オットー・クレンペラー:「音楽と政治」問題に立ち会った人(3)
- 2022年 10月 7日
- スタディルーム
- オットー・クレンペラー野沢敏治音楽と政治
はじめに クレンペラーとの出会い
1 ナチス文化政策との闘い (1)
http://chikyuza.net/archives/122102
2 「文化ボルシェヴィズム」、その音楽的中身 (2)
A オペラ上演
同時代の作品
http://chikyuza.net/archives/122214
古典作品 (今回)
次に古典作品について
クロル・オペラは古典ものを新しい演出で公演しました、そのことをベートーヴェンの『フィデリオ』とワグナーの『さまよえるオランダ人』を例にしてみます。そこでもそれらはボルシェヴィキと非難されるのでした。
最初に『フィデリオ』について
正確に燃えあがる
クレンペラーは1927年11月にクロル劇場のこけらおとしにエドゥアルト・デュルべルクと共同で『フィデリオ』を演出しました。その演出は簡素で装飾を排して様式的であったようで、エーファが伝えるところでは、以前の1924年9月にヴィースバーデンで行われた公演はもっと大胆に演出され、舞台は背景の書割も自然の模写もなく、歌手たちは禿げた頭と白塗りの顔をして登場していましたから、それと比べると、歌手の衣装は歴史的であったので知識人からの評判は良くなかったということです。姿勢が後退したのです。それにエスプレッシーヴォを避けて即物化したので、人声の美しさは損なわれてしまい、批評家からは「氷の上のフィデリオ」(参照、前掲『クレンペラーとの対話』)と冷評されました。それに対して、エルンスト・ブロッホは「これほど正確に燃えあがることはない」と弁護します(参照、同書)。楽譜に正確に演奏することと燃焼するという矛盾することの結合、この評価は『フィデリオ』に対してだけでなく、クレンペラーの指揮すべての性格を的確に示したものとなります。これでベートーヴェンは19世紀的なロマン主義の時代と異なる20世紀の現代に蘇生したのです。
同様の評価はその後も続きます。1931年の新聞インタビューの中の解説で、クレンペラーは「鋭い批判精神の持主で何かに憑かれたような人物」と評されます。戦後のバイロイトで演出することになるヴォルフガング・ワグナーはクレンペラーが「ラチオとエロス、明晰な構想と根源的な舞踏の感覚」が混じりあっていると評します(参照『指揮者の本懐』、序文)。まったくよく言い当てた批評です。
『レオノーレ序曲』第3番の位置の問題
『フィデリオ』はベートーヴェンにその生みの苦しみを存分に味わわせたオペラでした。台本の内容は政治犯として囚われた夫のフロレスタンを妻のレオノーレが監獄に男装して忍び込んで助けるというもの。ベートーヴェンらしく真面目なテーマです。その作曲は1805年の『レオノーレ』初演から1806年の再演をへて1814年の再々演の『フィデリオ』まで3度も書かれ、そのたびに序曲は4回も作られました。『レオノーレ』序曲第1番(初校のために書かれましたが実際には演奏されなかったものです)、第2番(第1番の代りに書かれたもの)、第3番(再演のために書かれたもの)、そして『フィデリオ』のための序曲。成功したのは第3回目の上演であり、第4番の「フィデリオ」序曲でした。でも成功したから良いというわけでありません。それは当時の聴衆の好みと水準に妥協することで受け入れられたのですから。
序曲ですが、それはベートーヴェンにとってはオペラの前に置かれた前奏曲というものでなく、ソナタ形式の「交響曲」と同じく主題の提示部・展開部・再現部で構成される堂々としたものであり、レオノーレ第3番がその典型でした。しかも第3番はオペラの物語全体を集約していました。それと比べると、『フィデリオ』序曲は第1幕で牢番とその娘およびレオノーレとの間で交わされる小市民的世界に対しての前奏曲でしかありません。でも第3番をオペラの始まる前に置いたのでは第1幕の小市民的な団欒の場と軽い音楽にスムーズにつながりません。そこで第3番をオペラのどこに入れるか、いろいろな人が模索することになります。マーラーがそれをオペラのなか、第2幕の牢獄の場面から終曲の歓喜の渦に移る前に置きました。ロマン・ロランも1928年のベート―ヴェン研究においてマーラーのやり方に納得したと述べています。
ついでになりますが、ロマン・ロランは初校の名誉回復を図った人でした。同一作品には複数あって、それぞれに意味があり、後の改訂版がよいとは言い切れないのです。その名誉回復は台本だけのことでなく、音楽の造りに即してなされているので重要です。なかでも、ベートーヴェンが力強さとダイナミックスの達人であるだけでなく「半濃淡と明暗の大家」であると探り当てているところは注目すべき音楽的感性です。さらにロランは先駆的に第2序曲の独自性をも見つけました。そして彼の研究からわれわれは『レオノーレ』はフランス革命とその後の恐怖政治への進展を背景にしていること、そこには第9の合唱の中にも出てくる言葉「愛しい女性を獲ちえた者は、われらの歓呼に加われかし」があること、レオノーレには歴史上の実在の人物がいたこと、ベートーヴェン以外の者も同様の素材で作曲していること等を知ることができます。ベートーヴェンを常にロランのように受けとるべきとは言えませんが、われわれは彼の研究からおよそ「研究」とはどういうものかを学ぶことはできるのです。
クレンペラーはというと、彼はクロル劇場での上演に当たってマーラーのやり方に従わず、牢獄の場面を終えてそのままフィナーレに入っていました。この第3番不挿入は1948年11月のブダペストでの上演に際しての文章によると、マーラーとモーツァルトの言葉に従った結果であったのです。マーラーはオペラの演出の指示は総譜自体の中に含まれているから、音符の行間を読まなければならないと考えており、モーツァルトのは有名な言葉ですが、詩は常に音楽の従順な娘でなければならないと述べていました。
しかし、クレンペラーは後の1961年2月にコヴェントガーデンで同オペラを指揮した時にはマーラーのやりかたとロランの考えを復活させました。その理由を彼自身はこう語っています。牢獄の場面を終えてフィナーレに入るその前に「序曲第3番」を演奏することはそれまでの物語全体を繰り返すことになるが、それを論理的におかしいとするのでなく、もっと高い法則に従えば、2人の夫婦だけの物語から普遍的な人類のレベルにまで高められるのだ、と(参照、前掲『クレンペラーとの対話』)。
クレンペラーには戦後のロンドン時代に4つの序曲を演奏したレコードがあり、他の指揮者により初校に従って録音したCDもありますから、われわれは今日それらを自分の耳で聴くことができます。
次に『さまよえるオランダ人』について
革命家ワグナーの「オランダ人」
クレンペラーはワグナーのオペラを革新的に再現していきますが、ワグナーをあまりに悲愴がって演奏することに批判的でした。
クレンペラーは1929年1月にワグナーの『オランダ人』を指揮しますが、その時はドレスデンでの初演時の版が用いられました。『オランダ人』には1851年に改訂された版があり、序曲とオペラのそれぞれ終末に「救済のテーマ」が書き加えられます。クレンペラーは両版を比べて初演版の方が改訂版よりも作品のデモーニッシュな内実と根源的な力を示していると考えたのです(参照、1931年の新聞インタビューの中での発言、「指揮者の本懐」所収)。初演版では序曲は救済のテーマなしでフォルティッシモで終わっており、終幕の最後も救済のテーマは出てきません。
また、あのエーファによると、その時の演出ではオランダ人に髭はなく、ゼンタは飾りのない小さな部屋で青いセーターと厚手のスカート、真赤なかつらといういでたちで登場しています。彼女は飛び上がったりしゃがんだりと何かに憑かれたようで、それまで演じられていたようなかわいらしさはなくなっていました。周りの娘たちも娘らしく糸車をまわすのでなく、漁網を引かされるのです。まるで漁業労働者のように。この演出はクレンペラーの感傷を排した強烈な演奏に合っていました。クーリエは後に、それこそドレスデンの革命家ワグナーによる『オランダ人』だと回顧しています。クレンペラーは戦後の1968年、ロンドンで「オランダ人」を上演した時には、当時ゼンタ役を何かに憑かれたように演じていたアニタ・シニアを起用しました。
ワグナー家からの「文化ボルシェヴィズム」批判
ワグナーの遺族はこの演出を非難します。ワグナーの息子のジークフリート・ワグナーがその前衛的な演出を「文化ボルシェヴィズム」だと憤慨するのです。彼らはボルシェヴィキが現代の労働者・船乗りを扇動していると攻撃し、ゼンタはエキセントリックな共産主義の女だとののしりました。この「オランダ人問題」が州議会で議論され、ナチスや中央党はもっと親しみやすい演出をするように要求する(参照、エーファ前掲書)事件となったのです。ただし、ジークフリートはナチスのような反ユダヤ主義者ではなかったようです。
クレンペラーは1933年2月に『タンホイザー』を新演出で指揮し、これがクロル・オペラの最後の公演となりました。これもドレスデン初演版によるもので、後のパリ版と異なって舞台装置は様式化され、合唱団は労働者の群れとなり、演奏は透き通っていて強勢が鋭かったと伝えられています。それが頭でっかちでモダンで非ドイツ的な演奏だと論争になり、会場は敵味方の間で大騒ぎとなってしまいました(参照、エーファ前掲書)。
こうしてクロル・オペラはヒットラーとナチ党員の民族主義者たちによって閉鎖に追い込まれてしまいます。政治音痴のフルトヴェングラーですらクロル・オペラを抑圧したものがナチ党による国家支配であることを嗅ぎとっていました(参照、「ベートーヴェンと私たち」、『音と言葉』所収)。またヒットラーが政権を握る前の共和国の権力者たちはクロル劇場が自由に活動しすぎていると思い、勃興するナチスに不安を感じていました。表向きはヴェルサイユ条約による債務の返済でクロル・オペラを維持することは財政的に難しくなったと弁明しましたが、彼らにとってクロル・オペラは厄介ものであったのです。
クレンペラーは後年にふり返ってこう述べています。私は前衛とか実験を意識したのでなくーー彼は前衛的実験がロマン主義や国民楽派のように一つの様式を受け取られることを警戒していましたーー、ただ「よいオペラ公演をする」「古典の作品を虚心坦懐に上演することを求めただけだ」、と(参照、前掲『クレンペラーとの対話』)。その結果がこの閉鎖となるのです。クレンペラーは他の多くのユダヤ人音楽家とともにドイツを去りますが、そのあとがまに実力のない2流の演奏家がナチ党人ということで据えられるのでした。よくある風景の一例です。
ナチへの抵抗の揺れ
ところで事実に厳しくつくエーファから次のことを指摘されると、クレンペラーの全体主義に対する態度は一貫していなかったようです。1920年、プフィッツナーがパウル・ベッカーを反ユダヤ主義的に攻撃した時に、クレンペラーはそのプフィッツナーの作品を演奏しています。その理由は作品の評価は作品ですべきと考えたからか、他の事情があったからか、今のところ分かりません。クレンペラーはその2年後の1922年にローマでワグナーの『ジークフリート』を公演していますが、合わせて「国王賛歌」と「ファシスト賛歌」を演奏するのですから、それが彼の政治的表明とみなされてしまいます。トスカニーニは反対に「ファシスト賛歌」の演奏を拒否していましたから、クレンペラーはトスカニーニに面会できなくなります。それに彼はナチスが1933年に政権をとった時にこれでドイツは精神的に再建されたと喜んだというのですから、これもはっきりした政治的表明と受けとられても仕方ないでしょう。彼はヘイワースとの対話では、同年に亡命した後のことですが、R.シュトラウスがナチスを受け入れてドイツを去らなかったと批判しているのです!この間のクレンペラーの心のうちはどうなっていたのでしょう。
シュトラウスは多くの同時代人が見ていたように、ナチに対して決然とした態度をとることができず、地位の維持や演奏収入の方を大事にした人であったようです。問題のある人はシュトラウス以外にも指揮者のクレメン・クラウスやピアニストのワルター・ギーゼキングなどがいます。後のわれわれは彼らを責めるだけでなく、そこから何らか教訓をえたいものです。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1234:221007〕
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