二十世紀世界文学の名作に触れる(52) 『チボー家の人々』のロジェ・マルタン・デュ・ガール
- 2022年 12月 19日
- カルチャー
- 『チボー家の人々』ロジェ・マルタン・デュ・ガール文学横田 喬
――大河小説完成に心魂を傾けて二十年
デュ・ガールは邦訳(白水Uブックス版)で全13冊に及ぶ大河小説を完成させるのに、1914~34年の実に二十年もの歳月を費やしている。一番のクライマックス、第一次世界大戦の際は、自動車輸送班に動員され、四年間にわたり戦場での緊張した生活を体験している。その筆致が真に迫り、緊迫感を帯びるのも当然と言えよう。
ロジェ・マルタン・デュ・ガールは1881年、パリの西部近郊にあるヌイイ・シュル・セーヌ市で生まれた。法曹に携わるブルジョワ家系で、父は裁判所の代訴人だった。その家系には、代々裁判官・弁護士を数えるが、芸術家を出したのは彼を以て最初とする。司法関係の家系に生まれたことは、『チボー家の人々』での整然とした筋の組み立てを首肯させる。
フェヌロン高等中学在学中の十七歳の時、校長マルセル・エベール神父に愛され、トルストイの『戦争と平和』を読むよう勧められ、文学に開眼する。後年の回想で彼はこう記す。
――この作家の発見は、私の青年時代における最も重大な出来事であり、作家としての私の将来に、最も永続的な影響を与えた。私は変わることのない熱意と、我を忘れるほどの驚きを以て幾度となく『戦争と平和』を読み返し、決定的に小説を書こうと決心をした。
無数の人物が登場し、複雑多岐にわたるエピソードの上に立つ「息の長い小説を」と発心。彼はソルボンヌの文学部に進むが、卒業試験に失敗。国立古文書学院に転じ、考証学を学ぶ。卒業論文として、修道院遺跡に関する考古学的論文を書く。史実の選び方や材料の処理についてのしっかりした経験を身に付ける。1905年、同学院を極めて優秀な成績で卒業。08年、最初の長編小説『生成』を著す。文学を志す一人の青年を主人公に、同世代の同じ志向の青年幾人かを配し、当時の多感な若者たちの内心の苦悩を描こうとした。が、予めプランも立てず、僅か数週間で一気に書き上げただけに、習作まがいの節もなくはなかった。
デュ・ガールは、時をおかず、次の大作『ジャン・バロア』に着手する。これは1894年、フランス全土を震撼させたドレフュス事件を背景とし、その前後にわたるフランス青年の思想的不安の状態、国家か正義かの問題。それと同時に十九世紀末の科学主義の攻勢による信仰動揺の様相、すなわち科学か信仰かの対決を主題とした作品だった。
作者は、初めてその特質とする精緻な史実検索を基礎とした素晴らしい盛り上げの手腕を発揮する。この作品のために、彼は二十九歳から三十二歳に至る前後三年間の日時を費やした。が、折角の労作はいざ出版の間際に、思わぬ障害に出くわす。
かねて出版契約のあったグラッセ書店からの、「これは小説ではなく、調査資料です」という慇懃無礼な思いもかけぬ出版辞退の通告だった。これは、この作品が如何にデュ・ガール一流の手堅い史実検索の上に立っていたかを物語る。その一方、この膨大な作品が、全編を通じ(在来の小説作品には見られなかった)対話形式によって貫かれ、従来の頭に囚われがちなグラッセ書店側を逡巡させたことにある。
この躓きは、全く偶然の成り行きから思わぬ幸運をもたらす。その頃は未だ未知の間柄だったアンドレ・ジッドの推薦により、当時新しい文学樹立のため華々しい門出ぶりを見せていたガリマール書店からの出版が決まる。この出版を機に、ジッドとデュ・ガールとの間には終生変わらぬ友情と信頼が生まれる。年齢こそジッドが一回り上だが、二人は相性が極めて良く、文学史上稀に見る美しい機縁だったと言えよう。
たまたまこの作品が出版された1914年、第一次世界大戦が勃発する。戦火はフランス全土を挙げて興奮の坩堝に投げ入れ、デュ・ガール自身も戦争開始と同時に動員され、自動車輸送班に編入される。そして、引き続く四年間、身を以て戦場での生活を体験。1919年、講和条約の締結により、文学生活への復帰が許される。
除隊となった翌20年1月、彼はふとしたことから大作『チボー家の人々』への着想を得る。彼は、互いに性格を異にする二人の兄弟を中心として、『戦争と平和』に匹敵する大作を想定。自分の性格の中で互いに矛盾し合う傾向――一方では独立不羈(脱出と反抗の本能、あらゆる妥協拒否の感情)他方では己自身の遺伝に由る秩序や節度への志向、そして極端に走ることへの拒否の気持ち――を同時的に表現しようと考えた。
この大作準備のため、彼は極めて綿密なカードを用意する。とかく煩われがちなパリを離れ、クレルモン(フランス中央高地の都市)に仕事場を構える。20年から23年に至る三カ年、毎週月曜の朝から金曜の朝まで、この仕事に没頭。冒頭の三部『灰色のノート』『少年園』『美しい季節』を書き上げる。先にジッドとの親交に触れたが、その後二人の親交と信頼は益々深さを加え、20年暮れにはジッドはわざわざクレルモンを訪問。二日間の滞在中、冒頭部分の朗読を聞いたり、全体の構想を耳にし、忌憚のない感想を述べている。
前述の三部に引き続く第四~第六の三部は、クレルモン乃至テルトル(パリの広場)で書かれた。たまたま31年元旦夕方、彼はテルトルの自宅付近で交通事故に遭い、重傷を負って二が月入院。療養生活の中で、以後の構想を変える。ほぼ書き上げていた第七部の原稿を惜しげもなく破り捨て、新たに第七部『一九一四年夏』の構想に取り掛かる。
この『一九一四年夏』三巻、それに引き続く最終巻『エピローグ』は以後六年にわたり、テルトルであるいはニースで書き継がれる。その間、37年には思いもかけずノーベル文学賞受賞を知る(盟友ジッドのノーベル賞受賞は十年遅れの47年)。授賞理由は「『チボー家の人々』で、現代の生活のいくつかの基本的な側面のみならず、人間の葛藤を描いた芸術の力と真実に対して」。そこに至るまでの辛酸を思うと、彼の喜びはいかばかりだったことか。
だが翌々39年秋、ドイツ軍がポーランドに侵入し、第二次世界大戦が勃発。デュ・ガールはドイツ軍の侵入に追われ、転々と居を移す。彼はその間にも、次の大作『モーモール大佐の回想』の構想をまとめ、執筆にかかっていた。が、絶えず健康上の脅威に晒され、構想上の迷いも重なって渋滞がちなまま時が推移。58年、心筋炎の発作で七十七歳で死去した。
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