大学体育会の何が問題なのか - スポーツと権力を考える
- 2023年 9月 4日
- 評論・紹介・意見
- 体育会盛田常夫私立大
日大アメフト部の大麻事件が話題になっているが、問題の本質を突いた議論がない。問題の核心は私立大学における体育会(権力)の存在であり、それが大学経営 と深く結びついていることだ。この問題にメスを入れない限り、体育会に関連する 不祥事は常に発生する。学外から着任した理事長が一人でできることには限界がある。
体育会権力
深い闇に包まれた体育会権力を制御できなければ、この種の問題の根本的解決はない。 体育会権力とは何か 。多くの私立大学は一定のスポーツ種目を学生勧誘の道具(広告媒体)として使っている。このため、一般入学とは別枠で、スポーツ推薦入学を実施している。
手続の上では、体育推薦入学を含めて、合格者の最終判定は教授会審査を経由する。形式的には 教授会決定事項となっているとはいえ、スポーツ推薦枠の決定は事前に理事会主導で体育会関係者が集まって決定され、実際の学生選抜は各体育会に任されている。
教授会はただそれを承認するだけである。教授会の承認過程を経ない大学もあるだろう。どちらにしても、教授会の承認は形式的なもので、教授会から見ると体育推薦枠は治外法権的な存在である。
体育会の特殊な存在が大学の経営権力を形成するケースが多々見られる。体育会推薦はたんに選手を無試験で大学に入れるための装置ではない。監督やコーチが入学者選定の実質的な権限を握り、それが既得権になっている。人気のある集団スポーツの場合、1 年の推薦枠は 1 チームを構成する人数に比例して大きくなっている。各体育会の推薦選手の実際の選定に、歴代の監督やコーチが影響力を行使し、 時にはその既得権をめぐる派閥争いが起きる。
また、ほとんどの私立大学では職員募集で学内出身者の採用を優先しているが、 体育会が強い大学では、体育会出身者を縁故採用することも多い。これもまた体育会関係者の既得権である。合宿所の軍隊的な規律で鍛えられた職員は使い勝手が良いという理由で重宝される。合宿所から続く、親分-子分の関係が大学職員の間に埋め込まれる。体育会出身者は学内組織の最大派閥であり、大学経営でもこの派閥の意向を無視することができない。
さらに、日大の場合には警察官僚や警察官僚出身の政治家が体育会権力と結びついて、危機管理学部を創設し、人的交換システムを構築している。官僚組織や政治までもが私立大学の体育会権力を利用している。きわめて日本的な現象である。
こういう権力関係が何十年もの慣行によって埋め込まれている大学では、体育会改革など言葉にすることすらできない。特定の人物を排除したぐらいで、体育会権力が崩壊することはない。体育会権力の存在すら知らない識者が日大アメフト問題で発言しているが、ほとんどが的外れである。
それは仕方ないとしても、体育会権力は日本の私立大学の将来にとっては蔑ろにされてよい問題ではない。大学経営を優先するあまり、大学の民主的運営や教育水準を上げる努力が犠牲にされるのは本末転倒である。
合宿所という特殊な環境
学生側から見れば、体育会の合宿所生活は異様である。すべての体育会クラブが独自の合宿所を持っているわけではないが、人気のある団体競技の体育会クラブには大学が合宿所を用意している。体育会推薦と合宿所は体育会権力を支える重要な二本柱である。
その問題は以下の通りである。まず、推薦入学する学生の数そのものが多すぎる。野球、サッカー、アメフトのような集団スポーツの場合、4 年間の推薦入学者は百名を越すところもある。しかし、実際に試合に出場できるのはほんの一握りの選手である。ろくに練習もできず、雑用係になってしまった選手は何を生きがいに大学生活を送るのだろうか。さらに、体育会を辞めれば退学を強制されるから、辞められない事情が存在する。
体育会の合宿所は時代錯誤の軍隊的な規律で支配された世界である。入学年度によって差別化された上官-下士官の関係が蔓延する。目的を失い、雑用係の日々を過ごす学生はどのように合宿所生活を送るのだろうか。大麻で気分を紛らわすのも一つの方法と考えて何ら不思議はない。私立大学の歪な体育会合宿所生活がいろいろな問題を惹き起こしている。
はたして、これまでどの大学の教授会が体育会の推薦入学や合宿所問題を真面目 に扱ってきただろうか。誰もこの問題を解決しようとは思っていないし、簡単に解決できる問題でもない。学外から着任した理事長が体育会問題に手を付けようとす れば、職員の総スカンを食ってしまう。
この種の問題はいろいろな社会集団に見られる支配-従属関係と同種のものである。日大アメフト問題にコメントする識者は、まず自らが所属する集団に同種の問題がないか反省するのが先だ。
体育会推薦の制限と合宿所の廃止
体育会権力の支配の打破に何が必要なのか。
一つは、体育推薦枠の監視体制と推薦枠そのものの制限である。推薦枠や選定を体育会の既得権にせずに、教授会を含めた推薦枠の削減や弾力的運用を監視実行する体制が必要である。何チームも作ることができるほどの推薦入学者数は不要である。ほぼすべての体育会推薦入学者は体育会を退会すれば大学を退学するという念書を、それぞれの体育会に出している。体育会が学生の入退学を決める慣行も撤廃すべきだろう。
他方、体育会を離れても、一般学生として勉学できるためには、一定の学力試験が必要である。現在、ほとんどの大学では体育推薦者に学力試験を課していないか、 簡単な面接で終わっている。学力が低い学生を入学させないために、一定の学力試験は不可欠である。賢くない選手はスポーツ選手としても大成できない。
二つは、軍隊的な生活を必然化させる体育会合宿所は原則、廃止すべきである。 集団生活から生まれた不祥事は集団責任となる。個人責任というなら、理不尽な集団生活を強制すべきではない。合宿所がなければ、個人の犯罪を体育会クラブ全体の問題にする意味はない。それぞれのスポーツ選手が個人としても自立できることが重要である。理不尽な上下関係を強いる集団生活はあまりに時代遅れである。
三つは、学校経営の民主化と職員採用の透明化である。地方の私立大学の中には、設立者が絶対権力を握っている大学もある。田中理事長時代の日大では、主要な管理職だけでなく、学部長ですら田中理事長の自宅へご機嫌伺いが求められた。 まるで徳川時代である。しかし、21 世紀になってもこの種の慣行を強いている大学 はそれなりに存在する。
大きな私立大学では体育会権力とどう向き合うかは、大学の品位と知力が問われる問題である。 多くの学長経験者が日大アメフト部の不祥事対する林真理子理事長の対応に疑問を呈しているが、体育会権力に対抗できる基盤をもたない落下傘理事長にできることには限りがある。教授会もだんまりを決め込んでいる。スポーツを大学の宣伝に 使うことを禁止しない限り、この問題に根本的な解決はない。少しでも現状を変えたいというなら、最低限、合宿所を禁止すべきだろう。
先進国の中で、これほどスポーツを大学の宣伝に使っているのはアメリカと日本ぐらいなものだ。しかし、アメリカのスポーツ推薦入学選手は一般学生寮で生活しており、一人の個人あるいは市民として大学生活を送りながら、スポーツを続けている。軍隊的な合宿所は日本 特有の現象であり、それはまた日本社会が封建的縛りから完全に抜け出ることができていないことの反映でもある。日大アメフト問題は日本社会の後進性と無関係ではない。
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