わたしと戸籍 ― 「戸籍」私史(その10)
- 2023年 1月 4日
- 時代をみる
- 戸籍池田祥子
Ⅵ 「生き直したい!」という思いと離婚への二転三転
(1) Aさんという人
夫より5歳年長、私とは9歳違いのAさんは、夫が労働組合の専従になる前に勤めていた文京区の私立高校の非常勤講師であり、夫がとりわけ一目置く、気の合う先輩(友人)であった。たまたま、西武新宿線の電車の中でパッタリ出会って、私にも紹介され、それからはよくわが家に顔を出していた。他愛のないお喋りの中で、Aさんが、中学校までは秀才、日比谷高校に入って成績は「ドンジリ軍に定住」という経歴の持ち主だったということも分かっていた。そのことで、どんな屈折を抱えているのかは分からないが、ともあれ「稼ぎは最小でいい」と、1校だけの「非常勤講師」で生計を立てていた。
その頃は、勤務校で「非常勤講師組合」を立ち上げるということ、および「非常勤講師にも年金の保障を」という要求を認めさせたいと、夫に相談をもちかけていた。
またAさんは、私たちよりは年長だが、法政大学の合唱サークル「そとぼりコール」にOBとして長々と関わり、たまたま1960年代半ば以降の「大学全共闘運動」の渦中にいたという点で、私とも共通の話ができる人だった。
その日も、夕飯が終わった頃にやってきて、子どもたちが寝つくまでの間、本を読みながら私の手が空くのを待っていた。夫は、おそらくその日も遅くなるはずだったのだが・・・。
私の三人目の子どもの妊娠については、子どもたちが話題にしたということもあり、その前に、すでに私自身のお腹の膨らみで理解したようだった。しばらくお茶を飲みながら、北杜夫や堀田善衛の本の話をしていたのだったか、するといきなりAさんが、「どうしたんですか?何かあったのですか?」と聞いてきた。一瞬戸惑った私が、「え、何?何かおかしいですか?」と聞くと、「これから赤ちゃん産もうというのに、何か変ですよ。一体どうしたんですか?・・・」
普通なら、「いえ、何でもありませんよ、少し疲れたのかな・・・」と笑って取り繕うはずの所なのだが、「何か変ですよ」というAさんの言葉にたじろいでしまった。自分一人だけの行為と選択と、そしてそれを一人で抱え込んで、夫も家族も世間さえ欺きながら生きようとしている私自身の「心と体の硬直」!・・・それが一瞬弛んだのか、亀裂が走ったのか、思わず涙がこぼれてきてしまった。そしてしばらくして、私自身も意図せずして、「彼(夫)の子ではないんです・・・」と言ってしまったのだった。
どちらかと言えば「仲のいい夫婦」と見られ、「楽しい家族」と思われていただろうところを、いきなり「夫の子ではない」と言われて、Aさんもさぞかし驚いたことだろう。一方、「本当のこと」を口にしてしまった私は、途端に心も体もこわばりが解け、涙が次々と溢れ出て止まらなかった。そして、「あぁ、言ってしまった・・・」と思いつつ、やっぱり「正直に生き直したい!」と思ったのだった。
(2)離婚への決意と挫折
あれほど、一人で「秘密」を抱え込んで生きる!と覚悟していたはずなのに、Aさんの一言で、思わず本当のことをさらけ出してしまった。あの夜、「お大事に・・・」と一言だけ告げて帰って行ったAさん・・・。
それからしばらくして、「正直に生きる」とは、やはり夫にすべてを話して、離婚するしかない、と自分なりの結論に行き着いた。もちろん、子どもたちは二人とも私が一緒に連れ出しての離婚である。
夫に手紙を書いた。長い長い手紙になった。
手紙を渡した日、夫はかなり遅く帰宅した。ショックだったろうし、混乱しているだろうと、改めて申し訳ないと心が疼いた。
ところが、お腹の子どもの父親(職場のKさん)に慰謝料をもらう!といきなり言い出した。今回のことは、世間的には私の「不倫」が問題だし、その結果としての「妊娠」は、どこまでも私が勝手に選択し決断したことである。Kさんにはきちんと相談もしなかったし承諾を得た訳でもない。そう考えると、Kさんはむしろ「被害者」?かもしれない。
「お願い!それだけは止めて!・・・すべての責任は私にあるのだから・・・」と思わず頼み込んだ。
夫は、それには何の反応もないまま、しばらくして、「子どもたちは置いて行け!」と言い放った。思わず、「だって、子どもたちとずっと一緒だったのは私じゃないの!」と抗弁すると、「子どもは、あなた一人のモノじゃないだろ!」と言い返された。
想定外だった。現実の子育ての実態からだけでなく、私自身も「子どもは母のモノ」とどこかで決めこんでいたのかもしれない。しかも、お義姉さんの存在や、夫の再婚ということを考慮することなく、「夫一人でどうして子どもの世話ができるのよ」とタカを括っていたのだから・・・。
上の子は6歳、下の子は4歳。その子達と別れての離婚?・・・いや~それは辛い!
それは出来ないよ・・・と思った。
何という「茶番」!・・・「真実」を我が身にだけしまい込んで、夫にも世間にも素知らぬ顔をして生きようとした私が、Aさんの問いかけに忽(たちま)ちほろほろとくずおれてしまって、「正直に生き直したい!」と離婚を決意したのに・・・子どもとの別れが耐えられなくて、また元の鞘に戻ってしまう。
行きつ戻りつ、すっきりしない自分の選択を、Aさんには手紙で知らせておいた。
「あなたの人生だから・・・」と短い返事をもらったけれど、実は、私の優柔不断さに彼もまた呆れていたのかもしれない。
(2) 再度の離婚の決意
子どもたちとの別れを想像するだけで涙が溢れ、そんなこと、私には無理だ・・・と数日間悩みに悩んで、結局、改めて夫に頭を下げた。夫も悩んだのだろうが、最終的には「やり直そう!」と言ってくれた。
私が望んだ訳ではないのに、彼は、部屋の中の家具の配置換えをした。そして、これはある意味では当然なのだが、初めて、日曜日はなるべく仕事を入れないように配慮してくれた。また、お天気のいい日は、布団を3階のベランダまで運んで干してくれた。
「あぁ、私は、夫に『やってほしいこと』を伝えることもなく、一人で勝手に諦めてしまっていたんだな・・・」と、改めて私の責任を痛感したものだ。
しかし、数カ月の後、3人目の子どもが加わると、夫の家事・育児の経験不足が露わになってきた。時間をかけて、丁寧に説明すればできない訳ではないのだろうが、日々の生活はそれほど悠長には行かない。しかも、初めの内こそ、日曜日を極力空けてくれた夫も、かなり無理をしていたのだろう。時間が経つうちに、次第に仕事で埋められていった。
3人目の子どもの「0歳児保育所」への送り迎えも、結局は私が歩いて行くしかなかった。「二人で作って来た生活は、結局はそれほど変えられはしないのだな・・・」と改めて諦めざるをえなかった。
さらに決定的なことは、夫と私が「対等」ではなくなったことだ。夫は、「罪を犯した妻を許した人」、そして、私は「不倫した上に子どもまで作った罪深い女」・・・そういう図式が、夫と私の間に拭えないまま立ち込めていたことだった。夫の職場や友人たちの間で、「ビンちゃん(夫の呼称)は寛大でエライ!」という声がささやかれているのも聞こえてきたし、夫自身が、自分でそう思っているのが見え見えだった。
私は、自分自身行ってきたことが「正当」だとはちっとも思っていない。夫を無視し、
夫を傷つけたことは事実である。ただ、それは夫と私の生活のあり様を抜きにして、起こって来たことではない。夫以外の人との恋愛、それはよくあることだとは思うが、さらにその先の妊娠・・・そこまでを私が望んでしまったということは、やはり、夫との生活実態の問題を抜きにはできない。 とはいえ、こういうことはなかなかに理解してはもらえない。「盗人たけだけしい」と呆れられるか、「毒婦だな・・・」と懼(おそ)れられるかだ。
私は再度、一人で決意した。夫とは離婚しよう!これからずっと「寛大に許され、憐(あわ)れまれる女」でいたくはない。私は「正直に、生き直したい!」と。
(3) 夫との決定的な別れ、子どもたちとの別れ
私が、「やっぱり私にはこの生活は無理だ、離婚したいと思う」と夫に告げた時、夫はうすうす私の様子から感じ取っていたのかもしれないが、「そうか・・・仕方ないね」と、すんなり受け入れてくれた。
それからは、かなり事務的な離婚の手続き、二人で買った小さな家の譲渡(共同所有から夫の所有へ)など。その際に、夫にかなりの相続税が課せられるのに驚いて、私はその半額を負担するよ、と申し出てしまった。やはり私自身、自分の責任意識から逃れられなかったからだろう。同様に、二人の子どもたちの養育費も、私は自分から申し出た。ただ、たくさんのお金は出せないから、「一人につき月2万円、計4万円、子どもたちが成人になるまで」と、二人の間で取り決めた。
ところが、離婚届を作成する時に、夫の保証人という組合の先輩が同席した。その席で、いきなり夫は、私に「慰謝料1000万円」を要求してきたのだった。
えっ、慰謝料?! 1000万円?! 私にそんなお金、どうやって払えと言うの!「慰謝料」って、男の人に一方的に別れを強いられる、専業主婦だった女性が要求するモノなんじゃないの?・・・と言葉に出したかどうか・・・私はともかく動転して、大声出して泣いてしまった。あまりの大声だったのだろう、夫の方が、「まあまあ、泣くのは止めろ!この話はまた別にしよう・・・」と言い出したのだった。
おそらく彼の職場で話題になって、世間的な通例としての「慰謝料請求」を彼にも当然のこととして勧めてきた結果だったのだろう。「ビンちゃんは何にも悪くないのに、おめおめタダで離婚に応じるなんて・・・男がすたるよ!」と言われたのかもしれない。
ただ、この一件で、私は夫への負い目をきっぱりと断ち切ることができた。こんなにも生きている世界が違ってしまっていたんだ、と改めて確認できたし、口出しできなかった夫の組合運動も、結局は「お金」で解決する世界になっているの?と、一歩も二歩もより離れて眺めるようになってしまった。
ただ、それから家を出るまでの家具や食器の整理・選別、子どもたちの洋服の整理など、「離婚という事実」を自分の手で執り行う事のシンドサ、悲しさ。それはもうひたすら耐えるしかなかった。自業自得ではあったけれど、もう前に進むしかありえなかったからだ。
家を出る前の日、二人の子どもたちに「別々に暮らすことにした」と告げた。小学校に上がったばかりの上の子は、「いつまで?」と聞いてきた。しかしもうすぐ5歳になる下の子は、そのまま布団に入って泣きじゃくり「ボク、お母さんといっしょにくらしたい」と。・・・それを聞いて、しばらくはゴメンネしか言えなかった私だが、ついに「そうか・・・じゃ、お母さんと一緒に行こうか・・・」と言ったら、そのまま安心して眠ってくれた。
しかし、その提案は、夫に冷たく「約束違反だろう!」と拒否された。私が家を出た後、下の子が「お母さんはボクといっしょにいくと言ったのに・・・」と泣いて訴えたら、夫は、「そうだよ、お母さんは嘘つきだよ。噓つきのお母さんは死んじゃったことにしよう」と言ったのだそうな。何ということだろう、私は夫との約束を守ったのだし、子どもたちが生きているからこそ別れられたというのに・・・。父・母が別れても、子どもたちとは会いたいときに会えるから・・・と私は思っていたのだが、現実は、そうは行かなかった。
(最終的に離婚に踏み切ったとき、Aさんに「一緒に子どもを育てましょう」と言われたこと、家を出てからの、Aさんの「通い婚」のこと・・・は次回です。)(続)
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