書評「フランス革命前夜のパリ-辛辣なドキュメンタリー」
- 2023年 1月 18日
- カルチャー
- 合澤 清
『18世紀パリ生活誌―タブロー・ド・パリ―』上・下 メルシエ著 原 宏編訳(岩波文庫1989)
パリは何度かにわたって改造されてきている。もちろんそれは、パリの都市としての拡張に合わせての理由が大部分であったろうと思う。しかし、1848年の二月革命以後の大改造(1850∼70年)はそれらとは性格が異なっているように思える。それは明らかに1830年の「七月革命」、1848年の「二月革命」をバリケードと武装蜂起によって戦ったパリ下層市民層の闘争力を恐れてのものだったと思われる。フローベールの小説『感情教育』は、この二月革命のバリケード戦の模様を、背後で暗躍するブルジョアジーの策動(市街地大改造にも触れられている)と関連付けられながらヴィヴィッドに描いている。
ここで紹介する本は、その大改造よりも60年以上も前の、「フランス大革命」(1789年)直前に書かれ、スイスで出版されたもので、その当時のパリの状況や庶民生活が細部にわたり克明に描かれている。「私は、本書において、もっぱら『画家』として筆を執っているのであって、『哲学者』としての施策はほとんど何も行っていない」と著者は序文で述べているが、彼の筆法は実に辛辣であり、パリの裏面史とか「パリ黒書」と名付けるべき真にジャーナリスティックな書物であるというのが私の印象である。これを読めば、同時代人バルザックの「人間喜劇」と銘打たれた一連の作品の舞台となったパリの情景が彷彿とさせられるであろう。
著者ルイ=セバスチャン・メルシエは1740年にパリに生まれ、フランス革命、その後のナポレオン時代、それから1814年3月の第一帝政崩壊を見届け、ナポレオンのエルバ島流刑の5日後、1814年4月25日に死去している。
彼はパリの刀研ぎ師の息子として生まれているので、サン・キュロット(パリの小市民=ブルジョア層)に属するといえる。実際に彼は、ルソーの『新エロイーズ』から強烈な影響を受け、生涯「平等主義」の夢を追いかけていたと言われている。
私=評者が、この本に興味を持ったのは、フランス革命におけるサン・キュロットの位置づけについて考えていたからである。つまり、手工業者、小店主、工場労働者などから成る都市の雑多な下層市民階層(ブルジョア)〔公の立場から見た個人=公人=シトワイアンと区別して、私人=ブルジョア]、1789年のフランス革命の実質的な主人公である都市の市民層、彼らがどうしてこのような革命運動に走ったのか、その動機を探るために、その日常生活や生活環境、などに興味を持ったわけである。
パリの地形と環境
「パリの空はふつう極めて変わりやすく、寒いというより、はるかに湿っぽいということだ。セーヌ川の水には少々下痢を引き起こす作用がある。それで、『セーヌ川は、天使の尻より出ず』などとことわざをもじって言われるのだ。神経も、このパリではたるみ、弛緩してしまう。大気の重苦しさのため活力も鈍り、血色がよい顔はまれだ」。
パリはかつてルテチア(古代ローマ人がパリにつけた名前)、つまり「泥の街」という名前であったといわれている。確か、16世紀に出たラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』にも「パリはその昔沼地であった」と紹介されていたと記憶している。地理的にはセーヌ川の三角州のシテ島を中心にして発展した町だという。
そのせいもあってか、この時代〈18世紀〉のパリは土埃がひどかったようだ。それは当時の道路事情にもよる。まだアスファルトで舗装された道路はなく、しかも主要な交通機関は馬や馬車である。馬車の轍が砂利を敷き詰めて固めた道路にくい込む。同じ轍の跡を何台もの馬車が走るため、その部分は大きくえぐれて、雨など降ろうものなら道路にはひどいぬかるみ(溝状に続くもの)が出きる。馬車を使う王侯貴族や金持ちにはそれほどの影響はないかもしれないが、庶民生活にとっては大変である。特に女性は、せっかくの余所行きも泥だらけになる。しかも道路には馬車除けの敷石が両側に置かれていて、道幅が狭められている。頻繁に往来する馬車を避けながら大きな荷物を抱えて通行するのも一苦労であったろうと思う。実際に、馬車にはねられ、その「鉄で補強された木製の轍」の下敷きになり、大怪我をする人、ひき殺される人も多数出たようである。
当時のパリの衛生状態
それにかてて加えて深刻なのは、衛生上の諸問題である。ハイヒールの由来については、しばしばそれが街路上の汚物をよけるために発明されたと言われるが、それは次のようだ。
「屋根裏部屋の住民は、体を動かさずに自分の汚物を捨てるのに樋を利用する。…美わしい太陽の光の中で君を水浸しにする。降り注いできた不潔な液体の正体が、その悪臭でわかる」というから、その不潔さ、吐き気を催す大気の臭いは、尋常一様ではなかったろうと思われる。
汚水の排水設備(パリには「テュルゴー下水道」と呼ばれる大下水道があった)はあるにはあるが、まだ十分には整備されておらず、しかも、住民たちの衛生観念も上記のようにでたらめであった。以下、尾籠な話で恐縮であるが。
「それ(下水道)に蓋をして…その上に家を建てることが許可され(たのはよいが)…(当然ながら)台所と便所からの排水を流しこむことは禁止された。しかしそういう禁令はたやすく無視できるので、そんな予防措置を講じても何もならなかった。これは明らかに悪臭の発生源を隠すことになった」。この下水道の排水は、セーヌ川につながっていて、すべてそこに流れ込む仕掛けになっている。
そこで、もっと恐ろしいことが起る。それは、次の事情が絡んでくるからである。
「汲み取り人はまた、糞便を市外に運んでいく面倒を省くために、明け方近くになると、それを下水や溝に流す。その恐るべき沈殿物は、道路沿いにセーヌ川のほうに向かってゆっくり流れ、やがてその岸辺を汚染するのだが、そこでは水売りが朝バケツに水をくみ、その水を知らぬが仏のパリっ子が飲む羽目になるのだ」。
ここまでくるとグロテスクの極みである、ヨーロッパでペストやチフスが周期的に大流行し、数千万人の人が死亡したということもうなずける。まことにあっぱれな衛生観念である。
序だから、もう少し汚い話を付け加えておく。
「街には公衆便所というものがない。…昔テュイルリーの庭園や応急は、一般人の入れる場所だった。イチイの生け垣の影には、大便をたれている男がずらりと並んで、そこで生理的要求を沈めていたものだ。…テュイルリー庭園の築山は、そこから発散する悪臭のために近寄れたものではなかった」。
「貴族は病気をしているときに、大門の前やその周辺に馬糞の混じった湿った寝藁をまかせるが、それは馬車の騒音の悩みを少なくするためである。この理不尽な特権のおかげで、少しでも雨が降れば、街路は恐るべき汚水溜めに一変するし、足の半分ぐらいがもぐってしまうドロドロで、真黒な、臭い馬糞交じりの藁の中を、12時間の間10万人の人間が歩く羽目に陥る」。「露地門の不都合な点は、すべての通行人がそこで用を足していくことで、…ほかの場所なら、そういう男は追い払われるのだが、ここでは公衆が、生理的必要を満たすために、戸口の支配者となっている。この習慣は極めて不潔で、女性にとっては極めて迷惑なものである」。
下層民の不衛生な食生活
おおよそ、この時代のパリの町の雰囲気というものがお分かりいただけるかと思う。「花の都パリ」どころではない。悪臭漂い、不潔で埃っぽい町、たちまち病気になってしまいそうな衛生状態、そのような汚濁にまみれた不浄な環境の真っただ中で身分格差は歴然として幅を利かせ、当然ながら住環境も食糧事情も、したがって死亡率にも天地の差の開きがあったのである。
この本には様々な事例があげられているが、ここでは、困窮者がやっとありつける残飯の質の違いなどから身分格差を見るのも一興であろう。
まずパリの裏町に住む最貧者の食事について見てみたい。バルザック(あるいは時代は多少異なるが、エミール・ゾラやドストエフスキーなど)の世界を思い起こせばよい。
「この通りの角の、あの狭苦しい屋台店で、欠けた皿の上に見えるのは何だろう?カビがもう生え始めているあの残飯はいったい何だろう?その残飯は、司教さんの口に触れた後、召使も食べ残した屑で、司教さんはちょっと考えてから、別の肉片のほうに手を出したのだが、料理見習の小僧にさえ見向きもされなかった代物なのだ。そういうものは料理見習の小僧が太っている分だけ痩せている貧乏人の胃袋に入っていくことになっている。料理見習の小僧が、そういう食べ残しをごちゃまぜに寄せ集めて残飯屋に売り、残飯屋はそれを戸外にならべる。やれやれ!いったい誰のごちそうになるのだろうか!」
この不気味な光景を、次の情景と比べてほしい、到底同じ「食べ残し」〈残飯〉とは思えないだろう。
「ヴェルサイユでは、残飯はそういうおぞましい姿をしていない。国王や王族方の食卓から出たものは手つかずである。それでブルジョワもそれを食べることを少しも恥じない。おまけに王侯の食卓に乗っていたものはつねに、健康によい、おいしいごちそうだという定評がある。それでヴェルサイユの町の四分の一は、王室の食卓に出された料理を食べている」
今日、われわれ庶民(特に年金生活で細々と暮らしているわが身)に照らし合わせるとき、さすがに現在では「腐りかけた、カビの生えかかった」食事を摂ることはまずないと思えるが、しかしそれは表面的なことかもしれない。というのは、原発の廃棄物に汚染された食材や米軍基地から垂れ流しされるフッ素の混じった有毒な汚染水にまみれた食品等々、これらは一見清潔そうに見え、腐敗臭もないし、カビも生えていない。「安心、安全」という政府のプロパガンダを信用して、これらに舌鼓を打つ。その結果は、「731部隊」の生体実験に自ら進んで協力するという哀れな羽目になりかねないのである。
時代は移り、情景も変わってはいるが、行われていることの中身は少しも変わっていないのではないか。
ドキュメンタリーな報告書
閑話休題。この本は全部で六つの章からなる。いずれの章も非常に興味深い話題からなっている。「噂の真相」「話の泉」「…の真実」といった類の暴露記事、裏話に満ちているのだが、著者メルシエの書きぶりはもう少し高尚である。その辺はさすがに、ジャン・ジャック・ルソーを敬愛し、その思想を終生自分の理想とした人物だけあると思える。
実際にも彼は晩年のルソーと会っている。その触りをほんの少しご紹介する。
「私はプラトリエール通りに、彼を訪ねたことがある。そして『エミール』の著者を前にして、この著名な作家が脳の病に侵されているのを見たとき、どんなに深い苦悩に浸されたことか!」「(彼は)自分の周囲に巧妙な敵の同盟がはりめぐらされていると思い込んでいた」。
晩年のルソーは、その『告白録』(ルソーの死後に出版されている)の中で赤裸々に語っていることから推測するに、かなり強度の強迫観念、被害者意識にさいなまされていたようだ。そのため、次々に友人〈ディドロやグリムなど〉を失い、孤独のうちに死んでいる。
ただ、評者=私がこの本を読み始めた動機が、最初に述べたように、「フランス大革命」時におけるパリの都市市民層〈サン・キュロット〉の実態を調べたいという点にあったため、この六章編成の中でも、ルソーについて書かれた個所などは読み飛ばしただけで素通りした、私が興味をそそられたのは、〈Ⅱ〉さまざまな階層の人々、と〈Ⅲ〉家庭・宗教・祝日、及び〈Ⅳ〉食の世界、という章であった。以下ではあまり冗漫にならない程度に、これら三章の概略を述べながら本稿を締めくくりたいと思っている。
腐敗堕落する上層支配階級と利権漁りのブルジョア、無秩序な社会
「〈Ⅱ〉さまざまな階層の人々」について検討してみたい。
この章の中の「ふたつの貴族身分」という小節では、フランス革命の一要因といわれる貴族の腐敗堕落について述べられている。上層貴族が10万フランで貴族の称号を売っている一方で、地方貴族は「ほとんどが自分の領地の土地の名前しか名乗らなくなり、自分の姓を忘れてしまう」という有様であり、しかもこの二種類の貴族の中間にある「王家の陪食者たち」(税関吏その他の「王室徴税事務所吏員」)が、寄生虫のように王家の財産および国家財政を蚕食しまくっている。この財政破綻のツケが庶民に増税としてのしかかってくるのである。
徴税請負人の富者ぶりは、次のように紹介されている。
「徴税請負人何某の家には、皿洗いの小僧や料理手伝いや、奥様付きの6人の小間使いは別にしても、24人のお仕着せをまとった召使がいる。・・・おまけに30頭の馬が馬小屋で足を踏み鳴らしている。そんなことを考えあわせると、豪勢なお屋敷に住む旦那様と奥方様が、横柄を威厳と取り違えて、50万リーブルの年金を持たぬ人々をすべて『下郎』呼ばわりするのも当然ではないか?」
かくして宮廷の権威は全く地に落ちることになる。それでは庶民はどうであろうか。
大ブルジョアは、宮廷に取り入って税関吏その他の「王室徴税事務所吏員」や貴族の地位をも買い漁る。小ブルは、その息子に将来を託して厳しい教育を受けさせるが、その挙句は、軍隊に入り、「18か月後には脱走し、それっきり消息を絶ってしまう」。今や軍隊はそれほど魅力に乏しいのだ。
「小ブルジョワの娘は、他の娘ほど母親の目が厳しくない。ケープを着て外出する口実にはいつも事欠かない。妊娠でもしない限り貞操堅固だといわれる。しかし妊娠してしまうと、親の家を出て、六か月後には街の女になっている」。
「悪人になった者はみな、おそらく最初はまず惨めな子供であったのかもしれない。この階級特有の貧しさのために、両親は自分の子供たちに何一つしてやれない。従って子供たちは、細民階級の場合よりもひどい不良になるが、それは日々のパンを与えてくれる頼りになる技術をもたないからである」。
「ブルジョワの一番下の層の娘は、『かけはぎ』でそれと分る。「かけはぎ」というのは、布の繕い方のことで、穴を蜘蛛の巣に似た網状のものでふさぐのである。憐れな娘たちは、そんなふうに『かけはぎ』だらけの肩掛けをしているのだ」。
こうしてみると、現在に至るまで貧民層の困窮、人間性の全面否定に起因する堕落などはこの時代から全く変わっていないのではないかと疑いたくなる。最近の幼児虐待、養育放棄による死亡事件などの大半で、経済的な要因が大きいといわれる。今の時代の貧窮、前世代の窮乏、もっとさかのぼりエンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』の中で描いている底辺労働者の悲惨、これらは永続的に変わらず繰り返されているのではないかと思える。
自然性的な抵抗の芽
次にこの腐敗堕落した体制(アンシャン・レジーム)への反抗の「炎」と思える個所を紹介する。1788年(大革命の前年)に書かれたという「不服従」は、非常に興味深い。
「数年前から民衆の間で、とりわけ手工業において、とりわけ不服従が顕著になっている。徒弟や見習い職人が自立心を示そうとする。親方に対する尊敬の念を欠き、組合をつくる。古来の規則に対するこういう侮蔑は、秩序に反するものだ」。
「この二流の民は、ブルジョワジーを過度に辱め、次から次へとブルジョワジーの特権をはく奪し、また首都の活力源であるこのブルジョワ階級の市民を過度に軽蔑する一方で、一切を侵害し、あらゆる業種にわたっていい加減な仕事をしている。そのくせ彼らが高給を要求してくることにはやはり変わりがない。労働者は、日に日にますます質が低下してゆき、すべての作業はあたふたと、しかもぞんざいに行われる。見習い職人が働かない日が数日あり、いくつかの同業組合は、本当に手に負えない徒弟たちを抱え込んでいる。…今日、仮装の民衆は従属状態から抜け出している」。
これらを、自然発生的な「サボタージュ」「ストライキ」「工場選挙」の動きと取れないこともない。だがもちろん、労働者の組織だった運動とはまだはるかに縁遠いのであり、「月曜日」という小見出しの中で書かれているように、彼らの日常生活は、一週間分の賃金を居酒屋で一晩で使い果たす。幼子の食事代にも事欠き、女房の衣類や子供の襁褓までも質草にしてしまうという荒んだ生活だったようだ。初期の労働者、庶民の過激な行動も、アナキスティックな一揆以上のものではありえなかっただろうことがわかる。
パリ下層社会の実況
「〈Ⅲ〉家庭・宗教・祝日」と「〈Ⅳ〉食の世界」の章では再び、汚らしくみじめなパリの庶民生活の風景が事細かに描き出される。しかし、ここでの大きな特色は、筆者メルシエが実際に現場に足を踏み入れ、ライブ放送さながらのドキュメンタリーをものしている点にある。
まず、女性の身分的、経済的地位の低さが目に付く。マトロ-ヌ(中年女)と呼ばれる女衒がいて、絶えず刑事に見張られている。また、食っていくための一手段でもあろうか、妾に零落する女性が異常に多い。「司教、神父、聖職者、修道僧、領主、司法官、商人、職人等々が妾を囲い、妾の数は都会の女の三分の一に及んでいる」。
この経済的な貧困の結果、捨て子が非常に多い。
「パリでは生活の苦しさがますます実感されるようになった。いくら最低限見苦しくない生活をするのに必要なだけを手に入れたいと願おうとも、首尾よく望みを達することは、もう以前と同じようにうまくいかなくなった。赤ん坊を産んだ女性自身がひどく貧しくて、ベッドから見えるものといえば、むき出しの壁だけというような場合、子供たちを養っていくことなどどうして考えられようか?」「8千人の赤ん坊が毎年この施設(捨て児養育院)に置き去りにされる。いつ何時でも、その児がどこから来たのかも調べもせずに、収容される。そして翌日に、その児は金で雇われた乳母たちによって田舎に連れ去られるが、乳母は一度に二人も引き受ける。最初の二年間でそのうちのほとんど半分近くが死ぬ」。
衣・食・住というが、もちろん生きてゆくために最も基本的なのは「食」である。パリの庶民の食生活を支える定期市(マルシエ)は、どうだったのか❓
筆者によれば、「パリの定期市は不潔で、胸もむかつくようだ。まさに無秩序の極致」だという。同時代の美食家、ブリア・サヴァランが『美味礼讃』で紹介している豪勢な食卓とのあまりの差異に驚かされる。もちろん、サヴァランの「食は文化」という主張には全く賛同するのであるが。
簡略な紹介を、と思いながらつい長話になってしまった。話の締めとして、カフェと場末の安い居酒屋での庶民生活を概観する。
居酒屋では、パリの市街地内では入市税が余分にかけられていたため、市内から一歩外に出た場所に店を構えて、安いワインを提供して大人気を博した人がいたという。その名を「ランポノー」という酒場で、経営者のジャン・ポノーの名前にちなんでいる。
「『居酒屋』…それはどん底暮らしの民衆の集会所だ」と言われているが、このことは昔も今も変わらないように思う。そして場末の安酒場ほど、ガラの悪さ、物騒さが度を増してくるのも同じである。この本がドキュメンタリーといわれるのは、このようななんとも物凄い場所に、メルシエが体を張って実地調査をやってのけている点にある。
いかがわしさも桁違いだったようで、読者にはくれぐれも用心して、行かないように注告している。食べ物も飲み物(当然混ぜ物のワイン)も、そして客層もなかなかのものであるが、ここでは大方は省く(興味ある方はぜひ直接この本にあたっていただきたい)。
「場末の暗い、煙の立ち込めた居酒屋の中に案内しよう。そこでは自分の体と同じように石膏の染みついた、パンの塊を抱えてやって来た石工が、そのパンを「共用の鍋」の中に浸そうとしている。いわゆる『パンをスープに浸す』というやつだ。こうして浸すだけで彼らは3ソルもとられる。なんという鍋だろう!なんというスープだろう!
次にあるお屋敷の戸口の前を通ってみたまえ。食欲をそそり立てるような、うまそうな香りが遠くから匂ってくる。…30ものスープ鍋が火にかかっている。白衣を着た料理人たちが、それを優雅に動かしている。一つ一つのソースが10回も味見される。あらゆる種類の料理が、まもなくテーブルいっぱいに並ぼうとしている。そのテーブルには、5,6人の享楽主義者が座ることになっているが、その連中はさも馬鹿にしたような食べ方で、20もの料理に手を付ける。それでいて彼らは、高物価のために生活必需品にも事欠く人々がいるのではないかとか、その高物価も一切を独占する金持ちがすべての食料品の値段を釣り上げてきたせいだとかいうようなことは、夢にも考えないのだ」
この後者の好例が、ブリア・サヴァランの食卓であろう。
最後にカフェについて触れる。今でもパリの市内、特に学生街として名高いカルチェ・ラタン辺りにはカフェが多いようだが、当時のパリについて次のように述べている。
「カフェは6-700軒を数える。暇人の普段の避難所であり、また文無しどもの隠れ家でもある」「批評家が作品をほめたりけなしたりする策動も、カフェで練られるし、党派の頭目たちも陣取っていて、とにかく雷鳴をとどろかせずにはいない」。
どうもかつての学生運動の巣窟だったころを思い出す。
面白いのは、カフェのボーイが非常に清潔で、髪をカールさせて、おしゃれなことだ。今では秋葉原の「メイド・カフェ」といったところであろうか❓
パリとカフェ文化とは、なんとなく良く似合っている。そういえば、20年近く前、一度だけパリを訪れた際に、案内をしてくれた友人が、サン・ジェルマン通だったかの、大通りに面したカフェを指さして、「ここは昔、ジャン・ポール・サルトルたちがよくたむろしていた場所だといわれている。でも高いから、われわれは裏手のカフェに行こう」と言っていたことを思い出す。
今や、カフェにも居酒屋にも様々な格差が忍び込んできたようだ。しかし、少なくともこのころはまだ、こういう場所は下層庶民が大勢集い、憩い、激しい思いをぶつけあう集会所の役割を担っていたことは確かであろう。プーシキンが詠ったように、そこでの「火花」がやがて「燎原の火」へと拡大した一因になったということは十分想像しうる。
2023.1.⒗記
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