女・母・家族を問う(2) 『結婚がヤバい』(宗像充著、社会評論社)を読む
- 2024年 1月 12日
- 時代をみる
- 家族池田祥子結婚
「宗像充」氏といえば、ご本人自身、2007年に離婚し、親権を元妻に認められたまま子どもと会えなくなったという苦い経験を元に、それ以来一貫して「共同親権」を主張し、2019年には「共同親権集団訴訟」で国を訴えている。
この「ちきゅう座」でも、私は2度にわたって、宗像充氏の主張を参考にしながら「共同親権」問題を取り上げてきた。
・ 日本の家族法の中での「共同親権」の不整合?―宗像充『共同親権』を読んで(2022.3.3)
・ 「親権とは何か?」―「家族」「親子」を考えるための基礎作業(11)(離婚後の「共同親権」を考える)2020.4.2)
今回取り上げた本書でも、サブタイトルは「民法改正と共同親権」であり、「共同親権」問題は相変わらず、宗像氏の中心的課題ではある。
ただ、今回は、宗像充氏も「結婚がヤバい」!と警鐘を鳴らしているし、「親権」問題の枠組みともなっている日本の戸籍自体の問題、したがってそれに規定された「結婚」それ自身の問題を、もう一度整理してみようと思う。
戦後日本の「結婚」の実態(1)―「男が、一生、女におごり続けること」
本書の「はじめに」の初っ端は、次のような文章で始まる。
― 「結婚って一生おごり続けるってことでしょ」
知り合いの女性から息子がそう言っていると聞いたのは10年以上前のことだ。彼女には成人した息子さんがいて、独身なので何気なく彼に結婚のことを聞いたのだと思う。(p.4)
つまり、ここで言われる「おごる」ということは、日本の結婚の「性役割」の、ある傾きを伴った「男の側からの不公平感」の表現なのであろう。
はるかな昔の「おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に」という性別による仕事の分担は、「男は狩り、女は家内の仕事」「男は力仕事、女は手仕事」という「仕事の体力的な差による分業」として、どちらかといえば、未だ牧歌的に受け止められてきた。ところが、近代社会の「男は外、女は内」という社会的分業になると、「男は稼ぎ、その稼ぎで、女は家内を賄う」ということになっていく。人間の生存を支える経済的な「稼ぎ」が男次第となり、したがって、女の「男への従属」という面が際立っていくのである。かつての父権制家庭(「家制度」下)では、家長(男)が妻子を養い、統制する力を保持していた。
ところが、戦後日本では、三世代同居の大家族は縮小し、一夫一婦の核家族が主流となる。基本的に昼夜在宅しているのは「家内」=妻(女)であり、夫(男)たちの主な居場所は職場であり、かつ夜の酒場?ともなっていく。
こうして、日中「外」に出て働く夫(男)たちは、企業からも、家庭内の妻(女)からも、目一杯「働かせられている」ことになる。その結果、「外で働く夫(男)たち」は「働く(働かせられる)」ことに精力を使い果たし、家に帰れば、ただ家の中でゴロゴロしているばかりで、能無しになってしまう(ように見える)。「食べる」ことからその他の「生活」に関して、すべて「妻(女)任せ」で、子ども同様、暮らしの中では全くの役立たずになってしまうのだ。
一方の妻(女)は、もちろん、家庭外での仕事を持っていない以上、個人としての「経済力」はゼロである。(もっとも、仕事を持つ妻(女)も居るし、やがてパートに出て行く妻(女)も増えては行くが・・・)しかし、子どもを生み育て、家庭内のことは一切合切妻(女)が取り仕切っている以上、夫(男)たちは妻(女)に頭が上がらない境遇に置かれてしまう。したがって、他からはもちろん、夫(男)たちもまた自嘲気味に、この働くだけの夫(男)たちを「働きバチ」とも称する。
さらに、戦後の日本では、夫(男)の給料は当然のように家庭全体の収入として妻(女)が管理し、そこから夫(男)の「お小遣い」が手渡される、という例も稀ではない。むしろ多数派であろう。日中の家庭の中では妻(女)がそれこそ「主婦」として、家事全般を司り、「亭主、丈夫で留守がいい」と嘯(うそぶ)いたりもする。それほどに、夫(男)は、家庭に居場所をもちづらくなっていく。
以上、最近の「同性婚」のケースは除外したまま、異性同士の結婚の内実を、やや戯画的ながらフォローしてみた。その結果、結婚における「性別役割」を、「稼ぐ人=男、消費する人=女」という面に焦点を当てれば、女(妻)たちは、男(夫)に家事・育児に関わる経費を要求して当然!という「心性」を、戦後の結婚制度は育ててきてしまったのかもしれない。
だからこそ、若い男女のデートでの食事場面でも、「男が女に食事をおごる」、パパ活ではそれは当然になり、セックスの際も、男が金銭を支払う、となる。
そうなると、結婚とは、セックスも食事も込みで、男の経済的負担が「一生」続くことになり、最初の青年の結婚って?の回答の意味が、ここで改めて判明するであろう。
「結婚って、男が、一生、女に、おごり続けるってことでしょ?」
戦後日本の結婚の実態(2)―「(父)母による子育て家庭」の維持
一夫一婦の核家族での「性別役割」は、上に見た通り、まずは男(夫)に経済的な稼ぎを要求し、他方、家内に留まる女(妻)には、「子産み・子育て」を割り振ることになる。
女は「子どもを産む体」を持ち、「子どもを産んだら授乳する体」を持つということを「根拠」として、「子どもの育児」は女(母)の任務として、当然のように一任させられるようになったのである。(一夫一婦の核家族では、妻(女)が24時間、365日、基本的に「一人」で育児を担うことになる、というのに・・・この実態の根源的な問題点も気づかれるのはずっと後になってからである。)
かつての、大家族の元での結婚・育児は、より端的には「家」のために執り行われ、妻は「家のための女」すなわち「嫁」であり、家風に合わなければさっさと離縁された。また、嫁が産む子どももまた「家のための子ども」であり、授乳は任されはしても、子どもの養育の実権はむしろ姑が握っているのが通常だったであろう。ただし、制度上での子どもの親権は、「家制度」下での父親の単独親権であった。
戦後、「子産み、子育ては女(妻)の仕事!」と(社会的に)割り振られた際に、当の女(妻)たちが嬉々として「子産み・子育て」に夢中になり専念したのも、ある意味では、戦前の大家族・「家」制度下での女たちの疎外感、そしてそれへの恨みゆえに生じた反動だったのかもしれない。
しかし、戦後の「核家族」の盲点もまた、やがては多くの人に気づかれ暴かれてはいくが、当初は、「母と子」の育児の空間・形態は、「幸せ」一色に塗り固められていた。
「結婚」って何だ?
以上のように、戦後の結婚は、「働くことを余儀なくさせられる」男の側からも、「育児を(結果として)押し付けられる」女の側からも、次第に「結婚って何だ?」という疑問が湧いてくるのはどうしようもないだろう。
宗像充氏も指摘している通り、戦後の「結婚」もまた、「人と人との関わり」を大切にし、育むため、というよりは、個々の男・女に努力を強いながら、「安上がり」のまま、「国の経済成長」を遂行するために大いに利用された、という他ないのかもしれない。
― 愛し合っている2人のパートナーシップという意味よりも、結婚は「子を産み育てる場=家庭」を維持するものとして国が保護と得点を与えてきた・・・ぜいたく品なのだ。(p.50、49)
― これによって国は介護が必要な人や子どもなど、ケアの機能を家庭に押しつけ、女性がそれを無給で賄い、男性を経済戦争という戦場に送り出してきた。/戸籍制度のもとの富国強兵策を戦後も基本的に受け継いで経済成長を成し遂げた。(p.50)
しかし、低成長時代が長く続き、女たちはもちろん、男たちも「非正規雇用」で安く不安定な就業を続けている者も少なくない。そういう時代の中で、ますます「結婚」できない、しない男は増えて行く。「少子化」は加速するばかりである。
こういう時代だからこそ、「結婚はヤバい」!を、もう一度原点に戻って「結婚って何だ!?」と、改めての問いに立ち戻らなければならないのかもしれない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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