今年も「9・18」―加害の歴史を忘れまい
- 2023年 9月 14日
- 評論・紹介・意見
- 日中戦争柳条湖事件阿部治平
――八ヶ岳山麓から(441)――
今年もまた9月18日がやってくる。満洲の荒野で犬死した従兄たちを思い出すつらい日だ。わたしは、この日を迎えるたび、何かをいわずにはいられない気持になる。以下、数年前にも同じことを書いたが、ご容赦を願う。
中国国民政府軍と中国共産党=「紅軍」との対決が熾烈になった1931年9月18日夜半、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で南満洲鉄道(満鉄)が爆破された。歴史家はこれを柳条湖事件という。この事件をきっかけに、関東軍は一斉に北大営その他の東北辺防軍への攻撃を開始した。「満洲事変」である。
満洲とは日本のいい方で、中国東北部の黒竜江・吉林・遼寧の3省のことで、中国では東三省という。関東軍とは日露戦争後に満鉄と遼寧省関東州防衛のために駐屯した日本軍である。東北辺防軍(以下東北軍)とは中華民国の軍隊であり、北大営は東北軍駐屯地である。
そして「満洲事変」は宣戦布告なき1945年までの日中15年戦争の始まりである。
第二次世界大戦敗戦に至るまで、日本では満鉄爆破は東北軍の犯行だと信じられていたが、事実は関東軍の謀略によるものであった。首謀者は関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐、作戦主任参謀の石原莞爾中佐らである。
日本軍から「東三省」を守るべき東北軍の最高指揮官は張学良であったが、彼は国民政府蒋介石総統の無抵抗方針にもとづいて軍を錦州に撤退させ、関東軍との正面衝突を避けた。
関東軍は遼寧省から黒竜江省に侵攻し、馬占山軍などの抵抗を退け、さらに32年1月には錦州をおとした。
当時日本では「満蒙は日本の生命線」という声が高かったが、それにしても関東軍の行動は日本政府の意表外のものであった。
関東軍は、全満洲を制圧すると、32年3月清朝のラストエンペラー愛親覚羅溥儀を担ぎ出し、34年3月溥儀を皇帝とする満洲帝国を製造した。
32年、蒋介石は廬山会議で「安内攘外(内を安んじて外を打つ)」つまり中共=「紅軍」の殲滅が先で抗日はその後とし、日本の侵略には当面無抵抗を主張した。もちろん中国国内には抗日を叫ぶ民衆の声があり、孫文夫人の宋慶齢は抗日のために全民族の抵抗を呼びかけ、35年には北京で抗日を叫ぶ学生の「一ニ・九運動」が起きた。地方軍閥も日本に抵抗したが国民政府の支援がないためつぎつぎ敗退した。
36年これに耐えかねた東北軍司令張学良は西安で蒋介石を監禁し、抗日のために中共と妥協するよう迫り(「西安事件」)、抗日民族統一戦線の実現を導いた。
37年北京郊外で盧溝橋事件が起き、日本軍の本土侵略が本格化した。
最終的に中国は勝ち、日本は敗けた。今日中国は1945年の日本降伏までに1000万人の死者を含む2100万人の犠牲者と5000億ドルの経済損失を被ったという。中国は抗日戦に勝ったものの、それは文字通りの「惨勝」であった。
日本では日中戦争といえば、満蒙開拓団と満蒙青少年義勇軍の悲劇が語られる。
日本政府は、満洲支配を強固にするために、また国内の小作問題解決の目的もあり、朝鮮人も含めた開拓移民を始めた。「満州事変」後から45年までに日本人移民は32万人、朝鮮人移民はその倍を数えた。
満蒙開拓団は原野を開墾するよりも、現地漢人(当時は「満人」といった)の土地と家屋を極めて低価格で半強制的に買い上げることが多かった。40年頃には満洲北部で65%の農民が土地を失い、6%の(日本人も含む)地主が67%の土地を所有した。「満人」のなかには自分の土地を奪われた上に、日本人地主の小作人になるものもあった。そこには当然のように民族差別があり、一番上が日本人、朝鮮人、蒙古人の順で最下位が「満人」だった。
中国本土での戦争が激化し大陸本土へおくりこむ兵員が増加すると、満蒙開拓団は数年で参加者が減少し始めた。これを補うために青少年の移民が計画された。「満蒙開拓青少年義勇軍」である。これを発案したのは、元農林大臣石黒忠篤、農本主義者の加藤完治らであった。
1938年には義勇軍の募集が始まった。小学校卒、数え年16歳から19歳までの身体強健な男子で、父母の承諾を得さえすればば誰でもよいとされた。自由応募がたてまえだったが、実際には道府県に割当てがあり、道府県は各学校へ割当てた。青少年義勇軍は1938年から1945年の敗戦までに8万6000人に達し、満蒙開拓民全体の30%を占めた。
長野県は満蒙開拓団も青少年義勇軍も全国最多だった。
1933年に長野県では「教員赤化事件」なるものが起きた。当時、世界恐慌の影響を受けた養蚕の不振による貧困があり、教員のなかに困窮した児童を救おうとするものが生まれたが、共産主義思想の持主ではなく、「赤化」は当局の捏造であった。
県当局と「信濃教育会」は、赤い教員を生んだのを「天皇陛下に申し訳が立たない」として、満洲移民への動員をかけたのである。学校では、満洲へ行けばゆくゆくは畑を20町歩(ヘクタール)もらえる、満洲の言葉は日本語とほとんど同じだ、といった話があった。親はもちろん、本人もこれにつられた。
私の親族では、従兄2人、のちに従姉の夫になった1人も入れると3人が青少年義勇軍に参加したが、いずれも次男・三男であった。青少年らは隔離された宿舎生活と激しい労働に苦しみ、仲間同士のけんかや満人に対する非行にそのはけ口を見出した。たとえば婦女暴行さらには草刈り鎌で「満人」を殺す事件もあった。
1945年8月ソ連が対日戦に参戦し、日本は降伏した。満州国高官、関東軍参謀らはいち早く日本に逃亡した。数人を除けば、彼ら指導者は天寿を全うしたのである。
日本の敗戦が知れ渡ると、まず「満洲国軍」が反乱を起した。彼らの指揮官は日本人で兵隊は現地人という傀儡軍であった。「満人」は土地と家屋を取り返すために開拓集落を襲撃し、抵抗する開拓民を殺し、長年の恨みを晴らした。
ソ連軍は日本人成年男子を捕虜としてシベリアへ送ったから、満蒙開拓団の婦女子と青少年らは取り残され、多数の自殺者が出た。また子連れで「満人」の配偶者になるしか生きる手がない人も出た。日本のために働いた「満人」・モンゴル人には逃げ場がなく、容赦なく報復された。
従兄の一人は義勇軍宿舎に来た「満洲国」兵士に射殺され、一人は国民政府軍に抑留され2年後に帰国したが、肺結核のために数年後貧窮の中で死んだ。残り一人は満洲で徴兵されて、本土決戦のために九十九里海岸で塹壕掘りをしているうちに無条件降伏となって命ばかりは助かった。
1989年の天安門事件の前年から、わたしは天津の高校に勤務した。学校では、7月7日が来ると「七七(チーチー)」といって盧溝橋事件、9月18日がくると「九一八(ジュイパ)」といって柳条湖事件を記念する集会があった。教師も学生も面と向かってはともかく、裏ではわたしを「那個鬼子(あの畜生)」と呼んでいた。
その後、2000年から中国で11年間教師生活をしたが、中国政府が日本に不満を表明すると、そのたび人々は「打倒日本」を叫んで街頭に出た。それにひきかえ、日本では満洲の悲劇が語られる。侵略と植民地化の過去を意図的に無視して、「未来志向」を口にする。そして、わが民族の負の歴史を語るのを「自虐史観」だという。
だが、日本は、アジア諸国に子々孫々に至る悲憤の種を残した。やった方は忘れたがるが、やられた方は決して忘れることはない。我々は加害の歴史を忘れてはならない。忘れることは民族の恥である。
(2023・09・08)
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