「ウクライナ戦争3部作」をめぐって:ウクライナ戦争の本質を探る 「ルサンチマン」から「西洋文明の咎」へ
- 2022年 11月 4日
- 評論・紹介・意見
- 塩原俊彦
2022年11月に『復讐としてのウクライナ戦争 戦争の政治哲学:それぞれの正義と復讐・報復・制裁』が刊行される。これで、社会評論社からすでに出版済みの『プーチン3.0 殺戮と破壊への衝動:ウクライナ戦争はなぜ勃発したか』と『ウクライナ3.0 米国・NATOの代理戦争の裏側』を合わせて、「ウクライナ戦争3部作」の完成となる。
『プーチン3.0』はロシア側から、『ウクライナ3.0』はウクライナ側からみたウクライナ戦争について論じたものだが、『復讐としてのウクライナ戦争』は、この戦争の本質をキリスト教神学にまでさかのぼって分析したものである。わたしの知るかぎり、日本語でも英語でもここまで本質に迫ろうとした分析は世界中に存在しない。英語でも刊行し、より多くの人々に考えてもらいたい内容になっていると自負している。
復讐という視角
復讐という視角の重要性は、プーチンが教えてくれている。ウクライナ戦争の目的としてあげた「非軍事化」と「非ナチ化」のうち、後者は明らかに、プーチンが「ネオナチ」と断じるウクライナの超過激なナショナリストへの復讐を意味しているからだ。
そもそも復讐心とか復讐精神、復讐感情といったものはどこから生じて、何を求め、そう執行されてきたのか。あるいは、復讐の刑罰への転化はどう進められてきたのか。戦争あるいは、戦争にかかわる復讐、報復、制裁は国際法のなかで、どのような変遷をとげ、現在に至っているのか。
こんなさまざまな問題に答えるためにまとめたのがこの新刊なのだ。
出発点は宮崎正弘・渡辺惣樹著『戦後支配の正体 1945-2020』
すべての出発点は2年ほど前に読んだ宮崎正弘・渡辺惣樹著『戦後支配の正体 1945-2020』(ビジネス社, 2020年)であった。この本については、このサイトの「宮崎正弘・渡辺惣樹著『戦後支配の正体 1945-2020』について」(https://www.21cryomakai.com/%E9%9B%91%E6%84%9F/1002/)において、紹介したことがある。そこでも、書いておいたが、つぎの文にきわめて強く心を動かされた。
「私は忠臣蔵じゃないけど、やはり復讐権は存在する、という立場を取りたいのです。そうでないと殺人をした犯罪者が精神鑑定だとか少年法だとかいろんなファクターを持ち出して、すぐに更生の時間を与えよという議論になる。しかし復讐権が存在するという立場をとると、被害者の復讐権はあるけれども、それを国家が取り上げている。だから国家は復讐の代行行為としての量刑を定める。犯罪者の更生作業に入るのは、恨み解消のあと、つまり復讐の気持ちを抑えることができる程度の量刑を加害者が済ませたあとです。この順番が大事です。
なんでこんな話をしたかというと、原爆の問題にもつながるからです。アメリカが絶対に日本に原爆を持たせるわけがない、と私が考えるのは、アメリカは復讐権が存在すると思っている国だからです。もちろん法律では復讐は許されていませんが、国民の心には復讐権は国家に取り上げられたと思っている。したがって、アメリカに原爆投下できる復讐権をもっている日本には絶対核を持たせるはずがない、と私は考えます。だから日本の核保有論は復讐権のファクターを考慮しながら戦略を立てなければ実現性はない。私も日本が核保有をしたほうがいいとは思いますが、復讐権の存在を認めるかどうかで日米には隔たりがある。そうなると最終的には核シェアリングくらいしか落としどころがないのではないのか。」
復讐権からニーチェのルサンチマンへ、そしてプーチンの復讐
率直に言って、わたしは復讐権について考えたこともなかった。まったく知らなかったと言っていい。ただ、復讐権の存在は、すぐにニーチェの「ルサンチマン」を思い起こさせた。復讐精神、復讐感情と言えば、フリードリヒ・ニーチェだからだ。
だが、この連想はウクライナ戦争がはじまるまで、私の頭のなかではまったく眠っていた。ウクライナ戦争を復讐と直接結びつけるところまで、そう簡単にたどり着いたわけではない。決定的だったのは「非ナチ化」である。
プーチンは明らかにウクライナに対して復讐戦を仕掛けている。にもかかわらず、欧米のメディアは「非ナチ化」について「ネグる」だけで、「非ナチ化」を避けているようにみえる。だからこそ、ウクライナ侵攻、西側の報道に異論:「非ナチ化」の意味をもっと掘り下げよ」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2022030100008.html)という論考を「論座」に書いたわけである。だが、公開直前になって「論座」編集部はこの記事の公表を停止しようとした。
2022年3月2日午前10時56分、論座編集者から、「公開をストップします」という電子メールが届く。それには、つぎのような記述がある。
「急なお願いですが、「非ナチ化」の記事の公開をストップさせてください。論座編集部内で「プーチンのゆがんだ理屈を前提にした記述が多く、現況においてほとんどの読者の納得を得られないのではないか」という意見が相次いだものです。」
ところが、同日午後5時9分になって、今度は「公開されていました」なるメールがくる。そこには、「大変失礼しました。非ナチ化の記事が11:00に公開されていました」とある。これが「言論封殺未遂事件」の顚末だ。
「論座」は、「非ナチ化」について言論弾圧して何を隠蔽しようとしたのだろうか。その理由は「論座」編集幹部に聞いてみなければわからないが、彼らのように、勝手に言論を弾圧する姿勢からは、真実に近づくことは決してできない。その証拠に、「非ナチ化」という目的こそ、プーチンによる「復讐宣言」と言えるものだからである。「非ナチ化」がなぜプーチンのウクライナへの復讐につながるのかについては、この新刊を読んでほしい。
西欧文明の「咎」
この復讐という視角からみると、ウクライナ戦争はいま、復讐の連鎖の状況にある。その結果、停戦や和平といった出口がまった見えない暗澹たる状況にある。具体的に言えば、ダリア・ドゥーギナ暗殺、ケルチ橋爆破、そして、ダーティボム騒動、セヴァストポリ軍港への無人機攻撃がロシア側の報復につながっている。
復讐と報復の違い、さらに制裁との関係について、みなさんは考えたことがあるだろうか。そして、そもそも他者から受けた損失・損害に対して、その罪をどう贖うことが正義とみなされてきたのだろうか。こう考えるとき、そこにイエス・キリストによる贖罪の問題が立ち現れる。こうした問題を真正面から論じたのが本書ということになる。
こうした分析からわかるのは、以下のようなことである。
「欧米というキリスト教を中心とする文明は復讐心を含めた復讐全体を刑罰へと転化しようとする。それが可能だと錯覚させたのは、この文明化がキリスト教神学の一部の主張に立脚してきたからにほかならない。だが、その根幹にある「罪たる犯罪の罪滅ぼしとして暴力的罰が必要である」とする信念それ自体に大きな疑問符がつく。キリストの磔刑を素直に考えれば、それは、これから説明する「純粋贈与」そのものであり、その教えこそ大切なのだ。にもかかわらず、西洋の歴史は、「互酬的な贈与の(自己)否定」がもたらしうる帰結を否認し、抑圧することを繰り返してきた。これこそ、キリスト教神学による贖罪の利用という「咎」であり、現代までつづく西洋文明のもつ隠れた「咎」なのである。」
深く洞察することで、人類が直面してきた問題を新しい角度から分析する必要性に気づかされる。その意味で、この本は、哲学、政治学、社会学、経済学、法学などを研究する者だけでなく、心理学や言語学、さらに、生物学を学ぶ人にも読んでもらいたいと願っている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion12512:221104〕
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