「使える英語」は学校で身につくか? 江利川春雄『英語教育論争史』(講談社、2022年)を読む
- 2023年 4月 24日
- 評論・紹介・意見
- 小川 洋英語英語教育
アメリカの研究が示すもの
アメリカ国務省は、自国の外交官が外国語を習得するのにどの程度の授業時間が必要かというデータをもっている。英語との距離によって四種類に分かれるという。これに基づけば、日本人が仕事で使えるレベルの英語力をつけるには、強い動機をもち知的訓練に耐える学習者を対象にして、優秀な教員が少人数教室で集中訓練をして2200時間の授業時間を要し、さらに半年程度の英語圏への留学が推奨されるという(江利川:260ページ)。しかし、現在の中高の6年間の英語の授業はせいぜい840時間程度、必要とされる時間の38%であり、しかも40人学級での授業である。これに最近導入された小学校高学年での英語授業時間を加えたとしてもたかが知れている。しかも、英語教育の目標は時代によって文法や訳読が強調されたり、会話能力が強調されたりと一貫せず、またその都度、推奨される授業法も変わる。
大多数の日本人にとって、学校教育のなかで、「使えるレベルの英語力」を習得することが不可能なことは科学的にも証明されているわけである。にもかかわらず、英語教育への風当たりは強い。
明治から第二次大戦へ
江利川は明治初期から2010年代までの日本の学校教育において、英語教育がどのように扱われてきたかを、一次資料に基づいて丁寧にその変遷を追っている。氏の議論はたいへんに説得力があり、「やはり、そういうことだったか」と、納得させられる点が多々ある。とくに150年の歴史を振り返って、「なるほど」と思わされたのは、日本の国際的評価が低い時期には英語教育の必要性が声高に叫ばれる一方、国際的評価が高まった時期には、英語教育への否定的な議論が強まったということである。
幕末以来、欧米文明に圧倒された日本人は上から下まで外国語に強い関心を持たざるをえなかった。居留地での生活を強制されていた外国人が、その制限が解除(内地雑居)されれば、一般国民と混住することになる。そのこともあって、明治初期からしばらくの間、外国語能力の必要性は、政府だけではなく国民の間でも強く意識されていた。
しかし、内地雑居は1894(明治27)年になるまで実現しなかった。また外国語で授業が行われていた高等教育機関では、お雇い外国人たちに代わって、海外留学から帰った日本人教師たちが訳語を開発しながら、日本語によって行われる授業が主流となった。外国語熱は冷めていったのである。
明治から大正時代にかけては日清戦争・日露戦争、さらには第一次大戦後の国際連盟の常任理事国入りと、日本は「一等国になった」との高揚感もあって、英語不要論が各方面から湧き上がる。加えて、アメリカによる日系移民に対する排斥運動が伝えられると「米語排斥」論が台頭する。戦前の英語教育の扱いの最終的な姿は、太平洋戦争期の戯画的な英語追放劇だったことはよく知られているとおりである。
第二次大戦後
そして戦後の「英会話ブーム」である。連合軍による占領下の日本では、英会話への関心が国民の間で広く共有された。多数の関連書籍、雑誌が出版され、1945年9月に発売された『日米会話手帳』だけでも半年ほどで360万部が売れたという。また新制高校が入試に英語を課すようになったことから中学校のカリキュラムには必ず英語が加えられるようになった。
しかし当然、研究者や語学に堪能な知識人たちの間から、その「俗流英語」への批判が高まる。また皮肉なことに、高校が全入状況になると、すべての子どもに(受験)英語を強制することになり、そのことへの疑問の声が上がるようになった。いずれも、どちらかと言えばリベラルな立場の言論人たちからの批判であった。
英会話については、70年代以降の海外旅行機会の拡大などもあって英会話教室の隆盛もあったが、学校での授業は入試問題に対応した読解と文法教育が中心となっていた。しかし日本企業の海外進出が目立つようになると、企業側から学校教育における会話能力の養成の要求の声が大きくなる。「有力大卒の優秀なはずの新卒社員を海外の商談に同行させたところ、まったく役に立たなかった」など、英語能力に関する不満がビジネス界から湧きおこる。さらにはグローバル化のなかで、日本企業の国際競争力の低下が顕著になったこの20、30年間は、尻に火が付いたように、各方面から「英語力の向上」の合唱である。
かつて一部の地震研究者たちが東南海地震の切迫性を強調して過大な予算を獲得していたという話があったが、現在の英語教育も似た状況にあるともいえる。やれ、「この授業法が効果的だ」、「このテストが役に立つ」など、教育関係者や教育企業による、教材や教育法の「切り札」の売り込みが盛んである。発話能力を育てるとして、都立高校入試では今春から、タブレットを相手にする会話のテストを導入した。ベネッセの事業である。
また文科省は現在の学習指導要領において「英語の授業では英語のみで行う」ことを求めている。筆者の経験からすれば、現場を混乱させるだけの愚論というしかない。「聞き流すだけの英語」というCD教材の宣伝を覚えている人も多いだろうが、いつの間にか消えた。「少しでも多くの英語を耳に入れれば、会話ができるようになる」という議論がいかに怪しいものか分かるだろう。
結論-筆者の経験から
筆者自身は、教育制度の国際比較研究にカナダを選び、英語文献を読み、現地の教育関係者や学校訪問を繰り返すなかで日常会話もある程度のレベルに達した。退職後の年金収入の足しになればと、英語の「通訳案内士」の国家資格も取得している。
そのうえで筆者はこの数年、福祉事業としての地元の中学生の学習の援助活動をしている。英語の学習援助で子どもに最初に言うのは、「世界には文字を持たない言語も多く、言語は基本的に音声=話されるものだ」と指摘し、教材の英文は声を出して読み、英語のリズムを体得することの大切さを強調する。必要に応じて文法的な説明を加えながら、文章の意味の理解を促す。その際、必ずしも正確な翻訳は求めない。多くの場合、子どもたちは以前よりも自信をもって学習に取り組めるようになる。彼らの当面の目標は受験に役立つことだが、このような学習経験は、将来、外国語能力が必要になった時、落ち着いて取り組む態度を育てることになっていると思う。
英語教育については、根拠の薄い「効果的」教育法などの議論が繰り返されてきた。ビジネス界などからの要求が強くなればなるほど、怪しげな教授法や教材が出てくる構造になっている。学校における外国語教育について、科学的な根拠に基づき、何ができて何ができないのかを、冷静に見極めた議論が求められている。
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