わたしと戸籍 ― 「戸籍」私史(その8)
- 2022年 11月 4日
- 時代をみる
- 池田祥子
Ⅳ 形式的な夫婦、職場での恋愛
(1) 「成り行きとしての同居」から「戦略としての結婚」
1971年から専任講師として勤め始めた短大では、4月のオリエンテーションで山中湖に出かけて行ったり、後期授業開始直前の9月初めには、短大の施設である浅間高原寮で夏期教室を行ったりもした。
あれは浅間山の手前の小さな石尊山に登った時のことだったか、途中の山道で、「夫婦」や「家族」が話題になったときのことだ。教務部長だったK氏が、「夫婦って、二人でつくっていくものですよね」と言った。それに対して、私は、軽く弾んで、「え、そうですか?~夫婦って自然にできて行くものじゃないんですか?」と返した。そのときの会話は、それっきり、広がることも深まることもないままに途切れてしまった。しかし、K氏の言った「夫婦は二人でつくっていくもの」という言葉は、その後、最終的には離婚に至る「私と彼」の二人の関係を振り返るときに、しばしば思い出される言葉になった。
私と彼は、私が入部したセツルメントのメンバー同士、彼は一年上だった。
イギリス発生のセツルメントは、貧困地域の医療相談・治療や法律相談、さらには子どもたちの学習指導などを行う社会福祉事業という歴史をもつが、私が入部した大学セツルメントは、その当時は左翼学生がたむろする政治的なサークルとなっていた。そして、私もまた、大学の授業以上に、そこで『共産党宣言』や『経哲草稿』など、マルクス・エンゲルス・レーニン等々を読み、やがて日本共産党から分裂する左翼セクトに、先輩に倣って、そのまま所属した。大学の自治会の委員長も2期を務め、私は紛れもない「左翼学生」になっていた。このような道行きには、当然ながら、1年の夏ごろにすでに恋人になってしまった彼の影響が大きい。
そして、サークル内外での恋愛トラブルを避けるということもあり、喫茶店をハシゴするデイト代が嵩張るという事情もあって、大学3年の終り、彼の実家の近くに一部屋を借りて、一緒に暮らすことになった。
「若い男女の共同生活」は、客観的に見れば「同棲」、つまり届け出をしない実質的な「結婚」なのだろう。しかし、幸か不幸か、特に私は、結婚にはほとんど関心もなく、実際はサークル仲間の「溜まり場」のようだった。私と彼は、それぞれに大学に行き、私は卒論を書き、そして二人は同じように家庭教師のアルバイトをこなした。
その後、大学を卒業するに当たって、結局は大学院に進学することになった顛末はすでに述べた。同棲という不良じみた?生活を、遠く小倉の地で快く思っていなかった父が、私の大学院進学に態度を急変させて、結婚式を執り行ってくれたことも既述済みだ。さらに、大学院の奨学金を確実に受けたいがために、私は父の戸籍から抜ける方便として「結婚届」を出したのだった。姓も「伊藤」になった。
結婚というものに憧れがあった訳ではない。結婚に当たって、相手の男性の「条件」をアレコレ考えたこともない。偶々出会って一緒に活動をした男性が、私を「好きだ」と言ってくれて、その情にほだされて私も「好きです」と言った(私が東京行きを望んだ最初の彼には、この後、一方的に別れを告げた)。
のちのち母からは「あんたは男運がないからね~」と憐れまれたり、友人からは、「池田さん、どうしてああいう男の人がいいの?」と不思議がられもした。
背丈がある訳でもなく、ハンサムでもなく、どちらかといえば貧しい彼だった。大学卒業後は、東京下町の全国一般労組の専従になり、労働者や労働組合に社会を変える希望を託し、光を見ていた時代だった。
「結婚」や「夫婦」を予めしっかり考えての二人ではなかったから、まさに「成り行き」の「共同生活」だった。それが「自然」でOK!と思っていたのだった。
(2)形式的な夫婦と職場での恋愛
もっとも私の大学院時代は、後半はほとんど授業もゼミもなし、全共闘運動に明け暮れていた。ただし、指導教官との教育研究会は、学外でかなりしぶとく続けてはいたが・・・。
そして、東大全共闘運動が終焉した頃、私は妊娠し、翌年の春、長男が生まれた。
小学校の教員になることも、大学で研究者になることも諦めた私は、東京都の保母試験に挑戦し、2回の試験の結果、晴れて「東京都の保母」資格を取得した。
ところが、関係を断ったつもりの指導教官から、短大の教員の話が舞い込み、少々戸惑いながらも指導教官の好意・配慮を素直に受けて、短大の教員という職に就くことになった。
長男の保育所探し、さらに第二子の出産とまたまた0歳児の保育所探しと育児のテンヤワンヤ・・・。この辺りのことも前回までに記した通りである。
「子どもを、しかも2人を抱えた暮らし」は、母親だけでなく、当然父親の手も必要とする。それは疑いようのない不可欠な事実なのであるが、私は、彼の仕事ゆえに、彼に当たり前の「日常的な相棒としての夫役や父親役」を要求しなかったのだ。
次の時代を担う労働者のための労働組合運動!私もまた、その社会的な役割や意義を信じていたのだった。
しかし、賃上げ、ボーナスの支給額に一喜一憂する組合運動、未組織の労働者の状態にはほとんど関心を払うようには見えない組合運動に、少しずつ疑問も生じてはいた。しかも、彼と私の暮らしは、結局は、多くのサラリーマンの「性別役割」そのまま。ただ「共働き」ゆえに、女が家事育児を二重に背負いこみ、アップアップしているだけではないか・・・。
そういう冷めた意識で、彼を眺め、彼と私の暮らしをも「仕方ないや・・・」と思いなしていた。
ただ、もう一つ、私の抱える「後ろめたさ」ゆえに、わたし達の暮らしをトコトン突き詰めることをしなかった。
私は、次男を出産した頃、職場の短大で、同じ教員に好意を寄せ、ある日「恋に落ちた」。もちろん、相手も結婚しているし、子どももいる。同じ立場の者同士ということもあってか、とくに結婚したいと思ったことはない。ただ、興味や関心が共通しているし、話せば楽しい。文学担当の教員だったから、彼の授業にも学生と一緒になって聴講したり、そのうち、学内の教職員を募って小さな短歌サークルを結成した。
出身が信州の人だったから、山登りも大好き。山仲間に入れてもらって、私もたまには参加した。
これは、普通は「不倫」という。「結婚」というルールからすれば言語道断、見つかれば離婚訴訟にもなる。しかし、好きな人が居ることは、楽しいことでもある。とはいえ、大っぴらにはできないし、後ろめたさは付きまとう。
一方、彼は一途に「奥さん第一!」で通っていた。たまにわが家にやってくる彼の友人は、「いや~ビンちゃんは酔うと、いつも〝サチコのサチはどこに~ある~”を歌うんですよ」と冷やかし気味に教えてくれる。あがた森魚の「赤色エレジー」の歌だった。
しかし、「思い」だけでは生活は回らない。彼の「人の好さ」を疑ったことはないが、現実の生活の場では「空虚」な人だった。
あるとき、私の友人が、「結婚しながら、他の人を好きになると・・・ホント寂しいのよね~~」と呟いたことがある。・・・そうかこの人も経験者なんだ・・・と思ったものだ。
成り行きで出来てしまった「子どものいる家庭」の不全感(もちろん、子どもは無条件に可愛い!が)と、初めこそ楽しかった職場での恋も、「落ち着きどころ」が見えないまま、やがて別の「寂しさ」を抱え込んでしまう。・・・私はどこで間違ったのだろう・・・そんな問いを抱えたままの暮らしがそれからしばらく続くのだった。(続)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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