いつものように冬
- 2022年 12月 23日
- 時代をみる
- ホームレス笠井和明
ずっと一人で頑張っていた。
困っていることに気が付いた
相談できて、よかった。
これは、新宿福祉事務所に貼られている、相談を促すためのポスターのキャッチコピーである。
聞けば、外注には出さず、職員が考え、デザインしたものだと云う。
日本有数の繁華街、歌舞伎町の中にあり、長いこと、それこそ戦後の混乱期からずっと、当時は浮浪者、今はホームレスと呼ばれていた駅や公園に住みつく人々を筆頭に、落ちぶれた風俗系の人々やら、愚連隊系(今は「トーヨコ」?)の人々やら、家出少年少女やら、建築日雇の仕事につく人々やら、地方から流れ着いた訳ありの人々、そして都市雑業に就く底辺下層の労働者を、今では生活困窮者と云うのか、そんな人々を、支えつづけて来た歴史ある新宿福祉事務所の、優しい性格がとても良く出たキャッチだと思った。
知っているからこそ、共感しているからこそ、そして何とかしたいと思うからこそ、こう云う素敵な、当事者の心情に寄り添った言葉が発せられる。
私たちが新宿福祉事務所(当時は本庁舎の2階にあり、分散されたものが統合された後であったが)に足繁く通うようになってからもう28年。
その昔、野宿者問題を「経済難民」と正確に位置づけた小野田元区長。「力及ばず、あまり何も出来ず申し訳ない」と、退官時、真摯に当事者に頭を下げるほど実直
な深沢元福祉部長 、東京都の強制排除方針に真っ向からたたかい、排除ではなく対策だと、そのために全力を賭してくれた武山元福祉課長、簡易旅館や宿泊施設など、とにかく一つでも良いから保護先を確保しようと、足を棒にし都内を動き回ってくれた寒竹元相談係長、そして混乱の中、現場で親身になって相談をしてくれた職員、また、職員の立場から都や国に提言を繰り返してくれた自治労の方々。
バブル崩壊後のホームレス問題発生当初、その最先端を担ったこの新宿福祉事務所は、当事者からの批判や建設的提言を真っ正面から受け止め、人道的な観点をとにもかくにも優先させながら、やるべきこと、やれることはとにかくやる。そんな、役所としては珍しいとてもアグレッシブな事務所であった。
何も知らぬ若かりし頃の私たちは、「あーでもない、こーでもない」と、あまり建設的ではない文句やら無理難題を言い続け、とても迷惑をかけたのであるが、内心では新宿の奥深さ、この街の伝統と云うものをひしひしと感じていた。単なる空中戦の役所批判だけでは、何も生み出されないことを、新参者の私たちはここで学んだのかも知れない。
底辺を見続けている、そして、見続けざるを得ない状況、そしてその中で何かをせねばならぬ「意思」と云うものは、なかなか、そんじょそこいらの役所では理解できないだろう。現場でしか分からぬ「感性」「肌感覚」と云うものは、現場の空気を知っている者以外、それは一生分からない。
それを分かったようなふりをするから物事はおかしくなる。知ったかぶりとは、もはや「悪意」の部類に入るかも知れない。
……………………………
まあ、それはともかく、冬である。
東京オリンピックが終わった昨年の冬は、「コロナ渦」の冬であったが、そのコロナは、感染は未だ続いているものの、ウィルスの質が変わったようで、今は「3年ぶり」のイベントが各地で開催され、「行動制限」等はほぼ解除されている。この冬「第8波」が来るだろうが、それが想定内であれば、かつてのよう大きな騒ぎにはならないであろう。
人通りが少ない新宿の街中、結構それを好んで路上生活をしていたおじさん達は、街が元に戻るとどうするのか?まあ、それはそれで何とかするのであるが、小田急百貨店本店が長い歴史の末に、ついに閉店(正確に云えばハルクに移転)し、新宿駅西口の再開発は駅ビルの解体などこれからが本番。年がら年中工事をしているのは、かつての東京駅や今の渋谷駅もそうであるが、新宿駅周辺も同じく数年がかかりのおおがかりな再開発工事が始まるようである。
新宿駅西口は安田生命ビルやスバルビルが解体されてからもう数年経つが、小田急もなくなり、超高層ビルともなれば、景色はだいぶ変わるのであろう。
私たちは、どうしても西口のバスターミナル(新宿バスタにあらず)に目が行って、あの惨劇(80年バス放火事件)と、後日再びの惨劇(98年西口地下広場火災)の上に、西口を見てしまうのであるが、その現場はどのように残るのか?まあ、再開発が終われば、そんな昔話などどうでも良いような話しになって来るのかも知れないが、新宿の歴史と云うものは、決して明るい歴史ばかりではない。
「レガシー」(遺産)としてどう残るかは、それを知っている、同時代に共に生きた人々にかかっているのかも知れない。
「レガシー」と云えば、その後の新宿中央公園もまた「レガシー」である。それを共に作って来たアントニオ猪木さんが、闘病生活の末、先日亡くなった。享年79歳。同世代の肉体労働者達(たいがいがプロレスファン)が、群れをなし、路上生活をせざるを得なくなったことに心を痛め、少しでも励まそうと自腹で、中央公園で年末の炊き出し(最初は焼き肉で、その後、ラーメンとなり「猪木ラーメン」と親しまれた)を10年あまり続けて来た。
励ますことしか出来ない。それで良いのである。猪木から励まされたら、よほどひねくれものでなければ、同時代を生きた者は、誰しも頑張ろうと思う。それで実際、頑張って路上で生きて来た仲間は大勢いる。年末に猪木を見るために頑張ろうと、そんな思いの仲間が大勢いたことを、私たちは知っている。猪木ラーメンが終了してからもう9年が経つが、「猪木、死んじゃったね」と、落胆の声が今でもあがる。
その頃と比して路上で寝る人々は少なくなった。「コロナ渦」でその傾向に拍車がかかり、新宿区で実数100名を切るのも夢ではないと一時は思われたが、「コロナ渦」騒動が終われば、人の移動も再開され、再び元の数に戻りつつある(現在は新宿駅周辺だけで140名前後。周辺含めれば160名ぐらい)。どうも新宿には一定のキャパシティのようなものがあり、このくらいの数字なら問題
も少なく、繁華街の中に何となく包摂してしまうようである。
と、なるとゼロにはならない。一人「脱野宿」させたり、したりしても、また一人どこからか来て、すました顔でそこに居る。そんな構造である。
そう云えば、武山元課長がその昔「新宿で路上生活をする人をなくすことなど出来やしないよ」とニヒルに笑っていたことを思い出す。ホームレスとは何かではなく、新宿とは何かと発想すれば、まあ、そう云う結論に行き着く。
と、云う訳で、私たちの活動も長き旅路となって、猪木氏が思った同年代の人々から、次の世代に代わり、脈々と新宿の底辺下層は、どこに行き着くあてもなく流れ続けていく。
まあ、同じことが「寄せ場」「宿場街」と呼ばれている地域でも、言えるのであろう。それぞれの地域でそれぞれの地域に見あった活動や運動は、それもまた同じく、時流には関係なく流れつづけていく。
世代が変わったと云うのは確かなことで、その昔、「この怠け者達めが!」と世間から侮蔑的レッテルを貼られ続けて来た路上の人々の主流は、今や70歳前後。連絡会が出来た頃の私たちの多くの仲間も、今は生活保護か年金暮らし、入院や介護系施設に入っている者も多く、鬼門に入った仲間も数え切れない。
肉体労働者や下層労働者の寿命は短い。身体を酷使すればする程、どん底を見れば見る程、その反動は、年齢と共に「病」として、じわりじわりと蝕まれていく。
その頃の人々は雲の上か、街の中に隠れてしまっているから、なかなか証言は取れない。それでも世代間で、意外と伝承みたいなものはされたりもしている。
私たちの「レガシー」は、そんなに気張って作るものでもない。そんなものがなくっても、数の変動はあったとしても、皆、それぞれの立場で、しぶとく生き抜いているその姿が、能書きではない伝承として、残っていくのであろう。
……………
そんなわけなので、この冬もまた同じことの繰り返しとなる。この、同じことの繰り返しといつも言っているが、その同じ水準を維持するのは結構大変であったりもする。
行政の対策も冬だからと云って特別なものはあまりなく、ほとんどが日常の対策の継続なのであるが、これまた、その同じ水準を維持するのは大変でもある。
冬だからと云って大騒ぎするのは、もうおしまいにしましょうと常々言って来たつもりであるが、他人への同情を基盤とする(下の階層を見て安心するのだか、しないのだか)この何だかようわからない階級社会は、年末になり、木枯らしの中、救世軍が「社会鍋」をやり出すと、借金取りが多くなり、夜逃げをする人々や生活に困ってしまう人が極端に増えるのではないかと、「昭和」の「感覚」で思い込んでいるようで、同情に値する「弱者」を探そうと躍起になる。
借金取りは夏でも春でもやっては来るし、夜逃げをするのは何も年末だけではないのであるが、吹きさらしのうら寂しい都会を何故か繁栄の裏側として演出しなければならないようである。
昭和初期の浅草のうらぶれた描写は川端康成なのであるが、大宰治も初期の小説で冬の日本橋でおちぶれたロシア人少女達が花を売り、懸命に生きる姿を短く描いている。
それは昭和恐慌の頃か、まあ、そんな姿は「貧民窟」以来、昭和の時代に珍しくもなかった。
山谷の日雇いの先輩も、年末年始は仕事がないからと役所から「餅代」をもらっても、有馬記念ですってしまえば、財布の中はすっからかん。浅草駅で野宿をしながら越年山谷対策の「なぎさ寮」で何とか凌ぎ、年明け、また仕事。
まあ、そんな時代は、まだ仕事があった頃。バブル崩壊後は、その先輩達は失業者の群れとなって、各地に転々。冬に限らず財布の中はいつもすっからかん。貧困は冬だけではなくなった。役所が開いていようが、いまいが、いつも困窮。木枯らしは年がら年中、吹きまくる。
まあ、それでも、冬は私たちにとって特別な季節であることには変わりない。
冬とのたたかいは、「凍死」をさせないこと、「孤立」の果ての「野たれ死」をさせないことである。
対策の視点から云えば、「医療問題」とも言えるし、運動の指点から云えば「団結問題」とも言える。民間の側からすれば、行政が提供できない物資を、いかに路上に投入できるかの問題でもあり、こう云う隙間で活動する私たちからすれば、面目躍如の時期でもある。
行政に何でもやれという、過度な期待なんだか、そんな声も多い。が、役所は毛布や寝袋や食料を直接路上に提供することも出来ない。それをすると商店街などから野宿者を固定化させるのかと怒られる。なので民間を通してこっそりとやる。
役所を批判する前に、私たちで出来ることは私たちでもやる。必要なものは必要である。そこは「共助」の部分である。私たちは「いけない」か「いけなくないか」などとは関係なく、目の前の現実からスタートし、そこで必要なものがあれば、それはそれで、それが可能であればやってしまう。結果、どうなるかは、人の運命なので、それは分かりはしない。
私たちは、私たちが出来る限りではあり、それが満点でなかろうとも、その限りで、物資を運び、食を運び、可能な限りでいつもの越年越冬をやるだけである。それは「路上生活、やめませんか?」と云うような、阿呆なキャッチではなく、「仲間のいのちは仲間で守る」と云う、昔ながらの、そしておそらく本質であろう、そう云う言葉でこの活動は語られることであろう。
私たちがそんなことを学んだのは、若かりし頃の山谷や「寄せ場」のでの活動でであるが、その山谷の支援から、派生したのかしていないのか、劇団「水族館劇場」の桃山邑さんも、先日、闘病の末亡くなった。享年65歳。猪木氏の世代からすれば、ひとつ下の世代でもある。
「さすらい姉妹」と云うユニットで「寄せ場」を巡礼し、路上の見せ物興業を披露し続けて来た彼、彼女らが新宿の第一回越年越冬闘争(1994-95)に登場した頃の熱気と、皆の驚きが思い出される。それ以降、新宿の越年越冬には、桃山氏が率いる劇団が悲喜交交の物語を紡いでくれた。おっちゃん達もそれが好きで、ゴザ敷いて、酒を飲みながら一緒に笑い、一緒に歌ったものである。
「藝能」は、モニターに映し出されるものではなく、目の前で興業されると、一体性のお祭りのようで、いつしか、その地域の日常になったりする。それは興ったり、廃れたりしながら、場所は変われど底辺に居残り続ける。それが望みだったかの、それとも祈りだったのかは分からぬが、都市は、下層は、こうでなければいけぬとの強い「意思」が、彼の死からは聞こえて来る。
とても残念な死である…。
社会の底辺で作られて来たものは、それはそれで何となく誰かに引き継がれ、そこの立場の人々の、仲間の、血となり肉となる。
日常の活動の中に冬のヒントと云うものはいつも隠されている。冬だからと、騒ぐのではなく、日常的に何をやっているのかがそれは問われている。
逆に言えば、日常を共にせず、冬だけ何かをしようとしても、それは当事者にとってみればあまり魅力を感じない。
まあ、活動と言ってもすでにある意味確立しているものをいろいろとバリエーションを変え、やっているにすぎない。仲間作りはきっかけであり、共同作業であり、仕事でありと、同じ立場の人々が一緒になにかをやることが大事であったりする。ただそれだけかも知れない。
……………………………
6月のとある日、アルミ缶を集め、戸山公園で長いこと生活をしていた酒飲みのおっちゃんが動けなくなった。管理事務所も、私たちも病院に行くことを勧め、救急車を呼ぼうとしたが本人は頑なにそれを拒んだ。いやいやこのまま死んじまうぞと、いろいろと計画と段取りを進めようとした矢先、周りの仲間が、アルミ缶の台車の上に泥だらけのおっちゃんを乗せ、2キロ近くはあるだろうか、人通りの多い明治通りをえっちらえっちらと南下し、新宿福祉事務所に「どうにかしてくれ!」と駆け込んだ。よほど切羽つまってのことだろうし、本人も仲間がそこまでやってくれるならと応じたのかも知れない。
福祉事務所も、これは一大事と職員総出でシャワーを浴びさせ、着替えもしてくれ、福祉や入院の手続きをしながら救急車を呼び、彼は一命を取り留めた。
台車で送る方も送る方であるが、それを疑問なく受け入れるのも、また新宿福祉事務所らしい。
こと新宿では、当事者と新宿福祉の関係はそう云う関係でもある。
いつも酒ばかりを飲んでいて、地域の人々から煙たがられていても、ちゃんと仲間は居る。相談できて良かったではなく、仲間がいて、心配してくれる人がいて、福祉も親身になってくれ、本当に良かった。である。
彼も一人で頑張って来た。そして、こんなことがあったからこそ、自分の立場に気が付いたのかも知れない。
まあ、そんなものである。
その明治通りを散歩がてら歩いていれば、かつて新宿駅で共に暮らしていた仲間が、地元の高齢者よろしく何気なく歩いてくる。と、云うかもやは地元の高齢者であり、福祉やら介護やら、地域サービスを受けながら何気なく暮らしている。
今はマスクの時代、声をかけあうことは控え、お互い顔が分からなかったふりをして、そっとうなずきながら素通りする。
「やあ元気かい?」「おお、元気だよ」と、目で会話しながら。
生き抜くことにこだわる新宿の越冬になるだろう。
(了)
初出:「新宿連絡会NEWS VOL85」より許可を得て転載 http://www.tokyohomeless.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye4994:221223〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。