日本の学校教育は変われるか? PISA2022の結果などから
- 2023年 12月 23日
- 評論・紹介・意見
- 学力小川 洋教育
教育の問題か、指導者の責任か
先日、国際学力調査の一つであるPISA(生徒の学習到達度調査)の調査結果が発表された。3年ごとに行われてきたが、コロナ禍で4年ぶりに実施された2022年度の結果である。今回、日本の生徒たちは81の参加国・地域中、「読解力」は前回の15位から3位、「数学的リテラシー(応用力)」が6位から5位へ、「科学的リテラシー」は5位から2位へと上昇し、ともに世界トップレベルを維持した。日本の教育関係者、とくに行政担当者たちはホッとしていることだろう。ただ2018年度調査で全分野とも1位となった中国(北京・上海・江蘇・浙江)は今回参加していない。
PISAは、もともと石油危機などの経済問題に直面したOECD加盟国が、子どもたちの学力水準が各国の経済力と強く結びついているとして、2000年度に始めたものである。その後、発展途上国なども参加するようになっている。今回、三分野とも一位がシンガポール、その他、上位に台湾、韓国、カナダ、ヨーロッパ各国が来る。経済破綻が危惧されているアルゼンチンは数学66位、読解力58位、科学60位である。なるほどと思う人も多いだろう。
日本の生徒たちは当初から一貫して好成績を残しているのだが、この30年ほど経済は停滞が続き、先進国の中での経済的地位を落とし続けてきた。最近、GDPは4位にまで下がった。2000年には2位だった一人当たりGDPは、22年には32位にまで落ちた。コロナ禍でも、ある程度の経済成長を続けた国が多いなかで、日本経済の不振ぶりは目立っている。つまり日本では、経済力と子どもたちの学力との相関が薄いのである。日本の教育の何かが間違っているからなのか、あるいは優秀な国民を生かし切れない指導者たちが悪いのか。
多様な学校教育-日米比較
1980年代、アメリカの文化人類学者トマス・ローレン(Thomas P. Rohlen)が、灘高校から公立普通高校、職業高校、定時制高校までを一定期間、観察し、アメリカの教育と比較した『日本の高校』(サイマル出版、1988年、友田泰正訳、原著 “Japan’s High Schools”,1983)を出版している。筆者にとっては目を開かれるような本であった。ローレンは灘高を初め普通高校の授業を観察し、その高度な内容に驚き、日本の高校生の知識量はアメリカの大学卒業生レベルだと指摘している。
同じような話は多く、例えばハーバード大学の教員が、初年次科目で第一次世界大戦の背景と経過について講義した際の話として、講義終了後、一人の学生が目を輝かせてやってきて、「今日の先生の授業のお陰で、なぜ先の大戦を第二次というのか、初めてわかりました」と、感激した様子で述べたという。
ローレンは以下のように指摘する。アメリカの高校生にとって、高校時代とは「実験の時期である。人間関係とか、余暇とか、あるいは仕事かを通じて、青年は、何とかして大人の存在を探り当てようとする。多くの青年が(さまざまな経験-飲酒や性行動や旅行など)を通して、現実がどのようなものかを学んでいく。経験による学習は成長の一部であり、われわれが理想とするところは、より多くの自由や選択権を親や教師が与えることであって、それを制限することではない」と。ただ、ローレンは同時に、そのような高校生活は悪夢でもあるとする。薬物、中絶や銃などの問題の深刻さは「経験や自由」と裏腹の関係にあるからだ。
翻って日本では、学校教育は、「もっぱら生徒個人に知識をつめこもうとし」、「全人的な発達や内発的な探求心を育むものとなることはほとんどなく」、「人間の多様な可能性を開花させようとしておらず、そのために偏った結果(高水準の知識)が生じている」と指摘するのである。
このような文章を紹介していると、筆者が関わってきた教育官僚たち-文部官僚、教育委員会の指導主事-の反論の声が聞こえてくるような気がする。いわく、「現在の学習指導要領でも、生徒たちの探求心や多様性を大事にする教育を強調しています」と。しかし、1980年代後半、文部省(当時)が「個性尊重」を提唱し始めると、全国の小中学校が一斉に「個性を育てる教育」を学校目標に掲げるという悪い冗談が本当になる国である。その後も学校にはさまざまな「改革」が持ち込まれたが、それらの多くは上面だけであったり、近年では教育ビジネス参入の呼び水であったり、学校文化を変革するものではなかった。40年ほど前のローレンの指摘は根本的なところで変わっておらず、いまでも正しいと考える。
筆者の個人的な経験-無味乾燥な授業
筆者は1970年代前半に大学を卒業後、首都圏の公立高校の社会科(地歴・公民)教員として30年ほど勤務してきた。教員になる直前と教員になった直後、衝撃的な経験をしている。最初の経験は教育実習の際のことである。大学に近い公立中学校での実習機会をもらった。中学校は団地を含む住宅地にあった。当時、山手線内側の団地に住むには、大手企業の中堅社員程度の収入がなければ難しかった。担当教授によれば、生徒の学力水準は高く、区内のモデル校であり、先生方も優秀であるということであった。
実習は指導教員の授業参観から始まる。指導教員は年齢的にも中堅の男性教員であった。授業は教科書の単元ページの最初の一行目から始まった。教科書を読み上げるわけではないが、授業は教科書の行単位に沿って進み、教科書の太字の個所の手前になると話を止めて、生徒を指名し太字に該当する個所を答えさせるのである。「賢い」生徒たちは効率的に知識を吸収するだろうが、多くの子どもにとって授業は退屈極まりなく、忍耐する時間でしかなくなる。
ついで、教員になって間もない時期である。当時、全国的に取り組まれていた同和教育に関する校内研修会があった。日本史専攻だった筆者が部落差別の起源について話題提供することになった。当時は研究も深められており、中世荘園のなかに農業以外の様々な技術を持つ人々が集住する地域(散所)があり、近世の被差別部落の起源のひとつではないかとする学説などを紹介した。
ところが、私の話が終わると、40前後の社会科教員は、「部落差別の起源は、徳川時代の武士政権が、一般農民たちが反抗する気持ちを持たないよう、彼らの下により低い身分を置いたというのが正しい理解です」、「間違った考えを生徒たちに持たせないように気を付けましょう」とまとめたのである。筆者は絶句し、参加したある教員は「それでは洗脳だ」と小声で呟いたものだ。その社会科教員は間もなく指導主事として「出世」していった。
今後の課題
筆者自身のその後の教職経験などから、日本の学校と教員の体質はあまり変化していないと考えざるをえない。とくに小中学校の義務教育学校は文科省の縛りがきつく、個々の教員の「逸脱を防ぐ」様々な仕組みがあり、じつに画一的な教育が行われている。最近の不登校の急増は、一部の子どもたちにそのような学校への拒否反応が広がっていることを示しているであろう。
また高校教育は相変わらず大学受験に縛られている。大学進学希望者が少ない高校では授業が成り立たないケースが少なくないことが、そのことを示している。「教育困難校」という不思議な語が半ば行政用語となっている。また通信制高校に通う生徒が急増している。
2016年に18.1万人だった在籍者数は昨年度26.5万人と、6年間で5割近くも増えている。高校の機能不全も隠せなくなっている。
日本の社会・経済の回復のためには、教員や生徒たちにより多くの自由を与え、より豊かな経験をさせ、子どもたちの成長を支える学校教育への転換が必要ではないか。PISAの順位はヨーロッパ諸国やカナダ程度まで落ちた方が、おそらく日本経済を活性化させる人材の育成に繋がるように思われる。そのような教育改革に舵を切る指導者たちの出現が望まれる。
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