ドイツ通信第194号 ドイツの「寒い冬」を前に サッカーW杯と人権を考える
- 2022年 12月 3日
- 評論・紹介・意見
- T・K生
11月未というのに、周辺の木々にまだ葉っぱのついているのを眺めながら、「温かいのだなあ?」と感心しています。
10月、11月と気温が15~20度近くの日が続き、「寒い冬」をなんとか持ちこたえられるのではと一安心していたそんな折、1週間ほど前には2日続きで雪が降り、「いよいよ、これからか!」と気持ちを入れ替えていました。今のところは低温にしている暖房でも、なんとか寒さをしのげる状態になっています。
ただ、ジッと椅子に座って集中した仕事ができないのが悩みの種です。うろうろ動き回ってしまうのです。
コロナ規制が緩和され、仕事とともに日常生活のペースを取り戻すのに苦労しています。コロナ以前の常態には戻れません。しかも、まだコロナ・ヴィールスが消滅しているわけではなく、その合間をぬって周囲に気を配りながらの活動になります。どこかで無意識に自分自身の行動を規制しているのでしょう。ガツガツしたところがなくなってきているのがわかります。
以前でしたらあれをして、次にこれをしてと、緊張感がありました。今は、状況を読みながら、それに合わせて時間を過ごしているというところです。仕事のスピードが落ちています。
ドイツの「寒い冬」の状況を書くにあたって、11月末の時点から、この間の経過を振り返ってみます。
連日、カタールで開催中のワールド・カップに関する議論が繰り広げられています。テーマは周知のとおり「人権・差別・同性権」で、日本でも同じような状況だと思われますからここでは繰り返しませんが、ドイツの議論で〈では、どうするのか〉となると、はっきりした言質が聞かれません。そうして議論は、いつものようにダラダラと空回りしていき、「またか」とTVのスイッチを切ることになります。
個人的なカタールとの関係は、15年あるいは20年ほど前からだと記憶しています。モダンな高層ビルが砂漠の中に建築され始め、社会全体が変わろうとしていた時期です。産油国のパワーが実感されました。
60年代には日本の真珠養殖によって、それまで重要な輸出産業であったカタール真珠が衰退していき、その後、地下資源によって現在のような経済が急成長していく歴史経過を郷土博物館で知ることになりました。他のアラブ産油国でも同様な歴史を見聞しました。60年代までの周辺には何もない殺伐とした海岸での原始的な真珠採取と、そして90年代から2000年代にかけての経済の急成長は、それまで知識として学んだ長い時間の歴史過程というよりは、歴史の時間経過を飛び越え、短縮したような印象を受けたものです。
この過程でしかし、現在の問題はすでに語られていました。労働現場でのアジアからの無権利の低賃金労働者、そして女性および同性愛者の権利の実情を、限られた範囲とはいえ、現地で実際に体験することになりました。
テーマについて議論され批判されてきました。しかし、FIFAサッカー・マフィアの決定を覆すことはできませんでした。
そしてワールド・カップ開催で、議論が再熱されることになります。ドイツでのワールド・カップ熱は下火だと伝えられています。私はドイツ対日本戦はきちんと見ています。
第一戦の勝敗を決定したのは、チーム・ワークか個人エゴの違いであったように思われ、友人たちと面白おかしく素人談義を楽しんでいます。
第二戦になると、個人技(ある意味ではエゴ)と組織力をどう?合わせるのかが問われてくるように思われます。以下に、議論のテーマを拾い上げて、サッカー・マフィアの宴会と素顔を見てみることにします。
1.手元に2010年12月段階でのFIFA(当時会長Joseph Blatter)メンバーの一覧表があります (注)。24名の顔ぶれが記載されており、その内Uefaイギリス(Geoff Thomson)とAFC日本(Junji Oguro)の2名だけがFIFA汚職に無関与とされています。
それを引き継いだ現会長(Gianni Infantino)は、FIFA汚職システムである集金マシーンをさらに盤石のものにしようとしているといっていいでしょう。
(注)Der Spiegel Nr.46/12.11.2022
2.カタールへの人権をめぐる批判は、それ故にFIFA批判に直結してきます。その口封じを狙ったのが「政治批判禁止令」でした。ヨーロッパの7ヶ国だったと思いますが、各チームで事前に「One Love」と記載されたキャプテン腕章を着用し、それによって多様な性関係、両性関係の可能性をアピールする合意がなされていましたが、FIFAは「ペナルティー」の恫喝をかけてきます。この段階ではどのような内容かは、手の内を見せません。いかにもマフィアらしい脅迫手口です。罰金、イエロー・カード、チームの締め出し――これをめぐった議論が続けられます。それぞれのケースを検討しながら、では、ドイツはどうするのか。
3.ZDF(第二公共放送局)のスポーツ・ジャーナリストがカタールの状況をレポートした番組が、開催直前に放映されました。インタヴューで質問を受けたカタールのワールド・カップ担当者が、「同性愛というのは精神の病気である」と言い放ちます。そこでカメラが揺れ、撮影が中断されました。ドイツの議論は過熱していきます。
*編集部注:ZDF 一部、NHK/BSワールドニュースで配信されています。
以上がオープニング前の経過です。
4.イランの選手が国歌斉唱を全員で拒否しました。その様子をTVニュースで見ながら最初に頭を駆けめぐったことは、〈イランに帰国できるのか?〉という一点でした。イラン革命と女性に連帯した行動は、サッカー(スポーツ)選手にも同様の弾圧を覚悟しなければならないからです。家に残った家族は、そして帰国すれば、とその身を案じてしまいます。記憶にあるイランのスポーツ選手では、レスリングの選手(Navid Afkari)が2020年9月に絞首刑されています。彼が、その2年前の反政府デモに参加したというのが理由です。サッカーでは、元バイエルンの人気選手でイラン・ナショナルチームのメンバー(Ali Karimi)が、女性の抗議行動に連帯したこと――「国家治安を破壊するための秘密の打ち合わせと集会を画策した」ことを理由に本人不在(現在アラブ首長国連邦に滞在中だと思いますが)で告発されました。
イランの女性決起の中で注目をひいたのは、10月中旬ソウルで開かれたアジア杯フリー・クライミングに参加したテヘラン出身の女性選手(Elnaz Rekabi)でした。頭のスカーフを取り払い、結びあげた長い髪を揺らしながら競技に臨む姿は、イランといわず世界に発信され感動を与えました。
試合を終えた彼女は、テヘラン空港で市民の歓声のなかで迎えられました。一方、既に彼女の兄は逮捕されていたと言われます。その後彼女は、「謝罪文章」をインスタグラムに公表し、その後の足跡は完全に消滅しています。
5.他方でFIFAの「ペナルティー」の内容が試合開始直前に明らかになります。「イエロー・カード」を覚悟しなければなりません。そこで、DFB(ドイツ・サッカー連盟)は、
〈選手に負担をかけさせたくない〉というような理由で、他のヨーロッパ諸国チームと話し合いのうえで「One Love」キャプテン腕章を取り下げる決定を出しました。それを緘口令ととらえ、試合前の〈口輪〉によるプロテストをすることになります。
6.イラン選手の抗議行動は、前日のイラン大統領(Ebrahim Raisi)のキャンプ訪問を受けてのものですから、政治的かつ精神的重圧は計り知れないものがあったはずです。それを選手はチームではね返したことを意味します。
ここには、イラン現地の女性決起とイスラム独裁政権打倒の運動に通じるものがあります。
「先がどうなるの分からない」というイラン市民ですが、
「われわれは、きっと自分たちの道を見つけ出すだろう!」
を合言葉に闘争が続けられています。
7.それに対して、というのが直後のドイツの議論の分かれ目になるでしょう。
議論のポイントは、DFBが「なぜ、イエロー・カードを覚悟できなかったのか」というところに行きつきます。
ARD(第一公共放送局)のTVニュースのコメントでは、1人にイエロー・カードが出されれば、次の選手がキャプテン腕章を引き継ぎ、それを繰り返しながら、試合ができなくなれば帰国するべきではなかったか、というものです。新聞のスーツ欄にも同様の意見が散見され、特に元ナショナルチームの女性選手からも力強い同様な意見が聞かれます。
8.ドイツの第一戦(対日本戦)で見られたのは、政治アピールとスポーツの間で動揺する選手の姿でした。これはあくまで個人的な憶測にすぎませんが、チームの中核を構成するバイエルンの中堅選手と他の若手選手との間にこの点をめぐる意見対立があり、それがチームとしてのまとまりを阻害してエゴだけがむき出しにされたと考えられることです。
試合後のチーム内での話し合いでは、かなりの激論が交わされているようです。そこでの結論は、「スポーツに集中する」と報じられています。そしてall or nothingと表現された対スペイン戦では、「元のドイツ」(ヨーロッパの各スポーツ紙)を見せつけることになります。
以上、この間の一連の事実経過を長ったらしく書き連ねました。
そこで思うことを次に書いてみます。
まず、FIFAによる「政治批判禁止」の意味です。イラン選手の行動は紛れもなく政治抗議です。これへの制裁は、まだ聞いていません。おそらくないでしょう。だとすれば、チームの自国批判に関しては許されるとしても、開催国批判は許されないということになります。中国のオリンピックでもそうでした。
各スポーツ連盟には、必ず「憲章」というものがあるはずです。それとの齟齬・矛盾が、権益の前では取り払われてしまう一例です。
そして別の機会に、同じ人物から「人権」についての美辞麗句が語られるとスポーツそのものへの信頼感が失われることは自明です。嫌気がさします。これが今回のケースではなかったかと思われるのですが。
カタールの人権批判を聞きながら、確かにその必要性を認めながらも私の頭によみがえったのは、ドイツの人権の現状でした。
自分が体験するこの30年間に、何がドイツで議論され闘い取られてきたのか?
外国人問題、難民をめぐるネオ・ナチの襲撃と虐殺、低賃金・奴隷労働(コロナ禍の精肉産業、そしてアジアでの繊維産業、季節労働で明らかにされました)、不法労働(捜査が続けられてきました)、それに加えて女性・同性(婚)の権利については、今なお議論が続けられています。
特に女性、同性権に関して、数年あるいは十数年前でしたかフランクフルトで「68年革命」展示を見たとき、ドイツおよびフランスの女性は68年革命まで自分の口座を持ち、仕事に就くためには男性の許可を得なければならかったという事実――革命の背後にあった事実を知って驚きました。
連れ合いからも、同じような話を聞きました。それから何年経っているでしょうか。まだまだ身近な時代の出来事です。
カタールの人権、他国・他人を批判するとき、実は、自分自身が批判されているということでしょう。この観点からの相互批判は可能だと思われるのです。
「人権、差別、同政権」の主張は、いうまでもなく〈正当〉です。そして、それを繰り返し要求し、闘い取られなければならないでしょう。ただ、〈正当〉であることを実現するために何が必要かが問われているように思われてなりません。
南半球――資源を有するアフリカ、南アメリカ大陸、アラブ産油国では汚職がはびこり、カタールの人権には興味がなく、サッカーが市民の不満を発散させるためのマヌーバーに利用されているといいます。その諸国との資源、農産業、工業生産での強い経済関係を持っているのがドイツおよびEUです。数字的な資料は手元にはありませんが、それなしにはドイツ、EUの経済は成り立たないと言われているほどです。
そうしたグローバルな経済システムの上に――あるいはこういっていいかと思いますが、それを政治的に利用しながら、実はボナパル的にFIFAが汚職システムを権力として打ち固めているということでしょう。
こうしてカタールのワールド・カップが実現しました。
TV画面には、2018年ロシア(ソチ)のワールド・カップで、ドイツ・チーム内で外国人問題の焦点とされたトルコ出身選手(Mesut Oezil)の顔写真が、スタジアムの観客席で掲げられました。
カタール市民の抗議です。ドイツの「ダブル・モラル」を批判します。
他方では、「白紙の紙」を掲げる観客の姿も見られます。中国の人民決起への連帯表明です。
「人権、差別、女性・同性権」をどのような観点からとらえ返すのかという、現実的な問題提起であるように考えます。
西側世界では共通事項になっている〈価値観〉、そして〈正当性〉が現実的な関係性の中で、過去にどのように実践され、そして現在しているのか、更に将来されていくのかを経験的に語り、訴えれば、解釈論に陥ることなくどこかで議論の糸口が見つかるように思われるのです。少なくとも私の経験から。
最後に愚痴の一つですが、ワールド・カップは何といってもドイツでは夏場の行事だと思われます。庭や広場でたくさんの人が集まる中、大スクリーンに目を凝らし、ビールを飲みながら(私は飲みませんが)歓声を上げるものだと思います。冬の寒い部屋で、おまけに着込んでモゾモゾしてTV観戦するものではないとつくづく思います。
(つづく)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion12600:221203〕
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