戦友とも呼べる友人と
- 2023年 1月 5日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
彼にとってはシンガポールが初めての海外駐在だった。駐在に至った元々の原因をつくったものとして、その後のゴタゴタの責任の一端がある。当時、ボストンに駐在して毎月京都とヨーロッパにアジアは中国とシンガポールを駆け回っていた。ある日、東南アジア全域を任せていた代理店が廉価製品ほしさにコピー品を作っているのに気がついた。アメリカ支社の立て直しも軌道にのって、ヨーロッパ支社の設立も目途が立った時だった。画像処理用のLED照明を製造販売していたが、日本製は発展途上国では高価すぎて、市場は急拡大しているのに、売り上げは伸びない。どうしても廉価な製品がほしいが、京都ではそんなものという意識が強すぎて話にならない。そこで思いつたのが、シンガポールの代理店の買収だった。オーナ社長に会社を売れと迫った。売っていっしょにやっていくか、それとも競合としてやっていくのかの二者択一を迫った。似たような話しを繰り返しながら、やっと買収にこぎつけたはいいが、現地にとんで経営できる人材がいない。誰を送るか考えていたら、彼が名乗りを上げた。
生産ラインできちんと動作してくれればいいだけの製品で、機種を限定した量産体制でコストをギリギリまで絞る必要があった。プロトタイプを京都の本社に持ち帰ったら、社長がごちゃごちゃいいだした。自称発明家の社長には不格好すぎてということだった。コストを優先したセカンドブランドということで押し通したが、そうこうしているうちに、買収金の支払いをケチりだした。さすが京都の商売と呆れるが、キャッシュ一括払いだったのを、期末ごとに利益から一定の割合で支払うことに勝ってに変えていた。怒ったのは元のオーナで従業員も彼も仕事にならない状態に陥った。筋の通らない本社の主張を受け入れられない彼は元オーナの側についた。従業員も元オーナに対する義理もあって、支社全体が本社に反旗を翻すようなことになっていった。
海外に駐在にでるとかならずといっていいほど遭遇することだが、本社の意向に沿えば現地従業員との溝が、支社と現地従業員のことを思うと本社との関係がおかしくなる。シンガポールで一人、どうにも立ち行かくなって失踪した。半年ほどメールを送っても、電話をかけても一切応答がなかった。出てきた時になんで電話も取らなかったんだと聞いたら、弁護士に半年ほど地下に潜んでいろと言われたと言い訳をしていた。
表にでてきたら、こともあろうに、同業他社のシンガポール支社の立ち上げを始めた。そりゃ潜ってるしかなかったろうとその時思った。それから二年も経ってなかったと思うが、その同業他社がドイツの会社に買収された。やっと人員も揃ってきてシンガポールでの生産も軌道に乗り始めたのに、ドイツの会社から拠点を香港に移せという有無を言わせぬ命令が下った。シンガポールでかき集めた社員を全員解雇して香港でゼロから始めるのかと思案した末に、帰任することもなくシンガポールで辞めてしまった。
八年ほど前に財閥系の光学メーカからシンガポール支社駐在ということで招かれた。またシンガポールで暗躍するんだろうなと思っていたら、プロパーに取られてインドに回された。そこから上海にわたって、やっと日本に帰って来た。インドに行ったのは知っていたが、上海までとは知らなかった。半年ほど前に帰任したと言っていた。
六年ぶりか、もしかしたら七年ぶりになるかもしれない。もともと若年寄風だったのが出先で大変だったのだろう、苦労が滲み出ていた。お互いなにか特別なことでもなければ、メールも送らない。便りのないのは良い便りという気もないが、散々話し尽くしてきただけに、なんの用でもないのにという気が先にたって、音信不通があたりまえのようになっていた。
二人して同じ会社に在籍したのはたかだか三年に過ぎないが、入れ違いも多く、入社時でみると、ある会社では先輩だったのが別の会社では後輩だったりした。画像処理業界に身を置いたときに出会ったのが二〇〇〇年だから、もう二十年以上の付き合いになる。歩いてきた道はそれぞれだが、偶然画像処理という山道を六年ほど一緒に歩いた。社会の見方も市場のなんたるかも、仕事に対する姿勢もなにもかもが余りに似通っている。毎週のように、ときには月曜から金曜まで毎日メシを食いに、そして呑みにでかけていた。仕事に関係することだけでなく、生き様もふくめて、いいこともよくないことも共有してきた。十歳も離れているのに年の違いを感じたこともない。いつでもどこでも、なんの遠慮もない丁々発止、傍で聴いていたら喧嘩に聞こえるかもしれない。近況報告もあれば、あそこがという裏情報のやりとりもいつものことで、時々の持っている情報や理解だけが、どっちが話をリードするかを決めていた。
京都の会社でふたりして干されて、どうでもいい報告書を書くだけの仕事にうんざりしていた時、どっちからともなく「オレたちいったいなんだろう」と自問のような話しになった。答えなんかありゃしない。二人して退屈でしょうがない。どうしたもんかと、またああだのこうだのと話をしていては、またオレたちという話にもどっていった。もうそうとでもいうしかないだろうとお互い納得したのが「傭兵稼業」だった。二人とも転職を重ねて、渡の職人のようになってしまっていた。
ちょっと呑みに行くかという話になったとき、用件の想像はついていた。転職にむけた情報収集以外になにがあるとも思えない。まさか離婚して第二の人生をとか、事業を始めようという話がでてくるとも思えない。
「なんのしようもなくて、毎日毎日屁にもつかないことばかりで退屈で退屈でつまらない。割増金もらって早期退職をって……」
そりゃそうだろう。巨大財閥のなかの古株の光学屋。こう言っちゃなんだが、とうに旬は過ぎていて、防衛関係以外になにがあるとも思えない。あと五年もすれば新聞紙上をにぎわすんじゃないかと心配している。
「まあ、あんなところで仕事なんて、決まったことを決まったようにしかないだろう。まあな、つまらないのはつまらないけど、詰まっちゃうもの困っちゃうしな。転職はいいけどコンサルなんてのだけは、よしたほうがいいぞ。オレたちみたいに製造業でメシくってきたヤツにゃ、何もわかりもしないのにゴタク並べて、はいいくらって商売はできないからな」
そんなことぁ、分かってるって顔をしながら、
「でもなー、親会社から出向で来てるヤツらも東大や早慶閥の乗ってるヤツらも、報告書ってんかな、ろくな中身もない書類を部署間で出し合って仕事してるってことなってるから、社外の客になんらかの恰好をつけた提案をしなきゃならないコンサルの方がまだまともだと思うんだけど、お前どう思う」
「まあ飯を食ってくためって割り切ろうとしても、お前、もくもくと書類書きなんかやってられるタマじゃねえだろうが」
情報や知識の出し惜しみなんてする関係じゃない。話は面白いし、いつまででも続く。昔と変わらないいつものことだが、昔とはちょっと違う。大飯食いの大酒呑みで、とてもじゃないがつきあいきれないと、なんど思ったことか。ある晩、ブラッセルでさんざんビールを飲んでいて、面倒くさいからテキーラにするかといいだした。ベルギー人と二人で飲み比べを始めた。五杯を過ぎたところで、ベルギー人がこいつとは付き合いきれないといいだした。その後も出てくるキーラをクイクイと十杯も飲んで、しらっとした顔で何を言い出すかと思えば、
「そろそろ切り上げるか。南は面白くないから、北に行こうぜ」
お前なー、そんなに浴びるほど飲んで、これから飾り窓はねぇだろう。行きたきゃ一人で行け、オレはもうホテルに帰って寝るから。
ブラッセルがいい例で、いつも割り勘負けしていた。それが今回は、はじめての五分五分だった。歳をとったのか、意味のある情報をとれなかったからか、どっちなのか気になる。
転職してトラブルでもなければ、連絡してくることもないだろう。つきつめて考えれば、どんなに親しい間柄でも困ってなけりゃ用はないという関係になってしまうのかもしれない。
親しい仲間と呑むのは楽しい。だがそこにはとんでもない問題がある。大事にしている社会観、生き様……、似たようなところでがっぷり四つはいいが、お互い共有していることのちょっと先までしか、話は広がらない。何度会ってもある領域内でああだのこうだので終わってしまう。何の接点もない、共通の関心事もない人たちの話をと思うが、おいそれと出会う機会もないし、たとえあったにしても、話がかみ合うとも思えない。塀か堀で囲まれた中でいくらもぞもぞやってたったところで何があるわけでもない。想像もしたことないことに出会える仕合せはなかなかない。なんとかしたいが、どうすればいいのか。古希も過ぎて無理の利く身体じゃなくなったが、好奇心だけはかわらない。
2022/10/29
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion12696:230105〕
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