「資本主義の次に来る世界」(ジェイソン・ヒッケル著:東洋経済新報社、2023年4月刊)要約 (一)
- 2023年 11月 12日
- 評論・紹介・意見
- ジェイソン・ヒッケル椎名鉄雄資本主義の次に来る世界
編集部:註
本稿は長文のため筆者の了解を得て三回に分けて掲載する。全体は下記の通りである。
はじめに 人新世と資本主義 (一)
第1部 多いほうが貧しい
第1章 資本主義――その血塗られた創造の物語 (一)
第2章 ジャガノート(圧倒的破壊力)の台頭 (二)
第3章 テクノロジーはわたしたちを救うか? (三)
この文章は、「資本主義の次に来る世界」(ジェイソン・ヒッケル著:東洋経済新報社、2023年4月刊)の要約である。私は、この本を読んでいる内に次の言葉を思い出した。中学時代に読んだ〔やまびこ学校の〕著者、無着成恭の「私たちは命をいただいて生きているのだ」という言葉だ。この本で著者は、生態経済学という立場からこの言葉の意味を丁寧に説いているように思う。私の力では、著者の300ページの及ぶ長い文章の中から、著者の意図するところを的確に要約することは不可能に近いと思われるが、自分の勉強の為に第一部について本文の要約を試みた。その結果、私の思考整理に大きなプラスとなったように思う。
はじめに 人新世と資本主義
昆虫が絶滅の危機に瀕している。科学者の一人は「今や生態学的アルマゲドン(終末)に向っている」といった。2020年に科学者たちは、「昆虫が絶滅すると、種をはるかに超えるものが失われる」「人類が依存する重要な生態系サービスの衰退に繋がる〕との警告を発表した。今,起きつつあるのは、相互に関連する複数のシステムの崩壊であり、人間は基本的にはそれらのシステムに依存している。
20世紀中頃から、土地を大企業に委ね、作物利益の最大化を目標に単一の作物の大量生産が始まった。大半は家畜の飼料になった。工業型農業は、強引な耕作と化学物質の投入に依存し、土壌の生態系を猛烈な勢いで破壊してきた。2018年、日本の科学者が、ミミズの個体数に関する調査を世界各地で行い、工業型農場では、ミミズのバイオマス(生態学で特定の時点においてある空間に存在する生物の量を物質の量として表現したもの))が83%の減ったことを明らかにした。ミミズが死滅するにつれて、土壌が含有する有機物は半減した。土壌は死んだ土塊になりつつある。
同じことは海でも起こりつつある。最近の統計によると有史以来初めて乱獲等により、世界中で漁獲高が減少しはじめた。地球温暖化により海温が上昇するにつれて栄養のサイクルは乱れ、食物連鎖は断ち切られ海洋生物の生息地の多くが消滅しつつある。海洋生物は、陸生動物の2倍以上のスピードで消えているのだ。2019年の国連の専門機関は、生物の実態について報告書を発表した。それによると、1970年以来、鳥類、哺乳類、爬虫類、両生類の数は半分以下になった。100万種ほどが数十年以内に絶滅する危険性がある、としている。
「米国科学アカデミー紀要」は、この絶滅の危機を「生物学的殲滅」と表現し、「人間文明の基盤に対する恐ろしい襲撃」だと結論づけた。そして「人類はいずれ非常に高い代価を支払うことになるだろう」と記している。これは生態系の話である。人間は自然の生態系の中に存在している。昆虫は受粉に欠かせず、鳥は作物の害虫を食べてくれる。ミミズは土壌を肥沃にし、珊瑚礁は魚の群れを養う。この生態系システムは人類と切り離された「外」に存在するのではない。このシステムは、詳しく後述するように私たちの運命と絡み合っている。
更に気温上昇の影響は、私達に深刻な結果をもたらしつつある。2003年にヨーロッパを襲った熱波は、ほんの数日で7万人もの命を奪った。2012年ポルトガルでは、熱波による山火事が発生し、あちこちで森林を焼き払った。車で逃れようとした人達が、車ごと焼かれ、道路は墓場と化した。2020年までの上昇率がこのまま続けば、今世紀末には、気温は4度c上昇するといわれている。もしそうなれば、2003年にヨーロッパを襲った熱波は、普通の夏になるだろう。
同時に海面の上昇により、世界はすっかり様変わりする。1900年から現代までに海面は約20センチメートル上昇している。「パリ協定」(2015年の国連気候変動枠組み条約締結国会議で採択、2016年に発効した気候変動問題に関する国際的な枠組み。世界共通の2度目標が掲げられている))が実施されても海面は、今世紀末までに更に30センチメートル上昇するといわれている。こうなると高潮だけでも壊滅的な被害をもたらすだろう。更に気温が3度Cから4度C上がれば、海岸地域の多くが海面下に沈むだろう。ニューヨークやアムステルダム、大阪も同じ運命をたどる。これは今世紀中に起きることだ。
最も懸念される気候変動の影響は、食糧だ。アジア人口の半分は飲み水だけでなく、農業用水もヒマラヤ山系の氷河に由来する水に頼っている。何千年もの間、氷河から流れ出る水は、毎年新たな氷が出来ることにより補充されてきた。しかし現在、補充が追いつかないスピードで溶けている。気温が3度Cか4度C上昇すれば氷河の大半は今世紀末には消滅し、その地域のフードシステム(食糧生産,加工、流通、消費の流れ)を根幹から破壊し、8億人を苦境に陥れるだろう。ヨーロッパ南部、イラク、シリアなど中東のほとんどの国では、深刻な旱魃と砂漠化が進み、国全体が農業に適さなくなる可能性がある。NASA(アメリカ航空宇宙局)によると、アメリカの草原地帯と南西部で旱魃が発生すると、これらの地帯は黄塵地帯となるおそれがある。「気候変動に関する政府間パネル」の報告書は、気温上昇が2度Cを越えると「世界規模の長期的な食料不足」が起きると予測する。海面上昇、農地の減少によって難民や移民が増えるとどんな事態になるか想像できない。
更に気候変動の影響について考えてみよう。極地の氷冠は、太陽熱を跳ね返している。これがなくなるとその下にある海や地面が現れる。太陽エネルギーは全て吸収され、熱として大気中に放出される。更に温暖化が進み氷冠は一層減少する。このことは二酸化酸素とは無関係だ。又、地球の温度が高くなるにつれて、森林は乾燥し燃え易くなる。森林が燃えると二酸化酸素が放出される。森林が減少すると二酸化酸素の吸収力が減少し温暖化は更に進む。気候変動の森林へ影響はこれだけではない。アマゾン川は、毎日約200億トンの水蒸気を大気中に吐きだしている。水蒸気のほとんどは雨になって森林に戻る。森林は文字通り生命の基となる水を世界中に送り出す巨大な心臓のようなものだ。科学者の中には気温上昇を「パリ協定」が前提とする2度cに「留まらせる」のは不可能だろうと危惧する人もいる。唯一理にかなう対策は、あらゆる手を尽くして気温の上昇を1.5度C以下に保つことだ。そのために全世界の二酸化酸素排出量を早急にゼロにしなければならない。
<エコ・ファクト(遺跡全体を含む環境情報資料)の裏側>
人間の活動が、気候変動をもたらしているという科学的コンセンサスは、1970年代半ばに形成され始め、1992年には「国連気候変動枠組み条約」が採択され、温室効果ガス排出に削減目標が設定されたが、拘束力はなかった。国際機構サミット(国連気候変動枠組み条約締結国会議・COP)は毎年開催されている。COPの枠組みは、京都会議、コペンハーゲン合意、2015年のパリ協定と3回にわたって拡大されてきた。それでも世界全体の排出量は年々増え続け生態系は恐ろしいスピードで崩壊している。未来の世代はこの時代を振るかえって、何が起きているかを正確且つ詳細に知りながらなぜ問題を解決できなかったのか、驚くだろう。気候変動による苦境を招いたことに関して、化石燃料企業と企業のロビー活動に買収された政治家の責任は重い。しかしそれだけでは、無為無策の説明にならない。他に何か深い何かがある。その何かとは、過去数世紀にわたって多かれ少なかれ地球全体を支配するようになった経済システム、資本主義である。
<永遠に続く経済成長という資本主義の幻想>
資本主義が、歴史上の他の経済システムと異なるのは、それが絶え間ない拡大、即ち成長の要求を中心として組織されているからだ。成長の追及は、人間のニーズを満たすことでも、社会を向上させることでもなく、利益を引き出し蓄積するために行なわれている。
大企業が総収益を維持するには、2~3%成長し続けなければならない。利子率以上の成長がなければその企業から資本は逃げ出す。3%の成長は世界経済が23年で倍になることを意味する。倍増した経済がまた倍になり、それを繰り返すことになる。経済が拡大し生産量が増えれば、それにつれてエネルギー及び資源の消費も増え、大量に廃棄物も生み出す。科学者が「地球の限界」(プラネタリー・バウンダリー)として定量化した限界を、現時点で既に大幅に超え、生物界に破壊的な影響を及ぼしている。地球規模の生態系崩壊の全ての原因は、高所得国の過剰な成長にある。とりわけ超富裕層による過剰な蓄財にある。高所得国の過剰な成長がなくならない限り、100%クリーンエネルギーに切り替わったとしても地球規模の生態系破壊は止まらない。過剰な成長が続く限り、成長プロセスの中で森林破壊、乱獲、土壌劣化、大量絶滅を防ぐことは出来ない。私達は成長がない限り人々は仕事と家を失い生活が破綻する、という成長主義の罠に陥っている。政治も報道機関等もこの罠にはまっている。生態経済学の研究成果の結論は、「グリーン成長は存在しない。実験も経験もグリーン成長を支持しない。グリーン成長は幻想である」ということだ(詳細後述)。テクノロジーは効率追求のためには有効である。しかし資本主義の下では、効率追求は成長の手段に過ぎない。成長こそが問題なのだ。
<世界の中で高まる資本主義への反感>
私たちの文化は新しいものに惹かれ、発明や革新が大好きで、創造的で型にはまらない考えを賞賛する。しかし経済システムに関しては、資本主義が唯一の選択枝で資本主義を超えるものの想像さえすべきでないという考えを鵜呑みにしている。しかし状況は変わり始めている。古い定説を疑う用意が出来ていることが明らかになってきた。イギリスの調査会社、YUUGOV社による2015年の世論調査では、イギリス人の64%が資本主義は不公平だと考えていることがわかった。アメリカでさえその割合が55%に上る。ドイツは77%と多数だ。イエール大学による2018年の世論調査では、アメリカ人の70%が「環境保護は成長より重要だ」、という文章に同意することがわかった。これらの調査に関する科学的レビューは、環境保護と成長と成長とのどちらかを選場なければならない場合、「ほとんどの調査と国において環境保護が優先される」ことを明らかにした。
<脱成長によってもたらされるもの>
時として、科学的証拠が文明社会の支配的見解と食い違うことがある。チャールズ.ダーウィンが、人間は神によって神の写し身として作られたものでなく、人間以外のものから進化した、と主張した。しかし、この考えは当時の人々には受け入れがたいものがあったが、間もなく、ダーウィンの主張は科学的コンセンサスとなり、人々の世界観を永遠に変えた。同じようなことが今起こりつつある。2018年には238名に科学者が、「GDP(国内総生産)成長を放棄し人間の幸福と、生態系の安定に重点を置くこと」を欧州委員会に要求した。私達は数十年にわたって人々の生活を向上させるためには、成長が必要だと教えられてきた。実はそうではないことがわかってきた。成長があるポイントを超えるとGDPと社会的成果の関係は破綻し始める。必要なのは総生産量の増加ではなく、人々が生活に必要なものにアクセス(接続)できているか、所得がどのように分配されているかが問題なのだ。特に重要なのは所得の分配で、現在それは極めて不平等だ。最も富裕な1%の年収合計は約19兆ドルで、世界のGDPのほぼ4分の一に相当する。私たちの全労働、採取される全資源、排出される全CO2の4分の一は、金持ちを一層金持ちにする為のものなのだ。必要なのは、金持ちの資本蓄積の為ではなく人々の幸福のために、経済を組み立てなおすことだ。
地球温暖化を1.5度C以下に保ち、生態系の破壊を逆行させる唯一の方法は、高所得国が過剰な資源採取とエネルギー利用を減速させることだ。脱成長の核心は経済を成長させないまま、貧困を終わらせ、人々をより幸福にし、全てに人に良い生活を保障できることだ。では、実際にどうすればよいだろう。経済の全部門の成長を目指すのではなく、成長させるべき部門(クリーンエネルギー、公的医療、公共事業、環境再生型農業など)と、必要性が低いか、生態系破壊型部門(化石燃料、武器、SUV車など)を見極めるべきだ。
過剰な生産を減速し、不要な労働から人々を開放することにより、労働時間を短縮しながら完全雇用を達成し、所得と富を公平に分配し、国民皆保険制度、教育、住宅といった重要な公共サービスへのアクセスを拡大できる。
ここで強調しておきたいことは、脱成長はGDPを減らすこととではないということだ。
今私が訴えているのは、根本的な変革である。経済をこれまでとは全く異なる経済へ、成長を必要としない経済へ、シフトすることなのだ。それを実現する為には、債務システムから、銀行システムまでの全てを見直し、人々、企業、国家,さらにはイノベーションそのものを成長に取り付かれた息苦しい状態から開放し、より高い次元の目標に取り組めるようにしなければならない、この方向に進んでいくと、際限のない資本蓄積(利益追求)ではなく、人間の繁栄を中心に組織された経済、ポスト資本主義経済が誕生する。
現在この考え方は突如として主流になり、科学界に驚くべき変化を引き起こしている。科学を無視して旧来の世界観を維持するか、世界観を根柢から変えるか選択を迫られている。この選択には私たちの命がかかっている。
<アニミズムから二元論、そしてアニミズムへ>
現在の資本主義に生きる人々は、人間社会は他の生物の世界とは根本的に異なると教えられてきた。人間は自然とは切り離された優れた存在で、精神と心と主体性を備えているが、自然は不活発で機械的な存在である。この世界観はプラトンからデカルにいたる歴代思想家に受け継がれた考え方である。二元論と呼ばれている。この二元論は成長のために生命を犠牲にすることに利用されてきた。しかし人類学者たちは、長い年月人間は他の生物界との間に根本的な隔たりを感じていなかったと指摘している。川、森、動物、植物、さらには地球そのものを相互依存の関係にあると考えていた。それらは人間と同様に感情を持ち、同じ精神によって動くものとみなし、親類のような近しさを感じていた。広義には精霊信仰(アミニズム)と呼ばれている。全ての生き物は人間と道義的に同等だという前提から始めれば、それから何かを簡単に奪ったり出来なくなる。この論理は資本主義の中心的ロジックに真っ向から対立する。与えるより多くを奪うことが資本主義のロジックだ。かつて啓蒙思想家はアミニズムを非科学的と軽蔑してきた。現在では科学がアミニズムに追いつきつつある。生物学者は、人間は孤立した生き物ではなく、膨大な数の微生物を身体に宿らせ、生理機能をそれらに依存していることを発見した。生態学者は、木は不活発どころか互いにコミュニケーションをとり、土壌中の目に見えない菌糸ネットワークを通じて養分や薬用成分を分かち合っていることを知りつつある。地球システム科学者は、地球そのものが超生物のように活動していることを発見した。これらの知見はすべて、生命の網における人類のポジションについて、私たちの考え方を変え、新しい存在論への道を開いた。
<すばらしい未来を垣間見る>
新たな考え方を知ったせいで、古い神話(成長主義)は崩れ、新たな可能性・未来が見えてくる。その空想の中では世界は大きく変わっている。高所得国は資源とエネルギーの消費量を持続可能なレベルまで引き下げた。所得と富をより公平に配分するようになり、貧困を終わらせた。週40時間だった労働時間は30時間まで減り、人々は生活の質を向上させるためにより多くの時間を使えるようになった。質の高い公的な教育や医療を誰もが利用できる。人間については、他の生物と切り離されているのではなく、相互につながっていると考えるようになった。地球はどうかというと、驚くべき変化が起きた。熱帯雨林が再び再び生長して元の姿を取り戻し、森には生命があふれるようになった。ヨーロッパとカナダでは温帯林が再び広がった。川は清流になり魚が戻ってきた。生態系全体が息を吹き返した。クリーンエネルギーへの速やかな移行が成し遂げられ地球の気温は安定し、気候システムは太古のパターンに戻り始めた。一言で言えば物事が治癒し始め、私たちも治癒し始めたのだ。
本書ではこの夢について語ろう。まずは500年に及ぶ歴史をたどることから始めよう。まずは現在の経済システムのルーツを探求しこのシステムが何を原動力としてどのように定着したのかを見ていこう。その後、生態系の崩壊を逆行させポスト資本主義経済を構築する為の堅牢で実践的システムについて検討しよう。
第1部 多いほうが貧しい
第1章資本主義~その血塗られた創造の物語~
地球規模で生態系のバランスが崩れ始めたのは、この数百年前に資本主義が台頭し、1950年代から産業化が驚異的に加速するようになってからだ。資本主義が誕生したのはわずか500年前だ。資本の目的は、余剰価値の抽出と蓄積である為、資源と労働を出来るだけ安く手に入れなくてはならない。資本主義は、「自然と労働から多く取り少なく返せ」という単純な法則によって機能している。それは強欲な人間の本性に基づいているものだから変えようがない、といわれている。しかし、資本主義は人間の本質とは何の関係もない。
<封建社会を覆した忘れられた革命>
封建社会の野蛮なシステム,農奴制を倒したのは資本主義ではなかった。封建社会を覆したのは市井の革命家たちの長年に及ぶ勇気ある戦いだった。(イギリスの1381年ワット・タイラーの反乱、イタリアでは1378年チョンビの乱は政権奪取に成功、パリでは1413年民衆蜂起が勃発し権力を掌握等)。反逆者たちの目的は領主による支配に終止符を打つことだった。最終的にこれらの運動はヨーロッパ大陸の大部分で農奴制を廃止することにつながった。そして自給自足を原則とする平等で協働的社会の建設が始まった。この改革は平民の福利に驚くべき影響を及ぼした。歴史家は、1350年から1500年までを「ヨーロッパ労働者階級の黄金時代」と呼ぶ。自由農民は自然との間に互恵的関係を築けるようになり、生態系は再生し始めた。民主的集会を開き、耕作、放牧、森林の使用に関するキメ細かなルールを定め、牧草地やコモンズ(共有地)を集団で管理した。
<上流階級によって叩き潰された平等主義の社会>
1350年から1500年までの革命の時代、上流階級は歴史家が「慢性的非蓄積」と呼ぶ危機に見舞われた。封建制が崩れた後に生まれた平等主義の社会は、自給自足、高賃金、草の根民主主義、資源の共同管理をジュクとし、上流階級の富の蓄積を阻んだ。上流階級は団結しヨーロッパ全土で暴力的な立ち退き作戦を展開し、農民を土地から追い出した。農民が共同管理をしていたコモンズ(牧草地、森林、川)は柵で囲われ上流階級に私有化された。このプロセスは囲い込みと呼ばれる。これに対し、農民のコミュニテイは抵抗したが成功しなかった。国の軍隊に制圧された。3世紀にわたってイギリスを始めヨーロッパの広域で囲い込みが行なわれ、数百万の人々が土地を追われ、国内難民になった。囲い込みは、資本家にとっては魔法のように作用した。大量の土地や資源を独占できるようになった。アダム・スミスはこれを「先行的蓄積」と呼んだ。この蓄積のプロセスは、略奪のプロセスだった。カール・マルクスはこれを「本源的蓄積」と呼んだ。資本主義が台頭するにはもう一つ必要なものがあった。労働である。囲い込みによって土地を追われた人々は、賃金を得る為に労働力を売るしかなかった。生き延びる為に彼らは賃金労働者になった。
資本主義は組織的な暴力、大衆の貧困化、自給自足経済の組織的な破壊を背景として生まれた。囲い込みは人間の幸福を破壊し尽くした、自由農民が勝ち取ったあらゆる利益を囲い込みは無効にした。資本主義の台頭により、イングランドでは、1500年代には平均寿命が43歳だったのが1700年代には30歳にまで低下した。囲い込みは特にイギリスにおいて強引に進められた。中産階級(ブルジョアジー)は国家権力を駆使して、エンクロージャー法(囲い込み法)を導入し、囲い込みを強行した。この頃、時期を同じくして産業革命が始まった。産業革命の最初の100年間、平均寿命は著しく低下し、マンチャスターではわずか25歳であった。人的犠牲は大きかった。
<植民地化による成長>
1400年代グローバルサウスでは、ヨーロッパで起きたことが些細に思えるほど徹底的に自然と人間が囲いこまれた。植民地化は、ヨーロッパで農民革命が起きて上流階級の富を蓄積できなくなったことに対する反応、即ち解決策だった。植民地化は国内における囲い込みと同時に起きた。二つのプロセスは資本蓄積の戦略の一環として展開された。植民地化による強奪がもたらす利益は驚異的だった、その利益の一部は産業革命に投資されヨーロッパ資本主義の台頭に重要な役割を果した。植民地開拓が魅力的だった一番の理由は、その土地とそこに住む人々をどうあつかっても咎められなかったことにある。ヨーロッパ列強による国際的人身売買行なわれ、1500年代から1800年代の300年間で1500万人がアフリカから大西洋を越えて新大陸に輸送された。奴隷貿易は労働力の異常な強奪であり、アメリカ先住民やアフリカから輸送された人々の労働力がもたらす利益はヨーロッパ実業家の懐に入った。19世紀末には、イギリスの国内予算の半分以上がインドやその他の植民地から吸い上げた資金によって賄われた。
資本主義と産業革命は、奴隷にされた労働者が入植者に奪われた土地で生産したものと、囲い込みでコモンズを剥奪された農民が工場で加工した製品に支えられていた。囲い込みは国内の植民地化であり、植民地化は国外での囲い込みだった。資本主義というパズルの最後のピースになったのは植民地経済への介入だった。ヨーロッパの資本家は、サウスの地域産業を破壊し、植民地に原料の供給源だけでなくヨーロッパの大量生産商品の市場になることを強いた。
<人為的希少性というパラドックス>
囲い込みの結果、農村に留まった農民は新たな経済体制に組み込まれていた。土地は借地として与えられ、農民は高額な借地料を支払うため、生産性の向上(増収)を強制された。生産性を向上できなかった農民は借地を取り上げられた。生産性は劇的に高まった。その利益の大部分は地主のものとなった。囲い込みで村を追われた人々はスラムで暮らすようになった。難民は低賃金の仕事を引き受けるしかなかった。通常一日、16時間働いた。そうした中で総生産量は飛躍的に増加した。イギリスの哲学者ジョン・ロックは「囲い込みは平民からコモンズを盗む行為だったが、集約農業を可能にし、農業生産を高めたので道徳的に正当化される」と述べている。同じ論理は植民地化を正当化するためにも使われている。この論理は明らかに欺瞞だった。利益を得たのは地主であり、生産手段の所有者だけだった。暴力的囲い込みによって土地、森、水源の利用は制限され、その希少性を高めた。それにより高い地代を創出し生産性を高めた。土地を追われた難民たちは低賃金労働者となり、資本主義の生産能力の源泉となった。資本主義は、国家による人為的希少性の創出と維持に依存していた。
1771年農学者のアーサー・ヤングは「下層階級は貧しいままにしておかなければならない。そうしなければ彼らは決して勤勉にはならないだろう」と記している。貧困は富の源泉であると哲学者ヒュームも述べている。イギリスと同様の囲い込みと強制的プロレタリア化はヨーロッパ諸国(スペイン、ポルトガル、フランス、オランダ)が殖民地政策を進めた時代に繰り返し行なわれた。植民地政府は、利益を確保するため豊富にあるものを希少にしてその価値を高めなければならなかった。例えば、海水から塩を獲ることを禁止し、塩を獲る権利を売りつけた。共有物としての海水の利用を制限し、その希少性を人為的に作り出した。
<二元論による人間と自然の分断>
人類は自らの生存が周囲の生物システムに依存していることを知っていた。人間は生物コミニテイの一員であり、本質的な特性は彼らと同じであると考えていた。人類学者はこの世界観をアミニズムと呼ぶ。アミニズムの世界観は相互依存の存在論だ。しかし3000年前の古代メソポタミアの文献には人間を自然界の支配者と看做す考え方が記述されている。この支配という原則は、紀元前500年頃にユーロシア大陸の主要地域で超越的哲学や宗教(儒教、ヒンドウー教、ユダヤ教等)が生まれるに従ってより確固になっていった。この考え方はプラトンによって補強された。プラトンは、現実世界は天上界(イデア)により構築されたと見る。しかしアリストテレスの流れを汲む多くの哲学者は、イデア論に反対し、生物界を知的な有機体とみなし更に神とさえみなした。世界は論理的思考と感情を持ち、その全ての部分は相互に支えあっているとみた。アミニズム的思想は農民の信念に正当性を与え、さらに平民が封建領主から土地の支配権を奪取すると更に広まった。
アミニズム的思想は教会聖職者の主張を脅かした。神が存在しなければ司祭も王も存在しないことになる。教会は弾圧に乗り出した。更に資本家も弾圧に乗り出した。アミニズム思想の下では、あらゆるものが生きていて精霊や主体性を内包する世界では万物は権利を持つ存在と看做され、所有及び搾取即ち財産化は論理的に許されない。資本主義を推し進めようとする人達は、アミニズム的思考を破壊しなければならなかった。近代科学の父と呼ばれるフランシス・ベーコン(1561年~1626年)はその答えを資本家に与えた。ベーコンは記している。「科学によって得た知識を用いて、人間は自然を征服し服従させ、その根幹をゆさぶることが出来る」。ベーコンは、科学を自然に対抗する武器と看做した。更にフランスの思想家デカルトによって人間と他の生物との繋がりは絶たれた。デカルトは、「精神と物質は基本的には」二分される。人間は全ての生物の中で唯一神との特別なつながりのある精神或いは魂を持っている。人間以外の生物は思考力のない物質に過ぎない。単なる物なのだ」。このビジョンは「二元論」といわれ、デカルトの物質論は機械論哲学とよばれた。自然を単なるモノと看做すことができればどう扱ってもいい筈だ。資本家にとって喜ばしいことだった。
<身体という「資源」>
中世の革命期の農民たちは実業家から見れば身勝手なリズムに従って働いていた。中世の暦は祝日で埋め尽くされていた。イギリスの歴史家E・P・トムソンによれば、祝日やお祭りは農民の生きがいだった。囲い込みによって状況は一変し、ヨーロッパには貧民と浮浪者があふれた。1531年、イングランドのヘンリー8世は「浮浪者取締法」を制定し、浮浪者を拘束・処罰し、強制的に労働に従事させることを命じた。庶民の労働に対する考え方を根本的に変えようとした。怠惰をあらゆる悪徳の根源と呼んだ。1570年代には10年間で4万人が絞首刑にされた。この時代、哲学者と政治理論家は人間の身体に特別な関心をよせ、利益の余剰を生み出す原動力と看做すようになった。デカルトは、著書「人間論」において「人間は二つの明確な要素、非物質的精神と物質的身体に分けることが出来る。」「精神によって身体を支配することが出来る」とした。この思想は衝動や欲望に打ち勝ち規則正しく生産的秩序を身体に課すために利用された。1700年代には「怠惰は罪」という明確な価値観に統合された。カルヴァンの神学は、「利益」を道徳的成功の象徴にした。貧困は強奪された結果ではなく個人の道徳的失敗と看做されるようになった。私たちが「ホモ・エコノミックス」(自己の経済利益を極大化させることを唯一の行動基準として行動する人間)と呼ぶ生産主義的行動は、自然なものでも生得的なものでもなく、5世紀に及ぶ文化的再プログラミングの産物なのだ。
<経済の外に存在する「安い自然」>
1600年代に二元論による新たな自然観が生まれた。自然は社会から切り離され、「他のモノ」と看做すようになった。自然には人間の身体も含まれていた。この世界観は、資本家が自然を客体とみなし、資本蓄積の回路に引き込むことを可能とした。資本家は、コモンズの囲い込みで、代価を支払わないで自然(土地、森林、川)を手に入れた。植民地化でグローバル・サウスの広大な地域を強奪し、資源を手に入れた。新たな自然観により、資本家は自然を経済の「外」に存在するものとみなせるようになった。植民地化の時代、グローバル・サウスの人々は、常に人間以下の存在・自然(モノ)とみなされた。アフリカ人とアメリカ先住民は、「モノ」として扱われた。先住民族はアミニズム思想を棄て自然を[モノ]とみなすよう強制された。土地と身体を奪うだけでなく、精神までも二元論者に変えようとした。
<自然を打ち負かし、征服せよ>
私達は皆、二元論的存在論の承継者だ。私達は生物界を「天然資源」「原材料」、更に「生態系サービス」と呼ぶ。廃棄物、汚染、気候変動を「外部要因」として論じるのは、自然界でおきることは人間の関心事の外にあると考えているからだ。大量絶滅が進行中であることを示す統計は増える一方だが、そうした情報をわたくしたちは驚くほど冷静に受け止めている。それは、基本的には人間を生物コミニテイから切り離した存在とみているからだ。それが資本主義の核心なのだ。デカルトは、科学の目的は、「人間を自然の支配者、所有者にすることだ」と主張した。400年を経た今もこの倫理観は私たちの文化に深く根づいている。私達は生物界を他者とみなすだけでなく敵(科学と理性によって戦い、征服すべきもの)とみなしている。 続く
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13369:231112〕
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