貧民・農民基盤のタクシン派が政権奪回 - タイは軍の支配脱し「真の民主化」できるか-
- 2011年 8月 11日
- 時代をみる
- インラック政権タイ伊藤力司軍部
東南アジアの上座部仏教国タイで8月5日、史上初の女性首相インラック・シナワトラ氏(44)が、7月3日に行われた総選挙で選ばれた新下院(定数500議席)で圧倒的多数(299票)で選出された。インラック氏は人も知るタクシン・シナワット元首相(62)の実妹で、亡命中のタクシン氏の指名でタクシン派のタイ貢献党を率いて総選挙に大勝したばかりだ。
タイ政治に詳しい作家下川祐治氏によると、「タイ政治には二つの顔がある。一つは選挙を通じた民主的議会制。もう一つが軍事政権だ。この二つが『タイ式民主主義』」だという(7月27日付信濃毎日新聞朝刊)。東北タイの貧しい農民や農村から出稼ぎにきた都市貧民層を支持母体とするタクシン派は2001年、2005年の総選挙で連続勝利して政権の座に就いていたが、2005年の軍部クーデターでタクシン内閣は追放されたのだった。
2007年12月の総選挙でも、タクシン首相時代の「タイ愛国党」から「国民の力党」と名を変えたタクシン派が圧勝。2008年2月成立した同党のサマック内閣は最高裁に憲法違反の罪で有罪判決を下され退陣。これを継承したソムチャン内閣も同年9月最高裁に選挙違反の罪で有罪判決を浴びて退陣せざるを得なくなった。そこで登場したのが軍部・王室・司法界、都市エリート層に支持された民主党を中心とするアピシット内閣だった。民主党は国民の力党より下位の第2党だったが、国民の力党から離反した分党などいくつかの少数政党と連立を組み、辛うじて過半数を得た。
貧しい階層を代表するタクシン派は軍部と司法界に政権を追放され、アピシット政権下で不遇をかこっていたが、2010年3月俗に言う「赤シャツ党」こと反独裁民主統一戦線(UDD)の名の下に、アピシット首相に国会解散を迫る大衆デモを首都バンコクで開始した。デモは3月から4月、5月と波状的に続き収まるところを知らなかった。
バンコク都心部を占拠したUDDは、高級デパートや4つ星ホテルが立ち並ぶ目抜き通りに農村の暮らしをそのまま持ち込んだ。テントの下で家族ごとに食事を摂り、路上の消火栓から引いた水でシャワーを浴び、夜は蚊帳をつってごろ寝した。これに対し都心部の住民であるバンコクのエリート層は嫌悪感をあらわにした。ビジネス街シーロム通り入り口で、タイヤと竹で築いたバリケードに対峙した地元市民グループはUDDに向かって「クワーイ(水牛め)!」と叫び、挑発し続けた。「学のない田舎者」「間抜け」といった嘲りの言葉だ。この国を支配し続けてきた都市エリートは、地方の貧しい農民をそう呼び「彼らはカネ次第で誰にでも投票する。選挙権を与える必要はない」と言い切る人すらいる(この項2010年5月27日付毎日新聞、西尾英之記者)とのことだ。
アピシット首相は2010年5月末、バンコク都心部を制圧していたUDDの赤シャツ隊の実力排除に踏み切り、軍隊を投入した。数日間にわたったタイ国軍とUDDの戦いは当然のことながら軍の勝利に終わり、2010年3~5月のバンコク騒乱事件は死者90人、負傷者2000人近くを出してようやく収拾した。この衝突を取材中だったロイター通信のカメラマン村本博之さん(当時43歳)が、何者かに撃たれて殉職したことは忘れられない。
このように軍部の力を借りてUDDの反政府闘争をしのいだアピシット政権だが、2011年に入ってからタイ・カンボジア国境にあるプレアビヒヤ寺院遺跡の帰属をめぐる国境紛争が激化。この紛争におけるタイ軍の対応が生ぬるいと怒ったのが「赤シャツ党」に対抗する「黄シャツ党」こと民主市民連合(PAD)である。PADはアピシット首相の民主党を支持する都市エリート層の大衆組織だが、この国境紛争でのアピシット首相の対応に抗議してデモを繰り広げた。いわばこうした「身内の反乱」で進退きわまったアピッと首相は、2011年5月下院解散に踏み切り、7月3日の総選挙でタクシン派のタイ貢献党に敗北したというわけである。
タクシン元首相は2001年から2005年の首相在任中、農村の中でも特に貧しい東北の農村部に手厚い補助金を投入しただけでなく、貧しい農村から出稼ぎに出てきた都市貧民層にも社会保障を導入した。こうしてタクシン派は農村部と都市貧民階層に厚い支持基盤を築き上げたのだ。当然のことながら、タイでも貧しい階層のほうが裕福な中産階級プラス上流階級より人口ははるかに多い。こうしてタクシン派は21世紀になってから行なわれた4回の総選挙にすべて勝利したのだ。
さてタクシン・シナワット氏である。19世紀、中国南方からタイに移住した華僑の3世である。1949年7月26日タイの古都チェンマイに生まれ、1973年警官となって出世の階段に足を踏み入れた。警官としての執務ぶりが評価され、国費による2度の米国留学を体験し、刑事訴訟の法学博士号を取得した。1987年に警察を辞職して通信・コンピューター会社を設立して急成長させた。その富をバックに政界に進出して外相、副首相を歴任、2001年総選挙では自らが党首であるタイ貢献党を大勝させて、首相に就任。2005年総選挙を経て首相に再選されたのに、同年9月の軍部クーデターで失脚させられた。
その後司法当局に汚職容疑で訴追され、2008年10月最高裁はタクシン被告を汚職防止法違反の罪で禁固2年の実刑判決を下した。さらに2010年2月には最高裁がタクシン被告に不正蓄財があったと認定、一族の資産の6割に当たる460億バーツ(約1200億円)の没収を認める判決を下した。
こうした経緯は、下層階級から身を起こした新興勢力を代表するタクシン氏に対し、最高裁や軍上層部に代表される既成エスタブリッシュメントの反発の強さを示している。既成エスタブリッシュメントの頂点はもとより王室である。王室はこれまで、軍部、司法界、学界、都市ブルジョワ層と中間層を支持母体に特権階級をリードしてきた。その頂点に立つのが83歳で病身のプミボン国王である。
1946年に即位したプミボン国王は在位既に65年、1952年即位のエリザベス英女王を抜いて世界最長老の君主である。実態はエスタブリッシュメント階層に支えられた王室だが、
建て前はあくまで全タイ国民のために君臨する国王である。そのタイ国民は、下層階級を代表するタクシン派を政権の座に付け続けている。タイ王室が生き延びるためには、新興勢力のタクシン派との共存を図らなければならないはずだ。英明を謳われるプミポン国王は高齢で病身だ。遠からず王位継承の時が来るはずだが、国民の間ではワチラロンコン皇太子の器量に問題があるというのが専らの噂である。父王譲りの聡明さの持ち主と言われる次女のシリントン王女の即位を望む声が多いと言われるのだが。
移民華僑3世のタクシン氏は、警官から実業家に転身してからの短期間に通信・電話関係のファミリー企業を立ち上げ、ビジネスマンとしても成功した。その富を背負って政界に進出してからも、異例の速さで首相にまで上り詰めた。政界での地位を利用して蓄財に励んだと最高裁で汚職の罪に問われたが、東南アジアの途上国では、汚職抜きの政治家や官僚は存在しないのが常識だ。こうした常識に照らしてタクシン氏が清廉潔白とは思われないが、度重なる最高裁でのタクシン断罪はやはり既成権力と新興勢力の対決の姿と理解すべきだろう。
さて2008年に禁固2年の実刑判決を言い渡されたタクシン氏は、投獄を逃れて英国やアラブ首長国連邦(UAR)などに亡命しながら、タイ国内のタクシン派を遠隔操作して復活のチャンスを覗ってきた。今回の総選挙に妹のインラック氏を首相候補に指名したのも、もちろんタクシン氏だ。そしてその作戦がまんまと成功した訳だが、インラック首相としてはいつの日か恩赦法によって兄を安全に帰国させたいし、おそらくはそれがタクシン氏からの遠隔命令でもあろう。タクシン氏帰国がいつごろ実現するか、それがタイ政治の成熟度を試す機会になるだろう。
上述したように過去10年ほどのタイ政治は、既成権力対新興勢力の対決の場であった。しかしタイで真の民主主義が育つためには、この両者の政治的妥協が必要だろう。既成権力はタクシン氏が移住華僑3世という新参者でありながら、伝統あるタイ王国を牛耳ろうとしていることに反発しているようだ。しかしタイ人のルーツはその昔中国南部に住んでいたタイ民族なのである。このタイ民族が現在のラオスを経由して次第に南下、13世紀にスコタイ王朝、14世紀にアユタヤ王朝を開いて繁栄した。アユタヤ王朝は18世紀後半ビルマに攻められて滅亡した。1782年チャクリがトンブリ王朝を倒してバンコクに王朝を開いた。これが現在のプミボン国王まで続いているチャクリ王朝である。
要するに既成権力側も中国南部に遠いルーツを持つ移住民の末裔である。タクシン氏や同氏に代表される新興勢力を「新参者」として差別する精神構造は、議会制民主主義の時代に合わないはずだ。そのことを自覚して多数派の貧民階級と妥協するのか、それともなお軍部を動かしてでも貧民政府を打倒しようとするのか。インラック内閣の登場の背後にはそうした暗闘がうごめいている。
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