世界のノンフィクション秀作を読む(43) R・ステフォフ(サイエンス・ライター、生・没年不詳)の『ダーウィン』(大月書店:刊)――世界を揺るがした進化の革命(上)
- 2024年 1月 9日
- カルチャー
- 『ダーウィン』R・ステフォフノンフィクション横田 喬
十九世紀イギリスの哲学者H・スペンサーはチャールズ・ダーウィン(1809~1882)の進化論を支持し、「適者生存」という概念を産み出した。これが極端化すると、人種差別主義者の正当化に利用され、ナチスのユダヤ人迫害に利用されたりもする。そうした危険性を承知しつつ、本書に即してダーウィニズムの真骨頂を改めて振り返ってみたい。
◇第一章 進化論の原点
1835年9月15日、小さな帆船ビーグル号が南米の西岸沖約百キロに浮かぶ島を目指し、波しぶきを上げていた。乗船していた若き科学者C・ダーウィンは、今か今かと陸地が現れるのを待望していた。が、見えて来たのは期待したような島ではなく、日誌には「一目見た時、何の魅力も感じられなかった」とある。見渡す限り荒れた漆黒の溶岩が広がり、そそり立つ険しい峰には深いクレバスが幾つも口を開けている。
生命の兆しと言えば、葉のない貧弱な低木だけ。焼け付くような荒涼とした島は地獄を思わせた。が、最初は陰鬱で生き物の気配すら感じられなかったこれらの島々が、やがてダーウィンの研究にこの上なく重要な役割を果たすことになる。その研究は、地球上の生命に対する人々の考え方を、根本から覆すものとなった。
ビーグル号の世界一周は、イギリス海軍が使う海図を整備するために政府の命令で開始。遠く離れたガラパゴス諸島もそうした調査区域の一つだった。が、最後には二六歳のダーウィンが手掛けた非公式のガラパゴス調査が広く世に知られるようになり、肝心の公式の測量の成果は、すっかり影が薄くなってしまった。
ダーウィンが情熱を傾けていたのは、地球と地球上に住むあらゆる生き物の研究、博物学だった。彼は島々の植物と動物を調べ続けた。この時、観察したり集めたりした標本には、当時の科学に全く新しい知見をもたらしたものが多い。実のところ、それまで博物学者によく知られていたガラパゴスの生き物といえばゾウガメだけだった。
一行が最初に探検したのはチャタム島(現在のサンクリストバル島)。辺りを調べると、遠見の印象ほど不毛の地ではないことが分かってきた。発育の悪い低木や茂みにはちらほらと葉っぱが見え、花が満開の木もある。但し、葉も花もそれまで見たことがないほど小さかった。海岸線では、所狭しと這い回る黒い大トカゲが岩の周りを悠々と歩き、真っ赤な小蟹が餌になるダニを求めてトカゲたちの間を忙しく走り回っていた。
散策しながら島の奥に進んでいったダーウィンと助手は、巨体のゾウガメ二頭と出合う。人間の姿を見て唸り声をあげ、二人掛かりでも裏返せないほど大きかった。ダーウィンは日誌に記した。「巨大な爬虫類が、黒い溶岩、葉のない低木、背の高いサボテンに囲まれている風景を目にすると、まるで古代に迷い込んだような不思議な感じがする」と。
このチャタム島に約一週間を費やした後、ビーグル号は付近のチャールズ島(現サンタマリア島)など三つの島々を巡った。ジェームズ島(現サンサルバドル島)では、一週間ずっと野営しながら探検を続行。海岸に棲む黒くて大きなトカゲのウミイグアナを観察した。世界で唯一の海洋性のトカゲで、浜辺の岩から海草を食べに海に入り、中々出て来ない。仲間の黄色と茶色のリクイグアナも同じ位大きく、行動も変わっていた。
高いサボテンに登って水分の多い葉を食べ、長い爪で地面に巣穴を掘って、地中で暮らす。ガラパゴスの動物は、鳥も含め、不思議なことに少しも人を怖がらなかった。ダーウィンはライフル銃で触れる距離まで鷹に近づき、銃の先で突いて枝から飛び立たせたことさえある。殆どの島が無人島で、動物たちは人間を怖いと感じないらしい。
標本集めに没頭したダーウィンは、陸上の動物や魚、鳥、昆虫、植物、貝をできる限り採集し、イギリスに持ち帰って詳しく研究できるように丁寧に荷造りした。作業するうち気づく。殆どの動植物がガラパゴス諸島に特有で、他の地域には居ないものばかりだった。また三つの島には、それぞれ違う種類のゾウガメが居て、甲羅の形と模様が異なっていた。こうした観察結果は、地球上の多様な動植物の種がどのように出現したかについて、大胆な新説を生み出すのに大きく役立つことになる。
ダーウィンは以後、長年に亘ってガラパゴス諸島で目にした動植物のユニークさの理由を考え続けた。あれほど多くの種がなぜガラパゴスにだけ棲み、他のどこにも居ないのだろうか? なぜ動物や植物の種が島ごとに違うのだろうか? この疑問がダーウィンのライフワークの土台を築いていった。
イギリスに戻ったダーウィンは、長い生涯を神秘に満ちた地球の生命史の探求に捧げた。そしてその過程で、私たちの世界観と人類の位置づけを劇的に変化させた。ビーグル号でガラパゴス諸島を訪れてから二十数年後、彼は種の誕生についての革命的な新説で一九世紀の社会を揺るがす。進化論、即ち時が経つにつれて種がどのように変化していくかに関する理論は、彼を激しい議論の渦に巻き込んでいく。
◇第二章 飽くなき探求者
彼は1809年、英国中部の都市チュールズベリーに裕福な医師の次男として生まれた(父方の祖父は高名な博物学者)。エジンバラ大で医学と博物学を学び、31年にケンブリッジ大学を優秀な成績で卒業する。決してガリ勉ではなく、植物学者や地質学者らと親交を結び、稀有の知性を科学研究の道に捧げた。
<絶滅――偉大なる死>一つの種がすっかり居なくなるという考えは、神学に矛盾すると思われ、中々受け入れられなかった。が、十八世紀も終わりに近づくと、博物学者たちは地球の歴史上に何度も絶滅が起きたという説を認め始める。かつて地球上を闊歩した恐竜などの巨大獣の化石が、人々を驚かせていた。ダーウィンは南米で恐竜の化石を幾つか発掘したことがあり、「種の起原」にこう書いている。「種の絶滅に関して、私以上に驚嘆した人は居ないと思う」。
専門学者の研究成果から、これまでに少なくとも五回の「大絶滅」が起きたことが化石に記録されている。最大規模の大絶滅は二億四五〇〇~二億二五〇〇万年前頃にかけて起き、それまでいた種の九六%もが死に絶えた。また凡そ六五〇〇万年前の大絶滅では、最後の恐竜を始め全体の四分の三を占める種が絶滅した。
科学者たちは大絶滅の原因について様々な学説を提唱してきた。巨大な隕石の衝突などによる地球規模の気候の大変動があったせいだとする説などである。地質学者と古生物学者は今なお諸説の証拠を探し続けている。
地球は今、新しい大絶滅の真っ只中にある。現代の大絶滅は、驚くべき成功を遂げたたった一つの種、ホモサピエンスの仕業だ。この種は生息環境の破壊や環境汚染など、近代工業と無謀な人口増加による様々な影響によって、毎日数十という種を絶滅に追いやっている。ダーウィンが書いたように、「一度失われた種は二度と現れない」。今日絶滅する動植物は、地球上から永遠に消え去ってしまうのだ。
◇第三章 ビーグル号の航海
ダーウィンにとって、この航海は将に発見の旅だった。1832年2月、ビーグル号はブラジルに到着。彼は、地球上のどこよりも多くの動植物の種がいるというブラジルの熱帯雨林を探検して有頂天になる。そこは眩いほど、夥しい数の生命に溢れていた。
ある時は一日で六八種の甲虫を捕まえ、別の日には朝だけで八〇種もの鳥を撃った。飢えた軍隊蟻の大群が通り道にあるものを喰い尽くしながら行進する恐ろしい光景も見た。鸚鵡から椰子へ、甲虫から蘭へと、関心の的は次々と移っていった。集めた標本は、その多くが当時も科学にとって未知のもので、木箱に詰められて郷里の家に送られた。ブラジルでは、初めて熱帯性の熱病に罹った。奴隷制のおぞましさも垣間見た。この地を去る時、「有難いことだ。もう二度と奴隷の国は訪れまい」と書いている。
アルゼンチンのプンタアルタでは、砂利と粘土の小高い丘に埋まった古い骨を発見。オオナマケモノにアルマジロ、トクソドンと呼ばれる犀のような動物、絶滅した南米の象・・・。ダーウィンはアルゼンチンの平原を「絶滅した四足哺乳動物の広大な墓場」と呼んだ。そして、科学者たちがこの発見を役立てれば、アメリカ大陸に「巨大な怪物たちが群がっていた」遠い過去の世界を再現できるだろう、と感じた。
現代の南米に棲むバク、ナマケモノ、グアナコ、アルマジロは過去の巨大獣の子孫に違いないと確信したダーウィンは、種の間の関係についても思いを巡らせるようになった。「同じ大陸における死者と生者との不思議な関係」から、種がどのように出現し、どのように絶滅するかが明らかになるかも知れない、と思うようになったのだ。
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