村の記憧 2 天狗騒乱
- 2023年 6月 5日
- 評論・紹介・意見
- 曾澤伸憲水戸天狗党
義民としての、農民としての菊地
私が大学に入り学生運動に熱中していたころ何かのきっかけがあり「水戸天狗党」のことを調べようと思ったことがありました。しかしそれはすぐに中断してしまいました。水戸藩の、久慈郡の仲間内の争い、とりわけ村における農民同士の争いの過酷さに嫌気がさし、究明する意欲がなくなってしまったのです。
私が生まれた金砂郷村、育った中染村では「天狗」が話題になったことは、今もって一度もありません。久慈郡では意識にも上らないほどの徹底したタブーなのでしよう。ただ一度、学生時代、隣村で「菊地家」のお墓がやっと百年ぶりに建てられたと小声で話題になったことがありました。
私はえも知れぬ胸騒ぎをした記憶があります。私を育ててくれた祖父、曾澤初吉はもとは菊地初吉だったのです。なぜ百年もの間お墓を建てられなかったのだろう?と疑間に思った次第です。
祖父は自分の子供の頃の話をほとんどしませんでした。しないというより分からないのだと思います。菊地初吉は根本末吉と菊地すえの、の子として明治33年に生まれました。すえの、の父、池次部介は文政12 年久慈郡金砂郷村で生まれました。初吉の父は初吉が物心つかないうちに亡くなり、母はすぐに再婚したと言うこと以外何もわかりません。曾澤初吉の波乱に満ちた人生の話はまたの機会にします
天狗騒乱の中で水戸藩郷士、義民として生きた(死んだ)菊地姓の人が22名います。菊地源三郎は中染村で二本松兵と戦い討ち死に。菊地五郎次は中染村で捕まりその後死亡。郷士、義民として生きそして死んた者は菊地に限らずその後すべてが靖国神社に合祀されています。
他方、天狗党の一味とみられた頼徳軍の大津隊が助川陣屋を逃れ中染村にやってきたとき藩兵とともに中染村の農民は農兵として村を守るため「天狗覚」を攻撃したのです。
中染村、大子村等の久慈郡の村々は、特に庄屋、村役人層たちは光圀以来の「風土」があり尊攘派が多かったのです。しかし「門閥派」が藩の実権を握り農民にたいし天狗退治を指示しました。これに対し一部の農民は例えば大子村の天狗党を支持した、加わった庄屋、村役人の家を襲い破壊し等の過酷な行動で答えたのです。悲惨なことは後日この逆なことが水戸藩の村々で起きたことです。
「諸生党」の指揮下で戦った多くの農民、菊池姓の農民の大方は今もってお墓もないのです。天狗党の横暴から、あるいは食うや食わずの村を守るために蜂起した農民はすべての資料から抹殺され、永遠に許されざるものなのです。幾つかのことから類推すると菊地初吉の親たちは多分こちらの側だと思われます。
水戸藩と幕府の軋轢
幕末、徳川300年の幕藩体制はあらゆる面で疲弊し矛盾が噴出していました。農村は疲弊し水戸藩の農民の数も減少していました。一揆、打ちこわしの多発、そして生きていけないがための「子殺し」があった時代です。そうした時代の転換期に水戸藩の「尊王攘夷」と言う心田一和、が「宗教思想」として救世主のごとく独り歩きを始めたのです。
井伊直弼の支配する幕府はペリー来航に始まった外国(蛮夷)の圧力の中で条約調印(日米修好通商条約)を「現実判断」としてせざるを得ない状況にありました。これに対し水戸家の当主、斉昭は攘夷を主唳し朝廷に働きかけをして対抗します。また将軍後継問題でも安静5年の井伊直弼による老中会議で紀州の慶福後継が内定していましたが、これに対し水戸の斉昭、島津斉彬等がより英明な斉昭の子一橋慶喜を後継に押そうとし対抗します。
この「水戸の陰謀」に対し直弼は「安政の大獄で」で切り抜けようとしました。吉田松陰、橋本左内の斬罪と同時に「戊午の密勅」に絡んで水戸藩家老、安島帯刀等水戸藩士の斬罪も多数あり、斉昭は永蟄居になります。密勅に関係したとされる公家40余名も処分されます。
水戸藩の内戦
井伊直弼の幕府と斉昭の水戸藩の対立は「戊の密勅」を契機に決定的となり、同時に水戸藩の内部対立は農民を巻き込んで内戦に変容していきます。戊午の密勅、朝廷からの勅錠が水戸藩に届いたのが安政5年 ( 1858年) 8月17日です。明治維新の10年前で、ある意味これが明治維新の最初の一歩だったのです。水戸藩と幕府は戦争前夜の様相を呈し同時に水戸藩は内戦前夜となっていきます。
戊午の密勅は複雑な側而がありますが嗄点は以下のようですが、その前に朝廷から一大名に勅錠が出されたことは徳川300年の歴史で一度もありません。密書の中身も問題なのですが、このこと自体が幕藩体制の否定、根幹に触れる問題だったのです。
朝廷(天皇)は通商条約を裁可していなく幕府が勝手にやっている。「朕はあってなきがごとく」だ。公武合体を強くし徳川家を助け今後は外様大名を含め多くの関係者で会議を開き物事を決めよ。この勅錠をよく理解し水戸藩から全国の藩に連絡してほしい、と言うものです
この密書自体が持っている矛盾が水戸藩内部で拡大再生産され、やが
て水戸藩を解体。消滅に導きます。公武合体し徳川家を助けよい体制づくりに水戸藩が努力し全国の藩に檄を飛ばしてほしい、というものです。勝手に通商条約を結んだ井伊直弼の幕府はけしからぬから「本当の幕府」「300年続いた権現様の幕府」と手を組んで御政道を正そうというものです。
「本当の幕府」という観念は水戸藩全体に、とりわけ後述する「檄派」と呼はれる集団にも色濃く刷り込まれており水戸藩解体の悲劇の基となっていきます。
この一瞬、水戸藩の尊王攘夷と言う「宗教思想」は具体化、現実化したかに見えましたが実際はあまりに過酷な内戦と水戸藩消滅の第一歩だったのです。
尊王攘夷は水戸藩の藩是として藩士から「郷校」を介して農民までの心をとらえていました。水戸藩の「宗教思想」として人々の心に根を張っていました。攘夷が揺らぐようなことがあれば水戸街道の小金宿等(松戸市小金)に藩士、農民が多数集まり街道を占拠し江戸に乗り込む構えを見せます。
幕府、井伊直弼はたびたび繰り返されるこのような群衆の「反乱」と前代未聞の「戊午の密勅」がオーバーラップし水戸藩つぶしにかかります。安政の大獄は実質、水戸の大獄でした。
井伊直弼の幕府は朝廷工作を介して「戊午の密勅」はけしからぬ幕府に返せと迫り、またこれに関係したとされ家老はじめ藩の幹部3名も惨殺されます。
蟄居中の斉昭は返すなら当然朝廷でなければならぬと正論を主張します。また幕末のバイプル「新論」の著者であり藩校、弘道館の責任者、曾澤正志斎は彼我の力関係、政治状況を勘案し幕府返納が現実的だと言う、いつもの「現実論」で「鎮派」を代弁します。高橋多一郎ら「檄派」は「戊午の密勅」に書いてある通り-、これを返さず全国の藩に通達(勅書回達)すべしと主張します。
幕府の水戸藩弾圧はあの手この手で繰り返されます。檄派に近いとされて水戸藩の江戸家老、岡田、大場、武田耕雲斎が隠居させられます。
藩主の慶篤(斉昭の子)の判断ですが、これ以降、定見を持たない慶篤の時々の判断で内紛は必要以上により過激に拡大されてしまいます。
水戸藩の内部対立は当初、過激な尊王攘夷派(激派)と穏健な尊王攘夷派(鎮派)の対立でしたが、 これに「保守派」と言われる(諸生党) が加わり、最終的に檄派と諸生党の内戦となっていきます。檄派、つまり天狗党は幕府と戦い、諸生党と戦うことになります。
天狗の決起と水戸藩の内戦
元治元年( 1864年)藤田小四郎、田丸稲之介を44kに郷校の「生徒」百数十名が筑波山に集まりました。これが天狗党で、目的は幕府の「御本尊」日光東照宮に参拝し、ここから全国の尊攘派に決起を呼びかけ、尊王攘夷の全国一斉蜂起の圧力をもって幕府に攘夷の実行を迫るというものでした。
これは絵空事ではなく一分の可能性はあったのではないかと思われます。京都における土佐藩の追放等のことあり実現はしませんでしたが、決起はもともと一分の可能性を信じて行うものだと思います。曾澤正志斎は「現実論」をもってほれ見たことかと、つぶやきますがそれは傍観者の哲学、思懇なのです。
全国一斉蜂起は実現せず天狗党は筑波山に戻ります。幕府はこれを「賊徒」とし、水戸藩のみならず近辺の各藩に追討命令を出します。幕府による天狗党賊徒指定に呼応する形で諸生党が水戸藩の実権を握っていきます。これ以降水戸藩各所で天狗党は幕府軍、諸生党と戦うことになります。天狗覚は斉昭の藩制改革で頭角を現した下級藩士と郷校で育った下級武士、豪農、神官等です。諸生党は藩の上級藩士、門閥、弘道館の書生等です。しかし内戦の過程で多くの農民がこの諸生党の「指揮下」に人り内戦が抜き差しならないものになっていきます。
水戸藩の内戦
「檄派」と「諸生党」の争いだけでしたら藩の主導権争い「党派闘争」に終わったのです。しかし、二つの要因でそうはなりませんでした。
一つは尊王攘夷には幕藩体制と言う国の形を変える要素が内包されていたことです。もう一つはこの内紛のそれぞれの「党派」に多くの農民が参加した、決起したことです。このことにより水戸藩の内紛は我が国始まって以来の内戦になっていきます。
当時水戸藩の人口は約24万人、藩士約千人、郷士等藩関係者約5千人です。この内戦で名前がわかっている千七百余名がなくなったことが分かっています。しかし犠牲者数は3000名とも5000名ともいわれています。水戸藩の20代から40代の男の「働き盛り」の人口を40000人とイ反定すると10人に一人亡くなっていることになり、まさに内戦です。鯉渕勢と言われる農民軍2600名を含めて10000名以上の農民がこの内戦に参加していきます。死者の多くは農民同士の「戦い」で亡くなったと思われます。
斉昭の改革
徳川斉昭は文政年( 1829 )に水戸藩第9代藩主となり様々な改革を進めます。その改革の過程で、当然のこととして改革派と守旧派(門閥
派)の対立が生み出されてきます。
藩校弘道館と郷校の設立。弘道館では門閥派を抑え下級武士の藤田東湖、安島帯刀、曾澤正志斎、武田耕雲斎等を迎え藩政改革に乗り出します。
水戸藩郷校15のうち13は斉昭が作ったとされています。久慈郡中染村近くにも三つの郷校が作られました。田郷校、小菅郷校、太田郷校です。
尊攘に燃える下級武士、郷士、農民が集まり文武を学んだのです。中染村の隣の小菅郷校では計3 7畳の部屋と同規模の武道場そして広大な練兵場がありました。斉昭の改革の一つとして「農兵」があります。平安の昔から戦は武士がするものと決まっていたのですが、外国船の頻繁な出没をうけて攘夷の実行を目指し国民皆兵としての「農兵」を組織し武術は無論鉄砲、大砲の射撃訓練を始めたのです。
私は武道(剣道)をしていますが、始めたころの驚きと、すこし上達した時の気持ちは誰も同じだと思います。いつ死んでもいいとか、やけに自慢がしたくなります。武道を始めた農民は新しい世界が開かれたはずですし、同じような気持ちで村中に「戦いの心」を広めたはずです。戦いは殺し合いです。相手を殺すか自分が殺されるかの過酷な行為で
す。だからこそ殺し合いの専門集団、武士ができ戦いの「心」と思想を作り、また戦い、殺し合いのルールを作ったのです。戦いへの「農兵」の参加はこのルールを逸脱していきます、
天狗党の中心メンバーはこの郷校の責任者たちでした。また天狗党の 一員として戦った郷士等の農民は、そのほとんどが郷校の出身です。
水戸藩の争いが、悲惨な内戦となった要因の一つはこの「農兵」の存在があったことではないでしようか。
斉昭は「農兵」の創設以外にも大砲建造のための反射炉建設、洋式軍艦「旭日丸」の建造等、攘夷の準備をします。
天狗の「長征」
天狗党は幕府軍、諸生党と戦いを繰り返していたが次の方針が出ませんでした。天狗党は各所で勇敢に戦っていたのですが、負けてはいなかったが勝ってもいませんでした。
1864年10月24日久慈郡大子村で軍議が開かれ京都に行くことが決まりました。京都にいる一橋慶喜(斉昭の子)に諸生党の横暴を訴え、幕府と敵対する意思はなく、朝廷に攘夷を決断するよう訴えようと言うものです。
武田耕雲斎を総大将に山口兵部、田丸左京、藤田小四郎等を中心に1 0数名程の武裝集団です。きらびやかな武装した大名行列のような隊列を組んで常陸の国から京都へと徳川幕府始まって以来の前代未聞の行進が始まったのです。
田中愿蔵隊の苦い経験から通り道の農民等に迷惑をかけぬよう規則を厳重に守りながらの行進でした。
翌年2月承知のように天狗党は降伏し鰊蔵に押し込められ、353名が死罪、遠島137名、水戸渡し0名と過酷な刑に処せられます。水戸藩渡しの大多数も過酷な牢獄で死んでいます。
本当の過酷さはこの先にあったのです。水戸において獄舎から出された耕雲斎の妻ときは塩漬けされた耕雲斎の頭を抱かされ惨殺されます。11 歳、8歳、3歳の子供たちも惨殺されます。
同時に山国兵部等の天狗党の家族、親族ことごとく死罪、あるいは永牢となります。
これまで何度も繰り返されてきたように 水戸藩の実権を握った諸生党の市川等によって天狗党の家族、親族が徹底的に利用されたのです。
敦賀で死罪となった天狗党の353名は尊王攘夷と言う思想、宗教思想に殉じた殉教者ですが、他の人々はあまりに過醋な内戦の犠牲者なのです。慶喜に頼ったことがそもそもの誤りでしたが、水戸藩のあるいは曾澤正志斎の説く尊王攘夷にはそうした要因が内包されていたのです。そもそも曾澤の説く尊王攘夷には当然のこととして討慕と言う発想はありません。曾澤が尊王と言うとき実は二つの尊王が内包されているのです。
一つは朝廷(天皇。天朝)もう一つは幕府(家康。天祖)です。
天狗党があれほど幕府軍と戦いながらも「本当の幕府」と言う幻想を抱え、それが慶喜参りになったとしてもやむを得なかったとも言えます。
曾澤正志斎の尊王攘夷は思想、政治思想でしたが「鎮派」の曾澤と対立した「檄派」、天狗党のそれは思想、宗教思想なのです。人の行為、行動は過激になればなるほど宗教性を必要とするものなのではないでしょうか。
天狗党の仲間だった田中愿蔵は身分の低さもあってか、尊王攘夷の宗教性から少し自由でした。度重なる幕府軍との戦いの経験から幕府は敵であること、尊王攘夷と討幕は矛盾しないと理解したように思います。
尊王と攘夷と国体
幕末、アメリカをはじめとした外国船の来襲に幕府、水戸藩等各藩は危機意識募らせます。天狗党が掲げた尊王攘夷は水戸藩の藩是であり「日本」を救う思想とし薩長はじめ全国に伝播します。尊王と攘夷と言う本来別々なことをつないで一つの言葉、思想にしたのは曾澤正志斎です。
外国船の来襲を「日本」の危機と捉え、「国体」の危機と提えました。「国体」の意味の変遷は別の機会にします。天皇が代々君臨する日本は神の国であり世界に類を見ない国であるという考えは昔からありましたが、それが一つの力として登場したのは幕末が初めてです。
これ以降、国は危機があるつど「国体」の意味を拡充していきます。「教育勅語」の完成で「国体」の意味付けは完成します。西欧諸国のキリスト教をはじめ中国の仏教等との宗教と対決、アメリカ等の「民主主義」との対決、ロシア革命に起因する社会主義との対決で神の国「国体」は「完成」していきます。神の国の中身は現代(終戦時)に近くなるにつれ、一層、宗教的になっていきます。
私は、世界に唯一の神の国と言う「国体」は実は我が国の「孤立感」の裏返しの表現だと思います。島国と言う地理的条件、アジアでもヨーロッパでもない「文化的」条件の中での優越感は「孤立感」の一つの現れ方だと思います。
水戸藩の、曾澤正志斎の尊王攘夷はその思想の中身から言ってせいぜいが公武合体で、討幕には至りませんでした。
しかし本居宣長の尊王攘夷は松下村塾の弟子たちが幕府との戦いの「経験化」の中で討幕を前面に押し立てて、尊王攘夷と討幕と言う「革命」のスローガンを打ち立てたのです。
このスローガンが公武合体を王政復古に、明治維新に革命していったのです。
尊王攘夷の攘夷はどうなったのでしよう。天狗党をはじめ何人かの人々は開国は幕府の誤りであ広今すぐ外国(蛮夷)を追い払うべきだ、行動すべきだと主張し行動もしました。
尊王攘夷の立役者、曾澤正志斎は水戸藩で一番の外国通でした。外国のアジア「侵略」の背後にキリスト教があること、また彼らの武力、技術は我が国をはるかに凌いでいることを認識していました。だからこそ尊王攘夷の基盤たる「国体」の研究に心血を注いだのです。また水戸藩の改革者、徳川斉昭は攘夷の権化のように言われていますが実はそうではありません。坂本龍馬の「海援隊」をしのぐ「農兵」の設立、大砲。洋式軍艦の製造等「攘夷」の準備をしていますが、ある人に現状では「開国」はやむを得ないが、立場上、自分の口からは言えないと言っています。
本居宣長の弟子たちは早々と攘夷と開国は矛盾しなく両立すると主張し行動します。
明治政府は尊王攘夷を力をもって押し進めていきます。富国強兵こそ攘夷の実現の準備だったのです。
諸生党の悲劇
水戸藩の内戦で諸生党のメンバー561人がなくなっています。諸生党は藩校弘道館の書生が中心でしたが幹部は市川三左術門、朝比奈強太郎、佐藤図書等の水戸藩を支える上司でした。
徳川幕府を支える御三家、水戸藩を支えてきたのです。彼らには門閥として水戸藩を幾代にもわたって支えてきた自負があります。
こうした自負で水戸藩の日常、生活を支えてきましたが、これを脅かす事態が出始めていました。幕藩体制の屋台骨が揺らき始め、水戸藩でも農村の疲弊、人口減少が進み藩士の生活も影響を受け始めていました。
この危機の克服に向けて斉昭の改革が始まったのですがこれは水戸藩の上層部に思わぬ影響を与えました。前述のように斉昭は下級武士の藤田東湖や曾澤正志斎等を登用し藩政改革を推し進めます。藩の日常は微細なまでに上下関係が制度化されています。親子関係、近所関係、子供同士の関係まで微細な習慣が制度化されているのです。
ところが斉昭の改革はこうした藩の日常を当然のこととして変え始め彼ら門閥派の誇りを打ち砕くように作用しました。曾澤等の下級藩士に ヒ層部、門閥派が指示されるというこれまた前代未聞の事態が「日常」として現出したのです。藩内に鬱屈した感情が蓄積されていきます。「檄派」が主張する尊王攘夷は水戸藩の藩是であり誰も反対できません。日常的にそのような言葉を振り回されて門閥派の感情はますます鬱屈していったのではないかと思います。
檄派、鎮派、諸生党の主導権争いは江戸藩邸、水戸藩邸で繰り広げられます。檄派の天狗党決起とこれに対する幕府の賊徒規定による追討命令を受けて諸生党は決起し水戸藩を支配します。そして天狗党参加者の家族、親族に対する積年の恨みを晴らすかのような徹底的な弾圧が始まりました。武士はもとより参加した多くの農民に対して同じような弾圧が加えられたのです。
この残酷な弾圧の詳細は省きますが水戸藩における最後の戦争が明治元年( 1864年)の11月の「弘道館戦争」です。明治維新がなり今度は朝廷が諸生党を賊徒として追討命令を出します。水戸藩に帰ってきた改革派、天狗党の生き残りは今度は諸生党の家族を激しく弾圧します。これを知った諸生党は手薄になった水戸城を再占拠しようと市川三左衛門等が押しかけ弘道館に立てこもり激しい戦争、内戦を繰り広げました。改革派(天狗党)は87名が戦死、諸生党側は90名を超す戦死者を出し水戸を退散し再び水戸に戻ることはありませんでした。
諸生党は会津戦争、北越戦争、函館戦争を戦い明治以降に多くの戦死者を出し、明治2年( 1869年)江戸の武道家宅で市川三左衛門が捕まり逆さ磔の刑になり消滅しました。
幕府軍とともに最後まで戦った諸生党もまた尊王攘夷の武士だったの
正志斎の説く尊王攘夷はもともと保守的なものでした。揺らぎ始めた幕藩体制を補強、立て直すための主張なのです。曾澤等の鎮派は水戸の内戦に何の役割も果たしませんでした。檄派 -、天狗党は尊王攘夷を行動、改革の原理に翻訳し、諸生党は幕府、水戸藩の伝統を守る戦いの原理としたのです。これは思想とか原理がもともと持っている宿命なのでしょ
農民決起の悲劇
水戸藩の天狗党と諸生党の争い、「党派闘争」に多くの農民が参加し内戦となりました。
本来武士同士の戦いであったはずの戦いに1万にともいわれる多くの農民が参戦したのは光圀以来の水戸藩の風土もありましたが斉昭が整備した郷校の存在が大きいと思います。
郷校の責任者は尊王攘夷を掲げる檄派の下級藩士が主に任命されています。田中愿蔵も野口郷校の責任者(館主)でした。郷士、郷医、神官、村役人等農村の上層部が郷校の参加者です。この参加者は農民でありながら帯刀を許されるなど武士のような扱いを受けました。このことによって村の秩序は微妙に変化していきます。
安政3年ころから郷校に大きな変化が出てきます。斉昭の改革の一環として農兵(上層農民から選抜)が出来、それら農兵の郷校参加が義務付けされたのです。軍事訓練が郷校の中心になっていきます。
尊王攘夷を教えられ、軍事訓練を受けた農民、農兵の多くは天狗党に参加して行きます。水戸から京を目指した天狗党の集団もその半分はこうした農民、農兵でした。
もう一つの農民決起が鯉渕勢と言われる農民の決起です。天狗党は決起し行動しましたがこの活動の資金の一部を農民から取り立てました。この取り立ての中にはかなり強引なものもあり農民から憎しみの目で見られていました。田中愿蔵による栃木町の焼き討ち事件等極端な取り立ても行われています。
天狗党、 とりわけ田中愿蔵隊から自分の村を守るため農民が武器をもって決起したのです。当初鯉渕村を中心に2600名程が決起しました。丁度そのころ水戸藩邸は諸生党が実権を握っており彼らは農民に対し天狗退治を指示したのです。当初は自分の村を守るため決起したのですが、諸生党の水戸藩から武器や賞金をもらって天狗退治にあちこちで戦いを繰り広げることになります。
実質、農民同士の戦いが行われたのですが-、悲劇は戦いでない戦いにあったのです。天狗党に参加している農民(豪農)の家に押しかけ、家を焼き払ったり、家族を惨殺したりの残虐なことをしました。水戸藩に唆されて発露したのでしよう。この辺の事情を書いた文献はありません。ただわすかに「村の歴史」に書かれている程度です。例えば大子村で天狗党に参加している村役人の家が焼かれ等々と書かれている程度です。
水戸藩の内戦で千七百余名がなくなっています。氏名、年齢、場所がわかっている戦死者です。しかし三千名とも五千名ともいわれる「無名」の戦死者の大半はこうした戦いでない戦いでなくなったものと思われます。
斉昭の改革は前述のように水戸藩の内部に怨念を蓄積しましたが、農兵の創出等で村の内部にも新たな怨念を蓄積したのです。郷校の参加者あるいは農兵に選はれた農民は村の新たな上層部となって一般農民と小さな溝が出来ました。
諸生党による天狗党参加者の家族に対する容赦のない弾圧は敵に対する対応として農民の戦いにまで伝播したのです。
明治になって水戸藩の「改革者」天狗党の生き残りは朝敵になった諸生党の家族に徹底的な弾圧、復讐を行ったのです。文献には触れられていませんが天狗党に参加した農民は今度は諸生党の指揮下で戦った農民に対して同じような復讐を行ったと思います。
明治の初めに起きた水戸藩の殺し合いの大半は今でも、いや永遠に「不明」なのです。天狗覚参加者はすべて靖国神社に合祀され、朝敵となった諸生党の参加者も地元で手厚く葬られていますが農民同士の戦いでない戦いで亡くなった多くの名もない農民は今もって「不明」のままです。
私が育った村、小さな中染村で幾度となく天狗党の戦いが繰り返されたことは今まで知りませんでしたし、 ここにも悲劇があったのではないかと思います。
水戸と江戸と京と長州
水戸藩の、曾澤正志斎の尊王攘夷は幕府を倒す発想がなく自壊しました。また尊主と言っても朝廷、天皇との関係は薄く多分に精彳中的なものでした。
吉田松陰の尊王攘夷は経験の蓄積のなかで討幕に至りました。その弟子たちの朝廷、天皇との関係は具体的でした。彼ら自体は尊王と言うとき精神的な要素はほとんどありませんでした。だからこそ逆に、明治以降彼らは意識的に尊王の中身、精神を「国体」として作っていったので、水戸藩の江戸と京の距離と長州の京と江戸との距離の差は尊王攘夷の中身の差となって表れたのでしよう。
もともと尊工攘夷は改革の哲学、思想でしたが討幕と結びつくことによって革命の哲学、思想に変容していったのです。王政復古としての明治維新は典型的なアジアの革命でした。
最後に尊王攘夷の思想を作った「水戸学」について触れます。
水戸学の始まり、光圀による大日本史の編纂が始まったのは延宝元年 ( 1672年)です。二百数十年の歳月をかけて明治39年( 1906年)に完成しましたが、すでに水戸藩は形式的にも実質的にも消滅していました。
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〔opinion13058:230604〕
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