今こそ思い起こそう小林トミさんを 「安保」から50年、なお続く声なき声の会
- 2010年 6月 12日
- 評論・紹介・意見
- 60年安保声なき声小林トミ岩垂 弘
第2次世界大戦後の日本で最大の大衆運動とされる1960年の日米安保条約改定反対闘争から、今年6月で満50年になる。日本を揺るがしたこの闘争の片鱗をもはやほとんど見ることができないが、その後も「安保反対」を掲げてこの50年間、休むことなく毎年、集会を開いてきた市民グループがある。安保闘争の中で、画家だった小林トミさん(故人)=写真=らによって結成された「声なき声の会」だ。同会は今年も6月15日(火)に東京で集会を開くが、集会のテーマは「安保闘争から50年」となる見通しだ。
日米安保条約が結ばれたのは1951年のことだが、その後、自民党の岸内閣はその改定交渉を進め、1960年1月に米国との間で新安保条約に調印、この承認を国会に上程した。これに対し、社会党(社民党の前身)、総評(連合の前身)、平和団体などが「安保改定阻止国民会議」を結成し、安保闘争を展開した。条約改定に反対する理由は「日本が相互防衛義務を負うことにより、自衛隊が米軍により協力することになる」「自衛隊の強化が義務づけられる」「条約適用地域があいまい」「米軍の行動と装備を規制するための事前協議の拘束力が認められていない」などだった。
同年5月20日に自民党が衆院本会議で新安保条約を単独で強行採決したことから、国民の間に「安保反対」の声が燎原の火のように広がり、国会周辺は連日、大規模な抗議デモで埋め尽くされた。デモの中心は労組員や学生だった。
6月4日、東京・虎ノ門の社会事業会館ホール前に一片の横幕がひるがえった。そこには「総選挙をやれ!! U2機かえれ!! 誰デモ入れる声なき声の会 皆さんおはいりください」とあった。小林トミさんが、知人の映画助監督とともに掲げた、安保反対のデモを呼びかける横幕だった。
小林さんは当時、30歳。千葉県柏市の自宅から都内に通い、子どもたちに絵を教えるかたわら、評論家・鶴見俊輔氏らが始めた思想の科学研究会の会員として活動していた。安保反対のデモに加わろうと思ったが、労組員でなかったからデモの経験がない。会員仲間に相談すると「じゃあ、普通のおばさんも気軽に歩けるようなデモをやってみよう」ということになり、にわかづくりの横幕をもって他団体のデモが出発する社会事業会館ホール前にやってきたのだった。
横幕に書き入れた「声なき声の会」は、新安保条約締結を強行する岸首相の発言を逆手にとったものだった。首相が安保反対デモについて「私は『声なき声』にも耳を傾けなければならないと思う。いまあるのは『声ある声』だけだ」と述べ、「声なき声」、すなわち国民世論は政府の方針を支持しているのだ、と強弁したのに対し、小林さんらは「『声なき声』も抗議の声をあげていること」を態度で示そう、と考えたのだった。
小林さんらが歩き始めると、沿道の歩道にいた一般市民が次々と列に入ってきた。国会の近くを通り、新橋で解散したが、その時、デモの参加者は300人以上になっていた。さまざまな職業の人たちだった。「またこのようなデモがあったら教えてほしい」との声があがり、小林さんが紙切れを回すと、200人もの名簿が出来上がった。「声なき声の会」の誕生であった。
声なき声の会によるデモはその後、7月初めまで5回にわたって行われた。参加者は毎回、500~600人にのぼった。そのデモの中にいつも小林さんの姿があった。
会員による意見交換の場として創刊した『声なき声のたより』は、3500部に達した。「声なき声の会」はその後、ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)の母胎となる。
「声なき声の会」の誕生に象徴されるように、安保闘争は国民各層による幅広い運動に発展した。6月15日には、安保改定阻止国民会議の呼びかけで全国で580万人が参加したストが行われ、11万人が国会周辺につめかけた。その夜、全学連主流派の学生が国会構内に突入して警備の警官隊と衝突、東大生樺美智子さんが死亡した。この6・15事件は内外に衝撃を与え、岸内閣はアイゼンハワー米大統領の訪日中止を決めた。が、新安保条約そのものは6月19日に自然承認となった。この日、これに抗議する人たち33万人が国会周辺を埋め尽くした。
同月23日には日米両国政府によって批准書交換が行われ、新安保条約は発効した。空前の盛り上がりをみせた安保闘争は敗北した。
新安保条約は固定期限が10年。1970年6月23日に期限切れを迎えたが、日米両国政府からは破棄通告はなく、その後毎年、自動延長され、現在に至っている。今年6月23日には条約発効から50年となる。
ところで、小林さんは6・15事件から1年後の61年6月15日、樺美智子さんが亡くなった国会南通用門を訪れた。事件直後、そこは樺さんの死を悼むあふれるばかりの人々と花で埋まっていたのに、1年後はわずか20人ばかりが来ているだけだった。ショックだった。「日本人はなんと熱しやすく冷めやすいことか」
小林さんは、決意する。「日米安保条約に反対する運動をこれからも続けてゆこう。そして、運動の中で1人の女性の生命が失われたことを忘れまい」。以来、小林さんは毎年6月15日に声なき声の会の人々とともに集会を開き、集会後、花束をもって国会南通用門を訪れるようになった。
やがて、小林さんは声なき声の会の代表世話人となり、会の継続に力をそそぐ。が、2003年1月に病没する。72歳だった。
小林さんが亡くなった後も6・15集会は毎年続けられ、今年も6月15日午後6時から、東京・池袋の豊島区勤労福祉会館で開かれる。
小林さんの活動を眺めてきて、とくに印象に残るのは、小林さんが日米安保条約の本質を見通していたことだ。小林さんは、かつて「なぜ一般市民の立場から安保闘争に参加したか」との私の問いにこう答えたものだ。「国会につめかけた人たちの心の中には、二つの思いがあったと思うの。新安保条約が警官が導入された中での多数党のごり押しによって強行採決された。民主主義が破壊されたから、今こそ民主主義を守れ、という憤り。もう一つは、新安保条約によって日本が戦争に巻き込まれるのではないかという素朴な恐れ。わたしにも両方あったけど、戦争になったら大変、という気持ちの方が強かったわね」。また、こうも語った。「この条約、なんとなく日本の将来にとって危険なものになりそうな気がするの」
この50年間、日本は戦争には巻き込まれなかった。そういう意味では小林さんの心配は杞憂に終わったといえるが、その一方で、この条約(日米同盟)があるために、ベトナム戦争中、日本列島は米軍の後方基地となり、イラク戦争では自衛隊のイラク派遣を余儀なくされた。昨年から日本を揺るがした、沖縄の米軍普天間基地移設問題と日米両国政府による「核密約」問題も、せんじつめれば、その根底に日米安保条約が存在していた。つまり、この2つの問題も言うなれば日米安保条約がもたらした問題なのだ。さらに、米軍再編により、安保条約の適用範囲が「極東」から「地球的規模」に拡大された。明らかに日米安保条約の「変質」である。
「安保条約は日本の将来に危険をもたらす」という小林さんの庶民感覚は、的を得ていたと言えるだろう。小林さんは、安保条約の本質を予見していたのだ。
それから、小林さんの活動は3つの点で際だっていたと私は考える。まず、その活動が他から命令されたり指示されたものでなく、あくまでも自発性に基づいたものであった点。第2は口舌の徒でなく、必ず行動を伴ったものであった点。第3は長く継続する活動であった点である。
反戦市民運動の原型は小林さんによってつくられた。そう言っていいのではないか。小林さんによって確立されたこうした市民運動のスタイルは、これからの市民運動でも指針となるはずだ
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