仙台地裁の女川原子力発電所の運転停止請求への判決について
- 2023年 5月 31日
- 交流の広場
- 椎名鉄雄
一介の老人という立場でこの度の判決について疑問を感じています。この裁判で原告は、原発事故が発生したときの避難計画に実効性がないことを訴えています。何故、実効性がないかといえば、原発事故が起きたときの道路の状況を問題にしています。事故が起きたときには一斉に避難が開始され、避難道路は大混雑となることが想定され、避難は計画書のどおりには進まないのではないか、人々はその渋滞の間に大量の放射能を浴びることになるのではないか。つまり避難計画には実効性がないことを主張しています。一旦、原発事故が発生すれば、近隣の住民は逃げ場を失い大きな被害を被ることになる、と主張しています。住民たちは、福島第一原発事故発生後の大混乱を忘れていません。原発は決して安全ではないと信じているのです。
この住民の主張を裁判官は棄却したのです。棄却の理由として、原告が原発事故が起こる危険性について具体的な主張、立証をしていない、としています。そして、一方で裁判官は、想定を超えた自然災害等により、原発事故が起きる危険性を完全には否定できないとしながら、そうした危険性は〔抽象的なものと言わざるをえない〕と断定し、危険性を排除しています。しかし、原発事故の危険性は裁判官が言うような抽象的なものではありません。現に福島原発事故や、チェルノブイル原発事故が起きているではないか。今後30年以内に太平洋岸において巨大地震が発生する可能性は70%以上あると予測されているではないか。そうした中で、原発事故の危険性を立証せよとはどんなことなのか。いつ何処で、どの程度の規模の地震、津波等が起き、その結果原発施設に重大な損傷を与えることを証明せよということなのか。このような証明は、今の科学水準では不可能とされているのではないか。裁判官は原発事故の危険性を認めながら、その危険性を抽象的なものとして排除するというおかしな論理を展開しています。こんな論理が法律の世界では成り立つのでしょうか。法律に詳しい人に教えていただきたいと思います。
私は、今度の仙台地裁の判決には納得できません。原告の立証責任を果していないことを理由に「避難計画の実効性」についての実効性があるかないか判断をしていません。肝心な判断をしないで訴えを棄却しているのです。原告は過去の経験或いは科学的な予測等から、原発の危険性を前提に避難計画の不備(実効性がない)を指摘しているのです。避難計画の「実効性」は住民の命にかかわることです。裁判官は法律理論上は、一貫性を保っている、と思っているようですが、自ら原発の危険性を否定できないとも言っています。危険性を否定できないのであれば、事故に備えて住民に信頼される実効性のある避難計画をつくって充分に周知徹底しておくことが、原発を推進する側の当然な義務ではないか。万一、原発事故が起きた場合、避難計画に実効性がなく、住民の安全が確保できない可能性が高いと判断されれば、裁判官は原発再稼動中止の判決を下すべきではないか。
法理論に素人の私には、以上のようなことを踏まえて考えると、この裁判は「原発事故は起きない」(安全神話)との前提を置いて判決を下しているとしか考えられない。(この背景には、東北電力側の2024年2月の再稼働計画が存在する)
2011年3月の福島原発事故は、行政、事業者側の「安全神話」(安全であることを前提に、やるべき事をやっていない)の中から生まれた人災である、と「福島第一原発国会事故調査委員会」は国会に報告しています。上記の状況から考えると、私には今尚、日本の司法、行政、事業者の中に安全神話は生きているとしか思えない、との感想を持ちましたが、法律に詳しい人はどんな感想を持っているでしょうか。
5月28日
以上
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