ドイツ通信第201号 メルケル前首相へ最高位の大十字勲章が授与される――が、どうしても言っておかねば
- 2023年 5月 31日
- 評論・紹介・意見
- T・K生
前首相メルケルへの最高位といわれる大十字勲章の授与式が行われたのは4月17日でした。その決定が出された14日をピークにジャーナリスト、メディア、歴史学および政治学分野で一斉に記事、政治論文が書かれます。
メルケルのCDU党首としての20年、そして政権を担当した16年間を振り返り、その授与が相応しいのか、否か? 議題はこの点に集中します。
〈今さら、何を!〉の感がしないでもないのですが、一方で、どうしても自分の口からも言っておかねばとの思いから、議論に沿いながら自分の意見を書き留めておこうと思いました。
なぜ、2021年連邦議会選挙前後 DDR時代のメルケルの映像が流されたのか
2021年の連邦議会選挙前後だったでしょうか、ZDF(第二公共放送局)の定時ニュ-スで、突然、DDR学生時代と思われるメルケルにインタヴューをしようとした西側ジャーナリストに対して、手を振って拒否する彼女の動画が流されていました。TV定時ニュースは、それによって何を伝えたかったのか、今もってわかりません。
当時DDRのこの女子学生が、統一ドイツの首相に就任し、その16年間が今終わろうとしていると、でも言いたかったのか。
一つの疑問は、なぜこの時期にメルケルとDDRの関係を、しかも過去の古い記録を持ち出してきたのかという点です。それについて議論する機会は、過去20年間に十分あったはずです。メルケルが首相になった2005前後に、同じような議論がなされていた節が認められます。ただ、公然と表立った議論にはなっておらず、背後ですすめられていたような印象が個人的には残っています。
また、メルケルへの直接のインタヴューに際して、時としてこの点に触れる質問がなされても、メルケルからの正面切った返答はなかったように記憶しています。
その結果、自分の個人史を振り返って統一ドイツの政治議論を深めることに貢献しないばかりか、それを意図的に避けているようにも思われました。ジャーナリスト、メディアからもそこからさらに踏み込んだ追及はされませんでした。
ジャーナリストの質問へのメルケルの対応を、総じて〈気取らないで、控えめで、分別のある〉と評価され、それがドイツ市民に安心感を与え、人気を獲得する重要な要素になっていたのは事実です。
私には、眠気を誘うような話しぶりと内容でしたが、決定的なポイントは、メルケルの話にはオチがついていて、それを〈乾いたユーモア〉(メディア用語)で締めくくることです。ジャーナリストも、この時ばかりは仕事を楽しんでいたようです。
最後は、何が問題になっているのか分らなくなってしまうのです。シヴィアな課題を抱えながらも、議論、対立することなく首相と一緒に笑えることで両者の関係は安定していることになります。
社会の根深い批判的な意見が政治に直接突きつけられることはありません。
メルケルへの抑えられていたものがいっぺんに噴き出す
この辺の問題が、勲章授与でいっぺんに噴き出してきたように感じられてなりません。
過去に同位の勲章を受章しているのは1954年1月31日のコンラート・アデナウアー(CDU)、そして1998年10月26日ヘルムート・コール(CDU)の二人だけです。(注)
この決定直後のメディアのテーマは、果たしてメルケルがこの二人に並びうる貢献をしたのか、どうか?
では、1971年にノーベル平和賞を受賞しているヴィリー・ブラント(SPD)、そしてヘルムート・シュミット(SPD)と比較したメルケルの貢献とはないか?この一点につきます。
(注)アデナウアー――ナチ支配の崩壊後、ドイツのヨーロッパ編入と民主主義化をすすめた。
コール――ドイツ統一への貢献。
その一貫性は問わないとして、両者共にドイツのヨーロッパへの再編入が重要な意味を持っています。
勲章授与の決定は、大統領にあります。現大統領(フランク・ヴァルター・シュタイマイアー)は、「大連立政権」下で、10年間SPDの外務大臣を務めました。授与の理由説明を、東ドイツ出身の女性という点に焦点を当てていたようです。ユーロ危機、難民、そしてコロナ、EUに関する業績内容には、具体的にこれといった言及はされていない、あるいは伝わってくるものがなかったというのが私の正直な感想です。
なぜか?
ロシアのウクライナへの軍事侵攻によって、ドイツのロシア寄り、ロシア依存の外交、エネルギー戦略が根本的に問われました。とりわけ、戦後のエネルギー戦略となったブラントの〈東方外交〉へのSPD批判から、SPDは党としての責任を問われることになり、現大統領のシュタイマイアーをはじめ、「大連立政権」を担ったメンバー、党執行部からも強制された面があるとはいえ反省的な見解表明が出されました。
歴史の清算ではなく、ロシアのウクライナ軍事侵攻という厳とした現実から今何が問われ、なぜその結果を引き出したかへの総括から、ヨーロッパの安全戦略をめぐる議論を進めていくことでした。もっともSPDがそれをなしうるかどうかは別問題として。
他方、メルケルはプーチンとの外交関係、そしてロシアからのガス・パイプライン敷設は、「当時の判断としては正しい」と、現在でも自説を譲りません。それを政治学者は「メルケルの歴史主義」と評しました。
歴史を過去に遡り現在との対話からの新しい認識が生み出される余地など、そこにはありません。
歴史はそのように人間の意思にかかわりなく進むのであれば、人間の意識が変わり、歴史を変革することなど思いもよらないのです。
「気取らない」云々の裏を返せば、「権威主義」と同義だと一人の歴史学者(Andreas Roedder(注)は喝破しています。この見解は政治学、歴史学でのメルケル批判に共通な基本認識になっています。
(注)彼はCDUの党員で保守派グループに属し、綱領作成委員会のメンバーの一人です。
Der Tagesspiegel 10.01.21 Historiker Andreas Roedder:“ Merkel ist unpraetensioes und zugleich autoritaer“ Von Hans Monath
ロシア外交を共同で進めたこのシュタイマイアーとメルケルの関係ですから、最高位勲章授与の決定に疑問と批判が噴きあがるのは当然のことです。
興味あるのはCDUサイドからの批判と、SPDおよび緑の党からの賛辞が顕著であることです。
以下に先ず、この点をめぐる意見の整理をしておきます。議論の背景と核心を理解するうえで参考になると考えられるからです。
・CDUショイブレ(元財務大臣):「アデナウアー、ブラントそしてコールと並びうる位置を獲得できるのかどうかは疑わしい」と公然と批判。
・CDUリンネマン(綱領委員会メンバー):メルケル時代に喪失した「CDUの明確なプロフィールを取り戻す必要がある」と、16年間を振り返り「顔を失った」CDUの再生をアピール。
FDP:勲章授与に疑問を呈し、16年間の「不運な時間」後の「修理作業」が現三党政権の課題。
以上が批判的な見解の主なものですが、賛辞は現与党から送られることになります。
その前にCDUからの賛辞の言を、これが一般的に出回っている評価と考えられるところから、紹介しておきます。
CDUラシェット(前党代表で、2021年の連邦議会選挙で敗北):「世界危機の中での異なる連立政権によって16年間首相」を務め、「ドイツとヨーロッパを結びつけ、その政治は原則に忠実であった。」
歯の浮くような美辞麗句ですが、今日まで続く「世界危機」の規模と深淵さを顧みれば、「原則に忠実」な政治が、〈はたして何をもたらしたのか〉という点が評価の核心にならなければならないはずですが、具体的な内容が語られることはありません。したがって、各分野からの批判議論はその点に及ぶことになります。言葉をかえていえば、メルケルの「原則」が何だったのかが追及され、
今日の危機に対応できるドイツおよびヨーロッパの政治路線が模索されることになります。
その意味では、勲章授与が一つのよい契機になったのではないかと思われます。それ以上でも以下でもないでしょう。
もう一つの問題は、「なぜ、過去16年間にそれができなかったのか?」と、いつもの振出しに戻ることになるのですが、現与党の評価から問題の所在を考えてみます。
・SPDエスケン(党代表):メルケルを防衛するような口調で、特に「交渉手続きの手腕」によって「連立政権の耐えられる妥協」が成立し、ドイツは「激動する危機の時代」を乗り切ってきたと語られれば、誰しも批判の矢面に立たされているSPDの現状を防衛しているとしか受け取れないのです。現首相SPDショルツがメルケルの手法とスタイルを意識的に継承しているといわれる背景には、(安定した)政権維持への強い意志が読み取れる一方、他方、それによってメルケルの停滞政治にかわり、社会を動かす改革路線をどう実現するかの間で動揺し、板挟みになっている現状が見えてくるのです。
・緑の党ノウリポアー(党代表):長年にわたってドイツを「導いてきた数少ない政治家の一人」で、勲章授与を受け入れるために「すべての業績に同意する必要はない」と、奥歯にモノが挟まったような表現になっています。
最後に、CSUからは何も聞かれません。
〈ねじれ現象〉という言葉が聞かれましたが、それによって何が各政党の本来の政治指針であるのかが見抜けなくなってしまうのです。これが過去16年間のドイツの現状で、市民の中に不安、猜疑が広がり、政治と市民の繋がりが切断され、社会亀裂から生み出されてくる市民の不満や怒りが鬱積し、解決に向けた糸口が見つけられなくなってしまったことです。こうして極右派、ポピュリスト、ネオ・ナチ等が「怒れる市民」と称して台頭し、街頭デモが繰り返されることになりました。
こう考えると〈ねじれ現象〉の紐を解くことが、メルケル政治批判の核心に迫ることになるだろうと思われます。
「怒れる市民」のマヌーバーは、「右も左もない市民勢力」を結集させるというところにあります。
彼らが「個人の自由、権利、平和」ともっともらしく表現するとき、そこでは他国の人民が抑圧され、戦争と貧困による生活と命を破壊されている現実が忘却され、むしろそれが自己の経済・生活苦の原因であるかのように論理がすりかえられていくことになります。相互の関係性を意図的に対立させ、一方が他方を排除するところに差別主義、ナショナリズムそして人種主義が生み出されてくる経過がわかります。
そうではなく、例えばウクライナ戦争によるインフレで生活が苦しくなっているのは事実として、一方で、戦争で命が奪われ、他方で経済困窮が引き起こされれば、相互の関係性が問われなければならないと思うのです。その時、「自由、権利、平和」の議論が民主主義的な基盤で可能になるはずです。
ヨーロッパの発展からドイツは経済的のみならず社会的、文化的に大きな利益を受けてきました。そのヨーロッパが戦争、経済危機、難民で揺らいでいるとき、個人をヨーロッパの中に位置づけて自己の存在と責任を議論するところから民主主義は育っていくはずです。〈連帯〉の意味をそのように考えています。
2015年、正確にいえば「アラブの春」以降の2012年のイタリアへの難民、コロナそしてウクライナ戦争での極右派、ネオ・ナチ、ナショナリスの危険性とは、このヨーロッパの連帯が分断されることです。
議論を阻害したメルケルの専売特許の「選択肢のない」という枕詞
過去に公然とした議論が阻害されてきた一番の原因は、メルケルの専売特許になった「選択肢のない」(alternativlos)なる枕詞です。議論が分かれたときの積極的な意思形成ではなく、この一語ですべてが決定されていきました。異なる意見は顧みられることなく脇に押しやられ、そこが「怒れる市民」のたまり場になり、社会が分断されていきます。
戦後ドイツの社会安定を確保してきた中間層が解体され両極に分裂し始めます。それと同時に取り残された社会層がラジカル化していく土壌が形成されました。これが、この間の政治議論に見られる「中間層」問題だったと理解しています。
「危機管理の首相」とマスコミで表現されました。国会およびジャーナリストとの質疑応答で、批判には皮肉やユーモアを交えて答えようとするメルケルの姿を見て安心感を覚え、好ましく感じる市民が多くいたことは間違いないでしょう。
市民への身近さを感じさせないメルケルとはいえ、例えばコロナ禍で老齢者そして看護師、介護士への連帯を呼びかければ、彼女のエモーショナルな一面を見せつけられる思いがするのですが、どこか覚めていて親近さと切実さに欠け、突き放されている印象の方が強いのです。個性が伝わってこないのです。
一人ひとりの行動には、活動すればするほど個性が顕著になってきます。メルケルの政治は、その個性を消却したところに成り立っていたともいえるのです。これは歴代の政治家と比較した時に、はっきりしてきます。
「人を欺く手法」
メルケル「そのために、われわれは精を出して仕事をしなければならない」(Daran muessen wir arbeiten!)
その原因は、連帯を訴えながら、政治の具体的な方針が提示されることがないからです。市民が日常耐えている問題は残されたままで、市民がその窮地から脱し自主的に対応できるようになるまでの道筋が示されることはなく、マスコミ用語になった「これまで通り」(weiter so! )の政治が引き続き行われてきたからです。市民を政治に結集させていく牽引力とダイナミックは、そこにはありません。停滞した世界が浮かび上がってくるだけで、社会の矛盾物は底辺深く沈殿されていき、一触即発の時限爆弾になりかわっていきます。そこに極右派、ネオ・ナチ、ナショナリスト勢力が語りかけ、政治焦点化していることは、この間の経過で明らかになってきています。
この点をジャーナリストから突かれれば、メルケルはいつも「そのために、われわれは精を出して仕事をしなければならない」(Daran muessen wir arbeiten!)の常套句で切り返してきくるのが常です。これを一人のジャーナリスト(Stephan Hebel von FR)は「人を欺く手法」と喝破します。
2020年12月の初め、コロナ禍で学校のロック・ダウンが布かれた時、空気中感染を避けるために窓を定期的に開けて、換気を図るようコロナ対策本部から指示が出されました。その際、ドイツで生活するトルコ系向けのRadyo Metropol FM(Online)という放送局があり、そこで生徒の寒さ対策について質問を受けたメルケルは、「膝を折り曲げ屈伸したり、あるいは手をパチパチ打てば寒さがしのげる」と答えていました。
言葉だけを聞けばなんとも微笑ましいのですが、トルコ系子弟の教育問題とインテグレーションという現実的な問題から考えれば、さらにコロナ禍での学校教育という観点から見れば、論点を全く外してしまっているのです。それを説明したうえでの個人的な対応策であれば親に勧められもし、和やかに自分もやってみようと思う子供が出てくるはずですが、これでは反発を食うのではないかと怒りだけが持ち上がってきたものです。
家の向かいの保育園と学校に通う子供を持つ母親もこのインタヴューを聞いたらしく、腹立たしそうに「メルケルは忌まわしい(abscheulich )!」と吐きつけるように言ったものです。用語の意味は「嫌悪すべき、忌まわしい」ですが、連れ合いの説明では、この用語は攻撃的な論争に際して使用されるもので、通常の会話に、しかも高等教育を受けている母親が使ったことに驚いていました。
一例にすぎませんが、メルケル政治と市民の乖離現象を語るに十分だと思われ、そして私自身もそれ以来頭の中にこびりついていたテーマなので、ここに書き留めることにした次第です。
なぜか、メルケルの話を聞いていると頭にズシンとした重いシコリだけが残ってしまうのです。
批判が出るのは承知のうえです。「しかし、メルケルは支持率が高かったから16年間政権を維持したのではないか」と。
確かにそうです。全うな批判です。
問題は、その16年間政権をどう理解するかということでしょう。
結論から書きます。1998年から2005年までの「SPD―緑の党」連立政権に対する反発・反動がメルケル政治を生み出した決定的動機で、それを望んだ市民に家庭的で小市民的な安定感を与えたということです。街頭から家庭内への逆流が始まります。
メルケル政治を生み出したものとは
1998年16年間続いたコール(CDU)政権が裏金問題で崩壊し、「SPD―緑の党」連立政権が成立した当時は、コール自身のように脂肪太りして身動きできなかったドイツ社会が、一斉に自由に活動し始めました。人は街に飛び出し政治が語られ、文化が解放され、社会への目が見開かされました。個々人の、こう言っていいでしょうが、自己意識が形成され始め「インディヴィジュアル」という言葉が連日聞き、見られ、議論されるようになった時期です。
連立政権による「二重国籍」案に呼応するように、それまで社会の隅に追いやられていた外国人市民がドイツ社会の重要な構成員であることが意識化され、「血統」論から「共同体」論への国家概念の転換がすすめられます。
しかし1999年ヘッセンの州議会選挙では、それに反発するCDU(ローランド・コッホ)が「二重国籍反対」の署名活動を展開し、沈黙を強いられていたナショナリスト、保守派、そして極右派を外国人排斥に活気づけることになります。選挙結果は、戦後SPDの拠点といわれてきたヘッセン州が、CDUに敗北しました。
想像してください。街角に情宣スタンドを立て、そこで外国人嫌悪の署名に連なるドイツ市民の姿とその傍を不安気に通り過ぎる外国人――外国人の公道での通行が阻止され、足払いを食らわされている状況が浮かんできます。
この構造が、今日まで続くドイツの外国人問題の現状です。ここでの闘争です。
これを契機に極右派、ネオ・ナチその他保守派グループを含んだ政治潮流が公然と街頭に跋扈、台頭し始めます。
2000年でしたか、2001年でしたか記憶が定かではありませんが、9月の初めの日曜日に「SPD―緑の党」連立政権が「顔を示そう」(Gesicht zeigen!)のスローガンで、ベルリンで外国人排斥に対する大きな集会とデモが呼びかけられました。社会に自分たちの存在を示し、対抗勢力の力を見せつけよう!という宣戦布告です。
丁度その前日の土曜日に私たちはオペラ観劇に出かけていて、開幕前に舞台に立った女性が、「明日のベルリンの集会に連帯して闘いましょう!」と呼びかけました。観客には「二重国籍反対」に署名をした人たち、あるいは外国人排斥に同調する人たちも混じっているはずです。それを承知でのアピールですから、身震いするほどの感動を覚えました。
反動、保守派勢力による圧力で委縮されがちな状況にありながら、進むべき方向性を示し、外国人を含む社会の背筋をピシっと伸ばしてくれたのが、当時のアピールだったと今でも思っています。
文化(政治、またスポーツ)に「中庸、中立」という観念はないのです。人種主義、外国人排斥、差別主義に対して各自が「顔を示す」ところに、民主主義の価値観が成り立っていくということです。それを教えてくれた時期でした。
この勢いは反イラク戦争にも引き継がれ、アメリカとイギリスの戦争推進派への世界的な対抗軸を打ち立てることになりました。その背景にはドイツ市民の強力な援護がありました。CDUおよびメルケルはアメリカ支持の立場で、2002年の連邦議会選挙で「SPD―緑の党」連立政権に敗北することになります。
同時に、硬直した経済構造の変革を目的として労働市場および失業保障制度の改革が、周知の「ハルツⅣ」(2002年に計画、2005年導入)として準備され、これによってシュレーダー(SPD)を首班とする第三次政権は2005年の選挙で敗北します。労働者を中心に中・下層階級にあった支持基盤がシュレーダーを見放したからです。それのみならず、その後15年以上にもおよぶSPDの党派問題を引き起こし、路線が定まらないまま組織混乱を招く結果となり、連邦選挙で負け続けてきました。
労働者の権利と人権、そして社会保障のために闘い、あらゆる労働者の生存権を実現しようとしてきたSPDは、これによって自らの歴史的な役割を投げ出したのみならず、資本と国家の経済・財政負担を今まで以上に当の労働者にかけることになりました。
(長期)失業者の労働市場への再編入は労働への懲罰を含む強制によってではなく、低賃金の底上げから働き、生活できる労働環境を作り上げることによって、十分に可能だと思われるのです。そのために労働組合があります。SPDはそれを敵に回しました。低賃金労働者、失業者、生活保護受給者を相互に闘わせてしまったのが、最大の誤りでした。この痛手からSPDは、まだ立ち直っていないといえます。
「CDU―SPD」大連立政権下でこの点をめぐって興味深いのは、SPDが「ハルツⅣ」の悪夢から脱皮することを目指しながらも、CDU/メルケル側は「ハルツⅣ」を堅持しようとしたことです。経済がそれによって持ち直した事実があるからです。2017年連邦議会選挙でCDU―緑の党―FDP、いわゆる「ジャマイカ政権」がFDPの連立拒否にあい破産した時、SPDがJUSO(社会主義青年同盟)を中心に三度目の大連立を最後まで阻止しようとしたのは、伝統的な路線に回帰するためでしたが、実現しませんでした。
因みに、フランス大統領マクロンも「ハルツⅣ」を模範にしていると言われます。
この間、極右派の労働者グループも生み出されてきているのは、既に報じたところです。
その一方で、緑の党が自然環境保護をテーマに、青年層、中間層に支持基盤を固めてきます。
CDU党内権力をメルケルが手中に収めていく過程を再考する
この経過をCDU ・メルケルの側から再考してみます。メルケルが、CDU党内権力を手中に収めていく過程です。
メルケルがCDU党首になったのは2000年4月で、この時期に議会内CDUフラクション代表であったのは、フリードリヒ・メルツです。
二人の違いは、社会市場経済論(メルケル)か、新自由主義論(メルツ)かにあり、路線の不統一によって選挙戦を闘えないと思ったメルケルは、2002年フラクション代表を同時に掌握することになります。
その時の模様はメディアで報じられたように、お互いに向き合いメルケルが、「私か、あなたか?」(Ich oder Sie?)と決断を迫ったといわれています。党内権力闘争であったわけですが、そうであれば党内の路線論争が闘われるべきで、それによってCDUの党としての方針が定められていくはずです。私は、これが「選択肢のない」といわれるメルケルの意思決定のあり方を明確にさせた時点だと判断しています。
折れるしかなかったメルツは、経済界に下野し次のチャンスを窺うことになりました。同じくメルケル政治に対抗した政治家で、ヘッセン州の「二重国籍反対」署名を組織し選挙に勝利したコッホも、党を離れ弁護士として経済界に去りました。この二人は首相候補をめぐるメルケルへの対抗馬と目されていたところ、「追放された」というのがマスコミ評です。そうみられる根拠は、十分あります。
「選択肢のない」は、「議論排除」と表裏の関係になります。メルケルが、公開でテーマをめぐって議論した場面を見たことがありません。自説を語る姿は見ていますが、様々に異なる見解を自説にひきつけて、また論客と向かい合って議論してもらいたいと常々思うのですが、期待外れでした。これが党内にどういう影響を与えるのかとなると、一方で「同調者グループの集団」ができ上り、他方で、特に保守派といわれるグループが脱党しAfDを形成することになりました。
この点から、極右派の台頭をメルケル政治に求める論説は、従来からも多数見られます。
2022年1月31日にCDU代表に返り咲いたメルツには、AfDに流れる選挙票を、再度CDUに奪回する任務が課されます。現実には、CDUが外国人問題でさらに右派化する傾向を示し、
党内から先行きを危ぶむ声が聞かれ始めました。
2002年の選挙でのメルケルの重要なテーマは「税制改革」で、シュレーダーの「ハルツⅣ」に対抗しようとしますが、〈資本優遇、市民負担〉とシュレーダーから集中攻撃を受け、メルケル側は一つの反論もできない有様でした。この経験がメルケルに「議論排除」を確信させたのだと、私は考えています。
また、その後に続く連邦議会選挙での路線論争を振り返ってみても、選挙プラカードにはこれといって見当たるものはなく、メルケルのパーソナリティに焦点が当てられていたように思われます。
では、メルケルの政治路線がどこから形成されるのかというのが、次の問題です。
党内路線論争のない「同調者集団」の政治は、コロナ対策本部のメンバー構成で明らかになりました。同一傾向の専門家、医学者から成り立ち、各州との対策会議では、異なる見解の合意を取り付けることが困難、あるいは破綻したケースが何回かありました。その時メルケルは、TVで国民向けアピールを発し、これは皆さんも見られたことでしょう。
議論は、ロックダウンか、それ以外の別の対策が考えられるのか? 見解は二つに分かれていました。しかし、対策本部は、言ってみればロックダウン派で占められており、これを社会活動への影響から批判する医学者たちの意見は顧みられることがなく、大きな問題になっていました。
今から考えると、この時、医学と共に社会生活の両面からの議論が成立していれば、もっと違った議論と対策も可能ではなかったかと思われてなりません。
なぜなら、特に子どもの教育面と成長過程でコロナ後遺症が認められ、現在議論されているからです。
しかし当時は、公共放送局を筆頭にメディアも偏った報道姿勢を示し、批判的な医学者の意見が市民の中に伝えられることはほとんどなく、「反コロナ規制」運動に集まるグループは、ここでの情報操作を悪用・利用し、デマを振りまいていたといえるのです。
この構造は、ウクライナ戦争に際しても同様でしょう。
同調者グループによる弊害を感染学者(Matthias Schrappe)は、以下のように説明しています。(注)
指導部が、みな同じ見解を有する人たちで囲まれていれば、ただ誤りを恒久的に繰り返すだけのことになる
と。そうであるならばメルケルのTVアピールは、市民向けではなく、自己の手詰まり状況を語っていたのではないかと考えられるのです。
(注)Msn 16.02.21 Mediziener: “Kanzlerin leidet unter Kuba-Syndrom“
この現象を「キューバ・シンドローム」と名付けています。
2005年メルケルの第一次政権が成立した時の重要なテーマの一つは、〈教育問題とデジタル化〉だったように記憶しています。その後、どのような政策がとられてきたかは、2008年の金融危機に続くギリシャ・ユーロ危機の影に隠れて語られることがなかったように思われます。〈銀行救済と緊縮〉が第一義になり、教育をはじめ社会インフラへの投資が滞りました。15年後にその弊害が明らかになります。
コロナ禍でオンライン授業が必要とされた時、2020年のOECD報告によれば、ドイツの学校のWiFi接続率は26,2%にすぎず、仮に接続できたとしても受信が悪くクラスの窓を開け、そこに生徒がPCを持ちより勉強しているというニュースが流されていました。
また、こうした危機に対する事前の対策はゼロに等しく、オンライン授業にふさわしいITシステム、学習プロブラムが準備されていず、デンマークでは毎日91%のデジタル授業が行われているのに対して、ドイツは高々4%でした。
この現実を見ればドイツはEU他国に大幅な後れを取っているということではなく、まったく後退してしまっていたのです。語られはするが、実行性のない現実を見せつけられました。
もう一つの重要な問題は、金融機関が国家援助(市民の税金)で救助された半面、コロナ禍ではギリシャに見られたような緊縮政策によって崩壊した医療制度の現状が暴露されたことです。これがコロナ対策で後手を取り、医療従事者への計り知れない重労働を強制した原因だと思います。それに加え決定的には、医療関係のデジタル・ネットワークができ上っていないことにより患者、家族、市民との即時の連絡、登録体制が取れず、情報処理と発信で混乱を招いたことは、接種センターで肌身に体験しました。
腹立たしいのは、この問題を踏まえた上での対策ですが、メルケルからは具体的に語られることはなく、TVアピールだけでした。
では、16年間に「難民首相」、「環境首相」、そして「メルケルのSPD化」、「メルケルの緑の党化」と書かれたメディアの見出しの意味は一体何だったのか?
〈環境問題〉と取り上げてみます。「SPD―緑の党」連立政権による「脱原発法案」が発効することになったのは2002年4月22日でした。それによって20年後をめどに、ドイツは原発からの撤退に向け進路を定めました。
議論は、エネルギー供給での「ブラック・ボックス」を避けるために、石炭、石油等化石燃料から自然再生エネルギーへの転換をどう進めるかです。この点をめぐって今日まで長い議論が続けられています。
SPDは炭鉱労働者を重要な組織基盤にしてきたことから、はっきりした路線をここでは打ち出し切れず、自然エネルギ―推進との間で右往左往します。これに対して緑の党は、自然エネルギーへの早急な転換の必要性を訴えますが、風力発電の高架線建設をめぐり地域、農村での抵抗が強くなってきます。景観と自然を保護し、野鳥・動物を擁護し、風車騒音から健康を守るための反対運動が組織されます。
環境保護には同意するが、家の玄関先まではお断り!(Umweltschutz ja, vor der Tuer nein!)
とメディアで揶揄され始めます。地域、農村の住民不在の下で環境保護は進まないということでしょう。
エネルギー戦略をめぐるCDU/CSUからの「SPD―緑の党」批判のポイントは、「ブラック・ボックス」の不安を煽ることです。そこでテクノロジーとしての原発の有用性と、「原発の平和利用」が強調されます。産業への適用といっていいかと思いますが、目的とするところは、〈安いエネルギー確保とCO2削減〉を訴えることです。
これを根拠にメルケルは、「SPD―緑の党」脱原発法案を改め、原発の稼働延長を決めました。原発を「過渡期のテクノジー」と規定したのは、2009年発足の「CDU―FDP」連立、メルケル第二次政権の時です。FDPとの違いは、単に延長期間の長短をめぐるものにすぎません。
しかし、2011年3月フクシマ原発事故が原発維持・稼働延長派の様々な言い訳を、一瞬にして吹き飛ばしてしまいました。その直後から予定されていた各州選挙では、CDUが敗北に敗北を重ね、CDUの権力基盤が揺らぎ始めます。その危機感にあおられたメルケルは、急遽、2022年までの原発からの撤退を決定しました。振り子が元に戻されたことになります。
この時の緑の党の勢いには、止まる様子が見られませんでした。
2019年10月当時のCDU経済・エネルギー大臣(ペーター・アルトマイアー)は、ロシア、アゼルバイジャンのガス及びエネルギー戦略をめぐる経済関係者――内実はロビイストとの会合で、
「ガスは、単に重要だけではなく、セクシー!」(注)
だと打ち上げたものです。これを聞いたロビイストのほくそ笑む顔が浮かんできます。アルトマイアーは、第三次メルケル政府の、首相府長官をも務めている戦略的な重鎮です。
(注)Gas ist nicht nur wichtig, es ist sexy!
ロシアとCDU /CSUのネット・ワークは根深く、リストには元バイエルン州首相(Edmund Stoiber)、元環境大臣(Klaus Toepfer、1987-1994のコール政権下)、現ザクセン州首相(Michael Kretschmer)、その前任者(Stanislaw Tillich)の名前が並び、更にコンラート・アデナウアー財団も参加しています。
そのCDU/CSUが、SPDのロシア外交を批判し、メルケルは、これまでのロシア外交を正当化します。
戦後のドイツのロシア外交は、基本的にロシアをヨーロッパに編入し、ヨーロッパの平和と安全、再び戦争を繰り返さないための共同体制を築き上げると同時に、あるいはそのためにロシアとの経済関係を継続していくことでした。その役割を果たしたのが、ガス等の地下資源です。
ここに、SPDのブラント東方外交とCDU外交の違いが認められます。ブラントの外交はそれに加え、社会・文化の影響から体制の相互変革という別の目的を持っている一方で、CDU外交は経済の利害関係が第一義になっているといえます。そしてこの違いは、いわゆる旧東欧地域での民主化運動が起きたときの対応の違いとなって現われてきます。それを市民運動の側から支援するのか、事象結果から新しい国家関係を作り上げる、すなわち政治状況の運営管理をするだけかの違いです。
議論されるべきはロシアを含むヨーロッパの共同安全戦略にあったように思われます。
プーチンのウクライナ軍事侵攻が始まった直後、政治家の一部で、「プーチン理解者」といわれるメルケルにプーチンとの話し合いを依頼しようとする発言が聞かれたものです。もちろん、それ以上には何も進みませんでしたが、虚を突かれて狼狽するドイツの姿が、そこにありました。
しかし、政治の運営管理には権力が必要なことから、メルケルは状況に応じてSPDの社会・労働政策, また別の機会には緑の党の環境問題をCDUの党派路線・綱領にかかわりなく取り入れていくことになります。
これが上記した「難民首相」、「環境首相」、そして「メルケルのSPD化」、「メルケルの緑の党化」といわれる意味です。こうして野党―与党の区別が消滅させられます。
激烈な論戦にならないことから、政府への安心感と安定感が印象付けられます。これを、連立政権を維持するための政治手腕、あるいはメルケル手続きの柔軟さということもできますが、決定的な問題は、市民と社会の動向を見ながらSPDそして緑の党に対抗し、権力が奪取されないための自己防衛でしかないということです。新しい政治に向けた創造性の欠片もありません。
これをジャーナリストの一人はマキャベリズムではなく、「非対称な動員」と呼び、最高位の勲章授与に相当しないと批判します。(注)
(注) Focus.de 17.04.2023
Merkel erfand die ?asymmetrische Mobilisierung“ von Ulrich Reitz
政治をつくり上げるのではなく、政治の断片を並べているにすぎないのです。その結果はCDUのポロフィールが喪失し、保守、右派の反発が極右派に流れ、党の収束がつかなくなりました。
アメリカはプーチンのウクライナ軍事侵攻を、前もってドイツに警告していたといわれます。メルケルが具体的な判断をとらなかった背景には、二つの問題性が考えられるだろうと思います。
メルケル、二つの問題性
1.この時、確実にイラク戦争に突っ走るアメリカの情報操作―フェイク情報の経験が頭をよぎったはずです。そういう私も、またドイツ市民も情報の信憑性に疑問を持っていました。
2.しかし、ウクライナ戦争勃発後にヨーロッパとウクライナの社会がどう変わり、どう変えていくのかは、メルケル外交では説明できないと思われます。「プーチン理解者」が、プーチンを理解できなくなってしまっているのです。だから、ガス・パイプラインは「戦争手段に利用されていない」との主張を固持すことになると考えられます。
最後に、元フィンランド首相サンナ・マリン(SDP)の言葉を紹介しておきます。
アンゲラ・メルケルの宥和政策は、失敗に終わった。ロシアは、全ヨーロッパ大陸を脅迫するために、ドイツの(経済の―筆者)原動力を安いガスに、それも大変巧妙なやり方で依存させた。
(つづく)
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