青山森人の東チモールだより…東チモールを侵略した日本は戦後補償をせよ
- 2023年 2月 23日
- 評論・紹介・意見
- 東チモール青山森人
歴史を直視しない日本
今年もまた「2月20日」がやって来ました。「2月20日」は、日本軍が東チモールの侵略を開始した日として東チモールの歴史に刻印されています。
日本時間1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃したのち、12月17日、連合軍(オーストラリア軍とオランダ軍)が中立国ポルトガルの植民地・東チモールに進駐しました。これが日本の東チモール侵略に口実を与えることになります。1942年1月末から2月初めにかけて日本の上層部では、東チモール侵攻にかんして連合軍を駆除する目的を達成したなら撤退すべきという東条首相の主張と、対オーストラリア作戦基地として継続して東チモールを抑えるべきという海軍の主張がぶつかりあいながら、結局、2月7日、日本軍は東チモール(当時は「ポルトガル領チモール」と一般的に呼ばれた)への侵攻作戦を南方軍に発令し、南方軍第16軍東方支隊は1942年2月18日、東チモールへの侵攻作戦を開始しました(*)。
(*)以上、『戦時期「ティモール問題」の外交的考察』(社会科学討究第100号、1989年、後藤乾一 著)、『眞珠灣・リスボン・東京』(岩波新書、1950年、森島守人著)などを参考資料にした。詳しくは、「東チモールだより」の資料編4(2015年2月25日)「東チモールを侵略した日本」を参照。
東チモールへ上陸する前日の2月19日、チモール海に浮かぶ四隻の日本軍の空母から飛びたった戦闘機がダーウィンを空爆しました。「午前9時58分に一発目の爆弾が落とされ、空襲が 20分続き、その2時間後にまたダーウィンは攻撃された。二度の空爆で少なくとも292名が亡くなった」(ダーウィンの繁華街に設置されている「ダーウィン爆撃」碑より)。
そして日本軍が東チモールのディリ(デリ、Dili)に上陸したのは81年前の1942年2月20日でした。当時18歳だったパウロさんという人の体験談を2000年、ジョゼ=ベロ(現在、公共放送RTTL〔ラジオTV東チモール局〕の経営責任者)は次のように記録しました。「日本兵がディリに近づいている日、メリルとう名前の市民警察官が、日本軍がアタウロ島にまで来ているので戦争がもうすぐ始まるから逃げるようにと町の人びとに伝えまわりました。わたしたちは家をあとにして逃げました。ディリの町中の人びともそうしました。(…略…)わたしたちはヘラに逃げ、そこで2~3ヶ月過ごしました。日本軍はディリに入り、攻撃し始めました。日本軍はディリに夜中に入りはじめ、翌朝10時まで撃ち合いがあり、日本兵はディリに入りました。日本軍の大勢の兵士が死にました。なぜならオランダ軍とオーストラリア軍がファロル(ディリ市内の町名)にたくさん待ち伏せしていたからです」。
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悠久の灯台。2022年11月30日、ⒸAoyama Morito.
「ファロル」(farol)とはポルトガル語で「灯台」の意味。ファロル地区は海側にこの灯台が立っている住宅地区である。ファロル地区で連合軍の待ち伏せをくらって戦死した日本兵はこの灯台を見ながら上陸したのであろうか。
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日本はアメリカによって広島・長崎に原爆を投下され、1945年8月15日、敗戦の日を迎え、それから遅れること一か月余り、東チモールの日本軍が正式に降伏したのは9月26日でした。
日本軍は1942年2月からおよそ3年半もの間、東チモールを占領したのにもかかわらず、敗戦から今年で78年目になるというのに日本政府はいまも東チモール侵略にたいする戦後補償・戦争責任を放置しつづけています。東チモール人にたいしてだけではなく日本政府は、例えば上記の連合軍に待ち伏せにあって死んでいった大勢の自国民兵士の霊を慰めるための慰霊祭もしなければ慰霊碑建立もありません。歴史から顔を背ける日本政府は、他国と真の外交関係も築けるわけもなく、自国を「新たな戦前」へと導くのは当然の成り行きというわけです。
日本は自分のしたことを認めよ
今年2月20日、東チモールの市民団体は首都の「レシデレ公園」の一角にある砲台跡で、従軍慰安婦となった犠牲者たちの写真を掲示しながら、日本政府にたいしてこの人たちが生きている間に、公式な謝罪と賠償・補償をするよう求め、東チモール政府にたいしては日本政府とこの件を話し合う外交をするように求める街宣活動とデモ行進をしました。この街宣活動でマイクを握った人権団体のシスト=ドス=サントス代表は上記の要求を叫ぶように訴えていました。RTTL局のTVニュースを見ると、この街宣活動に集まったのは決して多数といえる人数ではありません。しかし学生たち・若い人たちが目立ちました。
この翌日2月21日、日本大使館は日本の消防車3台を東チモール政府の市民擁護庁へ贈呈し、その贈呈式のカラー写真が『東チモールの声』(2023年2月22日)の第一面を飾りました。日本の木村大使とジョアキン=グズマン長官の二人が笑顔を見せています。消防車を贈ることは悪いことではありませんが、まず真っ先にしなければならない過去への反省をしない日本政府の姿勢を思えば虚しい限りです。戦後補償をしなくても戦争責任をとらなくても物・金を贈っていればいつか忘れてくれると日本政府が思っているとしたら大きな間違いです。〝やった方〟は忘れても、〝やられた方〟は絶対に忘れませんから。歴史を直視しなければ真の友好関係はあり得ません。物や金を贈呈して相手が喜んでいるからイイ関係にあるなどとゆめゆめ思ってはいけません。
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『東チモールの声』(2023年2月22日)より。
「世界大戦の犠牲者に目を向けるように」(見出し)
「ディリ:従軍慰安婦の犠牲者家族の代表としてエルメラ地方から来たアリアンサ=ソアレスは、1942~1945年、日本軍がしたことによる第二次世界大戦の犠牲者たちに目を向けるよう(東チモール)政府に求めた。
「『きょうこの日わたしたちは、第二次世界大戦で日本軍の犠牲になったわたしたちの祖母たちに目を向けるように東チモール政府に提案・勧告をします』とアリアンサは、日本が東チモールを1942~1945年のあいだ東チモールを占領した日本が侵略を開始した日にあたるこの日、記者たちに向かって述べた。
アリアンサは続けて日本政府に日本軍が第二次世界大戦中に女性・女子にしたことを認めるように求めた。『わたしたちは日本政府に要求したいと思います、日本軍が第二次世界大戦中にわたしたちの祖母たちにしたことを認めるようにと。わたしはまたこの国の指導者たち、とくに女性の指導者は、この祖母たちたちにたいして同じ女性としてどう感じるのか聞いてみたい』と語る。
同じ集会で人権団体協会のシスト=ドス=サントスは日本政府に東チモールの性的奴隷となった犠牲者に、この人たちが生きている間に、公式の謝罪と賠償・補償をするように求めた。
『わたしは外務協力省に、第二次世界大戦中の東チモールと他の国ぐににおける従軍慰安婦の件について日本と話す外交をするように求めたい』とシストはいう。
これに関連して人権団体の代表はまた、教育・青少年・スポーツ省には第二次世界大戦の歴史を学校の課目に入れること考えてほしいと求める」。
この記事の右隣に消防車3台を贈呈する日本の大使とそれを受け取る東チモール市民擁護庁長官の大きな写真が載っている。
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『東チモールの声』(2023年2月22日)では先に述べたように、第一面で日本大使館が日本の消防車3台を東チモール政府へ贈呈するカラー写真を載せています。上記の従軍慰安婦へ補償を求める集会の記事は第二面に載っていますが、消防車3台の贈呈式の白黒写真をわざわざ従軍慰安婦の記事の隣に大きく掲載しているのです。おそらくこれは『東チモールの声』側の意図的な編集ではないかという気がします。この際立った対比はいったい何を意味するのでしょうか。戦後補償を求める声に耳を貸さない日本が物を嬉々として贈呈している虚しい外交姿勢をあぶりだしているようにわたしには思えてなりません。
青山森人の東チモールだより 第482号(2023年2月22日)より
e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion12842:230223〕
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