フロイトと母型論 2(性同一性障害その8)
- 2011年 8月 30日
- 評論・紹介・意見
- 大木 保
乳幼児期の<一種の性転換 > 期における母子関係に倒錯や神経症の根源があるとみなせる。
昨日は民主党代表選挙の演説が報道されていました。
以前にもかれらに引導をわたしておきましたが、今度で
ともかくも民主党員の思考の水準が自民党Bと呼ぶにふさわしいことだけははっきりしました。
この時代にあって、みずからの手で被災民のひとりをも救えないかれらは、
政治家としての存在の意味も価値も喪失している烏合の衆でしかありません。
これもはっきりしていることだが、
わたしたちは政治屋や官僚を養いながら、まだまだ困難な生活をしいられるということです。
さて、(その7) 以来ずいぶんあいだがあきましたが、
<性同一性障害 > についてもうすこしお話をすすめてみたいとおもいます。
乳幼児が概念を獲得してゆく過程で、
男児が「女性から男性へ(口から陰茎へ)」
女児が「女性から女性へ(陰核から膣開口部へ)」という転換がうまれ、
さらにそのあとに、「次なる転換」をむかえるとみなされる。
すなわち、フロイトの言う、 「女の乳幼児のエロス覚は男児的で、
女児にあらわれるリビドーもまた男性的な本質をもつ。」 という具合に。
したがって吉本氏の言い方にならえば、
男女の乳幼児はともに肛門性愛をもち、男性器に性感をもつという、
<一種の性転換 > がこの時期につづいておこるとみられる。
わたしたちが成人に達するまでにいだかされる様々な「性愛への途惑い」は、
この時期をその根源とみることができよう。
それが<性的な倒錯>や<神経症>としてあらわれる症状であっても、
その根源はおなじところにあるとみなされる。
つまり後々のそれらの倒錯などの発現は、二度の<性転換>の時期に、
乳幼児が母親との安心の関係をつくれなかったことにより、
転換に際してなんらかの鬱屈やゆがみをまぬがれなかったとかんがえられる。
吉本氏はフロイトの『性欲論』の記述にふれながら、
つぎのような親の情愛論を展開している。
-(吉本)
「親たちがあまりに情が深くありすぎることは、もちろん、害を与え」、
「それは小児が甘やかされ、大人になって(思春期以降に)
愛を一時すてる場面にぶつかり、わずかの愛で我慢しなくてはならなくなったとき困るからだ」、
とフロイトはいっている。
だがそんなことはありえない。
親たちが情愛が深ければ深いほど「大洋」的な世界は輝かしくなるにきまっているし、
乳幼児期にも思春期以後にも
愛の不調に耐えられる力能をもつにいたることは疑いないところだからだ。–
といい、フロイトの考え方をただす。
そして、のちの小児期になって両親が際限なく情愛をしめそうとすることこそが、
-(吉本)
それはじつは、乳胎児期に「情が深く」できなかったことの、
ほとんど例外のない「代償」であること。
いいかえれば「大洋」の世界の波の下で、無意識が荒れていることに由来して、
乳(胎)児もまた成長がすすむにつれて情が無かった代償をもとめて
両親の情愛をどこまでもむさぼろうとしたり、
両親の情愛の譲歩をどこまでも求めて病的(家庭内暴力)になったりするのだといっていい。–
として、母親の“おそまきの情愛”について洞察する。
さらにまた、
わたしたちが強迫神経症と境界を接することからだれも免れがたいことをも祖述していく。
-(吉本)
男女の性にかかわりなく女性的で受動的な「大洋」の世界でも、
そのあとの陰核に性愛があつまる乳幼児期になっても、
女児は母親に愛着してすごすことになる。
だから、女児はエロス覚が陰核から膣に移行するまえに、
無意識とその核に、母親への過当な愛着をかくしもっている。
このことに例外はないとおもえる。
いまこの時期の母親への過当な愛着、いいかえれば母親の女児への過当な愛着に、
屈折や挫折や鬱屈があったとすれば、
陰核期から膣期への性愛が移ってゆく過程で、
父親に対するエディプス的な愛着が異常に深くなる。
それはこの女児が無意識やその核におし込めてしまったはずの
母親への異常に深く屈折した愛着が、
無意識のなかから存在を主張していることを意味している。
この前エディプス期における女児の母親への愛着、
いいかえれば母親への深い屈折した愛着の存在が露出してくるのは、
この女児が思春期以後に
神経症やパラノイアの病像に移ってゆくばあいの閾値を低くする素因でありうる。
また男児が父親に敵意をいだく意識を露出するのは
エディプス期に入ってからで、
前エディプス期には父親への反抗はあまり目に立つことはない。
だが女性の乳幼児にとって、母親への愛着の深さや屈折によって
その時期にはすでに父親は「うるさい競争相手」になるとされる。–
そして、
-(吉本)
わたしたちが宿命的なものとみなす性格や、行動の反復などは、
「大洋」期に第一次的に決定するものとかんがえられる。
たとえば恋愛関係になったとき、
いつもおなじような顔立ちの異性を択んでいることに驚くとか、
いつもおなじような破局にいたるとか、
おなじパターンで自殺未遂を繰り返す生涯とかの行動は、
このような宿命強迫のなかにいるといっても言い過ぎではない。
このとき、わたしたちは誰も強迫神経症とほとんど境界を接しているといっていい。
そして強迫神経症を異常とし、
わたしたちの宿命強迫の認知をじぶんの運命につきまとうものとして許容し、
じぶんを納得させるばあいを正常とする根拠は、
ほんとうにつきつめてゆくとどこにもないというべきかもしれない。
フロイトのいう快感原則にも、現実原則にも埒外だとおもえるところで、
宿命強迫は存在しているようにみえる。
ただ「大洋」の前言語的な世界だけが宿命強迫の謎をとく鍵にあたっているとおもえる。–
すなわち、
乳幼児期での母親の型式が、ここでももっとも重要な素因であるということになる。
(次回につづく。)
ブログ・心理カウンセラーがゆく!http://blog.goo.ne.jp/5tetsu より 転載.
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〔opinion0603 :110830〕
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