取得していた。そのうち盗聴された人々に訴えられて、親会社のNIが被害者に多額の賠償金を支払った」ことを暴露した。盗聴被害者が次々にNoWを訴えたため、盗聴は特定の記者だけでなく会社ぐるみの犯行だったのではないかという疑念が広がった。
事態は今年の7月初め急展開した。2002年に殺害された13歳少女ミリー・ダウラーさんの携帯電話をNoWの記者が盗聴していたことが明るみに出たのだ。しかもこの記者は盗聴の後、携帯電話のメモリーを使い切ってしまうと困ると思ったのか、ミリーさんの留守電メッセージを一部消去した。そのため両親は「ミリーはまだ生きている」と望みをつないでいたのだった。このことが報じられた結果、NoWの盗聴事件は一気に英国民の怒りを集めた。
この間、昨年5月に登場した英保守党内閣のキャメロン首相は、盗聴事件当時のNoW編集長だったクールソン氏を首相官邸報道局長に任命、同氏は今年1月までその任にあった。キャメロン氏は保守党党首時代からクールソン氏の能力を買っていたらしく、ク氏がNoWの編集長を辞職した後の2007年5月に保守党の報道責任者に任命していた。このことは政治家とメディアの「腐れ縁」を象徴するケースとしてスキャンダルとなり、キャメロン首相はさる7月20日の英下院文化・メディア・スポーツ委員会の聴聞会に呼ばれ、マードック帝国との「癒着」疑惑について2時間半も問い質された。
さてマードック氏は、盗聴スキャンダルが火を噴いたのを見てNoWの廃刊を決めた。伝統あるニュース・オブ・ザ・ワールドは7月10日に168年の歴史を閉じ、200人の従業員は職を失った。しかしスキャンダルの余波は収まらず7月17日にロンドン警視庁のトップ、ポール・スティブンソン警視総監が辞任、翌18日にはジョン・イエーツ警視監も辞任した。これは2009年ガーディアン紙が盗聴疑惑を指摘したのに、警視庁が「新証拠が見つからなかった」として再捜査を断念したことや、NI社の要人たちとの「親密交際」が批判されたためと言われる。
一方ではマードック氏が「娘のように可愛がっていた」と言われるNIのCEO(経営最高責任者)レベッカ・ブルックス女史がCEOを辞職、その上7月17日にロンドン警視庁に逮捕された。ブルックス女史はクールソン氏の前にNoWの編集長だった。警視庁もスティブンソン前警視総監らの悪い噂を一掃して名誉挽回しようと、盗聴事件を本格的に再捜査する決意を固めたようだ。
さてマードック氏と後継者とされる二男のジェームズ氏は、7月19日の英下院文化・メディア・スポーツ委員会に召喚され盗聴事件について問い質されたが「自分たちは何も知らなかった」で通した。TV中継されたこの聴聞会でマードック氏に洗濯用の泡を投げつけようとした傍聴人の男を、後ろに座っていたマードック氏の妻ウェンディ・デンさんが咄嗟に殴りつけた光景が全世界に流された。ウェンディさんは元香港スターTVの経営者で、マードック氏がスターTVを買収したあと、3回目の結婚で妻にしたという女傑である。
一方盗聴スキャンダルが表面化するまで、マードック帝国の最大関心事は英国の衛星テレビの「BスカイB」の買収だった。NI社は既に同テレビ株式の39%を取得しているが、これを完全子会社にするために同テレビ株式の過半数まで買い増す計画で、キャメロン内閣から事実上のOKを取り付けていた。巷間伝えられるところではNIが経営するタイムズ、サンなどの新聞は利が薄く、儲かる衛星テレビを是非とも買収したかったという。しかしスキャンダルが撥ねた以上、BスカイBの買収を中断せざるをえなくなり、ニュース社の副CEOを務める息子のジェームズ氏が買収断念を発表した。
英国で表面化した盗聴スキャンダルは「マードック帝国」の本拠ニューズ・コーポレーション所在地の米国に波及した。最大の問題はNoWが2005年7月7日のロンドン地下鉄爆破テロの被害者だけでなく、2001年の米国中枢同時テロ「9・11事件」被害者遺族の携帯電話を盗聴した容疑が浮上したからである。そこで米連邦捜査局(FBI)が本格的捜査に乗り出すことになり、捜査の結果ニューズ・コーポレーション全体に問題があるのであれば、フォックスTVのテレビ放送免許を取り消す可能性もない訳ではない、とされるに至ったのである。
フォックスTVグループは基本的に共和党保守派とリンクしており、民主党リベラルに支えられたオバマ政権とは事実上の敵対関係にある。フォックスTVグループの出演者たちは、超保守のティーパーティー運動と組んで、事あるごとにオバマ政権批判の報道を繰り返している。これに対してオバマ政権を支えるジェイ・ロックフェラー氏ら民主党リベラル派の本丸は、マードック氏のニュース社を徹底的に捜査すべきだとの声を挙げ始めている。
80歳のマードック氏には、いずれ引退を迫られる日がやってくる。これまでのところでは二男のジェームズ氏(40)が後継者とされてきた。しかし「マードック帝国」が落ち目に差し掛かった今、マードック氏の妻ウェンディ女史の後継もあり得るのでは…という観測が出始めた。それは「マードック帝国」の報道姿勢が、このところ急に親中国的になっているからだ。急速に経済大国化している中国に、マードック氏が関心をそそられていることは当然だ。「帝国」内で香港出身の中国人ウェンディ女史の存在感が高まっても不思議はない。もし噂通り、ジェームズ氏とウェンディ女史の後継者争いが本格化するとすれば、「マードック帝国」の危機は一層深まるだろう。
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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