わたしと戸籍 ― 「戸籍」私史(その12)
- 2023年 3月 3日
- 時代をみる
- 戸籍池田祥子
Ⅷ Aさんとの暮らし-「夢の実現」と思いがけない齟齬
(1)「子どもの居る暮らし」を二人で楽しむ-「裁判?」の危機も超えて
「家」(家父長制)という制度的な枠組みゆえに、「その子の父は誰か?」が必ず問われる社会の中で、遺伝的に「自分の子」ではないと分かっている場合、「戦術」として、あるいは口先だけで「一緒に育てましょう!」というのではなく、本気でそのように思える男性がこの世に居るということは、私ですら俄かには信じられなかった。ただ、映画「シェルブールの雨傘」で、そのような場面に出会って驚いた記憶はあるが・・・。
Aさんは、「その子を一緒に育てましょう!」と、本気で言ってくれた初めての身近な男性だった。
一緒に暮らすようになった三男のMは、もうじき3カ月。そろそろ首も座って笑顔が可愛くなってきた頃だ。Aさんは、器用な人でもあったから、一番初めは、赤ん坊を寝かしたまま押していける「乳母車」を手作りしてくれた。お座りできるようになると、コードや鈴や、その他、子どものお気に入りのガラクタ類がくっついたダンボール箱や、M専用の椅子なども作ってくれた。
夜寝る前は、歌を歌ったり、絵本を読んだり、お話をしたり・・・交代で担当したり、私も一緒に遊んだり・・・。
そして、その年の夏、Aさんが建て増しを手伝ったという、白樺湖にある友人の山小屋まで出かけて行った。Mは、Aさんに「背負子」で背負われていった。そのたった一泊の夏の旅で、何と私は、身籠ってしまった。たて続きの妊娠だったが、自分の身体の事、育児の負担の事、周りの風評など、その頃の私は何も気にならなかった。やはり、気分的にも前向き、ハイだったのだろう。
しかも、血縁で繋がる「Aさんの子ども」が生まれることは、私にしても、やはりホッとすることであったのだろうか(この私の中にも、Mとの子育て中、Aさんへの「遠慮・気兼ね」がまったく皆無ではなかったから・・・)。ただ、Aさんは、本当に、「血縁」へのこだわりはゼロに近かったように見えた。もちろんMの弟が生まれることは嬉しそうではあったが、「子育て」の楽しみはすでに経験済みではあった。
次の子どもはMとは「年子」。ただしMは早生まれだから学年では2年違いとなる。
離婚した・・・というので、職場では同情されたり労わられたりしていたのだが、「えっ、また妊娠?!」。同情は吹っ飛んでしまって、驚かれ、終いには非難の声までも聞こえてきた。副学長(女性)に直々に呼びたてられたのもその頃だった。
「育児学(保育学)を担当している教員が、離婚した後、再婚するでもなく、また妊娠するとは・・・特に高校の保護者から非難の声が上がっています。妊娠を止めるか(?!)、そうでなければ、ここを辞めて頂くことになりますね」。
えっ、解雇?!・・・ここで首を切られ、職場を失ったら、私は食べていけない!それは困る!・・・私は、その「解雇の不当さ」を必死で述べ立てた。
さらに、「〝未婚のまま子どもを生む”ことが、何故いけないのですか? 先生も大好きな上村松園だって〝未婚のまま子どもを生んでいます”よ」と抗弁すると、その副学長は、「上村松園は有名な方です。あなたは有名ではありません」と、澄まして言い放った。
それを聞いた私は、とっさに、「そうですか、じゃ、裁判にかけて判断してもらいます!」と言って、一瞬驚いた副学長をそのままにして、部屋を出て行った。
裁判で争うとなると、お金もかかるし、大変なことになる、どうしよう・・・と心細くもあったが、一方では、こうなれば大々的にアピールして、「こんな解雇があっていいのですか?」と世の中に訴えて行こう!という闘争心もないではなかった。
私も、心もとない「賭け」に出ようとしたが、短大の方も、副学長を中心として、いろいろ対策が講じられたようである。
そして、「裁判」になって、世間に公表されることが、短大・学園にとって名誉なことか不名誉なことか、生徒募集や学生募集、あるいは経営に有利に働くかどうか・・・が検討されたようだが、結果としては「穏便に」ということに決着したようだった。
短大の中には、私に好意(興味?)を持ってくれる学生も少なくはなかったし、私自身を理解してくれる心強い教員・職員も何人か居てくれたし・・・そのことも学園が「裁判」という選択をしなかった要因になったのかもしれない。
それは、やはり私にとってホッとすることだった。
翌年、予定通り出産。ただし分娩台の上で初めて「前置胎盤」ということが判明して、看護婦さんらは、一時、大騒ぎになった。最終的には、医師が仰向けの私にかがみこんで、こう言った。
「いいですか、よく聞いてください。あなたは前置胎盤です。ただし、全部ではなく、半分だけが子宮口にかかっています。だから、このままお産を続けます。次にいきみが来たら、上手にいきんでください」と。
「上手にいきむ」って・・・?よくは分からないながらも、私は次のいきみが来た時に、ともかく力一杯、思いっきり息んだ。「お願い!出て来て!」と。
半分前置胎盤だったせいなのか、頭と顔の細長い赤ん坊だった!(いや、元々細長い頭の子どもだったので助かったのかもしれない)。でもともかく生まれて来てくれた!白々と明けて来る窓の外の5月の空を感じながら、私は本当に心底ホッとしたものだった。「神様、ありがとう!」とも。
それからは、年子の子どもを抱えた暮らしになったが、上の子Mが穏やかな気性、ということもあって、本当に喧嘩の少ない仲の良い兄弟だった。
下の子がオムツの中にウンチをした時も、真っ先に上のMが「ナニカ・・・ニオイ」と言って、知らせてくれるのだった。
そして、もう一つ。年子の二人の保育園への送り迎えのために、Aさんはまた知恵を絞って、大人の三輪車を改造して、子ども二人が後ろに乗れる「特別三輪車」をこしらえてくれた。学校の廃棄物だったパイプの脚の机を使って、雨が降っても困らないようにと、「幌つき三輪車」の登場だ。車のないわが家で、これは本当に助かる発明品?だったし、保育園でも、地域でも、「変てこ三輪車」はちょっとした話題になっていた。
(2)コミューンを夢見た「山小舎」づくり
時代は、1970年代の終りから80年代の初め頃だ。1960年代後半の大学の「全共闘」運動は潰(つい)えてしまい、「ベトナム反戦」を掲げる「ベ平連」運動も収束し、表向き「政治」は後景に退いてしまったような時、私の知らない所で、「ポスト・モダン」の思想が流行していた。
しかし、Aさんは、大学の合唱サークルの仲間たちとの繋がりも強く、白樺湖の友人の別荘の建て増しを手伝って以来、共同の「山小舎」づくりを本気で計画するまでになっていた。
しかも、仲間内で夫婦になった一組も居て、彼らが長野県黒姫で暮らし始めていたこともあり、その伝手で、戸隠奥社の向かいの小高い山の一角に、手ごろな土地が手に入るという。
お金を出し合い、共同の「山小舎」づくり(コミューンの具体化)が進行し始めた。素人ながら、Aさんは、「ロッグハウス」のサンプルをいくつも揃え、勉強し、図面を何枚も描き続けた。黒姫で暮らし始めていたカップルのダンナさんが、「和田組」という建設関係の小さな会社に勤めていたというのも幸いしたのだろう。小型のブルドーザーやショベルカーも借り出して、整地から土台・基礎作り、材木の鉋(かんな)かけ、穴削り、柱建て、棟上げ・・・夏休みに集中して、2年がかりで完成させただろうか。「家を自分たちで建てる」なんて、考えもしなかったことだ。私もかなり夢中になって、2人の子連れで参加し、セメント捏(こ)ねや柱建て、棟上げなどにも初めての経験ながら参加した。
ただ、女たちにはどうしても食事当番役が回って来るのだが、子連れ以外の女の人は、板張り、釘打ちなど、それぞれ上手にやってのけていた。しかも、子どもたちも、土の小山に登ったり降りたり、板に釘打ちなど、ハラハラさせられながらも、楽しんで遊んでいたものだ。
このAさんの仲間たちとの山小舎づくりは、私にとっても、子どもたちにとっても本当に貴重な経験だった。そして、夏や冬(スキー遊び)を中心にして、その山小舎の一番の利用者は、Aさん含めた私たちの「家族」だったかもしれない。
それからほぼ40年が過ぎた頃、その「共同の山小舎をどうする?」と、「山小舎会議」が提案され、Aさんも私も参加した。2,3年の討議の結果、いま現在は、その時の二番目の子ども(私の4男)が引き継いでいる。
そんな貴重な楽しい経験を共有させてくれたAさんだったが、次に述べるような性癖が明らかになって以降、私の方が密かに心を閉ざし、それが二人の「別れ」を用意したのかもしれない。別れた後、Aさんは、娘三人の居る女の人と再婚していたが、コロナ真っ只中の2022年6月、Mの手配してくれた特別養護老人施設で肺炎で亡くなった。米寿にあと3カ月の87歳だった。
(3)お金とスキンシップをめぐるAさんとの溝(抗議もしない私の悪癖)
Aさんは、いわゆる「結婚」という形―「男が稼ぎ、妻子を養う」という「男役割」を拒否して生きた人だ。その上、器用な人だったから、「家事」も「子育て」も本当に「共同」で楽しむことができた。それは、いまでもAさんに感謝している。
しかし、共に暮らす中で、Aさんの「お金よりも、自分の時間が大事」という生き方が、次第に私の疑問、不満になっていった。Aさんは、私と子どものMと暮らすようになっても、さらに次の子どもが加わっても、その基本の生き方は変えなかった。
ということは、子どもを含めた生活の殆どは、私の給料で賄う、ということだ。もちろん、Aさんは稼ぎはカツカツだったが、決して「けちん坊」ではなかった。私が妊娠中は、ほとんど毎日「レバーの串焼き」を買って来てくれたし、時々は、私が好物という「芋羊羹」もわざわざ老舗の店まで行って買って来てくれた。
しかし、非常勤講師という働き方を決して変えようとはしなかった。他の学校の非常勤講師を兼ねることも、専任教師になることも選ばなかった。「家事」や「子育て」を、本当に対等に分かち合って「共同」で楽しむことが出来ているのに、そこで必要になる経費負担は、頑固に拒否していた。「自分の時間が奪われるのには耐えられない」という気持ちは、私もまた理解できない訳ではないし、初めの内は、「この社会の働かされ方への抵抗」として、拍手さえしていたのだったが・・・。次第に、なぜ「お金の負担」は私だけなのか、という疑問が生じ、それがやがて「不満」として溜まっていくのはどうしようもなかった。
それからもう一つ、Aさんの中の「男」という壁を感じさせられることが起こったのだった。一緒に暮らし始めて、そして二番目の子どもも生まれた後くらいだったか、夜遅く、自分の家に帰っていくAさんを、ほんの少し引き留めて、甘えてじゃれ合っていたかった。その時、「今日は時間がないから、またの時にね」と言われればまだしも、彼はこう言った。「ボクは、女の人から誘われると、その気が失せてしまうんだよ」と。
私はびっくりして、何も言えなかった。そんな言葉をAさんから聞くことになろうとは!信じられなかったが、それがAさんの「男としての性癖」として確固として身体化されているのだろう、と確信した。それは「噓ではない真実」として、Aさんは私に正直に晒してくれたのだと思う。・・・でもそれはないよね。甘え合ってじゃれ合って仲良くするのに、「必ず男が先導する」?私は呆れて抗議もしないままだった。(続)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye5028:230303〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。