二十世紀世界文学の名作に触れる(60) 『ジャングル・ブック』のキプリング――植民地時代が生んだ動物文学
- 2023年 3月 24日
- カルチャー
- 『ジャングル・ブック』キプリング文学横田 喬
十九世紀半ば~第二次大戦直後にかけて、植民地帝国イギリスはインドに広大な領土を持っていた。インド生まれのノーベル賞作家キプリングの出現は、いわばその植民地帝国の申し子とも映る。彼は「東は東、西は西」という言葉を残したことでも知られるが、その真意は東を西より貶めることにあったわけではなく、むしろその逆だったと言われる。
ラドヤード・キプリングは1865年、英領インドのボンベイ(現ムンバイ)で父ジョン・ロックウッド、母アリスの間に生まれた。母はビクトリア朝時代の有名な「マクドナルド四姉妹」の一人で、「同席すると、決して退屈しない」女性だった、という。父は彫刻と陶器のデザイナーで、当時ボンベイに設立されたばかりの私立芸術産業学校の建築彫刻科主任教授を務めた。母方は名門に属し、最も年長の従兄弟スタンリー・ボールドウィンは1920~30年代に保守党の首相に三度、就いている。
キプリングは幼時を回想して、こう記している。
――昼寝をする前に、(現地人の)家僕が地元で伝えられている物語やインドの童謡を聞かせてくれ、正装してダイニングで過ごす前になると、「パパとママには英語で話すのよ」と注意されるのだった。つまり、片や現地語で考え、夢を見て、片やそこから翻訳しながら、英語で話すのだった。
ボンベイでの「強い光と闇」の日々は五歳で終わる。英領インド育ちの子供として、彼と三歳の妹アリスはイングランドに送られ、ポーツマスに到着。ホロウェイ夫妻の貸し別荘で六年間を過ごす。自伝でキプリングはこの時期を「恐怖」と呼び、ホロウェイ夫人による虐待と無視が「彼の文学人生の始まりを早めたかも」との皮肉について、こう述べている。
――七つか八つの子供は(特に寝入りばなには)満足げに矛盾したことを言うでしょう。それらの矛盾を嘘だとし、朝食の時に言い募られたら、人生は楽ではない。私は苛めについてもある程度は知っていたが、これは宗教的であり、かつ科学的である計算された拷問だった。だが、私が話をする時に必要だと悟った嘘は、文学活動の基礎になった、と推測できる。
この頃には、父から送られた少年向けの物語を読むことに逃げ込んでいた。兄妹の許にはイングランドの親戚も訪問した。クリスマスの一カ月間は母方の叔母ジョージアナと夫の画家エドワードの家で過ごし、そのロンドン・フルハムの農場をキプリングは「私を救ってくれたと信じられる天国」と呼んだ。
1877年春、母アリスがインドから戻り、兄妹を貸し別荘から連れ出す。翌年、キプリン
グは軍人の子供のために設立されて早々のカレッジに入学。最初はなじめなかったが、後には級友らと固い友情で結ばれ、ずっと後に出版される『ストーキーと仲間たち』の材料を提供した。在学中に英・仏・露の文学作品を愛読し、幾つかの詩を学友会雑誌に発表している。
両親はキプリングをオックスフォード大学に進学させたかったが、学費を調達できず、また学力の判定もいまいちとあって、断念する。父のコネがあるパキスタンの都市ラホールで、彼のための仕事を探し出す。キプリングは小さな地方紙『シビル&ミリタリー・ガゼット』の編集助手として働き始める。後年、彼は当時を回顧し、こう言っている。
――私の英国での日々はとうに消え失せ、帰って来たのだ、という強い気持ちが湧いた。
彼は社交クラブのメンバーとなり、様々な分野の在インドの英国人や現地のインド人と交流した。記事と並行して詩を書いて連載。86年、最初の詩集を刊行。新聞の編集者から短編小説の寄稿を求められる。87年までに39の小説を同紙に連載。その殆どは翌年出版された最初の短編集『高原平話集』に収められている。
88年に英領インドのより大きな姉妹紙に転勤となり、その後もハイ・ペースで執筆は続けられ、毎週新聞に短編を掲載。41作を収めた6冊の短編集を出版。加えて、所属紙の特派員として多くの手記を執筆する。当時を回顧し、彼は「全て純粋な悦び、黄金の時間だった」と述べている。
彼は文筆家としての将来を考え、新聞社の勤めを辞めてロンドンへ行き、大学で文学を学ぶことにする。89年3月、インドを離れ、東南アジアの各地や日本などを経て、サンフランシスコに到着し、米国各地やカナダを歴訪。ニューヨーク州では『トム・ソーヤーの冒険』で知られる作家マーク・トウェインと面会し、「強い畏敬の念」に打たれる。
大西洋を渡り、同年10月に英国に到着し、すぐロンドンの文学界でデビュー。90年、雑誌に『兵舎のバラード』を連載し始め、たちまち有名になる。インドを舞台にした短編も好評で、新聞は「現代文壇の英雄」と呼び、作家スチーブンソンは書簡の中で「私以来の最も嘱望される若手」と評した。91年、再び航海に出て、南ア~豪州~ニュージーランドを経てインドに立ち寄った後、ロンドンに戻る。92年1月、26歳のキプリングは3つ年上のキャロラインと結婚する。夫妻は米国北東部バーモント州内の農場に小さな別荘を借りる。
この「幸福の小屋」で四年間を過ごし、長女・次女・長男が誕生。有名な代表作『ジャングル・ブック』は、ここで書かれた。キップリングはこう記している。
――12月から4月までは、窓枠の高さまで雪が積もっている。そこで、狼に育てられた少年の棲むインドの森について、書いたのだった。中心的アイデアが頭の中で絞り出されると、後はペンが勝手にモウグリや動物たちに関するストーリーを書き始めるのを見ていた。
当地での四年の暮らしの間に、彼は『ジャングル・ブック』の他に、短編集『その日の仕事』長編『勇ましい船長』詩集『七つの海』を出版した。当地への訪問者には、退隠後の彼の父親やイギリスの有名な作家コナン・ドイルの姿があった。
二十世紀初頭、キプリングの人気は最高に達する。1907年、英国人として初めてノーベル文学賞を受ける。授賞理由は「この世界的に有名な作家の創作を特徴づける、観察力、想像力の独創性、発想の意欲と、叙情の非凡な才能に対して」。
36年、キプリングは十二指腸潰瘍が基で七十歳で亡くなる。彼の有名な言葉「東は東、西は西」は東洋蔑視の象徴として受け取られがちだが、真意はその逆だった。(インドを深く愛した)彼の願いは、いつかは東と西とが融合することにあった、と言われる。
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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