- 2023年 5月 12日
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評論・紹介・意見
- ハンセン病文学髭郁彦
<髭郁彦:記号学>
多磨全生園の敷地は広い。バス停に降りて、ハンセン病資料館までは10分程歩かなければならない。鳥のさえずりが聞こえ、人通りの殆どない園内を歩く。大きないくつかの建物の前を通り過ぎると、沢山の高い木々と灌木に囲まれた道に出た。異常に静かだ。自転車に乗ったOL風の若い女性が通り過ぎて行ったが、その姿はここの全体的雰囲気とは適合しないもののように感じられた。そう感じたのは私の偏見だったかもしれない。しばらくして、ハンセン病資料館に着く。かなりしっかりした建物だ。ハンセン病の歴史というイメージからかけ離れた近代的建築物。私は入口の自動扉の前で資料館に入ることをちょっと躊躇ったが、ゆっくりと中に入ることにした。
ここを訪れようと思ったのは、ある大学の図書館にあった「ハンセン病文学の新生面 「いのちの芽」の詩人たち」というフライヤーを見たからである。ハンセン病者の文学として北條民雄の小説があることは知っていたが、ハンセン病文学と呼ばれる多くの詩や小説があることを私は知らなかった。このフライヤーに書き込まれていた志樹逸馬の「生きるということ」という詩の一部、そこには「私の手は曲がっている。/ しかし掴まねばならない / 歯が抜けている。だが噛まねばならない。/ 眼球を失っても 見ねばならず、/ 足を失っても歩かねばならない 」と書かれていた。この言葉を読んだ時、私はハンセン病文学の凄まじさを感じ、ハンセン病文学と真剣に向き合わなければならないと思った。こう感じた私は、今すぐにでも可能な行為、つまりは、北條民雄の小説を手に取り、読み始めた。
北條の小説を読んでいく中で、私はミシェル・フーコーが探求した「人間 (l’homme)」というあまりにも曖昧な概念を通して強制される権力支配の構図を超えた存在性とは何かという一つの答えを彼の小説が示しているように思われた。またそれとは別に、彼が語った文学世界を構成した時間性と空間性、バフチンの用語を使えばクロノトポスの問題について考察の必要性を痛感した。それゆえ、私は北條が作品を創作した場所である全生病院、現在の多磨全生園を訪れ、更には、全生園内にあるハンセン病資料館で現在開催されている「ハンセン病文学の新生面「いのちの芽」の詩人たち」を見なければならないと思ったのである。
それゆえ、このテクストで考察される中心テーマは、反ヒューマニズムの書としての北條の小説と北條の小説を生み出したクロノトポスという問題である。それに加えて、この二つの問題それぞれを考察した後で、二つの問題をハンセン病文学における創造行為という視点から総合化していこうと私は考えたのである。
北條民雄と反ヒューマニズム
北條民雄の小説はどれもハンセン病一色に塗り込まれたものであるが、そこに抑圧された患者の姿や人間性の回復を見るというのが一般的な北條文学評価のようであるが、抑圧者-抵抗-人間性の回復という図式は、あらゆる抑圧者に対して述べ得るものである。それが在日朝鮮・韓国人に対してであれ、部落出身者に対してであれ、あるいは、奴隷、狂人、または、労働者といった人々に対してであれ、この図式化を基にした言説 (ディスクール [duscours])を用いて語ることが可能であり、そうした言説が溢れていると私は感じる。この図式は人間中心主義をベースとしたものであり、その言説が語られれば語られる程、人間という曖昧な概念が強調され、ある本源的出来事への問いが徹底化されず、分散し、希薄化され、不明確なものにされてしまう。フーコー的な用語を使うならば、権力-知 (pouvoir-savoir) による支配の強化を押し進める装置として機能するのである。
安易なヒューマニズムは歴史の持つ強制権力に服従し、平伏し、変革を抹殺しようとする。フーコーの『言葉と物』の終わり間際に、「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ」(渡辺一民、佐々木明訳:以下、同書の訳文は両者のものである) という言葉がある。この「人間」という語が最高善として、最高に価値あるものとして語られてきた歴史が太古からあるものではないことを暴くディスクールであり、また、それはこの概念の至上性に終止符が打たれるべき時の到来を予告するものでもある。さらに、この語が古くからの伝統を有する概念であるという虚偽の歴史への弾劾の言葉でもある。しかしながら、私は観念的にこのディスクールの意味を理解しつつも、事実として、あるいは、実践 (プラクティス [pratique]) としてこの宣言を了解できなかった。
私がこのディスクールをプラクティスとして理解できたと思えたのは、北條民雄の『いのちの初夜』の「あのひとたちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ生命だけがぴくぴく生きているのです」という叙述を読んだ時であった。手足を切断し、喉に穴を開けられ、鼻が落ち、目に光はなく、全身を包帯でぐるぐる巻きにされたハンセン病患者。どんなに苦しんでも死ぬことができないハンセン病患者。その姿をしっかりと見つめるように尾田に言った後の佐柄木の発言。そこにいる患者にはわれわれがそう信じる人間の形態は存在していない。そう述べるよりも、佐柄木が言うように彼らはもはや人間の範疇に含まれてはいないのだ。解体された人間。では、彼らは一体何か。「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです」、佐柄木のディスクールはヒューマニズムの絶対性を超えようとする。
「人間」というカテゴリーの存続を強制する歴史が存在する。それが近代の歴史の大きな一側面であるという事実を、日本のハンセン病者によって刻まれた記録は明確に暴露する。それは「人間」という概念が権力-知の支配装置として如何に過酷な服従を行ってきたかを赤裸々に物語っている。北條のディスクールを読んだ時の衝撃。その瞬間、フーコーの『言葉と物』におけるディスクールの真実性が実践として私の中に響いたのであった。
北條民雄文学のクロノトポス
北條文学だけではなく、ハンセン病文学を考える上で、時代性と日本という国の空間性は根本的な問題となる。近代国家成立を目指す明治政府が1907年に制定した「癩予防に関する件」は日本という近代国家が明文化した抑圧装置である。この法律はハンセン病患者の国家による隔離と監禁・監視を正当化するものであった。その後、この法律は「癩予防法」(1931年) となり、更に戦後に、「らい予防法」(1953年) となるが、強制隔離、療養所長の懲罰権である懲戒検束権は維持されたままとなる。このらい予防法が廃止されたのは1996年のことである。ここでハンセン病患者に対する法的支配や差別に関する詳しい論考を行うことはしないが、この法律と共に特殊な閉鎖空間に押し込められたことによってハンセン病文学のクロノトポスが刻印されることになった点は強調しなければならない。
歴史的な事実としての隔離強制と、懲罰システムは、時間的な側面と共に、療養所と呼ばれる監獄に相当する空間も生み出した。それはバフチンの述べた時空間における同一性が一つのジャンルを形成するというクロノトポスによるハンセン病文学というジャンルの誕生をも意味した。隔離と抑圧の空間である国家が管理する療養所ができたゆえに、また、ハンセン病患者に対する時代的な偏見と支配体制の強化があったからこそ、ハンセン病文学が生まれたという側面、すなわち、ハンセン病文学のクロノトポスがあったということも決して否定することができない事実なのである。
『いのちの初夜』にある「二列の寝台には見るに堪えない重症者が、文字どおり気息奄々と眠っていた、(…) ここへ来て初めて彼らの姿を静かに眺めることができた。赤黒くなった坊主頭が弱い電光に鈍く光っていると、次にはてっぺんに大きな絆創膏を貼りつけているのだった。絆創膏の下には大きな穴でもあいているのだろう。そんな頭がずらりと並んでいる恰好は奇妙に滑稽な物凄さだった。尾田のすぐ左隣の男は、擂子木のように先の丸まった手をだらりと寝台から垂らしてい [ママ]、その向かいは若い女で、仰向いている貌は無数の結節で荒れ果てていた」という療養所内の重症患者の病室の描写。あるいは、『眼帯記』の中の失明寸前のハンセン病の少女たちの「真黒い運命の手に掴まれた少女が、(…) 放心にも似た虚ろな心になってじっと耐え、黙々と眼を温めている。(…) もう一度あの光を見たい、彼女らは、全身をもってそう叫んでいるようであった。これを徒労と笑う奴は笑え、もしこれが徒労であるなら、過去幾千年の人類の努力はすべて徒労ではなかったか!私は貴いと思うのだ」という北條の言葉。
これらの小説に記されたものは明治期から終戦直後まで続いたハンセン病患者療養所内の日々の描写であり、時代的な事実性を精密に表している。北條だけではなく、こうした日常が連続した時と場を、ハンセン病文学者全員が克明に語っていったのだ。北條の書いた描写を読むだけでも、国家的、民衆的、時代的な権力-知の実態が如実に表現されている。だがそれだけではなく、こうした描写はハンセン病文学者の実体験に基づくものであり、その体験を分有したハンセン病患者のクロノトポスは文学空間を超えて、「人間」という虚像を破壊する存在の力とは何かという問いへの一つの答えを提示しているという点も注記しなければはならないと私は考える。
異端者への排除と抵抗
特異性 (particularité) は排除のマークとなり得る。様々な資料がその事実性を明示している。奴隷、狂人、犯罪者、異邦人、賤民、不具者、未開人、浮浪者。権力-知の行使によって、数え切れない人々が異端者として共同体から排斥され、屈辱を受け、監禁され、迫害され、命を落としていった。こうした人々の持つ特異性は忌むべき負のマークとして、共同体からの追放宣告の根拠となった。典型的な「人間」という概念装置外にあるという理由で。特異性ゆえに弾圧を受けた人々の中で、ハンセン病患者がどのように位置づけられるのかという問題に関する考察は、社会学者や歴史家に任せよう。私はここではこの問いに対して答える時間はない。だが、権力-知の強力な抑圧装置がハンセン病者にどのように作用し、それがフーコー的な問題設定の中で実定的レベル (niveau positif) からどのように考察可能かという問題に対しては答えなければならない。
『無菌地帯――らい予防法の真実とは――』(以後、副題は省略する) において、大竹章は、「偏見を捨てろというには無理があった。恐ろしい病気ではないといったら嘘になった。ハンセン病が恐ろしい病気でなくてなんであろうか。だからこそ、あらゆる人間が力をあわせ、病気とたたかい、病気を根絶させるべきであったのに、この社会は長い間、受難の戦士たちを励まし、力を貸そうとはせず、病気ばかりか患者まで、忌むべきものとしてにくむことを習慣としてきた」と述べている。権力-知の暴力性はジャック・ラカンが提唱した大文字の他者 (Grand Autre) の強大な支配力を持つ。それゆえに、社会という共同体に属する構成員はその力に抗うことができずに屈服する。大竹の発言は「人間」というものが善なるものでも、崇高なるものでもなく、植え付けられた恐怖や偏見によって、簡単に崩壊する存在概念であることを如実に表している。フーコーの「(…) 人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう (…)」という有名な言葉の実定的な証として、大竹の言葉を捉えるべきではないだろうか。
しかしながら、「人間」という概念の解体は、解体のみで終わるのではない。新たな何かを構築することで、この解体作業は終わる。解体と構築は同時に行われる。それこそが、解体構築 (déconstruction) である。では、解体された「人間」は如何なるものとなるのか。それは「いのちそのもの」になるのである。「いのちそのもの」はジョルジュ・バタイユが語った至高性 (souveraineté) と言い換えることができると私は考える。ジャン=リュック・ナンシーは『無為の共同体――哲学を問い直す分有の思考』において、バタイユの至高性に対して、「(…) 至高性とは、自ら現前することもなく同化 (偽装) されることもなく、与えられることさえない――むしろ存在者がそれに委ねられている――ある過剰 (ある超越) へと至高に露呈することなのである」(西谷修、安原伸一朗訳) と語っているが、ハンセン病者はまさにこの様態が現実化した状況下にいた。その様相を凝視したハンセン病文学者である北條民雄は「人間」という概念の解体構築を実践していき、「いのちそのもの」という至高性に到達していった。それは北條だけが獲得した新たな存在カテゴリーではなく、ハンセン病文学者たちの表現したクロノトポス全体から溢れ出る根源的な血=知であったと私は考える。
記念碑としてのハンセン病文学
ハンセン病文学の反ヒューマニズム性は権力-知としての人間主義への弾劾であり、憤怒の表現である。それゆえに、この暗黒の歴史が終焉を迎えると同時に、ハンセン病文学も消えていった事実に目を向ける必要性がある。『無菌地帯』の中で大竹は、「(…) 治療可能となり、特殊な病気でなくなろうとするにつれ、「らい文学」は土台を失い、療養所文芸は衰退に向かっていった」という鋭い指摘を行っている。ハンセン病特効薬プロミンの登場は患者達の怨嗟に満ちた声を歓喜の声に変えた。ハンセン病は不治の病ではなくなったのだ。かつて、詩人の森春樹は腐り果て落ちっていった指を見ながら、「指」という詩に託して、悲痛な叫びを上げた。「せめて / 指よ / 芽ばえよ / 一本、二本多くてもよい。/ 少なくともよい。/ 乳房をまさぐった / 彼の日の感触よ。」だが、こうした叫びが新たな時代的局面の中で、歓声と共に消え去っていった。治る病気であることは創造の根源であった基盤を破壊する。
ジル・ドゥルーズは『フーコー』において、「知、権力、そして自己は、思考の問題化の三つの根源である」(宇野邦一訳:以下、ドゥルーズの言葉の引用はこの本からである) という主張を行い、それゆえに、この三つの根源的問題はフーコーの中心的な探究問題であったことを強調している。そして、ドゥルーズはフーコーの「思考」へのアプローチに対して、「思考すること、それは、見ることをその固有の限界にとどろかせ、話すこともまたその限界にとどろかせることである。それゆえこの二つは、二つを分離しながら関係づける共通の限界となる」という主張を行っている。思考することは検討対象に対して境界線を引くことでありつつ、異なる線分が交差される結び目ともなるものなのでもあるのだ。
ハンセン病文学も知、権力、自己の交差点として誕生した。そうであったからこそ、そこには文学の持つ衝撃力も、反抗の力も、情念も、リリシズムも、開在性も、自由も、至上性も、美も、悲哀も、意志も、神秘性も、孤独も、存在証明も、否定性も、投企の力も表象されていったのである。しかし、この結び目がほどけてしまった時、ハンセン病文学の息吹は完全に消滅してしまった。見ることと話すことを分離しながら関係づけ、関係づけながら分離する接点が消失していったのだ。ハンセン病文学の生命力の源であった動態としての解体構築性は、治る病気となった瞬間にその存在理由を失った。そして、ハンセン病文学は実際に語られ、記録 (刻印) されていくディスクールから歴史的な記念碑 (monument) へと姿を変えてしまったのだ。それは一つの文学ジャンルの死である。それと同時に、ハンセン病患者の人間復帰でもあった。
プロミンの登場とらい予防法の廃止、この二つの出来事はハンセン病患者の人間復帰として声高に語られることが多い。確かにあまりにも長い不幸な時代が終わりを告げ、患者達に希望の時代が到来したと述べることも可能であるかもしれない。だが、人間復帰とは何だろうか。もしも、それが権力-知の枠組み内へのハンセン病患者の再編成であったのなら、そこにはヒューマニズムに飼いならされたある歴史的な帰結が示されただけではないだろうか。この疑念に対して、ハンセン病患者の実態を知らない者の虚言であるという激しい怒りの叫びが発せられる可能性は高い。しかしながら、先程指摘したハンセン病文学の逆説を無視することはできないのではないだろうか。記録されるものから記念碑への位相のチェンジ。それによってハンセン病の歴史が、小文字の歴史から大文字の歴史へと変わってしまったのならば、ハンセン病文学には過去しか存在してはいないのではないか。ドゥルーズは前述した本の中で、「現在に抗して過去を考えること。回帰するためではなく、「願わくば、来るべき時のために」(ニーチェ) 現在に抵抗すること、つまり過去を能動的なものにし、外に現前させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史 (過去) を考えるのだが、それは思考が考えていること (現在) から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来) ができるようになるためである」と述べている。ハンセン病文学を過去の単なる遺物としないためには、安易なヒューマニズムを打ち壊し、作品の中にある人間主義を超越するあの「いのちそのもの」という言葉ともう一度対峙する必要があるに違いない。
国立ハンセン病資料館の中に入った私は展示物を眺めながら、この病気で苦しみ、迫害を受け、隔離された人々の歴史が、記念碑的なものとなってしまったと強く感じた。抑圧の歴史、搾取の歴史、激情の歴史、悲劇の歴史、抵抗の歴史。そこで展示されたものにはこうした歴史が刻み込まれているが、その歴史は記念碑として残されるだけのものになりつつある。記念碑としてクラス分けされた歴史は、小さな歴史から大きな歴史への移行過程を示す出来事となる。
こうした歴史的大転換の中で展開したハンセン病文学とはどのようなものであろうか。消滅した文学ジャンルの一つ過ぎないものとしないために、新たな何らかのアプローチが要求されているのではないだろうか。私はそう思いながら、企画展「ハンセン病文学の新生面 「いのちの芽」の詩人たち」が行われている部屋に入った。ハンセン病文学者のいくつかの詩が書かれたパネル。その中の一つに目がいった。小島浩二の作品、「海の向こうには」の冒頭に「夕映えの海の向こうには声がある。/ 忘れかけていた色色な声が一杯に拡がっている」という詩句があることを私は発見した。
その声は一つではなく、ポリフォニーである。忘却の向こうから多くの声がやって来る。声は対話に向けた言葉に形を変え、重なり合い、響いていく。記念碑としてクラス分けされたとしても、博物館の隅で埃を被った死語が並べられてしまうだけなのではない。声は声を求める。声は言葉を求め、対話空間を形作っていく。それは過去と現在と未来とを対話空間とするクロノトポスである。その対話空間には反ヒューマニズムとして生み出されていった新たな生命としての旋律が宿っており、その調べは今も、これからも響いていくように私には思われた。
初出:宇波彰現代哲学研究会所のブログから
宇波彰現代哲学研究所 ハンセン病文学における反ヒューマニズム (fc2.com)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion13012:230513〕