放蕩無頼のダライ・ラマ!!
- 2023年 4月 12日
- 評論・紹介・意見
- ダライ・ラマチベット阿部治平
――八ヶ岳山麓から(422)――
ダライ・ラマ六世の詩の日本語版が今枝由郎・海老原志穂共訳『ダライ・ラマ六世恋愛詩集』として岩波書店から出版された。これについて想い出を交えて少し述べたい。まず簡単にダライ・ラマについて記しておきたい。
転生活仏・ダライ・ラマとは
チベット仏教は日本と同じ北伝(大乗)仏教である。さまざまな宗派があるところも同じである。変わっているのは、名僧の転生すなわち生まれ代わりという習慣があることだ。以下、共訳者今枝氏の見解を交えて説明すると、たとえばチャールズ三世は、おなじ名前をなのる3番目の王という意味だが、転生は同じ人が再生するという意味である。その始まりは14世紀後半からだといわれる。
チベット仏教最大のゲルク派の創始者ツォンカパ(1357~1419)の時代には転生の考えはなかった。彼の後継3代目ソナム・ギャンツォ(1543~88)はモンゴルへの布教におもむくとき、青海・チャブチャの地でモンゴル・トゥメット部の英傑アルタン汗(1507~82)を教化して、ダライ・ラマの称号を与えられた。
「ダライ」とはモンゴル語で「大海」の意味で、「ラマ」はチベット語の「師僧」のことである。ちなみに、20年ほど前、私はこのチャブチャの高等師範専科学校(現青海師範大学の一部)で教師をしていた。
のちにゲルク派も転生の考えを採用し、ソナム・ギャンツォはダライ・ラマ三世とされた。ツォンカパの直弟子を一世、孫弟子を二世と数えるようになったからである。インドに亡命し時々日本にも来るノーベル平和賞受賞者のダライ・ラマは14代目の転生者である。
ところで中国共産党支配下のチベット仏教の寺にも、それぞれ最高位の僧であるラマがいる。先代のラマが亡くなると占いなどで後継者を決め、そののち共産党が認証して正式の地位に就く。
ダライ・ラマ六世とは
ダライ・ラマ六世は、1683年ヒマラヤ南麓、ブータンの東のモン地方、現在インド支配下にあるアルナチャル・プラデーシ州のタワンに生まれた。3歳の時、チベット仏教ゲルク派の最高位ダライ・ラマ五世の生まれ代わりとされ、ヒマラヤを北に越えたツォナに行って見習僧となり、英才教育を受けた。法名はツァンヤン・ギャンツォ。
タワンはヒマラヤ南麓の照葉樹林帯にあって、チベット高原のような高冷地ではない。1959年ダライ・ラマ十四世がインドに亡命したとき通過した土地であり、現在はインド軍の対中国戦略拠点である。
ツァンヤン・ギャンツォは15歳になったとき、「偉大な五世」の化身と告げられ、ラサに行き、ダライ・ラマ六世として厳しい修行を強制された。20歳に至って正式な僧侶として具足戎を授かることになったが、彼はそれを拒み、僧衣を捨てて還俗した。
彼は夜な夜なポタラ宮殿麓の歓楽街で酒を飲み、かけごとをやり、女たちと密会をかさねるという放埓な生活を続けた。チベット王ラサン汗はこれを叱責したが、無益だったので清帝国康熙帝にダライ・ラマとしての真贋を判断してもらうためとして拘束し、北京に連行しようとした。当時チベットは清朝の従属国であったからである。その途上、ココノール(ツォゴンポ・青海)南のクンガ・ノール湖畔で六世は亡くなった。ラサン汗の命令によって殺されたといわれるが、真相は不明。享年23。
ダライ・ラマ六世の詩
以下、強い印象を受けた詩を3篇紹介する。詩の翻訳はほとんど創作といえよう。雅語・七五調の採用は原詩の姿に日本語訳を近づけようとした訳者の苦心のほどを示している。
ポタラ宮でのお名前は
ツァンヤン・ギャンツォ修行僧
ラサの下町ショルにては
放蕩ダンサン・ワンポなり
注)ダンサン・ワンポはお忍び時の名乗り
今宵はアラに酔いつぶれ
女子の肩に寄りかかり
明朝別れ行く時は
赤き雄鶏なく時ぞ
一夜を共にせし娘
黄昏時に我を待ち
夜明けに月の沈むとき
早くも別れ支度せり
注)「アラ」は裸麦の蒸留酒
これではまるで15世紀の禅僧一休宗純の『狂雲集』である。一休和尚は晩年、飲酒・肉食・女犯おかまいなし、森女という愛人を持ち実子もいた。ダライ・ラマ六世もやりたい放題だったが、さすがにきまった女性も実子もいなかったらしい。
20年ほど前、上記の師範学校にいたとき草原の寺にこれに似たラマがいた。彼は酒を飲み、あちらこちらの娘と恋愛した。娘たちもラマのガールフレンドとなれば、格好いいから喜んでつきあった。周りがラマに慎むよう説得すると、「何にもわからない子供を勝手にラマにして、今になってあれもやるな、これもやるなといっても承知できない」と突っぱねた。
ダライ・ラマ六世もこの気持だったかもしれない。チベット高原では、成人した結婚前の若者の交際は比較的自由だし、名刹とはいえ小さな寺院だったから、彼の素行には周りも目をつぶり、ダライ・ラマ六世のように殺されることはなかった。
ダライ・ラマ六世は心のなかに生きている
共訳者海老原氏は、「……彼は歴代ダライ・ラマのなかでもっとも数奇な運命をたどった人物であるが、彼の(あるいは彼のものと伝えられる)恋愛詩は、現在でもチベット人によって口ずさまれ、現代詩人にも発想の源となり、若者のラブレターにも引用され続けている」という。わたしのチベット人地域の学校での経験もこの通りだった。
チベット人が詩をつくるのは、日本人が俳句・和歌を作るのに似ている。だからダライ・ラマ六世の恋愛詩は学生にも知られていた。その一部を歌う歌手もいた。チベット文学の専門家の中には、これは恋愛詩というよりは、チベット王ラサン汗と摂政サンジェ・ジャンツォとの確執に巻き込まれた苦境をうたったものだという人もいた。
チベット語がまるで分らない私に、ある学生がこの恋愛詩を中国語に翻訳して説明してくれたことがある。彼女は、これはチベット語の詩の代表作だ、詩人たちの見本だ、言葉もわかりやすい、それに今では、漢民族など他の民族にも恋愛の詩として人気があると、わがことのように語ったのであった。
巻末の解説には、今枝氏の「ダライ・ラマ六世の生涯とその特異性」と、海老原氏の「ダライ・ラマ六世恋愛詩の特徴」があり、「ダライ・ラマ」という制度とその歴史・古典詩とその形式・チベット人地域における現代の文学状況などがわかりやすく説かれている。
たった115ページ、500円の本だが、読み応えのある本である。ぜひ手に取ってお読みください。
(2023・03・31)
初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion12958:230412〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。