名作をたずねて 三浦綾子の作品群を振り返って
- 2023年 5月 14日
- カルチャー
- ちきゅう座会員三浦綾子野上俊明
三浦綾子は、 1964年朝日新間の一千万円懸賞小説に当選した「氷点」に始まり、1999年に逝去するまで、じつに70冊有余の著作を世に送り出した多作の作家です。結核の療養生活と脊椎カリエスでギブスベッドに固定されての寝たきり生活の、合わせて13年間の闘病歴をもつ人とは信じられない精力的な作家活動でした。しかも晩年にはガンと闘いながらの執筆活動です。ほとんどが口述筆記によるとはいえ、まさしく伝道者的使命感抜きには、成り立たない仕事ぶりだったように思われます。遠藤周作とならんでわたしの好きなキリスト教作家だけに、その作品一冊一冊について感想を述べたい誘惑にかられます。しかし残念ながら、いまのわたしにはそんな時間の余裕もありませんので、いくつかの作品を中心におおまかに感想を述べるに留めたいと思います。
三浦綾子の著作は、だいたい三つに分類されます。純粋なフィクション、伝記小説、自伝・随筆・日記などがあるでしょうが、もしこのなかで一冊だけといわれれば、文句なく自伝「道ありき」です。歴史的文脈が違いますので、単純な比較はできませんが、内村鑑三の「余は如何にして基督信徒となりし乎」に比肩しうる珠玉の作品です。宣伝めいてやや嫌味に聞こえるかもしれませんが、三浦綾子の半生における、虚無と絶望から信仰への道へ至る、魂の壮絶にして感動のドラマになっています。現代日本キリスト教史における一大ドキュメントといっていいほどです。内村のそれと同様、キリスト教圏の国々、十数ケ国で翻訳されました。
三浦綾子の小説のテーマは、見事なほど一貫しています。この一貫性は、ひとつの信仰原理を全生活にわたって徹底させる、キリスト者としての作者の厳しく誠実な精神態度からきているのでしょう。厳しくというのは、誤解を招かないようにいっておきますと、あくまで自分に対し高い信仰規準を課しているという意味です。いま、ひとつの信仰原理といいましたが、それが三浦綾子の小説ではふたとおりの光のあて方がされているように思います。
Ⅰ.人間の原罪、赦しと魂の救いを主題とする―「氷点」・「続氷点」など
「氷点」の主人公である陽子は、殺人犯の子であると誤って告げられたことから、原罪に目覚め、自殺を図ります。そして「続氷点」で一命をとりとめた陽子ですが、今度は自分が殺人犯の娘ではなく、夫の出征中、母の不倫で生まれた子であることを知ります。そして「わたしは生まれてきて悪かった」と、不義の子としてこころに重い十字架を背負って、いっそう悩み苦しむのです。それと同時に自分を産み捨てた生母、恵子を憎しみ、また自分に対し冷酷なまでに辛くあたってきた養母、夏枝へも複雑な感情を抱くものの、心底では他人を責めるそのような自分の感情にも苦しみます。つまり陽子の生母への憎しみは消えず、到底赦す気にはなれないものの、その一方で罪を負った自分のような人間が、他人をどうして裁きえよう、といっそう深い思いにとらわれ、懊悩するのです。
生きることそれ自体が、お互いに憎しみ合い、傷つけ合うことを不可避としており、我々は利己的で弱く脆く不完全な人間であるしかない。また人間は、こころの底に自分自身にすら分からない深い闇を抱え込んだ、不条理な存在でもある。「生きるということは苦しく、また謎に満ちてい(る)」(三浦綾子の最愛の人だった前川正の遺書から)、人間存在の実相をこのように作者は描き出します。そこからは現に陽子がそうであるように、精神は、罪の赦しや救いの可能性を手探りでさがす方向に向かわざるをえません。なぜなら人間存在の実相を罪深きものととらえるのは、それ自体が罪への目覚めを前提にしており、救済の希求と裏腹の関係にあるからです。
さて、罪の赦しという問題で陽子の回心を促したのは、ふたつの出来事でした。ひとつは殺人犯の娘という出生の秘密をもつ友人の順子が、憎しみを乗り越え、父親を哀れな人間として赦す境地に立っていることを知ったことでした。もうひとつは、生母、恵子の夫三井弥吉が、じつは妻の不倫も陽子の出産も知っていながら、それを赦していたことを知ったことです。
なぜ弥吉は、妻の裏切りを責めずに赦したのか。それは弥吉自身に暗い過去があり、やはり重い十字架を背負って中国から引き揚げてきていたからです。戦争中中国で、弥吉は上官の命令に逆らえず、無抵抗の妊婦の腹を裂いて殺してしまいました。だから自分は戦争で犯罪を犯したのであり、重い罪を背負っている人間である。だから到底他人を裁く資格などないのであって、妻の不義を責める立場にはないと考えたのです。
この裁きと赦しというテーマについて、三浦綾子は別のところで新約聖書「ヨハネによる福音書」からひとつのエピソードを紹介しています。
あるとき姦通の現場を押さえられた女を、石打ちの刑で殺そうと人々がいきりたってイエスの前に連れてきました――じつはイエスを告発する口実をつかもうと、パリサイ人たちがそそのかしたのですが。
そして「モーセの律法では姦淫の罪を犯したものは、石で打ち殺せとありますが、どうしたいいでしょうか」と、なんどもイエスに迫ります。殺すべしといえば、日頃愛の実践を説く言動と矛盾するし、殺すべからずといえば、ユダヤの律法に反します。どちらを答えるにせよ、イエスは窮地に追い込まれるはずです。ところがイエスは答えました。
「あなた方のうちで罪を犯したことのないひとがいたら、そのものが石で打ち殺しなさい」と。するとひとり去り、ふたり去りして、ついには誰もいなくなったというのです。
同じ「ヨハネによる福音書」にあるイエスのことば― 「わたしが来たのは、この世を裁くためではなく、この世を救うためである」と考え合わせると、人間による人間の裁きは、罪の上塗りにほかならないことが分かります。神の子イエスにしても裁くどころか、逆にみずからの血と肉をもつて人間の罪を贖(あがな)い、罪を赦したのです。
最後に陽子は、オホーツク海の流氷原が燃え上がる幻影を目にして、罪深き人間を愛し赦すキリストの姿を垣間見たように思い、大いなる神の存在を直感します。そのあとは、生母、恵子に赦しを乞う電話をいれるところで物語は終わります。
つまりひとを赦し、救うところの大いなる「愛」そのものである神の存在を確信することによって、陽子は初めてこころが安らぎ、安心してこころを開くことができるようになったのです。ちょうど赤子が、母親のふところに大いなる愛情に包まれて安らうように。そしてついに、あれだけ憎んできた生母、恵子を赦し、またその憎しんだことを謝る心境になったのです。苦悩を通しての歓喜へ(シラー)、こうして陽子の重く苦しかった青春の彷徨は、ここにようやく幕を下ろすことになりました。
「積み木の箱」は、妻妾同居の異常な家庭で、人間不信と絶望に陥った主人公一郎を立ち直らせようと苦闘する担任の杉浦悠二らの愛のかかわりをテーマにしています。教育を人間愛の立場から捉え、その愛の実践と限界という角度から赦しと救いの問題を扱っているといっていいでしょう。
Ⅱ 「苦難の神義論」―世界と人間の不条理の問題を扱う
「苦難の神義論」とはなんでしょうか。簡単にいえば、苦しみが信仰にとってもつ意義を解明しようとした神学論です。キリスト教でいえば、つぎのような内容です。愛と正義の神が創造したはずのこの世界において、どうして悪と苦難が存在するのか。この世においては神に誠実であり、義のために真面目に生きる人間が苦難を背負い、かえつて不義、不信心な人間が富み栄えたりするのはどうしてなのであろうか。神の摂理、世界設計は完全であろうはずなのに、どうしてこの世に不正や不正義がはびこるのであろうか。こうした信仰上の疑問に答え、神の存在の確かさを論証するのが、「苦難の神義論」なのです。
この問題は、とくにユダヤ教やキリスト教にとって、この一見して不条理とみえる現実のあり様の由来を説明し、堅信のために信者にそれを納得させて越えさせなければならない重要な信仰上のハードルなのです。もし義人の信仰が報われず、苦難のみを蒙るとすれば、それは神が存在しない証拠ともされる虞(おそ)れがあるからです。旧約聖書のなかの「ヨブ記」は、苦難の神義論を説いたものといわれていますが、この書のテーマを正面から掲げて書かれているのが、三浦綾子の「続泥流地帯」です。
三代にわたる開拓の苦労の結果、上富良野の地を稲穂の茂る大地に変えた主人公の石村耕作一家でした。しかし大正15年の十勝岳の噴火による泥流災害で、家も田畑も社父祖母も姉妹も一挙に失うといった悲劇に見舞われます。周囲に反対もあるなか、泥流をかぶった田んぼの復旧に精を出す兄の祐一をみて、小学校教師である耕作は、「なぜ、こんな不幸にあわねばならないのか、兄貴ほどの正しい者が」と、憤りに似た疑問にとらわれるのです。
義人の蒙る苦難の不公平さという神学的問題が、ここで提起されています。また物語は、自己犠牲を厭わず、他人に尽くして生きるタイプの祐一や村長らの復興促進派と、自己の欲望のためなら平気で人を踏みつけにして恥ない、遊廓・深雪楼の主人深城らの反対派との激しい角逐を軸に展開されていきますが、これもいわば義人と悪との闘いという神学ドラマの構成を踏んでいます。
そしてこのドラマの脇役として重要なのは、親の借金のため深雪楼に身売りされた福子と耕作の母佐枝です。苦界に身を沈めても、純無垢な魂を失わない福子は、イエスが天国にいちばん近い人間とした「こころの貧しきもの」で、まるでドストエフスキーの登場人物を連想させる人物です。また信仰者として必要な資質であるその寡欲と謙虚さの故に、耕作はもの足らなさを感じていた母佐枝ですが、ついに耕作に「ヨブ記」を読むように勧めます。そして神義論をめぐる議論の陰の推進役を務め、最後に苦難の意味付けを示唆します。
以下、苦難の神義論にかかわる耕作らのやりとりを、いくつか任意にピック・アップしてみましょう。
◆耕作はあるとき同僚の先輩教師にむかっていいます。
「だけど先生、世の中、理屈に合わんようにできてるなあ。悪いことしているから不幸に遭うってんなら、わかるけどさあ。日進の沢にしろ、三重団体にしろ、みんなまじめに、コッコッ開拓して、その挙句が、死んだり、田畠が泥に埋まったりじゃあ、やつぱり割り切れんもんなあ」
◆耕作はこうも思う、「生きるということは、何の報いも望まないことなのか。どんな苦難に会おうと、只ひたすら、真実に生きてゆくべきなのだろうか」
◆「どうして深雪楼の深城のような男が、かすり傷ひとつ負わず、商売も繁昌しているのか」
◆耕作は祐―にいう、「しかしね。兄ちゃん。俺は不公平だと思うよ。もし神というものがいるとすればだよ。もっと公平であっていいと思うんだ。悪いことした奴は悪い報いを受ける。いいことをした奴はいい報いを受ける。それが神のいる証拠のような気がするんだがなあ」
のちに耕作は、この単純な考え方を否定します。この考え方、つまりよい行いにはよい結果がともない、悪い行いには悪い結果がともなう一善因楽果、悪因苦果― とする仏教的な因果応報論は、そうであってほしいというひとつの願望にすぎない、と考えるようになります。仏教には「地獄への道は、善意で敷きつめられている」という、人の世の逆説的現実への洞察力が欠けています。善と悪の捉え方が平板で、したがって一筋縄ではいかない苦難の意味づけを究明しようとするインセンテイヴと精神的緊張が、生まれてこないのです。だから泥流災害に対したとき、因果論ではそれを前世の業に規定された動かしがたいもの、仕方ないものとして受忍するだけの態度となり、積極的に復興へ立ち向かう意欲はそこからは生じてこないのです。
いま仏教といいましたが、例外は親鸞です。親鸞の「善人なをもて住生をとぐ、いはんや悪人をや」(善人ですら極楽浄士へいくことができる、ましてや悪人がいけるのは当然ではないか)という逆説が成り立つのは、浄土真宗の救済宗教としての性格によることは明白です。他力本願と愛の神へのまったき自己放椰と信頼とは、著しく近似しています。悪と善の問題を道徳的に捉えるだけの見方の限界を批判したのは、ヘーゲルです。ヘーゲルは歴史における悪の意味変換を指摘したうえで、悪の積極的役割を認めています。つまり旧来の社会構造を変えようとする改革派は、旧守派にとっては悪以外のなにものでもないというわけです。いずれにせよ、この世の動きを単純に善悪の二元論で割り切る見方―こんにちの原理主義的宗派主義的傾向にみられる―は、善悪の可変性に対して目を向けないために、独善と排除の論理に陥る危険性が大きいのです。
以下、物語の最終章で繰り広げられる苦難の神義論の議論の結末をご覧ください。
◆あるとき叔父の修平を交えた家族の団らんで、神は愛なりというキリスト教の教えを母佐枝は紹介する。すると修平は、神がそうだとしたら、どうして災難を下すんだ、と問い返す。佐枝がそれに答えて「人間の思いどおりにならないところに、なにか神の深いお考えがあると聞いていますよ。ですからね、苦難に合った時に、それを災難と思って歎くか、試練だと思って奮い立つか、その受けとめ方が大事なのではないでしょうか」
◆「試練だと受けとめて立ち上がった時にね、苦難の意味がわかるんじゃないだろうか」と、耕作は考えた。
こうして最後に佐枝と耕作は、苦難を神がわれわれに下した「試練」として受けとめることにおいて考えが一致しています。神の意図は、有限で不完全なわれわれ人間には理解できなくても、神のやることにはきちんと意味があるはずである。だから苦難を神が人間にあたえた試練としての受けとめ、それに耐えて神への全き信頼を貫き、愛そのものである神の救いを待つ、これがキリスト者の正しい道ということになるのでしょう。
事実は小説より奇なりで、三浦綾子は13年間の闘病生活をおくり、しかもそのうち七年間はギブスペットで仰向けに固定されたままで、食事も洗面も排便もいっさいその姿勢で行うことを余儀なくされました。彼女をキリスト教へと導いた最愛のひとであった前川正が亡くなったときも、死に顔すら見られずベッドの上でただひたすら泣いていたと、自伝に書いています。三浦綾子の際会した苦難は、ひとを絶望のどん底に陥れるに余りあるものでしたが、彼女のよりどころとなった信仰内容は、わけても「ヨブ記」に盛られた苦難の神義論でした。その後作家として成功してからも、血小板減少症(紫斑痛)、ヘルペス、直腸癌、パーキンソン病とつぎつぎと難病、死病に見舞われます。そのたびごとに苦しみに耐えぬき、自己省察と人間に対する洞察力を深めていき、新しい作品を生み出しました。非キリスト者の目にも、まるで神は三浦綾子をして人間存在の深淵をのぞかせ、力におごり愛をないがしろにする現代人の生き方の空虚さを世に知らしめるために、病いをあたえたかのごとくみえます。
このような書き方をすると、まるで三浦綾子の作品が、キリスト教神学を下地にしたプロパガンダ小説のように思われかねないことをおそれます。たしかに三浦の作品は、キリスト教の強いメッセージ性をもっていますが、そのために小説世界のもつ文学性が損なわれることはほとんどないように思われます。ストリーの組立ての巧みさ、多彩な個性の造形力、衡(てら)いのない平明達意の文体と快い物語のテンポなど、文学的才能が優れているからには違いありませんが、その他にも理由はいくつか考えられるでしょう、ひとつふたつ挙げてみましょう。
ひとつめは、 13年におよぶ闘病生活のなかで鍛えられ、血肉化された信仰の真実性と確かさです。絶望と虚無のどん底からついにつかみとった信仰の迫力は、神を信じないものの魂をも揺さぶらずにはおきません。作者の信仰のうちにある人間性の真実は、世とひとを根源からみつめる力となり、多少の神学臭さにもかかわらず、小説にいきいきとした深いリアリテイをあたえています。
ふたつめは、カトリック系のキリスト教作家とのいちばんの違いと思いますが、信仰が社会的に大きなふくらみを持っていることです。教師として戦争へ子供たちを駆り立てる教育を率先して行なったことへの痛烈な自責の念、深い罪の意識が、平和への強い関心の原点となっているのでしょう。戦争と平和の問題や虐げられたものへの強い関心は、晩年の「銃口」や虐殺されたプロレタリア作家、小林多喜二の母を主人公とする「母」という作品となって結実しています。とくに「母」では、多喜二の死の惨さと母セキの悲しみを、キリストの死の惨さと母マリアの悲しみ― A・カルトンやミケランジェロの「ピエタ」に表現されている― に重ねることによって、いかにもキリスト者らしく海よりも深い母の愛と悲しみを通して、権力犯罪の非道さを静かに告発する内容となっています。わたしは、「母」を晩年の円熟した文学作品として、その結晶度を高く評価します。主人公の語り形式のこの小説では、旧来の作品性格とは違ったリアリズムの技法で、普遍的な人間性の真実を射描き出すことに見事に成功しています。
社会科学用語にアコスミスムス(Akosmismus 無世界論)ということばがあります。平たくいえば、この世の実質が欠けていること、また世の実質的なことに無関心であること、の意味です。愛の無世界論といえば、キリスト教の無差別・無条件の普遍的な「隣人愛」のあり方をさします。つまり「無条件の赦し、無条件の施し、敵に対してさえも無条件なる愛、災禍に対して力をもって抵抗することもない無条件なる不正の甘受」(M・ウェーバー「宗教社会学1)といった態度です。
しかしこういう現世への無関心の態度や消極的受忍― さきに指摘したように、仏教の保守主義・遁世主義にも通ずる一ほど三浦綾子の態度から遠いものはありません。信仰の問題をたんなるこころの問題とする狭い精神主義にとらわれず、時代性や社会性のなかに魂の普遍的な問題を織り込んで、絶望と虚無から救済にいたる人間の生の豊かな内容を見事に描き出しております。愛の無世界論の問題を、三浦綾子「北国日記」では抽象的人類愛と隣人愛との区別として表現しています。隣人愛のためには、具体的行動が必要で実践がより困難だとしています。この世から退却して、純粋な精神性に閉じこもる敬虔主義や神秘主義との違いは明白です。
最後に三浦綾子の文学作品の際立った特質について、一言述べておきたいと思います。前掲「道ありき」のなかで、三浦綾子は「きけわだつみのこえ」の読後感をつぎのように述べています。
「わたしはこの本を読み終えた時、この世には読み終えたということのできない本のあることを感じた。いかに感動してよんだからと言っても、それだけでは読んだことにはならないのだ。・読んだ者の責任として、その後の生き方において、この本に応えなければならないという本もあるはずである」
かつてであれば、「実存的かかわり」とでもいったでしょう。問題の重さを自分の全人格において受けとめ、かけがえのない自分の人生に生き方として生かしていくこと、そういう姿勢のことを三浦綾子はいっているのです。しかしこれは三浦綾子の作品に向き合うときの、われわれに要求される精神的態度でもあろうかと思います。わたし自身は無神論者ですので、彼女の信仰には最終的には同調するものではありませんが、彼女が問いかけ、解こうとし、答えにたどり着いていった、その悪戦苦闘のドキュメントには、信仰の有無を越えてひとのこころを心底揺すぶり、共感を喚起するものがあります。
三浦綾子の登場によって、戦後一時流行語になった「実存」ということばが、甦ったように思われます。人間が死にいたる存在であること――この自覚を通してこそ人間の人格のかけがえのなさ(個別性)、生の一回性、他者との相互性という実存の内実が明らかになります。三浦綾子は、「『死』について思いを深めることが、私には『生』を深めることになる」として、死ヘの慮(おもんばか)りの“建設性”に言及しています。だからこそ三浦綾子の書くものには、死をテーマとしても死にまつわる陰気な暗さがないのでしょう。ぎりぎりのところで死が生へと反転し、そこにいのちの尊さ、光と希望が見いだされること、ただそこには三浦綾子にとって神の存在が不可欠です。
再度くどいようですが、三浦綾子の実存の捉え方は、孤立した個に封じ込められていません。戦争と平和の問題、教育や家庭の問題、愛と性の潤題、癌と死の問題等、いずれも現代の共通の課題を通し、人間存在の本来のあり方の喪失という意味での実存の危機を明らかにし、神に通づる道の不可避なることを説くのです。
最後に私見をつけ加えれば、わたしは実存という概念を難解な哲学的な奥義のようなものとは考えたくはありません。そうではなくて、もともと政治的な文脈で使われてきた「人権」概念の内面花されたもの、その内面的充実を表すものとして理解したいと思います。人権概念が、二十世紀に入って社会権という考え方によって外延が広がったように、実存概念によって内包が深まったと理解したいのです。
この角度からみると、三浦綾子における実存は、虚無と相互不信という現代人のヒューマニティの危機を通して、より豊かなヒューマニズムに至る道を示唆するものです。かつて実存は、明日への希望なき小市民層の危機状況を表すものでしかないとされたこともありました。しかし三浦文学は、危機が小市民層に限られない普遍的なものであり、さまざまな分野でさまざまな問題を通じて現れることを明らかにしてきました。そして人間存在の意味の不確かさに抗して、神を信じるものにも信じないものにも、人生はかくも重く尊いと、三浦綾子のすべての作品が、そう迫ってくるように思われるのです。
<文学社会学的視点から>
処女作「氷点」によっていきなリベストセラー作家になり、衝撃的なデビューを果たした三浦綾子でしたが、さきにみたように三浦の扱うテーマは、キリスト教的な深刻なものでした。その意味では三浦文学の大衆的人気の沸騰は、一見腑に落ちないところがあります。本来、日本のような八百よろずの神々の住まう汎神論的風土においては、キリスト教のいうような超越的な一神教の宗教は、かならずしも理解されやすいものではないはずです。かつ
て文化人類学者R・ベネデイクトの指摘したように、日本人の、内面ではなく体面を重んずる「恥の文化」にあっては、犯した意識すら持ちようのない原罪などという観念などは、到底受け容れがたいものだったはずです。
しかも三浦がデビューしたのは、 1964年、この年は日本の高度経済成長期のひとつのエポックをなした東京オリンピックが開催された年でした。高度成長と都市化、生活水準の向上という社会全体の流れと、三浦綾子の深刻な作品が広く読者に受け容れられたこととの関連は、やはり逆説的にみえます。もちろん作品の魅力がそうさせたのだと言えば、それまでですが、少しだけ立ち入って考えてみましょう。
三浦作品が広い読者に受け容れられた理由のひとつには、原罪や赦しなどという盛られたテーマの特異性や難解さにもかかわらず、昔の「母もの」といわれた人情映画に似た一種の通俗性や推理小説の謎解きに似た興味をそそる複雑な人間関係の展開など、大衆的な読者感情が容易についていける小説仕立てだったことがあげられるでしょう。
また現代人の精神的危機を扱ったテーマの深刻さにもかかわらず、作品に漂うのが、都市の中産階級的雰囲気であるということがあげられるでしょう。医師や教師、茶道や舞踊の師匠、病院経営者や中小企業の社長、新聞記者、大学生たちといった登場人物たちが醸し出すのは、中流社会的明るさです。かれらが暮らす、個室のある広々とした家の造り、身だしなみや趣味のよさ、ウィットに富む会話、適度の気配りと個人主義等々、どれもこれも都会の中流文化へのあこがれをかき立てるにはじゅうぶんです。これは明治以来、キリスト教徒になったのが、貧困にあえぐ無産の民ではなく、都市の教育ある中産階級が主であつたこと一またそれに限られたこと一と無関係ではないでしよう。例えばヨーロッパに似て教会勢力が、労働者層をも包み込んでおり、大きな社会的発言力をもつ、お隣の韓国社会との差は歴然としています。
さらには旭川を中心とする町並みや北海道の自然のもつ異国的雰囲気も物語の魅力を高めていることも見逃せないでしょう。ライラック、ポプラ、アカシア、リラなどの名前だけでも、一種独特の垢抜けした光景をイメージするのに十分なほどです。昭和三十年に原田康子の「挽歌」という小説が大ベストセラーになりましたが、それは不倫と死というテーマの展開に、釧路や摩周湖の濃霧のあるエキゾチックな風景が絶妙にマッチしていたのとよく似ています。
さらには平明で透明感ある文体も、こうしたものを表現するのに適しておりました。しかしここで問題にしたいのは、三浦文学の大衆性にではなく、深刻なテーマの側面に反応したのは、一体どのような読者層だったのかということです。
それはまず三浦綾子と同じ戦中派世代の女性たちだったと思います。戦中と戦後の混乱の時期に青春をおくり、やがて訪れた高度経済成長の担い手である男たちを支えた妻たちではなかったでしょうか。高度成長にともなう生活水準の向上―三種の神器!―は、欧米に遅れること三、四十年、疑似的にせよ近代日本で初めて大量の中流的意識を育てつつありました。
戦争による青春の喪失や身近なものの死、そして戦後の生活難という苦難の経験を経ながら、やがて高度成長の恩恵をうけて、いまようやく生活に余裕を持ち始めた女性たちの世代的共通意識と生活意識が、三浦文学の第一の共鳴盤をなしていたであろうことは容易に想像されます。三浦文学を支える苦難の神義論は、その神学的意味を別にしても、この世代には過去の経験からして容易に共感できるものでしたでしょう。
そしてこの戦中派に続いたのが、戦後の貧しさを記憶する戦後派世代と戦無派世代の読者でした。この世代に三浦文学のキリスト教的メッセージを受け容れさせたものは何だったのでしょうか。前の世代が高度経済成長の経済スタイルにすこぶる肯定的であったのに対し、この世代は市民層を中心に公害、交通難、住宅難等の都市問題の激化した社会背景もあって、一定批判的でした。「異議申し立て」は、当時の風潮でもありました。生活の表面的豊さが必ずしも精神的満足に結びつかないこと、都市化のなかでの核家族化で家族関係が揺らいでいること、都市のなかで伝統社会に替わる地域コミュニテイが未形成であること、したがってとくに都市の地域社会では相互連帯のきずなを形成する方途は容易には見いだされないこと、夫たちが企業社会にますます帰属意識を強めていくなかで、主婦層は自立心が強ければ強いほど、孤立しアィデンティティの危機にさらされる可能性があること等々、こうした世代状況こそ三浦文学を支持する要因だったと思います。
大衆社会のなかで孤立化した諸個人は、すべてミーイズム(私生活優先主義)に埋没して自足しているようにみえますが、じつは都市化社会のなかでの人間のきずなの結び難さに傷つきながらもなおそれを求め、自分自身を見いだそうと模索していたひとびともいたのです。初期作品の悩めるヒロインやヒーローは、なんといっても戦後派世代に属しており、こうした読者の分身といってよかったのです。
結論を急ぎましょう。三浦文学に多くに読者を引き寄せた社会的磁場は、中流意識の形成とそれに関わってのなんらかの不満や苦悩や挫折体験にあったのです。それに対して三浦文学が与えたものは、「ひかりと愛といのち」(三浦綾子記念文学館のメイン・テーマ)という観念でした。もっと有り体にいえば、競争社会の生きにくさを癒す愛と優しさ―三浦はひとを憂うことと読み解きました―と日々の生活に欠けている精神性でした。
三浦綾子は、エスタブリッシュメントの一部と化してしまったかにみえるキリスト教に対し、原始プロテスタンテイズムのあらあらしさ(ラディカリズム)をひっさげて現れたかにみえます。ラディカルという言葉には、根源という意味と激しさという意味があります。人間存在を根源からみつめ、怯(ひる)むことなくひとびとに生きる意味を問いかけていった生涯の仕事は、まさしくラディカルそのものでありました。それは、通常の伝道者とは少し違った仕方であれ、キリスト教的な理想である「世の光、地の塩」という形容を冠していい生き方だったといえます。
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