世界のノンフィクション秀作を読む(35) 藤原ていの『流れる星は生きている』(日比谷出版社) ――母が子のために書いた強い感動の記録(上)
- 2023年 11月 16日
- カルチャー
- 『流れる星は生きている』ノンフィクション横田 喬藤原てい
筆者(1918~2016)は作家新田次郎(本名・藤原寛人)の夫人。夫と共に39年に旧満州の首都・新京(現・長春)の気象台に赴き、45年のあの敗戦の日を迎える。未曾有の大混乱の中で夫を現地に一時残し、三人の子供を引き連れ、命がけの引き揚げ行へ旅立つ。その文字通り辛苦の一部始終の記録がベストセラーとなり、諸々の読者に強い感動を呼んだ。
◇涙の丘
昭和二十年八月九日夜十時半頃、夫は役所から非常招集を受けた。夫は(緊急避難の)心構えの必要を説き、外出。私は非常持ち出しのトランクを点検した。冬支度用などの子供や大人の衣類に、非常食糧(若干の砂糖・乾パン・缶詰など)が少々。寝室で寝ている正広は六歳、正彦が三歳、そして咲子は生後一か月だった。私は急に淋しくなって涙ぐんだ。
夫が帰って来て、蒼白な顔で告げた。一時半までに新京駅に集合~逃げるように、と。夫は仕事があり、後始末を付けないと動けない、と言う。泣き崩れた私は気を取り直し、母としての責任を意識した。新京駅前はごった返していた。私たちの団体は五十名ばかり。出発は翌朝九時と決定。夫は「疎開団の団長は戸野さん」と怒鳴った。最後まで見栄と体裁のために家族を犠牲にしようとする夫に、人並みの妻として涙を流すより仕方がなかった。
無蓋貨車の外枠に体を持たせかけていると、独りになった淋しさが大波のように押し寄せてきた。発車と同時に降り注いでくる石炭がらをどうして防ごうかと考えた。急に私は泣けてきた。私の乳は昨夜からちっとも張って来ない。乳が出なかったら、この子は死ぬに決まっている。私はまた涙ぐんでしまった。
宣川農学校、私たちの収容されたこの校舎には三百名ばかりの女子供が避難して来ていた。学校の裏に炊事場が作られ、急拵えの竈を築き、協同炊事が始められた。大豆と白米を半々位に炊いた握り飯が一日二回配給された。大豆が悪かったらしい。子供は殆ど全部お腹を壊し、大人も大部分の人が嫌な下痢に見舞われた。
八月十五日は、よく晴れ上がっていた。ベルが鳴り響き、農学校の生徒約四、五百名が校庭へ集合。校長先生の挨拶~生徒たちの泣き声が、妙に遠見の私の神経を刺激した。何か起こったに違いない。部屋に帰った私は、青い顔をした戸野さんから戦争は終わったのだ、と知らされた。神経が細く細く尖っていた私たちは、みんな泣き出した。
別の不安がすぐ湧き上がった。日本は負けた、すぐその後に何か起こるに違いない。私たちはすぐ逃げられるように用意をして、十五日の夜を迎えた。朝が待ち遠しかった。私たちは自分の影に脅えていたのだ。外出を禁止されたまま、不安な日を過ごしていった。
私たちは日本人と呼ばれた。なのに、私たちが朝鮮人と言うと、彼らは非常に腹を立てた。今朝、西側の窓が物凄い音で破れた。続けてまた割れた。ワァッーと子供の声がし、十四、五歳の子供が五、六人、両手に石を握って、窓を目がけて投げている。新田さんが北側の雨戸をそっと閉めた。私たちは全てに対して無抵抗主義に馴らされていった。(この後、一家四人は平壌に遷る)
◇三十八度線(上)
翌年五月十五日、日本人解放のニュースと共に、一日一人当たり米二合の無料配給が停止。四人家族がどうやって食べていけばいいのか。内職は大抵断られ、駅で煙草を売り(四円で買ったのを五円で)、一日二十個売らないと家中餓死してしまう有様に。夫用の下着が玉蜀黍二升に代った。石鹸売りの行商をしたり、早朝の市場での屑野菜拾いまでやった。現地の人にも、温飯屋の朴老人のような気のいい親切な人たちがいた。
生き抜くには日本へ帰るほかないと思い定め、同じ思いの日本人の有志の人々と共に八月一日、鉄道を利用して南下を決行する。平壌から有蓋貨車で新幕(注:平釜線の現「瑞興」駅)へ。馬糞だらけの貨車内は臭気芬芬。地獄のような暗闇の中に直立したまま、何時間走ったか判らなかった。貨車から降りると外は暗闇。リーダーらしき人が言った。
――これから最も危険の場所を夜中歩きます。できるだけ荷物を軽くし、前の人を見失わないように急いで歩くのです。すぐ出発します! 落伍したら、おしまいですよ!
ここで私は缶詰は全部捨て、炒ってない大豆を捨て、荷物を半分ほどにした。真っ暗い街の裏通りを小走りに駆け抜け、山道にかかる。赤土の泥道である。「逃げるんだ、逃げるんだ。逃げ遅れると、私たちは殺される」。私は三十八度線まで、こう心を叱咤しながら歩いた。正広はまもなく、めそめそ泣き出した。「おかあちゃん、歩けない」
正広のことなんか構っていられない。正彦を十歩は抱いて歩き、十歩は手を持ち引きずって行った。背中の咲子と首に吊った荷物が雨に濡れて重くなる。肩に食い込む重みと、首をもぎ取ろうとするリュックが私の体を何遍も土にまみれさせた。前進するという思いだけが激しく私を支配し、歯を食いしばり、正広と正彦を怒鳴りつけていた。
「正広!何をぐずぐずしている!」「正彦!泣いたら、置いて行くぞ!」
私はこの時初めて男言葉を使っていた。自覚しないで口をついて出てくるものは、激しい男性の言葉であった。やっと坂を登り切った頃、夜は明けてきた。私は元より、二人の子供の姿はひどかった。赤土の泥を頭から被り、上着もズボンも一晩のうちに赤土の壁のように汚れている。二人とも、辛うじて眼だけが光っていた。
山に向かっている道は途中から狭い狭い道になり、やがて無くなる。泥濘の帯のようなものが緩やかに傾斜してどこまでも続く山蔭をいつまでも登っていった。足の踝まで吸い込んだ赤土の泥は、一旦入った足を決して放そうとはしない。時には膝まで入る泥沼に出る。二人の子供を連れて先に行ってくれた一行の人たちのことを死ぬほど感謝しながら、ひたすら後を追った。
もし昨夜のように二人の子供を連れていたら、一歩だって歩けはしない。泥沼にはまって死ぬより仕方がないことは明白。前を行く人の姿が雨の中に遠く消え、最後の一人となって後で行ける私の希望は、二人の子供が前に生きているということだけだった。
切り立つように崖が両方から迫る処を通り抜け、見たものは一人の気の狂った女だった。「う・・・あ・・・坊やが死んだ!」。絶叫している女が狭い道に倒れていた。真っ青になって死んでいる幼児を抱いて泥の中に苦しみもがいている女は、顔見知りの保坂団の人であった。その女は髪を引きむしり、死んだ子供にすがり付き、慟哭するのであった。
私はその女のことはどうでもよい。早く自分が救われたかった。頭の中が痺れるように痛い。腰から下が感覚を失ってきた。およそ半日近くも歩いた頃、遂に私は前方に休んでいる日本人の群れに追いつくことが出来た。こうもり傘の下に小さいものの姿があり、それは正広と正彦の哀れな姿だった。
藁小屋の中で思案する中、ゴトゴトという音がし、牛車に日本人が十数名乗っている。(そうだ、牛車がある。金を惜しんではいけない)。雨の中を探し回り、一軒探し当てたが、新渓まで千円かかるという。その辺の民家などにごろごろしている人を誘い、やっと十名の寄せ集めの一団を作り、牛車に乗ることにした。藁小屋に飛んで帰り、子供たちを起こす。
「新田さん、どうしますか」。私は新田さん夫婦にも誘いかけてみたたが、奥さんの反応は良くない。半眼に開いた瞳は、あらぬ方を指し、反応はなかった。立派な天文学者の最期がどうしてこのような暗い雨の晩であったのか、今の私には何もできない。
牛車の心棒の上に乗り、私は左に正彦、右に正広を両手で抱き寄せる。四人が頭から一枚の風呂敷座布団を被って小さく寄り合うと、ごとりと牛車が出発した。(よかった、危機が脱せるかも知れない)。今夜一晩、また頑張ろうと私は決心した。子供たちは牛車が動き出すと眠ろうとする。危なくて危なくて仕様がない。「眠ったら落ちて死ぬぞ!」。必死に叫んで注意するが、とても口では駄目。処構わずひっぱたいては目を覚まさせた。
午後の三時頃、第一目標地点・新渓の郊外に到着した。私は牛車に金を払った。後は百円と少々だけ。旅程は三分の一に未だ達していない。金は何とかして作らねばならない。私は昨夜、雨の牛車の上でその計画を立てていた。まず自分たちの団を探すこと。それは訳がなく、佐藤さんの洋傘が開いてあり、その下で彼女は顔に泥を付けて眠っていた。
私は目覚めた佐藤さんを引っ張ってリンゴ畑の土手の下へ行き、談じ込んだ。「お願い、五百円貸して頂けないかしら。貴方が今いくらお持ちか、ちゃんと知っています。一文無しの私を殺すも生かすも貴方一人の決心よ。お願い、五百円貸して下さい」。私は泣き伏してしまった。初めは言を左右にしていた佐藤さんも、終いには承諾。私は借金の証文と引き換えに、五百円の金を数えて受け取った。(これで、子供を牛車で運ぶことができる!)
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