「6・4」は遠くなりにけり・・・では簡単すぎる ―歴史はどこで折れたのか? (中)
- 2023年 6月 19日
- 評論・紹介・意見
- 中国天安門田畑光永経済成長腐敗
1989年6月4日、民主化を求めて北京の天安門広場に集まっていた学生たちを、「中国人民解放軍」部隊が銃弾とともに排除して、319人(公式発表)もの死者をだしたあの日から、34年の歳月が流れた。
この一文の(上)では、運動は果たしてあの段階でも軍隊を動員しなければ収拾できないほどの勢いを保っていたのかどうか、じつはそうではなかったことを私の見聞と当時の最高指導者、趙紫陽の回想録によって紹介した。そして、とすれば、あの日の軍の行動は共産党指導部の一部による一罰百戒的な、過剰な懲罰であり、であればこそ、長い年月を経てもなお人々にとって忘れがたい出来事であり続けるのではないか、と書いた。
しかし、忘れがたい記憶としては残っても、その後、中国の民主化運動は表面的には姿を消してしまった。勿論、権力の側のきびしい監視、取り締まりもあるが、それにしても人々の胸のうちの民主化を求める思いはその後、どうなってしまったのだろうか。
それを探るにはその後の中国社会の変化を思い返す必要がある。
下の図を見てほしい。ご覧のように日中両国のGDP総額のここ40年ほどの推移を図示したものである。成長する中國と停滞する日本の対比が分かりやすい。数年前の日本経済新聞の記事に添えられていたものだが、拝借させていただく。
天安門事件の後、英・サッチャー首相(当時)は「あの光景を見てしまっては、もはやこれまでと同じように中国を見ることはできない」と語ったと伝えられるが、確かに世界の中國を見る目は変わった。
それに対して鄧小平が発した指示は「韜光養晦(とうこうようかい)」の4文字であった。日本人には見慣れない言葉だが、前の2字は「(剣の)刃の光を隠す」、後の2字は「身をひそめる」。合わせて「世間の悪評に立ち向かったりせずに、身を慎む」といった意味である。
そして経済面ではより積極的に外資の導入を推進すべく、1992年、鄧小平は90歳に近い高齢に鞭打って南部の経済特区などを自ら回り、逡巡する官僚たちを督励した(「南巡講話」と言われる)。
その効果が上図に現れてくるのは数年後の前世紀末あたりからである。成長が軌道に乗り始めた2007年には米のサブプライム・ローン破綻に始まる世界的な通貨危機が発生したが、中國は積極策でそれを乗り越え、2010年には日本を抜いて世界No.2のGDP大国へと駆け上がった。
その要因はなんだったか。改革・開放政策が成功したには違いないが、社会に何が起こったのか。はやい話、外国からお金がじゃぶじゃぶ入って来て、経済特区に限らず各地ににょきにょきと工場が立ち上がったのである。
当時の中国の人件費はごく大雑把に言って世界平均の10分の1程度であったろうと言われる。もとより厳密な計算ではないのだろうが、実感としてもそう見当違いとは思えない。土地代はピンキリにしても世界の相場より高いとは考えられない。さらに外資企業には税制上の特典も設けられた。そしてなにより中国人にも欲しいもの、必要な製品であれば、国内に無尽蔵と言えるほどの需要があった。
それに私も当時、広東省の深圳経済特区などを見て驚いたのだが、その頃流行りの電子機器(パソコン、デジカメなど)の製造工程はもはや労働者1人1人の技術水準は問題にならない程度にまで様式化されていて、農村から出てきたばかりの若者でも、極端な話、1週間も研修を受ければ世界の一流ブランド品の製造に参加できる状況であった。
つまり資本がなかったがゆえに動かなかったあの大陸の生産要素が外資という燃料が流れ込むことでにわかにフル回転を始めたのである。その燃料の総額はいったいどれほどの額に上ったか。文字通りの外資のほかに、在外中国人からの投資、日本のODAのような公的資金や各種借款などなど、これらを総まとめにした数字があるのかどうか、不勉強な私には分からない。
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そこで問題は、その急激に膨れ上がった経済がどのように運営され、その果実はどのように分配されたか、である。もともとの社会主義計画経済がうまくいかなかったから、鄧小平は1970年代末から「改革・開放」政策の「総設計師」として、国内的には個人的な経済活動を認め、対外的には外資導入の門戸を大きく広げて、経済を活性化した。
その結果、どのような現象が生じたか。当時(2008~12)、在北京日本大使館で経済部参事官をつとめた柴田聡氏の著書『中国金融の実力と日本の戦略』(PHP新書・2019年)の一節(132頁)―
「中国の個人金融資産は急激に伸びている。2012年の段階では12兆ドル(約1300兆円)で、日本(同年で約1547兆円)の水準にはまだ達していなかった。しかし、わずか4年後の2016年には21兆ドル(2300兆円)にまで成長し、日本(同年で約1800兆円)の約1.3倍に達した。今後も高い成長は続き、2022年には38兆ドル(約4200兆円)、わずか6年で倍近くになる見通しだ。」
つまり経済成長とともに大金持ちが急激に増えたのだ。不思議なのはもともと私営企業がかなりの数存在していて、それが国策の助けを借りて資産を膨らませたというなら分かるが、「改革・開放」政策で認められたとはいえ、当時はまだ多くはこっちのものをあっちへ持っていって売る程度の小商売だったのだから、富裕層なるものはどこで発生し、なぜこれほど急激に超富裕層が増えたのか、である。
中国社会の内部に立ち入れない外国人の目には、どこに種子が潜んでいるのか分からない苗床に肥料をまいたら急に土の中から芽が出て、大きく伸びたのを見せられたような感じである。
そんな個人資産家誕生の不思議の一部を垣間見せてくれる証言に先ごろめぐり合った。
デズモンド・シャムという中国人企業家が書いた『私が陥った中国バブルの罠 レッド・ルーレット』(神月謙一訳・草思社、2022年)という一書がそれである。どちらも幹部などではない一般家庭に生まれた夫婦が共産党の高級幹部夫人とのコネを活用して事業に成功する。しかし、ある日、夫人のほうが突然、家族には何も知らされずに逮捕され、連絡もとれなくなったため、夫は身の危険を感じて、身辺を整理して息子とともに外国に逃げた、という顛末の回想記である。
そこには急成長を続ける中国経済の舞台裏でどのようなドラマが展開されていたかがなまなましく描かれている。主人公夫妻のそもそもの蓄財の過程はというと(124頁以下)ー
2012年、妻がある大手保険会社が決算の都合で株の3%を売りたがっている事情を幹部夫人とのコネを通じて知り、その内の1%を購入する。購入資金約1200万ドルはある製薬会社からつなぎ融資を受け、株を入手すると、それを担保にして銀行から融資を受け、製薬会社からの融資を返済するという綱渡りである。幹部夫人はその2倍を購入した。
そして2年後の2014年、その保険会社が香港の株式市場に上場されると、株価は購入時の8倍に高騰。夫妻は1億ドル近い資産を手にした。こういうチャンスに巡り合うもとはすべて高級幹部とのコネである。
しかし、著者はこうも書く(132頁)ー
「もちろん、投資の失敗も多かった。経営判断の誤りや、犯罪、政治的動機による告発、あるいは影響力を失った党内派閥とうっかり手を組んでしまったことで、中國で最も裕福な100人のうち、3分の2が、毎年入れ替わっていた。
ある程度おおきなビジネスを行っている人は誰でも、環境や税金、労働関係など、何らかの法律を犯さざるを得なかった。だから、リターンは非常に大きくても、いつ足元をすくわれるかわからないのだ。中國政府が法律を通すときは必ず遡及効(遡って適用)を持たせるので、規制がなかった何年も前のことが、後になって犯罪にされることもあった。」
夫妻はこうして中國の実業界で活動する資金を手に入れ、活動を広げ、また離婚という事態も経験するが、その期間はわずか3年で終わり、2017年9月5日、妻は忽然と姿を消す。まさに「足元をすくわれた」のであろう。その後、何の消息もなかったのが、同書の「訳者あとがき」によれば、本書の原著出版の3日前、2021年9月4日、在英の著者の元に突然、本人から電話がかかり、出版を思いとどまるよう懇願したという。これ自体背筋が寒くなるような話である。
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以上はたまたま私が目にした、経済成長の奔流にもてあそばれた夫婦の物語の、それもほんの一部であるが、この時期の中国社会は建国後からそれまでの社会とは全く異質な世界に足を踏み入れた時期と言えるだろう。それは、それまでタブーであった「金もうけ」が公認され、さらには推奨され、支配者が先立ちになって金に目の色を変え、大衆もまた幸運を求めて右往左往した時代であった。
カネとコネが絡み合う、浮き沈みの激しい葛藤の世界の一方で、カネがものを言う風潮は社会にある種の解放感をもたらしたことも事実である。私のささやかな経験を紹介すれば、この頃、放送関係の友人に頼まれて、中国のある歌の録音テープを入手したいと、中国の放送局の対外関係の知人に連絡したことがある。すると、具体的には覚えていないが、とんでもない高額を要求された。驚いて理由を聞くと、彼曰く、「これまでは外国の友人からなにか頼まれると”友好第一“で、なんでも無料で進呈していたが、これからは市場経済で適正な価格を要求することになった。しかし、いくらが適正かわからないので、後で”安すぎた“と批判されないように、思い切って高い値段をつけた。いくらでも値引きするから、適正価格を言ってくれ」。
これには笑ってしまったが、相手も笑い出した。たしか何万円か払うことにしたが、笑いながら、私も彼とのやり取りにそれまでにないある種の解放感を感じたことは確かだった。
ひと昔前の人民服から背広へ、女性はパーマ、スカートが普通の姿へ、という変化は、私などの世代なら覚えている敗戦後の日本の姿と似たところがあった。生活は苦しくとも、局部的とはいえ金儲けの自由による解放感を中国人も確かに味わっていた。
それは民主への渇望をある程度、やわらげた。独裁政治下の鬱屈を急に出回り始めた紙幣と商品が緩和した効果は小さくなかった。それが「6・4」以前ほど民主化要求が定期的に表面化しなくなった原因ではないかと私は考えている。
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しかし、事態は容易ならざる方向へと突き進んでいた。コネとカネが社会の根幹を腐食する進度が速まり、権力層の腐敗がますます広まり、深まり、誰の目にもその深刻さが分かるようになった。2012年に胡錦涛から総書記を引き継いだ習近平はいやでも腐敗撲滅に乗り出さないわけにはいかなくなった。
当時のはやり言葉に「不反腐亡党、反腐亡国」というのがあった。「腐敗をなくさなければ(共産)党はなくなる。腐敗をなくせば国がなくなる」。腐敗官僚を追放すれば、役所は無人になる、という意味である。
それでも習近平は時世に押されて腐敗撲滅に手をつけた。党の規律検査委員会という組織に大きな権限を持たせて、かなりの高級幹部を含めて腐敗分子を摘発させたのである。
当時、失脚した主な人物と役職をほんの一部だけ挙げてみればー
周永康(12年まで党中央政治局常務委員、警察・司法担当)
令計画(12年まで党中央弁公室主任、党務の元締め)
徐才厚(中央軍事委員会副主席、軍制服組トップ)、郭伯雄(徐才厚の後任)
李東生(公安省次官、日本でいえば警察庁次長)
周本順(河北省党委書記、省のトップ)、王珉(遼寧省同)、孫政才(重慶市同)
王永春(中國石油天然ガス集団副社長)
蔣潔敏(国有資産監督管理委員会主任)
罪状の多くは収賄であるが、このクラスの判決は死刑、執行猶予付き死刑、無期懲役といった重刑が多い。ところでリストの上から5行目の3人目に孫政才という名前がある。この人物は先に紹介した『レッド・ルーレット』の著者の妻とともに高級幹部夫人をとりまくサークルの一員であった。
孫政才も党幹部の親族といった出自ではなく、1963年、山東省の農村地帯の生まれ。故郷の農業専門学校を出てから、北京で農業の勉強を続け、農学博士の学位をとり、34歳で北京市郊外の順義県というところの県長となる。その後、順義区のトップから2006年には農業部部長(日本なら農林大臣)へと出世。2009年には東北地区の吉林省の党委員会書記(名実ともに吉林省のトップ)、さらに2012年には北京、上海とならぶ特別行政区・重慶市の党委書記、党内では中央政治局委員というトップ25人の1員に名を連ね、将来の国家指導者候補と噂されるところまで上り詰めた。
ところが2017年7月24日、厳重な党規違反の嫌疑を受けて党中央規律検査委員会の審査を受けることになり、同9月29日、党から除名、司法の手に移され、翌18年5月8日、天津市中級人民法院(地裁)において、巨額の収賄(総額1.7億元≒30憶円)、親族の商売に有利な措置を講じ、官僚主義を振り回し、生活は腐敗し、「権色交易」(内容はご想像通り)、など多くの罪状により、無期懲役、政治権利終身剥奪、個人資産全額没収との判決を受け、上訴せず、服役した。
『レッド・ルーレット』の著者夫人がいずこかへ連行されて姿を消すのは2017年9月5日。孫政才が規律検査委の審査うけている段階であった。こういう例はたくさんあるから迂闊な推測はできないが、あるいはなにか関連があったのかも知れない。
ただこのような幹部の腐敗案件の場合、中國では収賄なら贈賄側の氏名、犯行の詳細などは明らかにされない。だから総額の大きさには驚かされるが、実体が想像できない。もっともこのリストにも見える軍の高級幹部などの収賄は部下から昇進の代償として幅広く賄賂を集めると言われるから氏名の公表は無理かもしれない。
ともあれ中国社会はマネーという魔力に引きずられて踊り出したのである。(230611)
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〔opinion13085:230619〕
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