キッシンジャーをどう見るか―
- 2023年 12月 11日
- 評論・紹介・意見
- キッシンジャー阿部治平
――八ヶ岳山麓から(452)――
はじめに
冷戦期の1970年代に米ニクソン、フォード政権で国務長官を歴任したヘンリー・キッシンジャーが11月29日死去した。享年100歳。冷戦期、ベトナム戦争の泥沼からの脱出するため、中国と秘密裏に接触。1971年7月、アメリカの高官として初めて中国を隠密裏に訪問し中国の指導者と会談し、1972年にニクソン米大統領の訪中を実現させ、その後国交正常化の道を開いた。1973年には、ベトナム戦争の終結交渉に貢献したとしてノーベル平和賞を受賞した。
「べたぼめ」の底意
まず中国では、キッシンジャーの死が伝えられると、上は習近平から下はSNSの庶民まで称賛の声があふれた。「環球時報」(2023・12・01)は「アメリカにキッシンジャーの後継者現れよ」と題する、1300字の社説でキッシンジャーを褒めたたえた。
この社説は、習近平がキッシンジャーの逝去に対して最高の賛辞を贈ったとしたのち、「キッシンジャーが最後に公の場に姿を現したのは、10月24日、全米米中関係委員会の年次表彰晩餐会であった。車椅子に座ったキッシンジャーは、その生涯を『米中関係のための半生』と総括し、両国と世界の利益のために米中間の平和と協力が重要であると強調した。
これが彼の最後の公の場での発言だった」と追憶する。
そして社説は、「米中間の相違と摩擦が拡大し、対立と衝突のリスクが高まっている現実を背景に、キッシンジャーの訴えはむしろ警告に近い」という。
「彼は過去50年間に100回以上も中国とアメリカを往復し、中国とアメリカが互いに意思疎通を図り、相違点を埋めるためにかけがえのない重要な役割を果たした。彼の死は、間違いなく中米関係にとって大きな損失である。中国と米国の間に『次のキッシンジャー』が現れるかどうかという問題も、複雑な感情を生んでいる」
環球時報はキッシンジャーに最大級の賛辞を贈る一方で、米中対立の今日を遺憾なものとし、アメリカの対中国政策を変えるよう要求しているのである。まさに、キッシンジャー頼り、「かの人の後継者出でよ」というのが本音である。
「現在の米中関係の最大の核心は、ワシントンの中国認識に大きな偏見があることだ。アメリカの政策分野において影響力のある中国問題の専門家の多くは、中国の歴史、文化、そして中国人民が選んだ道に対する関心と敬意を欠いている」
社説とは別に環球時報(2023・12・02)は、復旦大学アメリカ研究センター教授張家棟の比較的客観的で冷静な論評を掲げた。
張は、キッシンジャーを現実主義の戦略家として、イデオロギーの違いよりも地政学的利益を優先した人物としている。
「(1972年のニクソン訪中)以後、中米ソの戦略的『大三角形』は大きな変化を遂げ、冷戦終結までの国際戦略パターンに大きな影響を与えた。ニクソンが訪中する前、アメリカはベトナム戦争に深く巻き込まれ、キッシンジャーは北ベトナム政府との秘密交渉を強化し、同時に中米関係の氷解を促進した。『大三角形』の継続と、アフガン戦争におけるソ連の『帝国の墓場』への転落によって、アメリカはついに冷戦に勝利した」
悲しみと怒りの語り
一方、ブラジル最大の独立系ニュースサイト「Brasil247」は「南米で『戦争屋』と呼ばれた男=軍事独裁政権を支持したキッシンジャー」とする論評を掲載し、その中でいくつものメディアの論評を引用して、キッシンジャーを強く批判した。以下「ブラジル日報」(2023・11・30)からの抜粋。
「南米の歴史においてキッシンジャーの『罪』が最も言及されるのは、計3000人以上の死者・行方不明者を出し、数千人の政治犯を拷問したチリ(ピノチェト)軍事独裁政権(1973―1990年)による左派弾圧と反体制派迫害を彼が支持した点だ」
「キッシンジャーは、アルゼンチン軍事政権が起こした『汚い戦争』(1976―1983年)にもお墨付きを与えていた。アルゼンチンの軍事独裁政権は反政府運動家鎮圧を国家再編プロセスと称して暴力、迫害、拷問、失踪などのあらゆる超法規的手段をとった。
(アルゼンチンの軍事政権時代に失踪した人数は8000~3万人と推定されている)」
さらに、キッシンジャーはブラジルをアメリカの同盟者に変えるために、エルネスト・ガイゼル将軍の大統領在任中に敵対者の処刑や、民主化プロセスを遅らせるのを容認した。
1970年代半ば、国境を越えて、独裁に敵対するものを暗殺する「コンドル作戦」がアメリカの支援を受けて、主に南米の軍事独裁政権によって実行された。「作戦の秘密的な性質のため、コンドル作戦に直接起因する正確な死者数には多くの議論がある。一部の推定では、少なくとも5万人の死者、3万人の行方不明者、40万人の逮捕者が出たと推測されている」
わたしの感想
キッシンジャーの隠密行動以前から、米中は接近の意志を示すシグナルを互いに送りあっていた。ついに1970年毛沢東は、ジャーナリストのエドガー・スノーとの会談でニクソン訪中を歓迎すると発言した。キッシンジャーの中国隠密訪問はまさに「魚心あれば水心」であった。
72年2月、ニクソン米大統領の訪中、これに追随して9月田中角栄首相が訪中した。
こののちアメリカは21世紀初めまで続く――中国は経済が豊かになれば民主主義に変るという期待による――「関与政策 Engagement」をとるようになる。
アメリカは、中南米という自国の「裏庭」に反米政権が生まれるのは許せなかった。キッシンジャーにとって、共産主義者はもちろん、アメリカからの自立を願う民族主義者・民主主義者は迫害・拷問・殺害されてしかるべきものであった。
毛沢東もキッシンジャーに負けず劣らずの現実主義者であった。彼はアジェンデ政権をソ連寄りと見ていたから、ピノチェト政権の暴政を容認しチリから銅を輸入しつづけた。
キッシンジャーは1971年のベンガル人のパキスタンからの独立(バングラデシュの建国)に反対し、パキスタンへの武器供与のために立ち回った。彼にとって独立運動によるベンガル人の犠牲など埒外であった。ノーベル賞を彼に授けた人々の見識のほどが知れる。
一口でいうと、キッシンジャーはアメリカ帝国主義の水先案内人であった。ただ彼が並みの策略家と違うところは、相手が権力者であれば、正義だの品格だの道徳だのを無視して働きかけるという、とびぬけた才能があったことだ。それが彼の「功績なるもの」を生みだしたとわたしは思う。 (2023・12・07)
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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