『海への巡礼』を横切って:透明な広がりの中へ
- 2023年 9月 5日
- 評論・紹介・意見
- 岡本勝人髭郁彦
テクスト空間は深さを求める一方で、広さを求める。広さは様々なテクストを横断して、リゾーム (rhizome) となり、増殖していく。テクストの広がり、それはポリフォニー的な (polyhonique) 展開でもあることをミハイル・バフチンは知っていた。テクスト世界は時空を自由に超えることができる神秘の場所だ。
私はこれから、あるエッセイについて語ろうと思っているが、そのエッセイは様々なテクストが引用された作品であり、イマージュ (image) 空間が横へ横へと広がっていき、一つのテクストに他の多くのテクストが重ね合わされ、新たな豊穣なる創造物が誕生していくというエッセイである。多様な間テクスト性 (intertextualité) の変遷、多くの声が響き合い増幅していっているが、最後には透明な詩的時空へと昇華しようとする作品。私はこのようなテクストについて語ろうとしている。そう、今、私は岡本勝人氏によって書かれた『海への巡礼―文学が生まれる場所』(以後、サブタイトルは省略する) について語ろうとしている。
しかしながら、このテクストを分析的に語っていくことが不可能であることを最初に述べておかなければならない。何故なら、そこに描かれている多彩なイマージュは現実世界にある実体 (entité) ではなく、空想の中に構築された特殊な空間を形作っているからである。意識下で、真偽値を論証する三段論法 (syllogistique) も、動態的な論証手段としての弁証法 (dialectique) も休みなく繰り広げられるイマージュの連鎖を語ることはできない。ただ、レトリック (rhétorique) として語ることだけが許されているからである (「三段論法」、「弁証法」、「レトリック」は論理の三つのレベルであるとスイスの論理学者ジャン=ブレーズ・グリーズが主張している点も注記しておこう)。いくつかの例を示そう。このエッセイには「身体の奥底にある無記の精神は、心理的な光景を形として表現するときに、表象としての言葉 (シニフィアン) の表現となる」や「荒れた海は、サディズムとマゾヒズムの両義性を内包する自然であった。流動する物質とノイズのなかに、歓喜と苦痛がいっしょに混在した。海は表層においても深みにおいても、言霊のオノマトペをかきならす」といった記述がある。これらの言説を学的に厳密に分析しようとしても、その客観的な論拠は見つからない。また、「構造主義者のバンヴェニスト」という言葉の正確さを問うことにも大きな意味はない。イマージュが形成する詩的空間に真偽値を導入すれば、また、エクリチュール (écriture) の客観的根拠を探求すれば、このテクストは破壊され、丹念に積み上げられた言葉の建築物の崩壊後の瓦礫が見出されるだけだからである。それゆえ私は、ここではリゾーム的エクリチュールを、あるいは、イマージュにイマージュを接ぎ木していくエクリチュールを行っていこうと思っている。もしも私に詩的才能があったならば、詩的なテクスト空間を創造することが可能だったであろう。だが、そのような才能を私は有してはいない。ただ、リゾーム的な広がりを目指し、テクスト構築すること。それがここで私のできるすべてである。
リゾーム的広がり。そう言っても、単に横へ横へと無秩序に広がっていくだけならば、それは破壊行為と何も変わらない。それゆえ、私はいくつかのテクストを導き糸として、織りなされたディスクール (discours) の連鎖に光を当て、その煌めきを見つめながら、イマージュの多様性を多様なままに映し出していこうと思う。この作業は、以下のプロセスを経てなされる。「水としての海」、「巡礼としての旅」、「イマージュの世界:詩的空間」、「透き通ったテクスト」というプロセスである。しかし、何故これらのテーマが選ばれ、何故この順番で語られるのかという問題についてここで説明するとは行わない。その理由をここで提示するよりも各セクションの中で述べる方が、はるかに、岡本氏のテクストとの間テクスト的な交流を有意義に行うことができると思われるからである。
水としての海
イマージュの心理学を打ち立てるために、ガストン・バシュラールはイマージュを構成する四つの基本単位、あるいは、物質を設定した。火と水と土と空気である。この四元素は科学的な元素ではまったくなく、イマージュを構築するための基本単位であることを、先ずは強調しなければならない。イマージュは客観的なものではなく、主観的なものである。そして、詩的空間を構築するテクストはイマージュに溢れたものであるのだ。『海への巡礼』は、詩というジャンルのテクストに完全に当て嵌まる作品ではない。だが、完全に散文的な作品でもない。それは半詩的 (demi-poétique) なテクストである。それゆえ、この作品を語るための最初の導き糸として、バシュラールの『水と夢 物質的想像力試論』(以後、サブタイトルは省略する:また、ここで引用されるバシュラールの言葉はすべてこのテクストからである) を導入する必要があるように私には思われた。バシュラールの詩学研究において、四大元素の中の水について書かれたこの試論は、私が海への旅を語っている岡本氏のテクストとのポリフォニックな関係を築くための最良の導き手となるからである。
四大元素としての水の特質をバシュラールは、「水をきっかけとするか素材としている <イマージュ> には、土や結晶、金属、宝石によって供給されるイマージュのもつ恒常性とか堅固さはない」(及川馥訳) という言葉で、また、「水は、(…) 存在の実体をたえまなく変貌させる本質にかかわる運命なのである」という言葉によって表現している。水の持つ変化し続ける流動性と水のイマージュの根源性が指摘されているが、こうした特質については、『海への巡礼』においても言及がある。「巡礼のイマージュには、元素としての水と海がある」と語り、「言葉は詩学をともなって生成と破壊を繰り返し、水の元素の想像力を奏でつづけた」と語る岡本氏のエクリチュールに耳を澄まそう。そこには、バシュラールの旋律と響き合う歌声が聞こえてくる。
しかし、問題となるのはただの水ではなく、海の水である。ジュール・ミシュレは海の水を母乳に譬えた。『海』の中で、彼は「海の子供たちは、その大半がゼラチン状の胎児のようなものであり、彼らは粘液の物質を摂取したり、それを産出して海水を満たしたり、その海水に、無限にひろがる子宮のもつ豊穣な優しさを与えたりするのだが、その子宮の中には、まるでなまあたたかい乳の中を泳いでいるかのように、たえまなく新たな子供たちが泳ぎでてくるのである」(加賀野井秀一訳) と述べている。母なる海、始原としての海に対しては、『海への巡礼』にも「すべてを飲み込む海こそ、人間の主観性を突破して、その深広な根源性を開示していく。時にはやさしく、時には激しく流動する閾の流れであった」という記述がある。海は誕生と死のドラマが繰り返される母の子宮である。そこは栄養分に富み、生体を育む聖なる場所であると共に、無数の生体が死に、溶けていき、新たな生体の滋養分となる循環が繰り広げられている驚くべき場所でもある。海には生と死のイマージュが同時に記されている。
それゆえ、水を湛えた海はイマージュの心理学、あるいは、詩的宇宙の宝庫であり、源であり、故郷である。「水は一切の存在可能性の源泉である。創造とは、水のなかから顕現してくる、フラクタルな海岸線や島の形であった。ひとたび水中に沈むと、無形態へと回帰する。海底からの浮上は、宇宙創造の再現だった。原初的で、居ごこちのよい水こそ、死と再生の根源として、人間が生まれはじめた場所、常闇、死の国である」という岡本氏の声を聞こう。沖縄の海について書かれたこの言葉は、沖縄の海だけの特徴を記したものではない。それは海そのものの存在性を示す言葉でもある。
巡礼としての旅
『海への巡礼』の中にある「巡礼」という言葉に注目しよう。岡本氏は「巡礼は、孤独な生老病死をかかえた存在体系と言語活動を基礎とする人間存在を、聖なるものと大地 (宇宙) とにつなげる」と書いているが、フランス語で「巡礼」は はpèlerinageと言う。この語には「巡礼」という意味の他に「(有名地や尊敬する人物にゆかりのある土地への) 名所詣で」、「旅」、「人生」といった意味もある。それはまさに、この本のテーマと深く係わる語である。「私たちの時間の旅程も、いつしか死の場所を求めなければならない。あるいはそこにいたるためにたどるべきルートの確認であるかも知れない。それは、海への巡礼である。」こう語る『海への巡礼』の作者の声は、そこで書かれている巡礼が崇高なる旅であり、自らの存在を求め、詩的空間を彷徨する旅であることを表明している。
しかし、ドゥミ・ポエティックなこのテクストの中に登場する沢山の土地の名、文学作品の作者の名とは如何なるものであろうか。それはこのテクストにおいてどんな役割を果たしているであろうか。岡本氏は巡礼地である海について語った夥しい数の文学者や研究者の言葉を引用している。ボードレール、プルースト、ミルトン、チョーサー、エリオット、ゲーテ、バウンド、レヴィ=ストロース、ヘミングウェイ、西脇順三郎、田村隆一、鮎川信夫、飯島紘一、吉増剛造、志賀直哉、島尾敏雄、柳田国男、折口信夫…。多数の文学者と研究者の名前 (宗教家もいることを忘れずに述べておこう) と言葉。そこには詩句もあり、小説からの引用もあり、思想的言説もある。散文において引用することは対話関係を築くことであるとバフチンは主張していた。だが、先程も指摘したように、このエッセイは散文ではなく、ドゥミ・ポエティックなテクストである。詩的空間は対話空間ではなく、作者の声も作者と向き合っている多くの他者の声も一つに溶け合わされている作品であるとバフチンは述べている。バシュラールならば、水の中に溶け込み、作者の名前の痕跡 (trace) だけが残された空間と言うかもしれない。いや、むしろ、ヴァルター・ベンヤミンが提唱した「星座 (Konstellation)」という語を使い、詩的空間において、作者の名前も、声も、イマージュの形成する星座として、星の一つになってしまうと述べた方がよいかもしれない。
厳密に言うならば、詩的テクストに対話やポリフォニーがないのではない。様々な声は一つの透明な統一体の中に溶け込んでいるために、様々な声が聞こえなくなっているのだ。海水のように、多数の化学元素が溶け込んでいるのだ。水素、ヘリウム、リチウム、ベリリウム、ホウ素、炭素、窒素、酸素、フッ素、ネオン、ナトリウム、マグネシウム、アルミニウム、ケイ素…。これらは海を構成する化学元素である。海の中には100近くの元素が溶け込んでいるが、われわれに見えるものは透き通った水にしか過ぎない。詩的空間も海水のようである。われわれの前にはテクストの中に無数の声が溶解した統一体があるだけで、そこに溶け込んでいる一つ一つの声は知覚できない。しかし、海を構成するそれぞれの元素を分析装置によって取り出すことができるように、イマージュ抽出装置によってわれわれは詩的テクスト空間に溶け込んだ作者の声も、他者の声も取り出すことができる。取り出された声をわれわれは直接見ることはできないが、複雑に絡み合った味覚によって認識できる。甘さ、苦さ、辛さ、まろやかさ、濃厚さ、爽やかさ、柔らかさ、酸っぱさ、瑞々しさ、ジューシーさ、クリーミーさ…。海水を舐めた時の絶妙な味の広がり、それが作者の名前の痕跡である。そして、詩的テクストの中で語られたパリ、モン・サン=ミッシェル、ヴェネツィア、ニューヨーク、タヒチ、沖縄、熊野といった都市名や土地の名前も固有名詞としての存在性を昇華させ、詩的イマージュ空間に溶けている。海という根源に向かった巡礼を語たるテクストは、透明な水の中を泳いでいく言語ゲーム (jeu de langage) であるのだ。
イマージュの世界:詩的空間
しかしながら、詩的イマージュの世界とは何であろうか。接ぎ木されるイマージュの広がりとは何であろうか。「詩とはなにか」(in『[総展望] フランスの現代詩』:湯浅博雄、鵜飼哲訳) において、ジャック・デリダは「詩というこの出来事はつねに絶対知を中断する、あるいは道からそらす、自己を目的とするあの自己-の-側なる-存在としての絶対知を。この「心のダイモン」は決して自ら (を) 集-合することがない。それはむしろ迷い出る (錯乱ないし狂躁だ)、チャンスに身を晒す、(身を守る位なら) 身に振りかかって来るものによって引き裂かれるままになるだろう」と発言している。この言葉は詩の持つ特異なる言語性を表している。何故なら、デリダは詩を定義する以下二つの要因を挙げているからである。一つは、「一編の詩 (ポエム) は、その客観的な、あるいは外見上の長さがどれほどであろうと、まさにその省略的という使命からして簡潔でなければならない」というエコノミー性である。もう一つは「暗記する・暗唱する」という行為を伴った「<心> の、ある一つの歴史=物語」の作成としての主体的記憶作業である。それは詩的言語が日常言語を解体構築 (déconstruction) するものであることを示している。
そう、確かに解体構築する言葉である。だが、詩の言葉は小説に書かれた言葉のような内的対話性 (dialogisme) によって解体構築を行うのではない。作者という主体はイマージュ空間の中で、一個の意識主体としての統一性を解体されていくのだ。さらには、意識主体内にある内的対話性の源泉となるもう一人の私であるアルテル・エゴ (alter ego) もテクストの中に溶け出してしまうのだ。それゆえ、詩的テクスト内に起きる解体構築は散種 (dissémination) という語によって形容される方がより適切であろう。散種は解体構築であると共に、神聖なる言葉を生み出す行為であり、その喜びをも表しているからである。それゆえ、デリダは詩的テクストとは、「知以前の(…) 祝福なのだ」と述べている。
岡本氏は吉増剛造の詩集『何処にもない水』に触れながら、吉増がこの詩集で表現しているものを「詩人の言葉が対峙しているのは、南の海と光と風である。詩人は、差延する記憶と直観のうちに民族の文化と内的につながれる。そのとき、言葉は原初の光と海と風そのものの露光となった」と解釈している。しかし、この言説は吉増の詩に対してのみ向けられるべきものではない。詩というジャンルのテクスト全体に対して向けられるべき発言である。火と水と空気、そして、土はバシュラールの唱えたイマージュの四つの元素であり、詩的空間を構築するための基本要素である。バシュラールの詩学にとってこの四元素はあらゆる詩の源泉である。吉増の詩の中にあるイマージュの元素を語る岡本氏の言葉は吉増の詩を超えて、詩的宇宙全体への語りかけとなっている。だが、この問題設定 (problématique) に関してはここではこれ以上行わずに、後続するセクションで詳しく探究することとする。
透き通ったテクスト
『海への巡礼』を導き手として様々なテクストを横断するイマージュの冒険も、もう終盤に近づいている。この冒険の最後の段階に向かう前に、バフチンとデリダの詩というジャンルに属するテクストの特殊性に関する論考を検討していきたい。何故なら、この検討を行うことを通して、岡本氏のテクストが歩んでいる方向性と私が考えるイマージュ空間の広がりの方向性とを結び合わせ、より開かれた空間へと出発できると思うからである。別な言い方をするならば、この作業を行うことによって、テクストにテクストを接ぎ木していく私のエクリチュールが、より自由な世界へと飛翔できると思うからである。
『小説の言葉』の中で、バフチンは小説というジャンルの言葉と詩というジャンルの言葉の違いを綿密に考察している。バフチンはリズムという言語の構成要素に注目して、詩的ジャンルの作品におけるリズムとは「(…) 潜在的に言葉の中に隠されている社会的言葉の世界、あるいは個人的な相貌を、その萌芽のうちに死滅させてしまう。(…) リズムは、詩の文体およびこの文体が前提とする単一言語の平面の統一と閉鎖性を強化し、緊密なものにする 」(伊東一郎訳) という主張を行っている。詩的テクストの透明性についてはすでに言及したが、バフチンの主張はその透明性の一つの根拠を示している。バフチンは「言語のあらゆる要素からの他者の志向とアクセントの放逐と、社会的な言語間における矛盾と多様性のあらゆる痕跡の抹殺のこのような作用の結果、はじめて緊密な言語の統一が詩的作品において作りだされるのだ」とも語っているが、それは氷となった水の純粋な透明性と他の何も受け付けない高貴さを表現する詩の特質を表している。水の持つ女性的な優しさや柔らかさ、気品や純真さを内包しながらも、詩的ジャンルのテクストは、その純潔さゆえに、自らの姿を固い氷とする。その堅固な鎧は内部の透明性を表すだけでなく、外からの侵入も決して許さないものでもある。
バフチンの対話に対する探究は彼の言語に対する思想の根底をなしている。彼は言語的実践において、誰が誰に話すのかという問題 (カイム・ペレルマンは「誰のために話すのか」という問題の重要性も付け加えているが) と如何なる形式を用いて話すのかという問題を自らの理論の中心に据えて、この課題の考察に取り組んだ。バフチンにとって対話は実際に面と向かった話し合いだけではなく、ある一人の主体内部での私とアルテル・エゴとの対話も含まれ、言葉を用いて行われる抽象的な社会的、文化的、政治的、経済的、民族的活動といったものも対話と見做されている。こうした多種多様で、壮大な領域を持つ対話の中でも、彼は小説の言葉に注目し、内的対話性の様々な様態をドストエフスキーやラブレーといった作家の作品分析を通して行った。そこで問題となっていたのは詩の言葉と小説の言葉との差異であり、彼は詩的テクストを小説のテクストから区分する上記した根本的特徴を明確に提示したのである。
詩と小説の差異に関するこうした考え方はバフチンだけのものではない。『雄羊 途切れない対話;二つの無限のあいだの、詩』で、デリダはハンス=ゲオルク・ガダマーの「詩とは作者の内部での対話である」というバフチンとは真逆の見解を認めつつも、バフチン的な考えを提示している。デリダはパウル・ツェランの「大きな、赤熱した穹窿」という詩に言及しつつ、「(…) 世界の中で、あるいは彼の人生の中で日付けをつけられたどのような出来事について、彼は証言しているのか、彼は誰に対して詩をささげたり、送ったりしているのか、詩の全体の中で、私、彼、そしておまえとは誰か、さらには彼の書いたそれぞれの詩句の中で、いったい何が違っているのか (…)」(林好雄訳) と書いている。またこの発言に続けて、「(…) そうしたことを私たちが理解し、突きとめることができると仮定してみよう。ところがその場合でも、私たちは、この残余の痕跡を、つまり私たちにとって、私たちに対して、詩を読解可能であると同時に読解不可能なものにしているこの残余の残留=抵抗 (…) を汲み尽くすことはないだろう」と書いている。この発言はツェランの詩についてだけに述べ得る事柄ではなく、詩的テクスト全体に対して述べ得る事柄である。詩的テクストは透明なテクストであり、その透明さによって、それ以上は見ることができないテクストである。透き通った水の奥を見つめようとしても、映し出されるのは見つめている私の姿であり、私と対話しようとする他者の姿はそこにはない。水の中に溶解した他者にいくら語り掛けようとしても、神秘なる空間内で、自らの声がただエコーするだけである。
大きな問題が残っている。それは詩=死という日本語における同音異義性としての問題である。同音異義語は各言語によって異なっているが、日本語におけるこの同音異義語は、岡本氏のテクストのタイトルにある「巡礼」という言葉の意味を二重写しにするだけではなく、詩というものの持つ厳粛なる喪という特質をも強化する。そこでは、私も、あなたも、私たちも、彼も、イマージュによって形成された人称は詩の大海に溶けてしまう。バシュラールは葬送について、「人間は生まれるとすぐ、植物に捧げられ、その個人的な樹木をもったものである。人間の死は生命と同様の保護を受けるべきものだった。こうして遺骸は植物の真ん中にまた置かれ、樹木の植物的な胸の中に戻され、遺骸は火にゆだねられる、あるいは大地にゆだねられるのである。あるいは茂みの中で、森の天辺で、大気の中で分解を待つのだった。(…) あるいはまた、最終的には、その自然の棺の中で、(…) 木桶の中で、(…) 死者はいっそうくつろぎ、水にゆだねられ、波に託されたのである」と語っている。火によって焼き尽くさ灰になる人=人称があり、土に埋められて朽ち果てる人=人称があり、空気に触れ分解され風に吹き飛ばされる人=人称がある。人=人称の葬送の方法は一つではない。水による人=人称の死は詩=死であるゆえに、詩は生者の身体を水の中に溶け込ませ、元素に還元し、イマージュの広がる聖なる宇宙へと旅立たせる。
死者の魂は聖なる常しえの理想郷に向かう。沖縄や奄美諸島の人々は古からニライカナイという海の向こうにある理想郷を思い描いていた。死は詩として、詩は死となって、向こう側への旅路を照らし出す光となり、再生のドラマを育む大地となり、新たな息吹をもたらす風となり、そして、母なる水である海はこうした物語の揺りかごとなる。『海への巡礼』の中で、岡本氏は「人の一生には限りがあるものとわかっているが、永遠をもとめる思いは同じだろう。エライカナイの楽土から次の世界が輪廻によってこの土地にもやってくる、そんな思いとともに」と述べているが、誕生と死、死と再生の物語は個別的な生存を超えて繰り返される。それは詩=死となり、テクスト空間が一度は閉じられ、終わらなければ再び始まることができないイマージュの永遠に開かれた物語である。
海の中に溶解した言葉は、生命体の滋養分となって、時空としてのクロノトポス (chronotopos) を超える。バフチンは対話が、内的対話性によって時空を超えて行われることが可能であることを解き明かした。だが、クロノトポスの隠された秘密は対話性のみにあるのではない。透明な水に溶け込んだ様々な人=人称の声が、新たなイマージュ世界のための水源となり、流動していくからだ。作者としての私の身体は死滅するが、詩の宇宙に向かって遊離する。それは清らかな、静謐な、美しい向こう側への旅である。その真実を見出した私は、『海への巡礼』の中に溶け込んでいる声の響き一つ一つに耳を傾け、その透明な響きを、言葉を通して見つめようとした。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
宇波彰現代哲学研究所 『海への巡礼』を横切って:透明な広がりの中へ (fc2.com)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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