鹿児島の五日間~西郷隆盛ばかりではない、近代絵画の名作を訪ねて(1)
- 2023年 12月 7日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子
ここもデジタル
先の知覧行きの記事は、今回の鹿児島旅行の四日目、11月4日のことだった。11月2日、夫が学習会の講師として仕事があるというので、この機会に、私も同行、少しゆっくりしようかと鹿児島市内のホテルに4泊することにした。11月1日、羽田からの空路は久しぶりだった。腰痛がひどくなってはと、念のためとコルセットをしていたところ、搭乗前のチェックに引っ掛かり、触りますよと、入念に機器を当てられ、靴まで脱がされた。よほど怪しげな風体をしていたのか。
鹿児島中央駅に直結のホテルに入ると、受付では、突然にパネルの画面に入力を迫られ、ともども戸惑ってしまう。部屋でのアニメティグッズは、ロビーの窓側に並ぶ棚から必要なものを取ってくださいともいう。そう、今ではレストランでも注文を取りに来るでもなく、画面からの注文も多くなってきたので、不思議ではないのだが、いまだに慣れることはない。部屋の窓の真正面には観覧車がゆっくり回っていた。
鶴丸城址
最初に訪ねたのは、島津藩の鶴丸城跡の本丸跡には1983年にオープンした資料館であり美術館でもある「黎明館」であった。館内は、申し訳ないけれども、通り抜けにも近く、天文館通りの昭和初期を模したジオラマが目を引き、この地にゆかりのある和田英作「箱根丸船長」(1922)、黒田清輝「山かげの雪」などの絵画が印象に残った。
黎明館を出ると、辺りを圧するほど、ひときわ立派な建物は2020年3月に復元したという「御楼門」であった。周辺にはさまざまな碑も多く、第七高等学校造士館跡でもあるので、関係の碑も多い。中でも興味深かったのは、明治天皇行幸記念碑で、1972年(明治5年)6月22日、参議の西郷隆盛が明治天皇を案内している。1877年には西南戦争が起こり、西郷は、その年の9月24日にはこの城山で自害している。そして、この記念碑が建てられたのは明治末期1912年、碑銘は、西郷と同郷で、明治天皇の信頼が厚かった松方正義の揮毫であった。松方といえば西南戦争による政府の財政難を立て直したことで知らていたのではなかったか。
夕方になって、御楼門を出て蓮池に添ってすぐのところに県立図書館がある。たわむれに、自著の所蔵などを検索したり、開架を巡ったりした。「鶴丸タクシー」で、ホテル近くの郷土料理の「吾愛人(わかな)」に向かう。店の名は、椋鳩十の命名によるそうだ。運転手さんも勧めてくれた名物のおでんと焼き鳥、刺身盛り合わせをいただく。
学習会は
二日の学習会は、10月の2回に続き、3回目なので、私も、この機会にと、思い切って同行。夫の話も、少し前半が長いのではなどと思いながら聞いていたが、終了後は多くの質問も出て、ほっとした。学習会共催の生活協同組合コープかごしま・鹿児島県生活協同組合連合会の皆様に感謝しながら、会場の国際交流センターを後にした。
飼い犬のウメは2014年に亡くなったが、買ったばかりのパン焼き器をめずらしそうにのぞいている。このパン焼き器、1・2度失敗して以来、ご無沙汰しているのだが、夫、お気に入りのスナップである。
会場から、飲み屋街の路地を通り抜けると市電通りに出た。街は、おはら祭の幟や提灯でにぎわっていた。10月の国民体育大会に続く一大イベントなのかもしれない。天文館通りの、ウナギの寝床のようなラーメン屋さんで、きびきびと働く若い裏方さんたちの背中をみながら、「我流風(がるふ)特製ラーメン」を待つのだった。
初出:「内野光子のブログ」2023.12.06より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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