橋川文三の文学精神
- 2023年 3月 2日
- カルチャー
- 川端秀夫橋川文三
< 内 容 目 次 >
1 文学精神とは何か
2 橋川文三の方法
3 転機としての昭和31年
4 三島由紀夫『鏡子の家』
5 三島由紀夫『英霊の声』
6 三島・橋川論争の起源
7 半存在としての橋川文三
8 猪瀬直樹の『鏡子の家』評価
9 宮嶋繁明と後藤総一郎
10 橋川文三と日本浪曼派
11 絶対者の自覚
12 北一輝の性愛原理主義
13 橋川文三とマルクス
14 橋川文三追悼文集
15 橋川文三先生が呼ぶ
橋川文三の文学精神
一 文学精神とは何か
この評論は、昭和期を「独学者」として生きた橋川文三(一九二二~一九八三)の、時代に対峙する「文学精神」に注目し、その解明の糸口を見い出さんと試みるものである。「文学精神」という言葉の意味については、ここでは岡山麻子が『竹内好の文学精神』で定義したそのままを踏まえて使うこととする。
「本書(=『竹内好の文学精神』、引用者注)は、竹内が生涯に取り組んだテーマの多様さにも拘らず、その基底には、時代を規定する根源的な価値を転倒させるという、時代との関わり方をめぐる発想が、思想的核心として貫徹していると考える立場に立っている。そして、竹内の思想的核心である時代との関わり方を『文学精神』 と呼び、その形成から成立・展開に至る過程を解明することを課題とし、そのために竹内の文章の論理を内在的に読み解く方法を取ろうとするものである。」
この書の「はじめに」で文学精神をこのように定義した岡山麻子は、「あとがき」ではさらに文学精神の概念の定義を拡張して、次のように述べている。
「竹内が生涯の様々の場面で求めた『文学』――北京で求めた文学者としての矜持、戦時下の主著で求めた文学者魯迅の像、戦後提起した国民文学――はいずれも、詩や小説といった『作品』のかたちで実現すると限るものではない。それは作品のかたちをとるか否かを問わず、最も根源的な価値の次元から言葉を積み直すことによって、自らの目に映る世界を表現しようとする精神態度の問題なのである。従って、それは、教義の文学の枠組を超えている。つまり、文学を作品という実体において考えるのではなく、根源的な価値に触れようとする精神態度として捉え直すことが必要となる。」
文学の意義をこのような観点において捉え直すとき、橋川文三が竹内好から継承し発展させたものが、岡山麻子が云うところの「文学精神」であったことを明白な事実として証明しようとするのが、この小論の目指す着地点である。
二 橋川文三の方法
松本健一氏と猪瀬直樹氏の両者が、猪瀬氏の著書『ペルソナ 三島由紀夫伝』の発刊を機会に対談を行った。その際に、「橋川文三の方法」を巡って両者は激突している。激論のエッセンスと思われる部分を引用する。
【対談】三島由紀夫と官僚システム 松本健一●猪瀬直樹
松本 僕は橋川は非常に直観的な人だと思います。この辺りに何か暗い影がかかっているな、と。そういったキーポイントを捉えるのがうまい。
猪瀬 大学院で、僕が修士論文を提出した時、橋川はまず文章がいいかどうかを見るんです。文章がいいとなると次には引用の一字一句を全部チェックする。事前の指導はしません。そういうことはしない人だから。で、内容に問題はないとなると、次には引用の漢字がひとつでも間違えていると指摘する。校閲みたいにね。極端に言えば正しい引用だけあればいいんだみたいな言い方もしていました。つまり、重要なのは事実であると。引用というのもひとつの事実なんですね。彼の手法はノンフィクションのものだと思うんです。ファクトがあればいい。正確な引用を求めているんです。
松本 橋川の方法はあなたのやりかたとは逆のものとしか思えなかった。あなたはノンフィクションだと言うけれど、その方法はあなたの方法であって、彼のではない。橋川の「三島由紀夫伝」は、あなたにとって反面教師ではなかったんですか。
猪瀬 いや、いちばん参考になったんですよ。竹内好さんの文章について橋川さんは、彼の文章は引用だけなんだけれど、引用だけ上手にできればいんだと言った。そんなもんかな、なんてその時は思ったけど。
松本 あとは文章がよければいい?
猪瀬 引用をつなげる文章がきちんとしていればいい、というわけです。もっともどこを引用するか、じつはそれが一番むずかしいんです。引用する場所でその人の理解度と主張がはっきりするわけですからね。
松本 彼は編集者としての名残なのか、そうではなくて資質的なものなのか、非常にファクトを大事にする。事実の手触りをあんまり下手にいじらないでいようとするんですね。そのような意味では資質的なものなんでしょうか。
猪瀬 ファクトについての緻密さというのは、じつは引用の緻密さに通じる。それが彼の方法論だと思いますね。彼の場合には、一つひとつのファクトの積み重ねが緻密で、絶対矛盾がない、そういう完璧さというものがあるんです。
(【対談】三島由紀夫と官僚システム 『三島由紀夫と戦後』中央公論特別編集 2010年10月20日刊)
橋川文三の方法について猪瀬直樹は完璧に解明している。しかし松本健一が橋川は直観の人だったと言う時、その言葉も橋川文三のある本質を伝えているのであって、そこに矛盾はない。鶴見俊輔は橋川文三の特色をこのように分析している。
――著者としての橋川文三には、文献を手がたくつみかさねる実証の方法と、それからかけはなれて、自分の心情の指さすところをいつわらずつたえる流儀とが、たがいに混同されることなく、二つながらあった。かけはなれた二つの流儀を混同しないでともに使いこなすところに、橋川文三の特色があり、それは文章だけでなく、考え方の特色でもあった。
――橋川さんは直感として語り、資料は資料として示し、この二つをとりちがえることをしなかった点で、保田與重郎とちがい、この点では、竹内好と似ている。(鶴見俊輔「橋川文三の思い出」『思想の科学』1984年2月号)
橋川文三は竹内好の方法を微塵も損なうことなく継承したのである。
三 転機としての昭和31年
猪瀬直樹は吉本隆明との対話で三島由紀夫について次のように述べている。
吉本 六十年以後の三島さんの言動は、僕には、戦前の爛熟した上流社会を復活させようとするモダニズムに見えました。
猪瀬 一面では当たっています。三島さんの世界が崩壊するのは、昭和三十一年の経済白書で「もはや戦後ではない」と書かれたときですね。あの経済白書は、今読んでみると、三島由紀夫と共通する美文なのです。このとき「戦後が終わった」のではなく、気づいてみると、むしろ戦前が終わっていたんです。それからです、三島由紀夫の伝統回帰への執念が芽生えるのは。
吉本 なるほど。とても、よくわかります。猪瀬さんが橋川文三(1922年ー1983年)さんの仕事を引き継いでいることが、その分析で納得できました。
(吉本隆明との対話「三島由紀夫と戦後50年」 猪瀬直樹著作集 第二巻『ペルソナ 三島由紀夫伝』所収)
吉本隆明こそは橋川文三の最大の理解者であった。橋川文三が死去したとき弔辞を読んだのは吉本隆明であった。弔辞の中で吉本は橋川の果たした仕事を次のように評価している。「わたしはいまもじぶんを、おおきな否定とのり超えの途上に歩むものとかんがえています。こういうわたしの眼からは、橋川さんは、すでに歴史の方法をわがものとした完成の人と映り、羨ましさに堪えません」。
『金閣寺』は「新潮」に昭和31年1月号~10月号に連載された三島のおそらく最高傑作であるが、その翌年昭和32年に橋川が一高の同級生によって刊行された同人誌「同時代」に協力して『日本浪曼派批判序説』(以後『批判序説』と略記、著者注)の連載を始めている。期せずしてこの両者は各々の最高傑作を相前後して発表した。
なぜ昭和31年なのか。この年「戦後は終わった」からなのである。しかし猪瀬は昭和31年を「戦前が終わった」と読み替える。猪瀬直樹が橋川文三の仕事を引き継いでいるという吉本隆明の指摘はある核心を突いている。
四 三島由紀夫『鏡子の家』
――三島の資質は、小説より戯曲に向いていた。『鏡子の家』が批評家たちに酷評されたのは、戯曲の資質が前面に出すぎたためだった。(猪瀬直樹著作集二巻『ペルソナ 三島由紀夫伝』289頁)
批評家たちが「酷評」した『鏡子の家』を橋川文三が、そして橋川文三だけが、ある独自の観点から「評価」した。この「評価」に三島由紀夫は心打たれた。そしてその後の長く続く三島と橋川の文学精神の交流が始まった。ここに戦後の思想史に例をみない真の独創的な「対話的関係」が開始されたのである。
「三島の資質は、小説より戯曲に向いていた」という評価に関して、私は猪瀬の意見に完全に同意する。三島の戯曲の代表作としてふつう挙げられるのは『わが友ヒトラー』と『サド公爵夫人』であるが、『わが友ヒトラー』に関しては三島自身の朗読が残されている(三島由紀夫全集決定版・第41巻)。『サド公爵夫人』については新妻聖子がサド公爵夫人を演じた極上の公演がネット上で公開されており視聴可能である(2013年10月現在)。
『豊饒の海』で三島の才能は出し尽くされたのではない。三島の自死によって失われたものをひとつだけ挙げよといわれたなら、それは三島の戯曲的才能であったと私は答えるだろう。
橋川文三が『鏡子の家』を論じた「若い世代と戦後精神」は、『東京新聞』昭和三十四年十一月十一日~十三日付夕刊に連載されたものである。この三回の連載において橋川文三は、まず最初に三島由紀夫を論じ、大いに評価した後で、続く二回の連載の結論として石原慎太郎と大江健三郎の両者を否定的に語っている。この対比は鮮やかである。「若い世代と戦後精神」の結語を見てみよう。この結語は予言的であり、いまでもその有効性を失っていないほどである。
――大江や石原が時代の「壁」の背後にある歴史への感覚をもちえない限り、かれらはただ「時代の子」として、ある好ましい評判をかちえてゆくであろう。つまり、時代を動かすのではなく、押し流されてゆくであろう。なぜなら、かれらは、絶望的なまでに「われらの時代」にとらわれ、惑溺しているからである。
橋川文三は「若い世代と戦後精神」で大江や石原をこのように酷評したのだが、批評家たちが口を揃えて一斉に酷評した三島由紀夫の『鏡子の家』は、これを諸手を挙げて絶賛したのである。なぜどのような意味において、『鏡子の家』は傑作でありうるのか。そこには橋川文三の歴史への感覚が十全に示されていた。橋川の『鏡子の家』評価を少し長くなるが大事な部分なので全文を引いておく。
――ここに描かれている四人の青年たちと鏡子とは、ある秘められた存在の秩序に属する倒錯的な疎外者の結社を構成している。かれらのいつき祭るもの、それはあの「廃墟」のイメージである。三島がどこかで「凶暴な抒情的一時期」とよんだあの季節のことである。「この世界が瓦礫と断片から成立っていると信じられたあの無限に快活な、無限に自由な少年期」――それがこの仲間たちを結びつける共通の秘蹟であった。
じっさいあの「廃墟」の季節は、われわれ日本人にとって初めて与えられた稀有の時間であった。ぼくらがいかなる歴史像をいだくにせよ、その中にあの一時期を上手にはめこむことは思いもよらないような、不思議に超歴史的で、永遠的な要素がそこにはあった。そこだけがあらゆる歴史の意味を喪っており、いつでも、随時に現在の中へよびおこすことができるようなほとんど呪術的な意味をさえおびた一時期であった。ぼくらは、その時期をよびおこすことによって、たとえば現在の堂々たる高層建築や高級車を、みるみるうちに一片の瓦礫に変えてしまうこともできるように思ったのである。それはあのあいまいな歴史過程の一区分ではなかった。それはほとんど一種の神話過程ともいいうる一時期であった。そのせいか、ぼくには戦前のことよりも、戦後数年の記憶のほうが、はるかに遠い時代のことのように錯覚されるのだが、これはぼくだけのことであろうか?
ともあれ、そのようにあの戦後を感じとった人間の眼には、いわゆる「戦後の終焉」と、それにともなう正常な社会過程の復帰とは、かえって、ある不可解で異様なものに見えたということは十分に理由のあることである。三島がどこかの座談会で語っていたように、戦争も、その「廃墟」も消失し、不在化したこの平和の時期には、どこか「異常」でうろんなところがあるという感覚は、ぼくには痛切な共感をさそうのである。いつ、いかなる理由があってそれはそうなったのかーーこういう疑惑はずっとぼくらの心の片すみにひそんでいるのではないだろうか。
三島はさきの引用文のあとの方で、「それに比べると、一九五五年という時代、一九五四年という時代、こういう時代と一緒に寝るまでにいたらない」と記している。つまり、そこでは「神話」と「秘蹟」の時代はおわり、時代へのメタヒストリックな共感は絶たれ、あいまいで心を許せない日常性というあの反動過程が始まるのであり、三島のように「廃墟」のイメージを礼拝したものたちは「異端」として「孤立と禁欲」の境涯においやられるのである。「鏡子の家」の繁栄と没落の過程は、まさに戦後の終えん過程にかさなっており、その終えんのための鎮魂歌のような意味を、この作品は含んでいる。
以上が橋川文三の『鏡子の家』評価の全文である。これにすぐ続けて、橋川にとって三島はいかなる存在であったのか、また今後ありうるのかをここで簡潔に述べているのだが、これまたその後の三島と橋川の思想的交流の全過程を予言する貴重な証言となっていて興味深い。
――元来、ぼくは、三島の作品の中に、文学を読むという関心はあまりなかった。この日本ロマン派の直系だか傍系だかの作家の作品のなかに、ぼくはあの血なまぐさい「戦争」のイメージと、その変質過程に生じるさまざまな精神的発光現象のごときものを感じとり、それを戦中=戦後精神史のドキュメントとして記録することに関心をいだいてきた。
そして橋川はこの文章を「『鏡子の家』は、その意味で、ぼくにとってたいへん便利な索引つきのライブラリーのようなものである」と結んでいる。
五 三島由紀夫 『英霊の声』
批評家たちが「酷評」した『鏡子の家』を橋川文三だけが「評価」した。この「評価」に三島由紀夫は心打たれた。そしてその後の長く続く三島と橋川の思想的交感が始まった。戦後の思想史に例をみない真の独創的な「対話的関係」が開始された。
しかしその対話はもしかしたら悲劇的なすれ違い乃至は勘違いを、少なくとも三島の側では含んでいたのかもしれない。このすれ違い乃至は勘違いが、三島の死をもたらした一因であろうといまの私は考えている。たとえば橋川のこういう発言がある。
――私は『英霊の声』のもつ一種の迫力を否定しようとは思わない。しかし、この作品は作品としては必ずしも成功作とは思われない。むしろ不気味なメルヘンというように感じるが、それ以上のものとは思えない。それは、何よりも、ここに描き出された天皇と英霊の姿が、恐らくあの浄福の時代に現実にそうであった結びつきを絶たれ、すべてノスタルジアのもつあの美化作用にあまりにも浸透されているからである。あの時代のパトリオットは、いま、霊界において、決してこのような姿をしていないであろうというのは、ほとんど私の思想である。
(橋川文三「中間者の眼」『三島由紀夫論集成』深夜叢書社)
私がこの一節に目を留めて驚いたのはもう遠い記憶である。。その時の私の驚きが何かと言えば、あの時代のパトリオットが霊界でいまどのような姿をしているかを、橋川はどうやらしっかりと見据えているらしい、見据えることができているらしい、という発見であった。〝半存在としての橋川文三〟という観点を導入することで今ならば理解の端緒を見出すこともできるのであるが、当時はただ不思議感だけを覚えた。
話を戻して、三島の側のこのすれ違い乃至は勘違いとはどういうことか。ここで述べられた橋川文三の「思想」を、はたして三島は当時理解できていたのであろうか、という疑問が湧く。なおここで云う当時とは、「英霊の声」発表から死に至るまでの時期(1965年―1970年)という意味である。
橋川はこの文章の中で定義することなく「中間者」という言葉を使用している。何と何の中間なのか。パスカルにとって人間とは神と動物の中間に立つ生物である。さらに人間は次のような意味においても中間者であった。パスカルは人間存在の中間者的性格を次のように理解している。
――そもそも自然のなかにおける人間というものは、いったい何なのだろう。無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。両極端を理解することから無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対して立ち入りがたい秘密の中に固く隠されており、彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がそのなかへ呑み込まれている無限をも等しく見ることができないのである。
(前田陽一訳パスカル『パンセ』第二章「神なき人間の惨めさ」七二)
橋川文三は三島由紀夫を論ずる際の視点としてパスカルのアントロポロギー(人間学)を踏まえている。橋川は三島以外の人物を論じる際にも、このような存在論的視点を失うことはなかった。
六 三島・橋川論争の起源
橋川文三は三島由紀夫の『英霊の声』という作品について、「ここに描き出された天皇と英霊の姿が、恐らくあの浄福の時代に現実にそうであった結びつきを絶たれ、すべてノスタルジアのもつあの美化作用にあまりにも浸透されている」と述べ、極めて否定的な評価を下した。
しかし、ここでも問題になるのは、三島の戯曲的才能である。『英霊の声』という作品で、三島は自身を英霊の声と化して次のように語った。
――-天翔けるものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑う。
かかる日に、
などてすめろぎは人間となりたまいし。
(三島由紀夫『英霊の声』
この英霊に対する三島由紀夫の渾身の同調・言挙こそが橋川・三島論争の起源となったのであった。
それでは橋川文三は三島由紀夫の戯曲的才能を読み切っていたか。読み切っていなかったと私は思う。『文化防衛論』を端緒として開始された橋川と三島の論争。それは本質的には半存在としての橋川文三と劇作家三島由紀夫との間で戦われたのである。日本武尊の存在奪取がその論争の隠れた動機であり動因であった。そのことは三島にとっては自明であったが、橋川にとってははっきり見えていなかったように思われる。
三島由紀夫にとって日本武尊とはいかなる存在であったか。『日本文学小史』や『三島由紀夫と東大全共闘』でも日本武尊のことは語られているのだが、ここでは三島の父平岡梓の回想録から引用しておく。
――-倅は、つねづね、「日本武尊は兄貴を殺している。父の女を横取りした兄が、食事どきになっても厠に入ってまま出て来ないので、日本武尊が踏み込んで厠で彼を殺し、部屋に帰って来て、平気でまた父と一緒に食事をしたというのだ。日本武尊のこの気質の烈しさにびっくりした父は、彼を戦場に追い出し、彼は転戦また転戦でついに病に倒れ、白鳥に化してしまった。そもそも日本の近代化はここからはじまるのだ。これ以来、父というものは家を治めるために、烈しい気質の息子の存在を嫌うようになった。実はこの烈しさこそ人間の根本なのだが」と言っておりました。(平岡梓著『倅・三島由紀夫』文藝春秋・昭和47年5月刊)
この三島の言明に平岡梓は、「これは僕に対する批判でもあったようです」とコメントしている。人間天皇と神的天皇の分裂は父親の立場からも感受されていたのである。
猪瀬直樹の『ペルソナ 三島由紀夫伝』は、平岡家三代の物語を描くことによって、最終的に三島由紀夫が日本近代の矛盾を体現する存在であったことを証明しようとしている。その意味では橋川の思想史的方法を彼は継承している。 しかしそこにおいて三島の父親平岡梓に対する見方がやや同情が浅いという印象が残る。三島の思想=人間天皇と神的天皇の分裂という理念が、父と息子による共犯であることの、いわば父子結託による神話的詐欺であることへの視点がそこでは捨象されてしまっている。
七 半存在としての橋川文三
橋川文三の著述から「半存在」というキーワードを抜き出して、三島由紀夫の「英霊」と対比せしめたのは田中純氏である。田中純『政治の美学――権力と表象』東京大学出版会2008年の内容目次を示しておく。
II 権力の身体 ——政体論 4「英霊」の政治神学 ——橋川文三と「半存在」の原理
二つの生命 幽顕思想と祖霊信仰 天皇制政治神学の教理問答 「死のメタフィジク」と「死に損い」——橋川文三の思想的根拠(一) 「超越者としての戦争」——橋川文三の思想的根拠(二) 「美」に抗する「歴史」——橋川文三の思想的根拠(三)
橋川文三が「半存在」の原理について説いたのは『幻視の中の「わだつみ会」』というテキストの中においてであった。これに対峙したのが三島由紀夫の「英霊」の神学である。『日本文学小史』は三島の晩年に書かれた思想的に重要な著作であり、『文化防衛論』とは比べ物にならないほど内容稠密な問題作である。未完に終わったのが惜しまれる。しかしこの橋川の発言はどういうことか?
野口 「日本文学小史」なんてのはどう思われますか、未完結に終わりましたけれど。
橋川 ああゆうのは読んでないの。ぼくは途中までだからね、三島については。
(「同時代としての昭和」 野口武彦と橋川文三の対談 1976年10月)
これはたいへん残念な発言である。「いつかお目にかかる好機を得たいものと存じます。入梅の折柄、御身御大切に」(橋川文三宛三島書簡 昭和三十九年六月十五日付)と三島は橋川に伝えていた。 また別の書簡では、「御高著『日本浪曼派批判序説』及び『歴史と体験』は再読、三読、いろいろ影響を受けました。天皇制の顕教密教の問題、神風連の思想の正統性の問題など、深い示唆を受けました。いつかそんなあれこれのことについて、ご教示をいただきたいと思ってをります では何卒御自愛御加養を祈上げます」(同 昭和四十一年五月二十九日付)とまで述べている。
かくもへりくだって橋川に対したことのある人物への返信がなぜ書かれなかったのか。。三島由紀夫の橋川文三に対する誠意は疑い得ないだけに、残念な思いがどうしても残るのである。
橋川 あれはしかしどうなってたかな。ぼくへの反論のあれはよく憶えてないけどね。彼の反論というのは何回か読んだんだけれども、ぼくが印象に残っているのは、確かに橋川にやられたけれども、ちゃんとそういうことはよくわかっているんで、逆手をとってるんだと。しかし逆手というのがよくのみ込めなかった。どういう意味か。よくわからなかったな。(同対談)
三島はこの時の反論で言葉が足りなかった分を、橋川は当然読んでくれるはずだと期待もし、また当然想定もした上で、全力投球で『日本文学小史』(1969年『群像』に発表)を書き上げている。橋川は『日本文学小史』を読み込んだ上で、三島の反論に再度反論を書いてもよかったのではないか。
八 猪瀬直樹の『鏡子の家』評価
話を戻して、三島の『鏡子の家』を猪瀬はどのような観点から評価したか。猪瀬直樹著作集二巻『ペルソナ 三島由紀夫伝』所収の、佐伯彰一との対談の中より猪瀬の発言を引用してみる。
猪瀬 父親の梓はいわば挫折したエリート官僚の典型ですが、それと対照的な存在が岸信介です。日本の近代をつくりあげてきた本質的な部分を抱えた秀才が、一九五九年に生産力倍増十ヵ年計画をつくる。それが池田内閣の高度経済成長に繋がっていくわけですが、それは満州国で展開した革新官僚の計画経済が源泉にある。一九六0年代に高度経済成長を実現していく過程で、日本の伝統が持っていた味わいが、一気に経済というブルドーザーによって突き崩されていく。それはわれわれ日本人が有史以来願った、飢えなく暮らせるという願望を実現するものではあったが、他方でそれによって何かが失われていくことを予感したものが『鏡子の家』だった。
この発言を受け、佐伯彰一は、「それは非常に面白い解釈で、作者が生きていらしたらたいへん喜ぶと思うな」とコメントしている。この猪瀬の解釈は、橋川の『鏡子の家』評を踏まえた上で、その歴史的に正確な知識の補完を心掛けたものとして読むことができる。ちなみに『日本の近代 猪瀬直樹著作集全12巻』が、猪瀬の著作集の正式な表題である。『ペルソナ 三島由紀夫伝』はもともと日本の近代を解き明かす一環として書かれた著作であった。このような問題意識とその展開の内実は紛れもなく橋川文三の方法を継承したものである。
九 宮嶋繁明と後藤総一郎
橋川の『鏡子の家』評によって橋川と三島の対話的交流が開始された。橋川文三の『三島由紀夫論集成』と三島由紀夫の『文化防衛論』には両者の対話的応答のほぼすべてが収録されている。ほぼすべてと限定を付したのは三島の『日本文学小史』も両者の応答の極めて重要なエピソードと私は考えているからである。
橋川文三(1922ー1983)と三島由紀夫(1925ー1970)
□対話的交流クロニクル (☆は橋川文三、★は三島由紀夫の作品)
☆「若い世代と戦後精神」 『東京新聞』1959年11月11日~13日
★「橋川文三宛三島書簡」 1964年6月15日 。「夭折者の禁欲」執筆および『歴史と体験』の献本に対する礼状
☆「夭折者の禁欲」1964年7月 『三島由紀夫自選集』所収
★「橋川文三宛三島書簡」1966年5月29日 。「三島由紀夫伝」執筆に対する礼状
☆「三島由紀夫伝」1966年8月 『現代日本文学館』42「三島由紀夫」所収
☆「中間者の眼」 『三田文学』1968年4月号
★「文化防衛論」 『中央公論』1968年7月号
☆「美の論理と政治の論理」 『中央公論』1968年9月号
★「橋川文三氏への公開状」 『中央公論』1968年10月号
★『日本文学小史』 『群像』1969年8月号~1970年6月号
☆「三島由紀夫氏への回答」 『中央公論』発表なし
※注 最後の橋川文三による「三島由紀夫氏への回答」は書かれるべくして書かれなかった両者の対話的交流の最後を締めくくるべき作品である。
宮嶋繁明は橋川文三に師事し(昭和48年卒、橋川ゼミ十三期生)、著書『三島由紀夫と橋川文三』を2005年1月に刊行した。宮嶋繁明の観点は橋川による三島への思想的影響の分析が主になっていることもあって、その点では克明な事実描写がなされている反面、やや三島の巨きさが捉えきれていない印象を受ける。ただ、橋川文三の名を冠した著作は、宮嶋繁明氏のこの書一冊しか現時点では刊行されていない。途方もない学識を散りばめ、謎かけが多い橋川文三の文章を論じて一冊の書物にまとめるのは絶望的なまでに困難であり、そのことが橋川文三の名を冠した書物がまだ一冊しか出ていない原因であろうと思われる。その意味で『三島由紀夫と橋川文三』は先駆的であるにとどまらず、両者の思想的交流を克明に描いて鮮やかであり、三島由紀夫論としてもまた橋川文三論としても完成度の高い出色の名著であることは疑いえない。
別に橋川文三の後継者としては明治大学の日本政治思想史の講座を引き継いだ後藤総一郎(1933―2003)がいる。後藤は橋川没後の追悼文「お別れの言葉」において、「先生独自の日本政治思想史の巾広い開拓」について述べている。
――日本曼派批判を出発点として、北一輝を中心とする昭和ファシズムの新たなる証明作業を、近世水戸学の新たなる思想的位置付けを、明治維新の夜明けを指差した思想家吉田松蔭の思想核を、やっかいな西郷隆盛への関心を、アジアは一つであると念じた岡倉天心の世界を、そして柳田国男の民俗思想の先駆的な再評作業を、さらに一方、石川啄木をはじめとする近代日本の文学思想から、太宰治や三島由紀夫の文学思想史にわたる世界をというように、壮大に展開され続けた先生の思想史の世界に、わたしたちはただあれよあれよと追いついてゆくのが精一杯なほどでした。
後藤総一郎はこのように橋川の研究した対象の広大さを賛嘆したのである。後藤は橋川文三の柳田国男研究を主に引き継ぎ発展させた。その橋川文三は竹内好の国民文学論を引き継ぐ形で思想史家としての歩みを開始した。橋川の著作家としての仕事は日本浪曼派の思想史的位置付けを定位することから開始された。
十二 北一輝の性愛原理主義
橋川文三の教え子がその追悼文の中で興味深い感想を漏らしている。
北一輝輝次郎の片眼の中和した写真は、二子を持つ私を未だに瞬時酔わせる。(略)月並みな表現ではあるが、橋川先生は、私には北一輝輝次郎とオーバー・ラップして生き続けている。(S・I。第13期生)」
北一輝と橋川文三がオーバー・ラップして生き続けているという感想はどこから来るのであろう。橋川文三が北一輝の優れた研究者であったいうことが事由のすべてではないだろう。では何か? 北一輝の人間性は橋川文三の人間性に近似しているという印象が私にはある。両者の似ている点をしいて挙げれば、共に天才的な頭脳の持ち主であったこと、無限といってよいその優しさ、そして現実界を離れて遠くを見ることができる視力である。
北一輝とはどのような人間性をもつ人物であったのか。それは肉親への手紙を見るのが一番の近道であろう。次に掲げるのは大正八年六月一八日(と推測される)北一輝の手紙。文中の星野すえは北一輝の従姉妹であり完城はその弟である。北一輝がこの手紙を書いた大正八年(1919年)北は三十八歳。上海にいて中国革命援助で奔走していた頃に当たる。文面から察するにすえは従兄弟である北一輝に婿取りの相談をしたらしい。北はきっぱりとその縁談を断るよう指示している。思いやりにあふれたすばらしい手紙を返している。ここでは手紙のごく一部しか引用できないが、全編感動的な言葉に満ち溢れている。この優しさは肉親に宛てた吉田松蔭の手紙の文面の優しさに匹敵する。真の革命家がニヒリズムとは一切無縁であることのそれは証明となるかもしれない。
■星野すえ宛北一輝の手紙 (大正八年 六月一八日)
完城[君という]男子があるの[に]何んで婿取りの必要があるのか。二十四歳ハ決して婚期に遅れたのでハなくて此れから結婚を考え始むべきとなったといふに過ぎないのだ。
(略)何事も十四五歳の心、即ち男子が二十四五歳にてハ漸く一人前になりかけた位であると同じ意味に於いて、御前に是れからが人生の門出であると考えねバなりませぬ。十幾年家□(不明)一切のことを顧みなかった兄さんであるが今回こそ御前等の運命を開く人になりたいものと考へている。
亡くなられた叔父叔母に対する御前の悲しみ、誠に思ひやります。志かし御前等二人が人並みすぐれた人になると云ふことが何より両親に対する孝行なのだから極度に悲しんでハなりませぬ。
凡ての物質界に因果律といふものがあることハ学校で学んだであろう。其れと同じく人の道徳的行為にも厳然たる因果律といふものがある。御前が両親を悦バせ弟を世に出さんが為に少女の夢の時代を通勤の生活に暮らした原因は必ず其れに幾倍する結果を来すのだ。両親ハ亡くなった、完城が成人しても報酬ハ来ない。志かし道徳の因果律ハ御前に全く別途の途から十分の幸福を来すのであるぞ。要するに御前の宝ハ御前の其の清き情深き人格であることを考へて、凡ての幸福は此の打出の小槌より出るのことを信じなさい。この人格の低きものは錦衣王食するも真に乞食より下等なものである。御前は世の富豪の子女と比すべからざる此の宝を持って生まれ、且つ貧者の間に於て此の宝を磨くことが出来たのであるから兄さんの眼より見る時にハ御前こそ千万金の富豪よりも貴き女であるのだ。御前ハ能く胸に手をあてゝ其身の幸福を理解しなければなりませぬ。(北一輝著作集第三巻より)
十三 橋川文三とマルクス
竹内好と並んで橋川文三に大きな影響を与えたもう一人の師に丸山真男がいる。橋川文三著作集第七巻の月報で丸山真男は橋川文三の『日本浪曼派批判序説』に触れてこのような評価を述べている。
――『日本浪曼派批判序説』の「批判」という言葉は、ただの枕言葉じゃない。本当に批判なんだ。日本浪曼派をかいくぐっているから、単に超越的な非難じゃない「批判」が可能だった。やはり橋川君の最高傑作が生まれるだけの背景はあった、と思います。
これは核心を突いた指摘であってさすが丸山真男と唸らせる内容であるが、編集部を聞き手とするこのインタビューの中で丸山は橋川文三の弱点について気になる発言をしている。
――「社会科学者として見れば橋川君の基本的な弱さは、マルクスを本当に読んでないということです。何が何でもマルクスを読めという意味じゃなくて、マルクス主義についてあんなに論じている以上、じゃマルクスをどれだけ勉強しているのか、とききたくなるんです。
マルクス主義と保田の関係、これが問題となる。即ち、マルクス主義と保田の関係はあるのかないのか。あるにしても関係が脆弱すぎるのではないかという問題。そこから出発して、そもそも橋川はマルクス主義を知らなさすぎるのではないかということも問題になってくる。
ところで「批判序説」という言葉を枕言葉(丸山真男)に掲げた書物はいままでに二度書かれている。マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』と、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』の二冊である。
橋川の『批判序説』は、マルクスの『批判序説』を読んで正確に理解した上での、ある意味でその書き換えでもある。時代と地域は大きくかけ離れているけれども、この二冊の書物は、その方法において本質的に重なっている部分が多い。橋川の『批判序説』は、保田を主人公に設定したある国のある時代の歴史書としても読むことができる。それは、マルクスが、ヘーゲルを主人公にしたある国のある時代(プロシア国家)の歴史書を書いたのと等しい。
そういう読み方が可能な書を、マルクスは『批判序説』の他に、もう一冊書いている。ナポレオンの甥を主人公に設定した歴史書『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』である。この書は、こんな書き出しで始まっている。
――「ヘーゲルはどこかで言つている。あらゆる世界史上の偉大な出来事と人物はいわば二度あらわれる。しかし彼はこう付け加えるのを忘れたのだ。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』)
橋川の『批判序説』は、題字に『ヘーゲル法哲学批判序説』からの引用文が掲げられているが、それは、こういう文句である。
――ギリシャの神々は、すでに一度、アイスキュロスの捕われのプロメティウスにおいて、悲劇的な死をとげたが、さらにもう一度、ルキアノスの対話編において、喜劇的な死をとげなければならなかった。歴史がかく歩む所以は如何? 人類をしてその過去より朗らかに離別せしめるためである。 マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』
橋川文三は、マルクスがヘーゲルやルイ・ボナパルトを葬ったように、マルクスに倣って保田を葬ったのである。橋川文三ほどに歴史家マルクスの方法を理解した知識人は、かってこの国にいなかったのではないか。丸山真男の主張に真っ向から反対する形になるけれども、私はそう思っている。
十四 橋川文三追悼文集
『追悼ー橋川文三先生』は、橋川文三先生追悼文集編集委員会(代表:後藤総一郎)によって橋川文三没後の翌年1984年8月に刊行された。その追悼文集には橋川文三に教えを受けたゼミのメンバー二百余名と三十余名の大学院で学んだ者のうち、2期生(1962年卒)から24期生(1984年卒)までの46名の追悼文が収められている。どの文章も間近で橋川文三に接した者だけが知りうる観察が語られており、橋川文三を考える上での重要な一次資料たる価値を失わないのであるが、ここでは橋川文三の人間像を伝える回想に絞って断片を掘り出してみる。(なお名前は頭文字のみの表示とした)。
○先生が講義の中で触れられる文献を教卓の上に積み上げ、一冊一冊私たちに示しながら説明される姿は、非常な迫力があった。(略)また、その講義の中で、先生が言われた「歴史とは未来を拘束する力である」という言葉を私は鮮明に記憶している。それは、過去に拘束された現在を、あえて未来に力点を於いて捉えようとする言葉のように思えた。学生運動の挫折の中にあった私は、この言葉を何度も呟いたことを覚えている。(H・E。第4期生)
○数年前、先生と、ある酒場でお会いしたことがあった。先生も私もやゝ酔っていたが、学生時代の気分で先生に失礼なことを言い、私は先生に強く叱責された。その時、先生は「君は何を信ずるのか」と詰問された。私は口ごもり、結局、愚かしいことを答えた。しかし、その後先生にお会いした時には私の失礼をとがめようとはせず、何ごともなかったかのように柔和に接して下さった。(E・E。第四期生)
○「松下村塾には多くの十代そこそこのお弟子が来ますね。この連中がほとんど異口同音にいうのは、とにかく最初にうたれたのは、弟子と先生という区別がないということ。これはごく自然に差別がないんですね。そこで勉強してればすぐ傍らに来て教える。帰るというと、普通の若い友達という感じで送ってくれる」。先生は『吉田松陰』の中で「ヒューマニスト松陰をめぐって」このように評されている。教師としての先生は松陰のような素顔を持った人であったと追慕している。(E・Y。第8期生)
○「Mut verloren alles verloren」――昭和四十一年一月十九日、十号館一一0番教室で最終講義で、先生が黒板に書かれた僕達を送る言葉である。これはよく知られているように、ゲーテの言葉であり、「勇気の喪失は一切の喪失である」と訳す。もちろん、ドイツ語を辞書なしで直ちに理解できるはずもない僕たちに、訳文を説明されたのは先生であった。金銭の喪失よりも名誉の喪失がより重大であるが、さらに勇気を失うことは全てを喪失することと覚悟せよ、と読むべき一文だと僕は理解した。(T・A。第六期生)
○先生の講義や発言に接した人ならば、だれもがその言葉の慎重な使い方に驚かされたはずだ。それは、いったん表現された言葉は必然的に自身に返ってくることを十分自覚されたうえでの慎重な配慮からくるものであったと思う。だから先生と対話するのはひじょうな緊張感を覚えたものだ。(K・Y。第9期生)
○ゼミに出席し始めて間もなく、ほとんど初めて直に話しかけたとき、まず「先生」と呼ぶなと言われ驚いた。擬制の師弟関係で接してはならないという趣旨だったと思う。たとえ大学という場であったとしても生活者として対等である。互いにそのような位置で意思を交わさなければ学問は成り立たない、というように受け取った。あるいは、師と呼ぶにはそれだけの手続き覚悟がいるという意味だったかもしれない。ひととの接し方自体を問い直せと迫られ、一種の負担を覚えながらも、常に原則を通そうとし続けているのだと、新鮮な印象だった。ゼミを卒業した後、私の結婚式に出席してくれたときも、「友人としてつきあう」という挨拶だった。私には過分な言葉で恥じ入りはしたものの、言わんとされようとしていることは十分に推測できるように思った。(略)
思想としてすぐれるためには、やはり苦悩の体験がなければならない。しかしその体験は求めて得るようなものではない。そこには運命のようなものがあるかもしれない、と言われた。堪え難いような苦境に陥ったとき、それをどのように超えるかで個性が問われる。ただ、苦境は与えられるようにやってくることであって、今は自分の生活を大切にしなさい、というのが、私が会社勤めを始めるときに橋川さんが与えてくれたはげましである。(O・B。第9期生)
○大学紛争の最中、文三さんを槍玉にあげる学生は一人としていなかった。これも「野戦攻城」の姿勢が通じていたのだろうか。(K・I。第十一期卒)
○教室ではいつも抑制した姿勢の先生が、屈託なくにこにこしている様子は、私達まで幸福にした。又、先生はこの世には稀有な清らかさを自然に感じさせる人でもありました。(N・O。第十一期生)
○橋川先生は、本に書かれている内容がパーフェクトに理解できるということは、自分の言葉をもって言い換えることができるということであり、さらに、それは小学生位の年齢の子供にも容易に納得できる言葉を使わなくてはならない、とおっしゃっていた。私は、その時、その先生の発言に深く感銘し、理解とは、そのようなものだと、今でも自分で肝に銘じている。(M・M。第十六期生)
○先生が奥様のことを語るときの優しいまなざしが忘れられません。先生が私達に奥様の写真を見せてくださった時の、楽しそうなまなざしがすてきでした。(Y・O。第二十期生)
○私には、今でも一年半ほど前、連れ合いいっしょにと駿河台↓を歩いてきて挨拶を交わした時のことを思い出す。あの時の先生は、にこにこ笑っておられた。にこにこ笑っておられたが、先生の心の中には、常に悶々としたものが渦巻いていたように思われて仕方がないのだ。悶々としたものの一つの表れが、ある意味では、あの笑い顔ではなかったのか、感じられもし、未だに私の目に焼き付いて離れなくなってしまっている。(S・M。第二十二期卒)
○先生の文章や言葉の中に感じられる繊細さと強靭さが、あの様な自然さで表現されているという事の裏にどのような過酷な闘いがあっただろうかという思いにとらわれるとき、何か眩暈のようなものを感じたのは一度や二度ではない。(K・N。第二十三期生)
○先生の不思議な人格。それは上手く表現できない。先生の顔も今から考えると奇妙な表情を持つ顔であった。人間から煩悩を一つづつ取っていくと、橋川先生のような顔に似てくるのではないか。先生のちょっと首をかしげるおかしな仕草は、広隆寺の弥勒菩薩像に似ている。(K・M。第二十四期生)
十五 橋川文三先生が呼ぶ
橋川文三の教え子たちが師を語るその語り口にはどれも畏敬の念が満ち溢れていて、そのことはどの卒業年度を取ってみても変わらない。教え子たちは、橋川文三に学問の師だけでなく、在学中には見えなかった人生の師を見出してその発見を綴っているのである。告白するならば、私もまた橋川文三ゼミの末席に連なった者である。ゼミでの対話も大教室での講義も私には忘れがたいものがある。
橋川文三の日本政治思想史の講義は、開始時刻がわりと朝早かった。同じ講義が第二部でもあったため、朝の講義を聞きそびれた時に私は第二部の講義を聞くことにしていた。夜はこじんまりした小教室で、講義を受ける学生たちもせっせとノートを取ってまじめであり、教室はいつも厳粛な雰囲気が漂っていた。
橋川文三の日本政治思想史の講義でいちばん感銘を受けたのは、石原莞爾の東亜連盟の思想と運動をテーマに語られた日のものであった。私はこの日の講義は、あまりに面白かったので、朝と夜と二回聞いている。蒋介石の北伐から始まり、混沌とした中国の近代史の歩みの中で東亜連盟の思想が立ち上がる光景が鮮明かつ詳細に語られる。それは思想と現実が交差する真の歴史の実相を描いた名講義であった。
石原莞爾は東条英機との権力闘争に敗れ予備役に編入される。故郷鶴岡に隠遁を余儀なくされた石原の元に、東条は憲兵を差し向け、監視を続けた。この日の講義は、この憲兵と石原との次のようなエピソードが紹介されて終わった。
憲兵「閣下。閣下は東条閣下と思想が合わないのでありますか」
石原「東条と思想が合わないって? そんなことはないよ」
憲兵「さようでありますか。東条閣下とは思想が合わないと聞いておりましたのですが、どういうことでしょうか」
石原「東条には思想がない。俺には思想がある。だから合わないということはない」
ここで教室は大爆笑。名講義の見事な幕切れであった。
ゼミの講義の中で最も印象深かったのは、司馬遷の『史記』についての話を聞いた時であった。竹内好に個人教授で中国語を学んでおられた先生は、『史記』の全文も原文で読まれていたようである。司馬遷の時代と現代は、中国語に文法的な違いはそれほどないことなどを話の枕にされた。ところで、荊軻による秦の始皇帝暗殺のドラマをクライマックスとするその日の講義は、まずギリシャと中国の歴史叙述のスタイルの違いの話題から始まった。
ギリシャの歴史叙述は、ヘロドトスの『歴史』でもツキディディスの『戦史』にしても、それぞれペルシャ戦争やペロポンネソス戦争といった〈事件〉を時間を追って語るという叙述のスタイルを取っている。これは基本的に現代の歴史叙述にまで至る方法である。しかし司馬遷の『史記』の叙述のスタイルはギリシャ人の創始したものとは根本的に異なっていた。紀伝体と呼ばれるそのスタイルは、「本紀」でまず王朝の歴史を述べた後に、「世家」の部で諸侯の歴史を語り、最後に「列伝」で個人の伝記を加えている。このようにして王朝の歴史から個人を含む世界全体を記すスタイルのユニークさを語った後、特に「列伝」が素晴らしいのだということを、荊軻の例を以て先生は示されたのであった。
先生は身振り手振りを交えて荊軻の性格や経歴を語られた。そいてついに荊軻は始皇帝暗殺に出発する。「風蕭々として易水寒し。壮士ひとたび去ってまた還らず」と荊軻が詩を詠む段に至った時、僕らは時空を超えて中国の壮大な世界のその日その時を、まざまざと見るかのような臨場感を味わったのであった。あの日の先生は、始皇帝刺殺を企てる哀しき荊軻の心に感情移入したもう一人のテロリストであった。
懐かしい記憶を手繰って私なりに橋川文三論をかたちづくってみたこともある。七年前の平成十八年三月の作である。その日から私の橋川文三理解はいささか程も進歩していない。はなはだ残念な事態ではある。しかし私の橋川文三論の原型をなすものでもあるので、いっさい手を加えずそのまま取り出して示しておく。
□橋川文三先生が呼ぶ (連句同人誌『れぎおん』2007・春・57号初出)
私は学生時代に橋川文三先生から日本政治思想史という学問を学んだ。橋川ゼミを卒業した十二年ほど後に、私も福沢諭吉と柳田國男を対比した思想史の論文を書いたことがある。
橋川文三は丸山眞男から思想史の方法を学んでいる。丸山眞男は思想史の特徴について次のように語っている。
「思想史の素材は解釈を通じてのみ我々の認識の対象となりうるが、それが解釈された瞬間、素材の本来の相貌は永遠に失われる。そうしてその代わりに、解釈を通じて史家自身の価値体系が不可抗的に介入してくるのである」(『丸山眞男集』第二巻・二百九頁)
解釈に於いては、まず素材についての全体的な洞察が前提になるが、次には表現の吟味が肝要である。論理的な思考を前提としつつも、最終的には、一字一句に至るまで洗練された表現を獲得できるかどうかが決定的な要素なのである。このような特色を持つ日本政治思想史という学問は、丸山眞男によって創始され、橋川文三によって継承・発展せしめられた。しかしその後、橋川文三の問題意識を正統に受け継いだ人はまだ現れていない。
橋川文三の問題意識を正統に受け継ぐとはどういうことを意味するか。それは日本政治思想史という学問の起源を問うことによって明らかになる。立花隆が『天皇と東大』で明らかにした事実であるが、戦前に於ける学問の自由は天皇機関説事件によって壊滅的打撃を受けた。そのような時代の動きを見据えた上で、東大法学部教授南原繁は、助手の丸山眞男に日本の思想史の研究を指示する。西洋の学問を身に付けるだけでは足りない。西洋の学問も理解した上で、日本のことも分からなければいけない。これは、南原自身の痛切な反省に立っての後輩研究者への忠告であった為、丸山眞男はその指示に全身全霊を込めて応えたのであった。
橋川文三は丸山眞男の死角を突いた対象を研究した印象があるが、丸山眞男も橋川文三も共にドイツのカール・シュミットの研究を横に見据えつつ、日本の思想史の可能性を極限にまで拡張した。二十世紀は国民国家が二つの陣営に分かれて二度までも世界戦争を繰り広げている。日本政治思想史という学問は、この国民国家の時代を、日本という舞台に即しつつ内在的に理解する可能性を追求した。橋川文三の問題意識を正統に受け継ぐ研究は、国民国家の時代が終わる超越的な視線を獲得するまで続く(はずである)。ホッブズによって創られた近代国民国家の理論を、国民国家終焉の地平から見直し、国家が廃棄される時代の眺望を創りあげることが、日本政治思想史という学問の最終目的ではないか。これは日本人の果たすべき世界史的課題であろう。
橋川文三が亡くなった翌年、ゼミ卒業生有志が編集した追悼の雑誌が帰省中の実家に送られてきた。追悼雑誌の中の橋川の写真を母が見て、「やさしい顔をした人だ」と評したのを、印象深く記憶している。やさしい人。それは私が二年間親しく膝突き合わせて研究した橋川文三先生の人間像を端的に示す言葉であった。橋川文三はまことソクラテスと吉田松陰のやさしさを併せ持つ人であった。
それにしても、写真をちらりと見ただけの僅か一秒にも満たぬ短い時間に、どうして母は橋川文三の人となりを見抜くことができたのだろう。一千億の脳細胞がどのように活動してそのような判断が成り立ったのか。人間の洞察力を生み出す脳の働きには、まだまだ解明されぬ深い秘密が隠されているようだ。
白鳥の胸のランプの消えて月
橋川文三先生が呼ぶ
(歌仙「橋川文三先生が呼ぶ」の巻より)
橋川文三は未来社から『歴史と人間』を1983年4月に上梓した後、その年の12月17日に急逝した。『歴史と人間』の「あとがき」には3月24日の日付が記されている。そのあとがきで橋川は「戦中派廃棄」の心理を告白し、最終的な遺言として自身は何を信じるかを語っている。その問いは誰もが自らに突きつけるべき問いであろう。橋川文三の何を信ずるかの答えはこうである。
――それはアジアでもなく、ヨーロッパでもない。いってしまえば宇宙に近いが、要するに地上にさかえる何ものでもない、とある実在である。そうするとそのとある実在をお前は信ずるのか、といわれそうであるが、私は今それを信ずるというしかない。
『歴史と人間』の「あとがき」はこのように書き始められている。
――私は未来社からカール・シュミット『政治的ロマン主義』の初版本の訳書を昨年出した。すでにもう二十数年の昔のものであるが、それは私が結核をやみ、まさに戦後の最大の危機という時期に翻訳したものである、当時、丸山真男先生からシュミットの初版本を借りていたためであり、それによって「日本浪曼派」批判の考えをかためた記憶がある。その『批判序説』は一九六〇年二月に本になった。今覚えば戦争後凡そ十五年をたどる私の回生の時期にほかならない。
そしてこの「あとがき」の最後の一文はこのように書き納められている。
――要するに、私の生き方は「希望」と「絶望」の中間にただよっている状態なのである。
この最後の言葉の中に橋川文三の生は永遠に宙吊りになっていつも輝いて煌めいている。橋川文三先生は未熟な僕たち彼女たちを見放さず現に今も呼んでいるのである。橋川文三のいう「とある実在」、それは存在でもなく非存在でもなく「半存在」である。自らを「半存在」と化すとき、人は誰でも橋川文三のいう「とある実在」に接近することが可能になる。しかし自らを半存在と化すとはどういうことか。その方法・手段はいかに? 橋川文三の叡智のすべては橋川文三著作集全十巻の中に封印されている。その著作はあたかもスフィンクスの謎のようにそこにうずくまっている。オイディプスが近づいてその謎を解く日をスフィンクスは永遠に待っているのだ。
ゼミや大学院で学んだ生徒たちの橋川先生に対する畏敬の念は一種のプラトニック・ラブを思わせるに近いものがある。これは男生徒でも女生徒でも性の違いを超えて変わらない。プラトン的な愛とはそもそも本質的には何か。そのことを語ったのがプラトンの『饗宴』という作品である。『饗宴』の最後で酩酊状態のアルキビアデスが饗宴の中に乱入しソクラテス賛美の演説を繰り広げる。その一節を引用する。
――一度その言葉の開かれるのを目にし、その内部に踏み入った者なら、まず第一に、他に言葉はたくさんあるだろうが、ただただ彼の言論だけが、内に知性をもったものであること、さらに神の言葉にも近いものであること、徳の無数の像(すがた)を内に孕んでいること、また、すぐれた人物になろうとする者なら、考察すべき大部分のことがら、いな、むしろ一切のことがらに、その視野のおよんでいることを知るだろうと思う」(森進一訳プラトン『饗宴』)
橋川文三もまたこのような人として我々の前に現れたのである。
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