横浜へ~三渓園、日本大通りの銀杏、どこの黄葉も見事でした(1)
- 2023年 12月 2日
- 評論・紹介・意見
- 三渓園内野光子
三渓園~みごとな大イチョウ
11月28日、KKRポートヒル企画の三渓園散策に参加した。KKRの企画のいいところは、目的地への往復は、公共交通で行くことになっているので、バス停まで歩いたり、路線バスの乗客乗り降りやバス停名などを目の当たりにしたりできることか。ただ、高齢者には、ホテルから目的地まで、バスで往復してくれるとありがたいときもある。「旅行業者」ではないので、それができないそうだ。
「山下埠頭入口」から、横浜市営バス8系統の「本牧車庫前」行に乗るのだが、20人弱の参加者が、満員で一度に乗れず、二便に分かれた。そのバス停は、ヘボン式ローマ字のヘボンの旧居跡前でもあって、しっかりした石碑が立っていた。
三渓園へは20分弱で到着、二班に分かれて、ボランテイアのガイドさんに案内していただく。三渓園についての予備知識はほとんどないままだった。明治時代、生糸・製糸の貿易で財を成した原善三郎を継いだ養子原富太郎(三渓)が、1902年頃から約5万3000坪の地を日本庭園として造営に着手している。自らの住まいとしていた鶴翔閣を中心とした内苑部分と、早くより市民に開放していた外苑とからなる。三渓は、明治期の廃仏毀釈により、京都の寺などで壊されそうになったり、手離したりした数々の美術品などを蒐集、建造物を移築している。それらが庭園内に点在していて、それぞれのいわれを、ガイドさんは熱心に語るのだが、各々脈絡があるわけではないので、どうも記憶にとどめ難いのは、年の所為ばかりではないかもと、案内のリーフレットをひっくり返している。
今回の散策は内苑が主で、入り口から右手に蓮池、左手に大池を見ながら鶴翔閣に近づくが、幾棟かが連なっていて全容が見えない。原家の住居部分につながる客間や広間では、政財界人が集い、庇護を受けていた大観、観山、青邨ら画家たちの制作の場にもなっていたという。 さらに進むと、右手に18世紀初めに建てられた京都東山西方寺の薬医門を移築したという「御門」があり、ここでは、結婚式の「前撮り」?というらしいが、式の衣装の新郎新婦がカメラマンに向かってさまざまなポーズをとっていた。先の鶴翔閣では、一日一組の結婚式・披露宴もできるらしい。さらに奥の右手の臨春閣も幾棟もが連なった建物で、前庭の池とともに、一巡りすると、今は紅葉とススキ、ツワブキなどを前景にして、さまざまな風景が楽しめるようになっている。
聴秋閣のある高台から見下ろせば、大銀杏の黄葉が舞い散って、黄色い絨毯をなしていた。実はもう一本の銀杏があって、この季節は見事だったというが、数年前の台風でバッサリ折れたという。見上げると太い幹の先には緑の葉が茂っているのがわかる。年々枝を張って元のようになったら見事なことだろう。
一時間半ほどの散策は、私にはだいぶきつかった。最後に、三渓記念館に立ち寄り、企画展「大正十二年の原三渓」では、百年前の関東大震災後の横浜の復興に復興委員会会長として尽力した功績などが展示されていた。
ホテルに戻って、五時からの懇親会では、私たちの班は四組の夫婦で、名前は名乗らないままながら、新聞記者、ピアノ教師、航空管制官など職歴もさまざま、旅行やマラソン、テニス、病歴などにも話は及び、ひとときを楽しんだ。
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11月30日に、近くで菜園をなさっている方からたくさんの冬野菜をいただいた。大根の兄弟もあり、かぶの一家には赤ちゃんもいるようだ。さてこれからは、なにはどうする・・・。今月は、さつまいものシルクスイートも二度ほどいただいたばかりだった。スイートポテトパイは帰省した娘にも好評だった。
初出:「内野光子のブログ」2023.11.30より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/11/post-97de1f.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13410:231202〕
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