「報道離れ」が増えているそうな ―ホントか? 問題はどこだ
- 2023年 10月 18日
- 評論・紹介・意見
- 報道田畑光永
今週月曜日(16日)、『日本経済新聞』朝刊の「オピニオン」という特集ぺージに驚かされた。英『フィナンシヤル・タイムス』紙の記事が転載されていて、タイトルは「『報道離れ』にデータの力」。本文冒頭に「2017年に報道を避けていた英国市民は24%だったが、最近では41%に増えた」とある。
これは英オックスフォード大学ジャーナリズム研究所の報告を紹介したもので、「ここ数年の間に、今世紀初の世界的な感染症のパンデミック(世界的大流行)があり、欧州では第2次世界大戦後で最大の軍事侵攻が起きた。中東では衝突が再燃した。気候変動関連のニュースがあふれて人類が滅亡すると警鐘を鳴らしている。読めば気持が萎えてしまう」と、報道離れの理由が説明されている。
一瞬、「なるほど」とも思ったが、すぐに「待てよ、おかしくないか」という揺り返しが来た。一般に流布している定説(?)では、戦争は人々の関心を引き付けるという点ではニュースの中でも横綱格であったはずだ。ところが引用された記事では、コロナ禍と気候変動と並んで、ウクライナとガザの戦争が「読めば気持が萎えてしまう」ために、報道離れを引き起こした犯人とされている。
私の思い出話をさせていただくと、小さい頃、ある朝、目が覚めた途端に「田畑さん、がんばろう」という隣りのオーモリさんのおじさんの涙声が聞こえてきた。飛び出してみると、おじさんが私の父親の手を握って「がんばろう」を繰り返し、父親も「うん、がんばろう」と相槌を打っていた。
後から知ったのだが、日付は昭和16年12月8日、日本軍がハワイの米軍基地に奇襲攻撃を加え、太平洋戦争が始まった朝であった。ラジオ放送でそれを知ったおじさんは興奮のあまり、隣家にとび込んできたものらしい。これは私の記憶に残る人生最初の場面で、6歳だった。
長じてニュースの仕事をするようになってからも、戦争は人々を興奮させるものという通念で生きてきた。勿論、戦争による興奮には「肩入れする興奮」と「反対する興奮」があり、内容は正反対であるが、どちらも「目を離す」どころか、「目を離せない」興奮のはずであった。
ところが、最近は「読めば気持が萎えてしまう」とすれば、それは引用のすぐ前の部分が言うように、「人類が滅亡する警鐘を鳴らしている」ためなのであろうか。もしそうだとすれば、種族の滅亡を察知した動物の群れが自ずと死地に向かうように(そういう動物が実在するかどうか、私は知らないのだが)、現実世界と向き合うことを人類も放棄し始めたということになるのであろうか。
私はこの議論には賛同できない。この議論の前提となっているのは、視聴者の「報道離れ」であるが、その原因はメディアの多様化の結果として、報道量が急増し、同時に伝達手段の多様化、即時化によって、目をそむけたくなるような戦争の各場面までもがリアルの眼前に突きつけられることで、視聴量が相対的に減少したのであろうと考える。
記事では、一方で自殺率や死亡率、貧困、識字率、その他各種のデータへの関心が高まり、「データリテラシーが向上した」とあるが、それと「報道離れ」を関連付けるのはいささか根拠が薄弱である。「データリテラシー」の向上も報道量の豊富化の一端と考えるべきではないのだろうか。
ともあれ、この記事がいう「報道離れ」が現に起きているとは私には思えない。むしろ「報道慣れ」がニュースに対する反射神経を鈍麻することのほうが心配である。ウクライナ戦争が600日を越えてもなおプーチンの蛮行を止めるすべが見当たらないのがなんとももどかしい。一方、イスラエルのガザでは、どうにも収めようのない憎しみがぶつかり合って、信じられない数の生命が連日、失われて行く。知ることはすべての始まりではあるが、知る手段が進歩し、多様化するほどには、それを活用する知恵は進化しないのがなんとももどかしい。(231016)
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〔opinion13306:231018〕
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