忘れてはいけない、覚えているうちに(8)1950年代の映画日記が
- 2023年 1月 6日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子
古い日記帳に混じって、映画記録の手帳が出てきた。先に1953年の日記によって、観た映画を記録にとどめたが、54年以降は、映画メモとして日記帳の巻末に一覧にしている年や別の手帳に記録していたものが出てきた。それによって、とりあえず、二年分を、あらためて一覧にしてみた。
連れ合いからは「かなりシツコイね!」と言われそうだし、娘からは「どうしたの、急に?」と言われそうだが、おつきあいいただければ幸いである。
日付、劇場名、題名、監督、脚本、出演者に短評を付した年もある。この頃はまさに映画全盛の時代であったし、我が家では父、二人の兄の映画好きの影響は大きかったようだ。中学校では、映画は付き添いがなければといけないと言い渡されていたので、大学生の次兄や母と一緒のことが多かったと思うが、池袋という土地柄もあり、父・長兄・母は、店の仕事で忙しかったこともあって、一人で見に行くこともあったようだ。
一覧でもわかるように、ほとんどが二本立てで、製作年のないものは、新作の封切りであるとみてよい。中学3年の夏休み以降の記録がないのは、高校受験を控え、映画は見なかったのか、それとも、別のメモがあるのか不明である。中学校でも、高校でも、映画教室というイベントがあったことを思い出す。映画館に出かけることも、学校の講堂で見ることもあった。
池袋の映画館は全盛期にいくつくらいあったのだろう。一覧にある「山手」は、明治通りの今のジュンク堂の先の路地を入った、雑司ヶ谷にあった、松竹専門の映画館であった。旧作名画劇場の日勝地下は、いまの池袋駅北口からのガードをくぐった直ぐ左手に並ぶ映画館の一つであったし、人世坐は、日ノ出町に近い、三角寛経営の文士映画館として有名であった。セレサは、西口の一画、ロサのある映画館街にあった。1955年の正月には、洋画専門館の渋谷のエビス本庄まで出かけている。記録では、「二十四の瞳」も同時に見ているが、三本立てだったのか、別の映画館でみたのか、日記も見つからず、今となってはわからない。
<参考過去記事>
1960年代、池袋の映画館~こんなチラシが出てきました【2019年4月12日】
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/04/post-d296d0.html
初出:「内野光子のブログ」2023.1.5より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/01/post-13eecb.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion12701:230106〕
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