世界のノンフィクション秀作を読む(14) スウェン・ヘディンの『さまよえる湖』(下)――史上最大のアジア探検家による中央アジア探索記
- 2023年 6月 29日
- カルチャー
- 『さまよえる湖』スウェン・ヘディンノンフィクション横田 喬
<ロプ湖への旅路>5月11日、時速40㌔強の強風が吹き、夜の最低温度は18度もあり、午後二時には33度を超えた。寝袋に入って寝るには暑過ぎ、のんびりその上で寝転ぶ。嵐のために三日間を無駄にし、その上14日には辺り一帯見通しの利かない濃霧に覆われてしまう。まるでロンドンのガスに包まれているようだった。
翌朝は快晴。ロプ湖への曲がりくねった水路を求め、未明に再出発する。6時には葦が密生する堅い粘土の両岸の間を漕いでいた。鷲がしげしげと見守り、カモメとアジサシが周囲に舞っている。鴨の群れが一度二度飛び立ち、今までよりは野生の生物が多い。
翌日は空はトルコ玉のように青く、湖は鏡のように滑らかだった。我々は昨日見つけた水路に沿って偵察した。生涯に一度は「さまよえる湖」の新しい北部湖床に船旅をしたいという私の夢は確かに叶えられた。ロプ湖は捌け口のない湖で、湖水は塩分を含んでいた。直径が2~30㌔もある随分大きな湖水で、覆いもないカヌーで横切るのは危険な企てだった。
我々は豊富に薪のある、とある川岸に舟を着け、テントを張って焚火を焚いた。簡単な夕食を済まし、寝に着いた。私はいろんな空想に耽った。夜中に人声を聞いたように思い、墓場の辺りで囁かれたのでは、と訝った。射手や槍兵をぎっしり詰めた戦車のきしりを、彼らの槍や剣の打ち合う音を、弓が引かれ矢が放たれる音を聞いた・・・。今や川と湖とは砂漠の北部に帰り、新たな生命にもと移民のために土地を準備している。楼蘭とその村落は今、新たに花を開き、「絹の道」による交易を再び始めることができるのだ。
<ロプ湖及び楼蘭付近での我々の最後の日々>5月21日、我々はあの懐かしい廃都、楼蘭へ真っ直ぐ向かった。その楼蘭こそ、1900年3月28日に、幸運にも私が発見した処だ。非常に重要なこの都を、本当に私は三度も見られるのだろうか――あれから三十四年も経た今? 我々のロプ湖探検旅行も終わりに近づいている。夏が近づいていた。
<ベルクマンの砂漠旅行>5月30日~6月14日、フォルケ・ベルクマンと彼の部隊は
砂漠へ本式の探検を行った。クム河から南に約50㌔の処に、彼は楼蘭時代の望楼を見つけた。それは恐らく路上の一哨舎だったに違いない。死者の記念碑かと思われる直立した柱が、整然と林立しているために、それは遠くから望むことができた。倒れたのも沢山あった。墓は百二十あり、柱の数はこれよりずっと多かった。
数多の墓の中で、たった一つ、手も触れられず、嵐にも損なわれないのがあった。略奪された棺の五つ、六つには未だ死体が入っていた。あるものは骸骨ばかりだったが、ミイラになってそっくりそのままのもあった。死体は中国人ではなく、中央アジアの遊牧民系のようだった。粗末な毛織の外套を着て、腰に帯を巻き、靴を履いてフェルトの帽子を被っている。
この墓場には絹は全然なかった。
この西にもっと小さい墓が三つあり、一部分は風に晒されていた。これらの墓には絹があった。ある女の死体は独特な飾りの付いた極めて興味のある絹の着物を着ていた。この三つの墓地でベルクマンは非常に立派な価値ある発見をした。
<敦煌と千仏洞へ>我々は10月21日、二台の貨物自動車と一台の小型自動車でウルムチを出発し、別段の危険もなく、10月30日に安西へ着いた。幸運は絶えず微笑んでくれ、当地でガソリン三千ガロンを補給できた。自分たちの意図を隠すため、我々は敦煌に近い有舞奈断崖の岩窟、千仏洞を訪れるつもりだという、一部分しか真実でない噂を広めた。
11月2日に出発。途中に悪路もあり、敦煌には二日目に到着する。敦煌の街は安西より遥かに活気があった。千仏洞には自動車では無理で、牛車でのろのろ進み、15㌔ほど行くのに六時間もかかる有様。千八百あるという洞窟は、もはやすっかりカラ。有名な文庫にかつて保存されていた貴重な古文書は、大半がロンドンやパリに持ち去られていた。千仏洞は私に失望を与えた。こんなに粗末にされ、後世の人間の荒らすに任せ切りとは・・・。
<北山の迷路へ>11月8日、我々は敦煌にお別れをし、北西へと車を駆った。我々の自動車は至る所で大センセーションを巻き起こし、農家からは人々が道へ飛び出して来た。我々はやや柔らかい草原の進路に沿って北北東へ。植物が次第に疎らになり、粘土の砂漠は益々平坦に益々堅くなってきた。時々、カモシカがびっくりして進路から飛んで逃げた。
荒野の中でキャンプを張った。火を焚きつけ、テントの中に寝袋が延べられ、枕の傍には各自の箱が置かれる。そして携帯用ストーブはテントの出入り口すぐ内側で火を燃やされる。ほどなくお茶が入れられ、バター付きパンとチーズとジャムが運ばれる。銘々がその日の事を書き付け、自分の観察を記入した。中国人三人はその日一日の旅行地図を完成した。
点水井(「滴る水」の意)の泉は、その名の通り水はごく少なく、ラクダの糞や埃や芥で汚れていた。それなのに、夜中に鈴の音を聞いたラクダがここにキャンプしていた。行商のトゥンガン人たちが十九頭のラクダを引き連れ、小麦粉と米を持ってハミへ行くところだった。我々が道を尋ねると「初めて通るので、判りません」とのこと。本通りを行かなかったのは、盗賊が時々その路を襲撃するからだ、とか。
北山山系の南端にある外側の山脈が次第に輪郭をはっきり見せ、我々は車を止め、西の方を眺めた。最後のキャンプ地から、高度にして二百㍍ほど登ってきた勘定になる。我々は今や真の岐路に立っている。西方へ急転回し、古い「絹の道」を探したものか。それとも、ヨーロッパ人が誰一人足を踏み入れたことのない山道を行くか。我々は後者を選んだ。まもなく山の間に入り、明らかにそれと判る昔ながらの道を走っていった。
次の日は黒ずんだ低い山脈の間を北へ進んだ。広い谷間の次の峠は高度が二千㍍近くある難所だった。北北西へ続く道を辿り、ここかしこに草むらがあった。我々は小さい山脈を越えてから、海抜千五百㍍近い地点の砂利平原でキャンプした。
我々は曲がりくねった狭い道を進んで行った。山頂や山稜や尖峰の続くこの地は、荒れ狂う波頭が固く凍結したかのような光景を呈していた。時には羊腸たる隘路を通り、時には谷間を過ぎたかと思うと、湿った地面に植物が生えているいくらか開けている処を横切った。
11月12日には、谷間を進んで行き、遂に北西と西に進路を取ることができた。ほどなく、トルコ人の盗賊団らしき一味六人と出会う。荒野の中に突然現れた我々の姿にすっかり驚愕。彼らは度を失い、不安を隠せない表情で、ちぐはぐなやりとりに終始した。
<ガシュン・ゴビの砂丘>11月14日午後三時半、谷は突然終わり、低い砂丘の下に姿を消す。周囲はどこもかしこも砂ばかり。地上で最も凄まじい砂漠の一つガシュン・ゴビだ。未知の地方を旅行する時、一番大切なのは忍耐、超人間的な忍耐だ!
<野生ラクダの生息地を通って>12月2~3日、この冬は我々に親切だ。嵐が吹いて,黄塵や飛砂で我々を苦しめるようなことは一度もない。死の国が我々を取り巻いている。一匹の動物もおらず、その足跡もない。6日、貨物自動車で乾いた河床を進んで行く。谷は北西から西方へと曲がって行き、遂に平原に入り込んでいた。六頭から成る一群の野生ラクダが通り過ぎる。ラクダのための牧草地があった。恐らく泉か井戸が近くにあるのだろう。
<道の終わりまで>12月8~9日夜は例年になく暖かだった。赤い色の地面は具合が芳しくなく、貨物自動車はしばしば嵌り込み、我々はあちらこちらと彷徨った。
12月10日午前、小型自動車で西北西へゆっくり砂利道を三十分近く行くと、古城の廃墟に似る、高さ十数㍍のメサに着く。巨大な粘土の団塊で、側面が所々垂直。すぐ西に、後四つのメサを発見。数千年の嵐に風化された浸蝕の遺物は他でも一、二か所見ることができた。
最後の日、12月14日。凍結している河の下流の最も堅い処を小型自動車で渡り、ほどなく安西の城門に着いた。我々は一か月以上の間、人跡未踏の地に住んでいたのだ。
<筆者の一言> ヘディンの記述に接し、私はその昔に学んだ中国史の一節を思い起こした。今から二千年以上昔の紀元前百二、三十年前(漢の武帝当時)のこと、有名な冒険家・張騫が百人余の使節団の長として当時情報の乏しかった西域へ派遣される。中国のコロンブスともいうべき探索行の功績により、彼は貴族に任官する。
ヘディンのこの『彷徨える湖』から材を得た作品に井上靖の『楼蘭』がある。彼はかつてのオアシス国家・楼蘭で、自殺を遂げる美しい王妃を仮構した。この美しい貴女のイメージは、やはり彼の作品『敦煌』において、より具象化する。城壁から身を躍らせ、自殺を遂げるウイグルの王族の女性として描かれた。『敦煌』は1988年に映画化(佐藤純弥監督)され、私は麗しい中川安奈演ずるツルピア王女のエキゾチックな姿態にすっかり蠱惑された。
命、生命あるものに魅かれる
なぜなら、歴史のロマンを希求するから
井上さん独特の格調ある文章世界のあの味わいが懐かしい。
初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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