ローザ・ルクセンブルグに関する一考察
- 2024年 1月 21日
- 評論・紹介・意見
- 「原発通信」ローザ・ルクセンブルク鳥羽 幹雄
1919年1月15日、ベルリンでローザ・ルクセンブルグが、カール・リープクネヒトとともに虐殺されてから、今年(2024年)で105年経ちました。「レーニンとロシア革命」の詐欺的化けの皮が剥がされ醜い姿として登場した全体主義国家ロシアが、ウクライナに侵略して、2年目を迎えていますが、奇しくも同じ旧ロシア・ポーランド出身のユダヤ人によって提唱された「シオニズム」思想(1)の政党リクードのネタニヤフ政権は、無差別にガザの住民を虐殺しています。世界は、このような戦争と殺戮の中で新たな年を迎えようとしています。
しかし、過去、同じような戦争と革命のあった20世紀の時代に、搾取に反対し、暴力に反対し、テロに反対し、労働者階級を先頭にした貧しい虐げられた人々が政治の主人公になる社会主義的民主主義のために命を捧げたポーランド出身のユダヤ人女性がいたことを今日知ることは、意味があることだと思います。(まえがきより)
【目次】 まえがき 1 ・「ローザ・ルクセンブルグ――波乱の生涯、それにもかかわらず」 反乱(終章)―1918年11月から1919年1月 (翻訳 鳥羽幹雄) 4 ・ドイツ革命について 39 ・ローザ・ルクセンブルグとハンナ・アーレント―世界への愛の物語 43 あとがき 51 |
1910年 クララ・ツェトキン(左)とローザ・ルクセンブルグ
ベルリン ツオー(動物園)駅近郊の運河にある彼女の碑。ここで虐殺された運河に投げ捨てられた彼女の遺体がここで発見されました。そのことを記念しての碑です。ベルリンの壁が崩壊した後の1991年夏、筆者の鳥羽君とドイツ通信のKさんらと一緒にここをお参りしました。僕が行った時、この碑に赤いバラの花が差してあったことを覚えています。
思うのです。日本で、例えば大杉栄、伊藤野枝とその甥が関東大震災の時、甘粕大尉らによって虐殺されましたが、それを忘れずにと碑を立ててあるということあるでしょうか。
まえがき
1919年1月15日、ベルリンでローザ・ルクセンブルグが、カール・リープクネヒトとともに虐殺されてから、今年(2024年)で105年経ちました。「レーニンとロシア革命」の詐欺的化けの皮が剥がされ醜い姿として登場した全体主義国家ロシアが、ウクライナに侵略して、2年目を迎えていますが、奇しくも同じ旧ロシア・ポーランド出身のユダヤ人によって提唱された「シオニズム」思想(1)の政党リクードのネタニヤフ政権は、無差別にガザの住民を虐殺しています。世界は、このような戦争と殺戮のなかで新たな年を迎えようとしています。
しかし、過去、同じような戦争と革命のあった20世紀の時代に、搾取に反対し、暴力に反対し、テロに反対し、労働者階級を先頭にした貧しい虐げられた人々が政治の主人公になる社会主義的民主主義のために命を捧げたポーランド出身のユダヤ人女性がいたことを今日知ることは、意味があることだと思います。ちなみにイスラエル首相のネタニエフもポーランド出身です。
ローザ・ルクセンブルグは、ポーランドのザモシチ出身で、1871年3月5日に、ユダヤ人の商家に生まれたのですが、大変多彩な秀才であったために、当時ロシア領だったワルシャワの第二高等女学校へ行くのですが、それは、第一高等女学校は、ロシア官僚の子女しか行けないからでした。彼女は、そこですでにプロレタリアート党という社会主義団体に関係していたのですが、彼女が、本格的に政治活動に専念するのは、チューリッヒ大学へ留学してからです。終生の伴侶にして同志であったレオ・ヨギヘスと知り合ったのもチューリッヒ時代でした。彼女が社会民主主義の世界で、デビューするのは、28歳のときの労作「社会改良か革命か」からでした。その後レーニンとの論争そして「資本蓄積論」へと続くのでした。ローザ・ルクセンブルクの特徴は、労働者の階級意識の形成は、「水泳が水の中で覚えるように」(2)まさに運動のなかで形成されそれは、自発的に発展していくものであるし、本来そうあるべきである、とする強い信念です。特にレーニンとの論争において、この点は顕著でした。
しかし、彼女がなによりも立派だったのは、その人生の最後に、政治家・革命家としての矜持を我々に示したことだと思います。ドイツ革命が敗北に終わり、右翼義勇軍に虐殺されることがわかっていながら、ベルリンにとどまり、殺害されたのは、彼女が、革命家は、革命のなかで死んでいくことが名誉なことであるとの覚悟があったからです。そのためにレーニンは、彼の論敵であった彼女を持ち上げざるを得なくなり、特有の「恥隠し」で彼女を高く評価したのでした。それが、レーニン的メッキだったことは、その後、スターリンの「ルクセンブルグ主義」と言う評価で、わかるというものです。
彼女には、二人の女性の存在を言っておく必要があります。一人は、クララ・ツェトキンであり、もう一人は、ハンナ・アーレントです。クララはローザに無視されても気にせずひたすら彼女を尊敬し付き従う従者のような人生でした。他方、婦人運動に生涯を捧げた人でもあったのですが、ローザはフェミニズムには関心がなく、ローザのように高い教養がないクララは話についていけず、時として疎外感にさいなまれるのですが、常に彼女を支え続け、その親しい関係は、彼女の実の二番目の息子がローザとの愛人関係(3)となったというエピソードも含め人生そのものでした。彼女は、ローザに説得されて、独立社会民主党(USPD)にとどまるのですが、彼女が虐殺されると共産党に入党し、同党選出の国会議員にもなります。しかし晩年、モスクワに亡命したときに、ローザ批判に肯定的な発言を強要され従ったと言う痛恨の歴史があります。このスターリニストによる残酷な仕打ちを考えると胸に迫るものを感じます。
もう一人のハンナ・アーレントは、何故か日本では、まったく二人の関係性が話題になることはないのですが、アーレントの著作、書簡集、伝記による証言等を読めば、ローザをどれだけ深く理解し、誰よりも高く評価しているかがわかるのですが、しかし、アーレント研究者が、どこの党派とは言いたくないのですが、一定の政治的思惑から、彼女は、マルクスの誤読者(4)であり、元スパルタクス団の夫の影響でローザを評価しているといった言説(5)がまかり通っています。この言説は、アーレントはもとよりローザに対しても侮辱以外の何物でもないと思います。この卑劣な日本のアーレント研究会の現状を覆すべく、「ローザ・ルクセンブルクとハンナ・アーレント」に焦点を当て述べたいと思います。
いずれにしても、ローザは、このような時代を超えた二人の女性に愛された人物でもあったことを知ってもらいたいと思っています。彼女の比類なき勇気と情熱を学ぶことは、これからの闇の世界に希望が出てくるはずです。アーレントが言ったように、「世界への愛の物語」を紡ぐことです。今回の本拙論がその一助になればありがたいです。
【注】
(1)鶴見太郎著「イスラエルの起源」講談社選書メチエ17頁
(2)ハンナ・アーレント著「暗い時代の人々」ちくま学芸文庫86頁
(3)クララの次男コンスタンティン(コスチャ)はローザの家に下宿していました。姫岡とし子著「ローザ・ルクセンブルグ」世界史リブレット87山川出版社59頁
(4)代表的なのは、百木漠著「アーレントのマルクス」人文書院 これは、あえてアーレントは「誤読」が魅力と言った論法で擁護している振りをしてマルクスの正統解釈を独占しているのです。
(5)初見基の執筆による コラム6「ハインリッヒ・ブリュッヒャー」日本アーレント研究会編「アーレント読本」法政大学出版局160頁 この本は、大層な題名にもかかわらず、アーレントは、マルクスやましてやローザ・ルクセンブルグとは全く関係しない女性哲学者として思想誘導している、と思います。
ローザ・ルクセンブルグ
波乱の生涯、それにもかかわらず
アネリーズ・ラシツァによる伝記
翻訳 鳥羽幹雄
反乱(終章)
1918年11月から1919年1月
もうこれ以上待てない。
「東と西の問題に関しては、ほぼ同じかあるいは、少なくとも似かよった思いを感じています」とローザ・ルクセンブルグは、1918年9月12日ゾフィー・リープクネヒト(1)への手紙で述べています。「とてつもなく頂点に達するまで、事態の混乱に対する、人間的理性は、働かないからです」(2)。彼女は、気晴らしで植物学そして読書、とりわけ、ドイツ文学―16~17世紀を読んでいました。しかし、彼女は大部分、「ロシア革命論」「戦争、民族問題、そして革命」の原稿を書き、そしてさらに続けてテキストを書いていました。と言うのは、彼女は釈放された後、即座に活動するための、準備をしていたのです。また、これまで公表されていない第一、第二インターの歴史に関する断章それについての線、挿入句、参照指示そして余白に見出しをメモ書きしたものを含むのは、この週になされたのでした。鉛筆で書かれたものとインクで書かれたもので、3種類の紙のテキストは、A5規格の紙に書かれていました。最初のページにはあれこれと見出しが素早くメモ書きされています。「インターそしてその歴史 1.1864年(3) 2.1889年(4)、メーデー、審理、和平、戦後、党大会」
必ずしも正確ではないこの考えは、両インターの台頭と没落の間に起きた紛争、戦争終結に関する帝国主義大国の態度、そして、ロシア革命とヨーロッパ革命に反対する多くの態度などに対するローザ・ルクセンブルグの怒りを反映したものでした。彼女は、3つの重要な大きな世界的未解決のテーマとして、次の点を明らかにしました。民族問題、植民地の運命、そして民主主義の展望。彼女は、資本主義的社会は戦後の混乱を克服できないと予想し、そして、この恐怖の克服についての提案、覚書を書留めていたのです。
「1、経済問題:戦争によって途方もない大量の鉄、鋼鉄、すべての原材料、銅、モーター、船、森、とてつもなく巨大な耕地、そして草地、といった生産手段が破壊された。確かに最高の生産物であったが、(中略)熟練したそして技術のあるヨーロッパ労働者の中心メンバー、数十年以上の熟練した人材が殺害され、後継者つまり次の世代も同様であった。そして、残された者の多くは障害者になった。つまり、労働力の根幹が打撃を受けたのである。農業経済も至るところで荒れ、そして落ちぶれた。まず、はじめに次のようなことがある。労働力不足、原料不足、しかも軍需産業の解散と原料不足の結果、大量の引揚者が失業したのであった。恐ろしい普遍的な経済危機と世界的飢饉がすぐ迫っている。それに加えて驚くべき国民の劣悪な健康状態、死亡率の上昇、切迫した激しい住民の減少、肉体的退廃をもたらす流行病」左端にメモ書きしてある。「以前は、いずれ戦後、経済が復興して躍進したものだが、今回は違う!」 テキスト中、さらに次のように述べるのでした。「資本主義的無秩序では克服できずに、それは、短期間に無秩序と全体的没落へ導くのである。“国家経済”とは、戦時中において次のようなものであることが明らかになった。
唯一、大規模な急進的社会、大胆な対策、つまり、私的所有の廃止、利潤追求の停止、国境の廃止、によってのみこの社会を救うことができるのである。大地主を排除して、今まで未開拓の土地に最大限の農業生産の向上に着手し、就労可能な者を生産的労働に動員し、王家、教会、修道院の所有する巨大な私的森林、猟地、広大な田畑森林を一般に開放し利用できるように変えること。農業生産物において協同組合的会社の導入、即座の徹底した労働条件の改善、女性の労働力を可能な限り健康を損なうことなく利用し、戦争から生還した男性の労働力を補うこと。住宅改革(伝染病のため!)完全な都市の改革、そして町と農場との必要な統合をすること。切迫した伝染病の為に公衆衛生制度の国有化、贅沢品と軍需物資の廃止すること。
2、財政問題:すべての国家は、つまり勝者も敗者も、交戦国も中立国も、未曾有の財政負担を伴って戦争から這い出てきたのである。金融、そして軍需資本、銀行資本が資本主義国を手中に収め、それは、ドイツでは、国内資本が、フランス・英国では、外国資本だった。財政負担をどうするのか? 大衆に税を課すのか? 彼らには無理である。資本家に課するのか? 資本主義国には、それをやる気力すらないであろう。イギリスでは、部分的にできるであろうが、しかし、それは、インドにその補償があるからである。これら、財政負担は、今やすべての収入を食っているのである。そして、経済の再建は? 今や直接的に国家の最も大きな課題が間近に迫っている。戦争の負傷者、未亡人、孤児の世話!財政負担の無効が国家存続の前提条件であるが、しかし、それは、不可能である。
3、民族問題:人権の復活再生は、いつ始まったのであろうか? 1871年(5)をもってであろうか? しかし、ポーランドは、1772年(6)にまで遡るのか! アイルランドはどうか? インドは? フィリピンは? 中国の農奴は? アルジェリア、そしてチュニジアは? 一般の植民地問題は?更に民族は相互に如何に和解するのであろうか? 中国とペルシャはどうなるか? 彼らをほっておけるのだろうか? そして合衆国における黒人問題はどうなるのか?
4、平和問題:軍縮、軍需資本は、まさに戦争によって強大となった。戦争において浪費した富が、そこに、蓄えられたのである。イギリスとアメリカは、最初に軍国主義をつくり出し、日本は供給者として大いに成長したのである。軍国主義のメカニズムは、もはや、中小企業ではもたないものになっていたのである。少々の軍国主義などというものは、生産における少々の無政府主義と同じように不可能である。同じ軍需資本が、今や直接的には銀行を通じて、国家の主だった債権者である。また政治的には軍国主義がまさに勝利者であり、ちょうど、合州国のホワイトハウスも同じである。トルコの分割、ドイツ植民地の分割、日本への補償金、力関係の移動、新しい競争、英国と米国、英国・米国と日本、すべての問題の解決策は社会主義だけである。止まるところを知らない山崩れのように岩塊が落ちてきている。古いヨーロッパは、継ぎ目が震え、そして、ともに砕けたのであった。そして、古い市民世界とともに。そこには、瓦礫以外の残るものはない、そして、この瓦礫から唯一社会主義社会が生まれるのである。東そして西、そして北が震動し帝国は分裂し、王座は砕け散る」
彼女は、さげすみ気難しく書きとめそして、「平和問題」を再び強調するために塗りつぶしています。「この新しい国民国家」(カール・カウツキー理論によると、国家主義的民主主義)「民主主義」の背後にある欠点がウクライナ、フィンランド、バルト諸国、ポーランドで現れたのでした。これら雛たちは、羽毛が成長する前に、首を絞められたのです。この断章は、ローザ・ルクセンブルグが緊迫した問題に関するおおよそすべての基本テーゼを含んでいます。また戦争の間、記事、著作物において社会民主主義とインターの危機に関する多くの考えを述べており、彼女はここにおいて再び予期せる世界政策上の立場に関して、彼女の判断と関連づけてスケッチしたのでした。「私は座って、書いて、読んで、そして待っています。」彼女はすでにもう9月14日にアドルフ・ゲック(7)宛てに書いています。10月3日には、バーデンのマックス王子(8)が、新しいドイツ帝国宰相に任命されたのでした。フィリップ・シャイデマン(9)SPD(10)議長と、そしてグスタフ・バウアー(11)ドイツ労働組合中央委員会議長が、政府の次官として入ったのです。ローザ・ルクセンブルグは、政権交代の後始まった恩赦を期待していました。彼女は、新しいドイツ帝国宰相に電話しましたが、しかし、回答の代りに、新しい拘留状を受け取りました。おそらくこの間の彼女に課された刑罰に対する「保護拘束」の一つでした。彼女の弁護士による新たな抗告に関して彼女は少しも期待しませんでした。焦り、そして不快を11月1日に弁護士に宛てた短い報告のなかの簡潔な文から洩れ伝わってくるのです。「私はまもなく釈放されるでしょう。私は、私の本などを梱包し釘付けしているのに、いまだにまったく不愉快な環境にいます。」
このような緊迫した状況では、ローザ・ルクセンブルグは手紙を書くことが辛くてできなかったのです。また彼女はもはや面会にも興味がなかった、それは見張り番がいてどのみち話すことができないからです。彼女はただ「自由の身になる」目標だけを持っていました。ウイルヘルム・デェットマン(12)、クルト・アイスナー(13)、カール・リープクネヒト(14)はすでに釈放されていました。彼女には何も起こらなかったので、新たな弁護人の抗議には、何も期待しませんでした。11月4日彼女は、マチルデ・ヤコブ(15)への手紙の中で諦めを述べています。「どうか、あなた、私の住まいの掃除で、へとへと、に疲れないでください。ご承知のように急ぐことはありません。重い本箱を私はそれでも少しずつ発送したいのですが、しかし、住まいでは誰も受け取る人はいないでしょう」。それに加えて、不当な賃料値上げは余分に彼女を怒らせました。彼女は、「南の端にある私の愛しいねぐら」を失いたくなかったのです。「可哀そうにね」と11月7日彼女はマチルデが私の小屋とともに面倒な事になったことを残念に思います!」「私の愛しいローザちゃん」同じ日にマルティデ・ヴルム(16)は、彼女に書いています。「毎日毎日、私は、ついに釈放と言う期待を持って新聞を広げでいます。毎日毎日、私のその期待は、裏切られています。現在の私たちの民主的政府は何と素晴らしいのでしょう! というのは、かつての恩赦法すらないのですから。そしてあなたは未だに、拘禁されているのです。あなたは、この一瞬にも自由を奪われて、何と苦しんでいる事でしょう!」
それは、革命
11月7日の晩、刑務所長は、ローザ・ルクセンブルグに彼女が自由の身になり、そして翌日ついに地下牢から出ることができる旨伝えました。11月3日キールにおける水兵の反乱による革命が始まり、そうこうするうちに多くのドイツの地域を巻き込んだのでした。また、ブレスラウでも11月8日に政治集会が開催されました。ローザ・ルクセンブルグはためらうことなく、それに参加することを検討しました。彼女は、ロス広場23番にある運搬労働者事務所において、直ちにパウル・レヴィ(17)、……彼はブレスラウの社民党の町そして州の議員でした。……彼女は彼といつでも連絡が取れること、そして、大聖堂の前でデモ参加者に演説しなければならない場合はご理解ください、と手紙に書きました。労働組合事務所の入り口で、2人は会い、彼らは、戦争と軍事独裁の終わりを、ともに抱き合って喜びました。ローザ・ルクセンブルグは、ブレスラウの拘留期間中に食事の面倒を見てもらったシュリッヒ一家のところを当面の宿としました。まず初めに、彼女はどうやってベルリンに行くことができるかを見出さなければならなかったのです。と言うのは民間人が乗れる列車は走っていなかったからです。
11月9日早朝時間帯に、ヴィッテンベルク州の労働者、兵士は君主政府を打倒したと表明しました。クララ・ツェトキン(18)は、シュトゥッツガルトの城広場で熱狂的に歓迎され、そして、デモ参加者に話しかけたのでした。そこの労働者・兵士評議会と人民代表委員会は、スパルタクス団とUSPD(19)が初めから多数派を占めていました。とりわけ、エトヴィーン・ボエルネル(20)、フィリッツ・リュック(21)、アウグスト・タルハイマー(22)、そして、ヤコブ・ヴァルター(23)、らが所属していました。そのような知らせは、ローザ・ルクセンブルグの焦りを増大させました。彼女はやっと、革命の誕生に、効果的に参加できると期待していました。それ故、ベルリンへ行かなければならなかったのです。
そこで、スパルクス団と人民代表委員会(24)は、革命的オプロイテ(25)に11月9日、同様に闘争を呼びかけたのです。情宣ビラで、彼女は君主政治の打倒と社会主義共和国の建設、つまり、労働者、そして兵士評議会連合(レーテ)の代表者による政府の承継と、そして直ちにロシア・ソビエト共和国との接触を要求したのです。ストライキの呼びかけに10万人が従ったのでした。彼らはデモ行進し、警官と将校を武装解除し、交番を占拠し、兵舎を攻撃して占拠し、そして政治犯を解放しました。またレオ・ヨギヘス(26)は、10月から大赦に含まれてはいなかったのです。そして、パウル・レヴィに関してはモアビート刑務所から救い出されていました。
11月9日、昼ごろにはベルリンは、革命的労働者の手中にありました。皇帝ヴイルヘルム二世(27)は、退位しました。帝国宰相である、バーデン公は、憲法に基づき国政選挙を告示しました。二人のSPD議長の内フリードリッヒ・エーベルト(28)はマックス公から新しい帝国宰相に任命され、そして、彼は「平和と秩序」を呼びかけたのです。しかし、土壇場で古い政治を維持する全ての試みは失敗するのでした。ドイツの支配階級は、もはや、この革命の阻止を命ずる事はできなかったのです。
カール・リープクネヒトは、王宮へ行進するデモ隊の隊列の先頭にいました。そして、王宮はベルリンの労働者・兵士評議会の保護下にあると宣言しました。「我々は、平和を強く要求した。平和は、この瞬間に完結した。古いものはもはや存在しない。ホーエンツォルレン家の統治、すなわち、この王宮で数世紀にわたって行われた支配は終わった。この瞬間に、我々はドイツ自由社会主義共和国を宣言する。我々は、4日前に屈辱的に追い払われた我がロシアの兄弟に挨拶を送る」。11月5日、ドイツ政府からソビエトロシアとの外交関係は、断絶されたのでした。
同じ日に、フィリップ・シャイデマンは、帝国議会議事堂から自由ドイツ共和国を宣言したのですが、これは、この決定を迫るために集まった群衆を目の当たりにしたことと、さらに革命の過程においてSPDの影響力を保証しようと考えてのことでした。多くの労働者と兵士たちは、君主制の崩壊とUSPDのエミール・バルス、ウイルヘルム・ディットマンそしてフーゴ・ハーゼ(29)、それにSPDに所属するフリードリッヒ・エーベルト、オットー・ラントベルグ、そしてフィリップ・シャイデマンらの人民代表委員による評議会の形成と、政治権力を闘い取る準備と、社会主義への道が開けたと思ったのです。しかし、11月12日の人民代表委員による評議会では、資本主義的秩序の基礎に手を付けられなかったのです。
ローザ・ルクセンブルグはずっとブレスラウ(30)で釘づけでした。彼女は、マチルデ・ヤコブに絶え間なく電話で事件の進行に関して問い合わせていました。そして、ついに「解放」を急がせたのです。レオ・ヨギヘスは、11月10日、フランクフルト・オーデル(31)に彼女がブレスラウから列車で到着するところを自動車で迎えに行こうと決めたのです。しかし、徴発された軍用車とそれに属する護衛隊とともにフランクフルト・オーデルへ向かう2回の試みは失敗しました。さらにその先のベルリンまで彼らは来ることができなかったのです。ローザ・ルクセンブルグは、その間に運を天に任せて超満員の列車で、その旅を始めたのです。マチルデ・ヤコブの記憶では、彼女は、11月10日22時ごろシュレジン駅に着いたのです。ローザ・ルクセンブルグはとりあえずマチルデの母のところへ行きました。ローザ・ルクセンブルグは、カール・リープクネヒトと同様にアンハルター駅(32)の向かい側にあるホテル「エキセルシオール」を彼女の最初の宿としました。彼女はカール・リープクネヒトの用意した「ベルリン地方紙」の編集室へ夕方遅くマチルデ・ヤコブを伴って行き、そこに、レオ・ヨギヘス、ウイルヘルム・ピーク(33)と他のスパルタクス派幹部が集まっていました。
新聞社の編集部と印刷所は、11月9日、スパルタクス支持者と武装水兵そして兵士によって占拠されていました。ヘルマン・ドウッカーとエルンスト・メーヤーの監督下で、占拠したその晩に、「赤旗」(ローテ・ファーネ)創刊号(34)を発行することができたのです。11月10日、スパルタクス派の機関紙は労働者と兵士にレーテ評議会の選挙を訴えたのです。そのなかで、革命をさらに進めていくために、以下の任務をあげています。警察官と将校の武装解除、人民総武装、労働者と兵士の代議員を通したすべての行政官庁と軍司令部の承継、帝国議会、そしてすべての議会および存続している帝国政府の廃棄、すべての王朝そしてその独立国家の廃止、統一のとれた共和国、選挙されたベルリンの労働者・兵士評議会(ラート)を通じた政権の引き継ぎ、ドイツ全土における労働者・兵士評議会連合(レーテ)の選挙、社会主義的兄弟政党との関係改善、そして、1918年11月5日の挑発によって追放されたロシア・ソビエト大使の再任命。
スパルタクス派は、すべての革命的大衆集会において重要なこれら要求の決議を採択しそして、ローザ・ルクセンブルグを中央労兵評議会へ代表として派遣することを伝えました。「我々はこの婦人を次の理由により歓迎する」と述べて、この決議文を締め括りました。「東西ヨーロッパ幾十万の人々の代表として、戦前の長い間に帝国主義に対する自由への闘争の精神的武器を鍛えそして彼女は、つい最近まで支配階級から彼らの宿敵として地下牢に閉じ込められていたのである。」
ローザ・ルクセンブルグが「赤旗」の編集部にやって来たとき、「すでにそこには別の風が吹いていた」とヘルマン・ドウンカー(35)は報告しています。「その職場の職員やすべての従業員は、前日までプロレタリアートの革命的意志に従っていたその適応性が、今や、反抗的そしてサボタージュへとより強く変わっていたのです。
それは、「革命的政府」が、ブルジョワ的新聞の大物の苦情を受け入れて、新聞を以前の所有者に再び渡し、反革命的害毒を再び広めることを妨げないようにしたからでした。「ローザ・ルクセンブルグは、このような局面において、より困難なく「赤旗」の2号が印刷されるために、全従業員に向かって心に迫る、そして情熱的な演説を行ったのです」。
11月11日、ホテル「エキセルシオール」でスパルクス団(36)が結成されました。ヴイルヘルム・ピークの回想によれば、レオ・ヨギヘスが次のように提案しました。「これまでの国際派(通称、スパルタクス派)をスパルタクス団と変更する」。その団(BUND)は、しかしながら党ではなく、そうではなくUSPD(独立社民党)の構成員(党員)に所属していました。けれどもスパルタクス団は、この党のなかでの閉鎖的プロパガンダ的結社でしかなかったのです。支持者にはスパルタクス団に所属していることの徽章を与え扇動的メッセージカードを印刷し50ペニヒで発行したのでしたが、継続的な党費はなかったのです。もちろんこうした状態は独立社会民主党のなかでの紛争とならざるをえなかったのです。しかし、ローザ・ルクセンブルグは、スパルタクス派同志が可能な限りUSPD(独立社会民主党)にとどまりスパルタクス派の考え=見解を浸透させ、そして、スパルタクス団自身の新党創立を回避することが有益であると考えていたのです。
スパルタクス団本部は、13人の同志によって形成されており、その頂点には、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク、フランツ・メーリング(37)そして、レオ・ヨギヘスが立っていました。さらに、エルンスト・メイヤー、ヘルマンそしてケーテ・ドゥンカー、ヴィルヘルム・ピーク、ヒューゴ・エバーライン、アウグスト・タルハイマー、パウル・レヴィ、ヴィル・ブディヒ、そしてパウル・ランゲが所属していました。ローザ・ルクセンブルグは、レオ・ヨギヘスとクララ・ツェトキンと同様にUSPDにとどまることが適切であると判断したのでした。「恐らく分裂の可能性は避けられないだろう」とクララ・ツェトキンは11月16日ローザ・ルクセンブルグとの電話による意見交換を要約しています。「しかし、その問題が、我々の単なる党内問題から、より大きなプロレタリア的大衆問題へと情況を大衆に有利な我々の影響下において実行すべきである。その情況がまさに欠けているのである。分裂は、大衆によって理解も反響もまったくなされないであろう。そして、我々は、我々の指導者と資金面での周知の弱点によって、大衆への入り口を決定的に閉ざす事にならざるを得ない。」
スパルタクス団の中央本部は最初、ウイルヘルム通り114にあったのですが、まもなく、以前ロシア電信社の事務所があったフリードリッヒ通り217へ引っ越したのです。「赤旗」の編集部はウイルヘルム通りにとどまったのです。その組織の立ち上げは自発的寄付金を通じて賄われていました。スパルクス団がベルリン以外で強い影響を有していたのは、バイエルン、ブラウンシュヴィック、ドレスデン、ヘッセン、フランクフルト(マイン)ライプツィヒ、マグデブルグ、ニーダーライン、ノルトヴェスト、オーバーシュレージィア、東プロイセン、ルール地方、シュトゥッツガルト、チゥーリンゲン、そして、ヴァッサーカンテ(北ドイツ・バルト地方)でした。ローザ・ルクセンブルグは、11月11日の会議の席上で、次の任務としては、固有の日刊新聞、週刊誌「インターナショナル」そして、若者、女性、そして兵士のための新聞の発行および新聞社の設立を指し示したのです。しかし、最初に最も緊急の課題は、「赤旗」の発行であり、これを保証することでした。
ローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトは11月11日に「赤旗」の編集局活動を開始するつもりでいましたが、そのときに、扇動された植字工と印刷従業員が職場集会で抗議行動に出たのです。必ず2人は再逮捕されるに決まっていると。シェレル出版は、執行委員会から公布された命令が来なかったのです。その命令とは、日刊紙「赤旗」をR・ルクセンブルグ夫人による編集局(代表、E・マイヤー)のもとで印刷し、そして、発行と流布に必要な設備を提供せよというものでした。また、ローザ・ルクセンブルグは、出版所との商業的取り決めを通じて新聞印刷の確保を試みたのですができなかったのです。政府は、占拠された新聞発行所の明け渡しを命じ、それを軍隊の保護下に置いたのです。シェレル出版の扇動された労働者は、「赤旗」の印刷をすることを拒否することで、全部で約16,000マルク受け取ったのです。その「拒否」に反対の発言をする人は、解雇させられました。
スパルタクス団は、大変な苦労してケーニッヒ・グレッツァー通り40/41にあるアルチュール・レーマン宅で印刷する機会を得ることに成功しました。そして「赤旗」を次の週の11月18日に再び発行することができるようになりました。家主の息子はスパルクス団から調達していた、戦後大変貴重であった紙の消費量を監視していました。彼は、ローザ・ルクセンブルグと毎日会っていました。と言うのは、彼女は、自ら紙の使用量をチェックしていたからです。「ところで、私は、当時ローザ・ルクセンブルグに積み上げられた労務負担について確かにあまり、理解できていなかったのです。しかし、私は、彼女が非常に疲れているのがわかっていました。そして、そのために、逆に彼女は、私の健康状態を尋ねたり、たびたび私を励ます言葉を見出したりしていたように見受けられました。」
11月17日、ローザ・ルクセンブルグは、次の日の「赤旗」において掲載された「はじめに」とそして「古い劇」を執筆したのでした。そのなかで、彼女は獲得した成果に対する幻想を強く戒めました。彼女は、広範に撒き散らされたスパルタクス団の言い古されたレッテルとしての一揆主義とアナーキズムについて、これを、卑劣な中傷に満ちた扇動であると強く批判しました。家畜小屋、パン屋、そして怯える小市民を、啓蒙された大衆の嵐が、突然襲うのではなく、そうではなくて、「世論を恥知らずなウソで毒し、人民をスパルタクス団に反対するように扇動する、ブルジョワに依存した社会民主義者たち、つまり、シャイデマン、エーベルト、オットー・ブラウン、バウアー・レギエン、そしてバウマイスター」らを襲うのであり、「その嵐が一掃するのは、お前たちブルジョワ的反動勢力とマックス王子の以前の共犯者であり、そしてお前たち資本主義的搾取の防衛部隊であり、お前たち待ち伏せする反革命の手先ども、お前たち羊の毛皮を被っているオオカミたちである!」
今や「赤旗」が再び店頭で販売できたことに満足し、彼女は11月18日にクララ・ツェトキンへ手紙を書きそして彼女は到着して以来、電話あるいは電報でしか連絡をとりあえなかったのです。「最愛の人よ、大急ぎで二行だけです。私は、列車から降りて以来まだ、一歩も自分の部屋へ足を踏み入れていないのです。その間、ずっと昨日まで『赤旗』に関わってきたのです。発行するのか、発行されないのか? 朝から晩まで目まぐるしく闘ってきたのです。やっと出たのです。あなたは、忍耐が必要です。技術的に『赤旗』はあまり高いものではありません。つまり、すべて次第によくなっていきます。とりわけ、私が聞きたいのは、あなたの主張内容です。私は我々が完全に一致できるし、そして幸せな気持ちです」。また、彼女は、サナトリウムにいるフランツ・メーリングに「赤旗」へ彼の意見を寄稿してくれるようにお願いしました。
カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグは、新しい新聞への責任として共同で署名しました。アルフレッド・メルゲスは、他のスパルクス団員とともに両者の身辺防衛を引き受けたのでした。「肉体的にか弱くそして小さいローザの身体的行動力は私には、殆んど超人的に輝いていました」と彼は書いています。「たとえ、弱く見えたとしても、彼女は意志の強さで日々のノルマを時間通りにこなしたのです」。カールが、政治集会から帰ってくると、ただちに情勢に関してと、中央等の同志との話し合いとの協議を続けたのでした。そのようにして、彼らは一緒に次の論説における共通の基本線を確定したのでした。
ローザ・ルクセンブルグは1918年11月の日々は、完全に「赤旗」の仕事に没頭していました。「もし貴方が知っていればいいのですが、大混乱のなかで私がどれくらい主張しそして、どのようにここで生活してきたのか!」と彼女は11月29日、クララ・ツェトキンに書いています。「昨夜12時に私は、はじめて自分の住まいに来ました。そして詳しく言うと私たちカール・リープクネヒトと私の2人はこの辺りのすべてのホテル(ポツダマープラッツとアンハルター駅)からから締め出されているのです」。しかし、仕事は素晴らしく発展していました。
ローザ・ルクセンブルグは、最後の力を振り絞っていたに違いないのです。彼女は毎日、真夜中まで「赤旗」の印刷所で組み版を監督していました。そばにいたパウル・レヴィ、アウグスト・タルハイマー、そして、フリッツ・リョックが助けになりました。常に紙の問題が生じていました。彼女は、新聞を6紙面に拡張し、あるいは毎日2回発行することで、現在直下問題となっていることを報告できるようにしたかったのです。その最新のニュースは、22時か23時に着くのです。1人の若い同志フリーダ・アリスは、ローザ・ルクセンブルグがはっきりとした筆跡で書いた論文を書き写していたのですが、彼女はローザの髪が白くなりそして疲れきっているのを見て驚いたのです。「何でこんな小さな奇形(足の不自由な姿態に対する比喩)にあの偉大な思想がつまっているのでしょうか?」
「赤旗」の苦労は報われたのです。USPD党員に対する反響について彼女は、クララ・ツェトキンに次のように書き送っています。「『赤旗』はベルリンでの唯一の社会主義系新聞である。USPDの機関紙である『自由』については、すべての人々がきわめて失望している。先日大ベルリン中央幹部会の会議でも『自由』の報道委員会でも『自由』への一般的な鋭い批判が明らかとなり『赤旗』が手本として対置された。ただ、ハーゼとヒルファディング(議長)がわずか弁護しただけであった。デオミッヒ・アイヒホルン等は完全に私たちの基盤に立脚しレーデ・ボーア、ツイット・クルト・ローゼンフェルトそして大衆も同様である!」
歯ぎしりがしたい
「赤旗」は、11月18日以来大規模な決起集会を呼びかけました。まず、スパルクス団によって組織された初めての集会は11月21日でした。カール・リープクネヒト、パウル・レヴィそしてヴイルヘム、ピークの他に、またローザ・ルクセンブルグも演説者として数えられました。新ケルン地区アーケード大広間で彼女が話したのですが、たいへんな数の聴衆が押し寄せたために、2回目の集会を開催しなければならなかったのでした。ローザ・ルクセンブルグは嵐のような喝采に迎えられたのでした。彼女は、苦労して手に入れた今までの業績の重要性、他党派への態度、反革命の危険性、そして新たな課題について述べました。彼女のシャイデマン政権との闘争は多くの賛同を得たのです。この論争の中で、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグに対する批判は厳しく非難され、そしてスパルタクス団の立場が支持されたのです。ローザ・ルクセンブルグは、社会主義はただ圧倒的多数のプロレタリアートだけが建設できると最後に述べたのでした。社会革命万歳!とともに確信に満ちた雰囲気で集会は終わったのでした。
国民議会への態度は、11月革命の間に生じた分裂した労働運動の議論が中心となったのでした。ドイツにおいては、これまでロシアを独裁的に統治してきたような価値とは異なる、数十年間の伝統的議会の基礎による議会主義があります。ローザ・ルクセンブルグは、11月20日の「赤旗」の巻頭論文で国民議会はご都合主義的ではなく、原則的問題、つまり革命の社会的自己認識の問題であると解説したのでした。エーベルト、ハーゼそして、その他の見解は、戦争と暴力は,もうんざり、であり、国民議会はドイツにおける将来の社会秩序を決定すべきであるとしているが、彼女は、それに対して、ブルジョワ支配階級が、所有している全ての経済的そして社会的権力手段に反対し、そして、国会を通じた党による権力奪取はできないとしたのです。そして、フランス革命の中でブルジョワジーが、国民議会を政治的階級機関にした様に、この革命のプロレタリアートは、都市と地方のプロレタリアートの代表者たる労働者議会を政治的機関として機能させなければならないのです。国民議会は、ブルジョワ的国家の「自由・平等・博愛」や「統一した民族」という小市民的幻想の小道具です。国民議会を支持する人は、革命を「意識するしないに拘わらずブルジョワ革命の歴史的段階へ巻き戻す人であり、ブルジョワジーあるいは無内容な小市民の変装した代理人である。」
労兵評議会に向けて、ローザ・ルクセンブルグは、革命の継続とますます多くの社会革命への移行、そして、現体制に変わるものとして自らを位置づけていくことを強力に主張し続けたのでした。多数派社民党の指導者のようにUSPDの右派も、また国民議会の早期召集へと傾いていました。機関紙「自由」に次々と論文が出され、そのなかで主張されていたのは、〈レーテは、早晩国民議会の背後に退くべきである〉。11月18日、例えば、ルドルフ・ヒルファーディングは、次のように述べています。ドイツ労働者は、「社会主義教育が徹底している」から選挙で敗北するはずはない。レーテ独裁政治の無制限な継続は、内戦を導く。「国民議会とレーテ議会」という連載記事のなかで、カール・カウツキーは、「レーテはプロレタリアートの闘争組織であり、そして、それ故にプロレタリア的国家機関に成るべきではない」との見解を繰り返したのでした。彼はこのテーゼをすでに、1918年夏に彼の著作「プロレタリアートの独裁」のなかでロシア10月革命に反対して述べていたのでした。カウツキーは、「一刻も早くこの暫定的、不確実な事態は克服すべきであり、国民議会への選挙システムは、レーテの『不透明』よりも透明性が高く、それ故、明確な権力を持っている」と急いで助言したのでした。彼はこの助言で、革命の本質問題、権力問題を選挙の方法についての法律上の形式問題へとすり替えてしまったのです。
11月24日、ローザ・ルクセンブルグは、しかし、プロレタリアートは、「資本主義的私有財産制度、賃金奴隷制、ブルジョワ的階級支配の徹底した廃止と新しい社会主義的社会秩序の建設のためには、国家における完全な政治権力」を必要とすると反論したのでした。社会主義は議会の多数決でもって導入することはできないと述べたのでした。
11月革命の間、ローザ・ルクセンブルグの意見表明の中心に、すべての革命における基本的問題として権力問題を立てていたのでした。彼女の草稿「ロシア革命論」において、彼女は、常にその結果として、国民大衆が自ら自身の経験や党および各種労働団体を通じて意識的にかつ合理的な行動を身につけるよう指導すべきであると指摘していたのです。不断に彼女は、読者や聴衆に権力掌握と執行を求める根源的にしてかつ自発的な大衆行動は、国民によって行使することができなければならないと提案し説明してきました。そのような中心的要求は、とりわけ、「地方の労兵評議会の拡大と再選、それでもって、初期の混乱し、そして衝動的な成立時の事態を革命の目的、任務、手段を自明の理として自覚する過程へと転化していくこと、大衆の代表者たちの絶え間なき会議と、本来の政治権力を執行委員会と言う小委員会から広範な党員(Basis)による労兵評議会へ移行すること。直ちに、労働者・兵士からなる帝国議会を召集し、そして、全ドイツのプロレタリアを階級形成し、まとまった政治権力として発足させ、革命の所産の後ろ盾として、防衛軍そして突撃力として配置する。他の人々が賞賛する国民議会への選挙は、彼女にとって最も危険なレーテ権力に対する反対勢力であると看做していたのでした。彼女は数ヶ月前にレーニンの憲法制定議会の廃止を激しく批判し、そして議会経験の未熟なロシアには、より良い政治権力として憲法制定議会とソビエトの統合を薦めていた彼女が、今は、ドイツ革命において唯一労兵評議会のみを支持したのでした。
社会主義的民主主義の建設のなかにだけ成功の道筋があります。「今日、民主主義か独裁かが問題ではないのである。歴史的課題は社会主義的民主主義かブルジョワ的民主主義かということである。プロレタリア独裁とは社会主義的意味での民主主義である。プロレタリア独裁というのは、資本主義的利益の代理人が意図的に捏造するような、爆弾、クーデター、暴動、所謂無政府状態ではなく、すべての政治権力の手段を社会主義の実現と資本家階級の財産没収に用いることであり、その意義は大多数のプロレタリアートの革命的意志によるものであり、つまり、それが、社会主義的民主主義の本質である。」
探し求めている人には忍耐を、不安な人には戦いを、優柔不断な人は批判し、臆病で狡猾な人とは距離を置き、そして、革命の敵に対しては徹底した決別が、ローザ・ルクセンブルグの発言で際立っていました。彼女は、一人ひとりの労働者、兵士を強固に必死になって取り込む努力をしなければならないことがわかっていました。「文明化した世界の反動国家が、24時間で革命的国民国家に成ることはない。その証拠に、昨日、フィンランド、ロシア、ウクライナ、バルト三国において反動勢力の警察官となって革命的プロレタリアートを殺害した兵士と、そして、この事態を静かに傍観していた労働者が、24時間で、目的が明確な社会主義の推進者に成れるはずもなかったのである。」
しかしながら、ローザ・ルクセンブルグは、大衆の強固な革命的決断力と彼女自身のような、確固たる能力のある革命的指導者の信念を信頼していたのです。しかし、彼女の大衆との結合は十分であったのか? そして、革命の継続のための正しい決定についていくつかの政治的勢力との現実的なかつ十分な判断が可能であったのか? 疑念は当然です、と言うのは、スパルタクス団の支持者が少数派のままであろうからです。わずかな中心的メンバーには、毎日、支持者に革命的出来事についての情報を知らせるには、あまりにも荷が重すぎたのです。事件が次々に重なったため、お互いの了解が難しかったのです。誹謗そして中傷そして迫害キャンペーンに関する絶え間ない防衛が必要であったので、しばしば、まったく思想的余裕がありませんでした。しかも、献身的に出撃するすべてのスパルタクス団の中心メンバーそして多くの支持者は、集中した活動の安全を保障することができず、とりわけ、彼らは党のネットワークを通した支援がなかったのです。それにもかかわらず、立ち上がりの作業が成し遂げられたのでした。つまり、ベルリンの企業における革命的オプロイテとの連絡は存在していたのであり、青年の組織化も始まりそしてスパルタクスと合流したのでした。ローザ・ルクセンブルグのクララ・ツェトキンへの手紙のなかで、女性、そして女性運動の育成活動についての発言がありました。11月の終わりに、彼女はその友人に左派USPDのメンバーはスパルタクス団に対してSPD-USPD政府への原則的批判を期待していると書いていました。「彼ら(左派USPD)は、シャイデマン一派との不快な困ったつながりから早く自由になって、そして我々とともに前進することをどうやら憧憬しているようです。」
大衆への影響力の願いと、事実上の結果は、残念なことに、大きく分裂し、ぱっくりと口を広げていました。スパルタクス団は、革命の高揚期に生まれた組織、人民代表委員会、そして労兵評議会(レーテ)とは対立していました。革命の進展が上手くいかない主な責任は、ローザ・ルクセンブルグによると、SPDとSPDの指導者に特にあり、それは、彼らの政府機能は、革命の成果の拡大に力を尽くさなかったからです。彼らは、国民議会に投票するのであり、そのことは、この革命をせいぜいブルジュワ的民主主義共和国のレベルに固定化することが理解できていないのです。彼らは、どのように帝国の古い行政、そして司法機関に手を付けずに働き続けることができるのだろうか? ローザ・ルクセンブルグは憤慨していたのです。彼らは、死刑制度の即座の廃止すらできなかったのです。そして、彼らのスパルタクスに対する非難は、彼らをブルジョワ的反動の危険な共犯者にし、そのことは、革命を、ただ害するだけになるのです。
ローザ・ルクセンブルグの1918年~19年の革命週間中の思考と行動は、かつての多くの問題点と矛盾を明らかにしたのであり、彼女は、民主主義と党の理解について必死に取り組んできました。彼女は、自由、平等、そして友愛への要求の権利がどのくらい、高いものか知っており、そして、それは、彼女自身、ブルジョワ民主主義の下での、妥協なき資本と労働の対立を通して政治的にも社会的にも同権がすべての市民に保証されていないことを知っていたからです。中傷、迫害、非難あるいは、「保護拘束」を通して、考えを異にする人を締め出すのを彼女自身、身をもって体験してきました。また、ソビエトロシアにおいてすべての人に対しての無条件の自由、そして民主主義がユートピアとなり、彼女を大いに悲しませました。ローザ・ルクセンブルグは、それでもやはり、レーテ権力を限りなく支持したのでした。彼女の見解によれば、革命はブルジョワ民主主義を乗り越えなければならないが、しかし、忌避している弾圧手段を徹底的に否定なければならないのです。彼女の考えでは、ロシアよりドイツの方が確かに有利な前提条件が存在していましたが、しかし、この闘争は、労働運動の分裂の結果に苦しんでいました。ブルジョワ的民主主義制度を悪用する、革命の敵の巨大で巧みなやり方をあらかじめ阻害要因として想定しておく必要がありました。
1918年9月30日、ブレスラウ刑務所で、ローザ・ルクセンブルグは、ジュリアン・マルシュレヴィスキー(38)へ、怒りの手紙を書いたのです。「ドイツ国民が蜂起する前にすでに恐ろしいことが起こるに違いありません。しかし、その行方は、社会主義者にとってはスキャンダラスなものになる。つまり、最終的には、プロレタリアートの行動ではなく、またもや大砲、それもアメリカの大砲が、平和を押し付けるのです」。革命が起きた後、彼女は楽観的気分になるのです。彼女の見解によれば、ドイツの、とりわけ労働運動においても広く伝わっている議会幻想に対して闘うことが重要でした。「ブルジョワ階級が一世紀の間、悪用してきた言葉を歴史的行動で、実践的に批判することが重要である」と彼女は、1918年12月17日付け「赤旗」に書いています。「1789年、フランス・ブルジョワジーから宣言された自由・平等・博愛は、ブルジョワジーの階級支配を撤廃することによってのみ初めて真実の物となるのである。そして、こうした行動を助ける最初の手続きとして、全世界と世界史的世紀において、これまで平等とされてきた権利(同権)、つまり民主主義、具体的には国会、国民議会、平等な投票用紙はイカサマであったと記録することである。労働者・大衆が資本主義粉砕のための革命的武器としてその手に完全な政治的権力を握る事が本当の同権であり、本当の民主主義である!」
ローザ・ルクセンブルグは、20年前にベルンシュタインの改革努力に関する過度の強調に対して激しく反論してきました。同時に、彼女は、社会の民主化への改革をめぐる精力的闘いに、建設的に味方し、そして、とりわけ、それ故に政治的大衆ストライキ(マッセンスト)を有効な圧力手段として支持したのでした。今や、彼女は、革命が改革を通じて終息させられることを経験しなければならなかったのです。彼女は、究極の目的として社会主義的民主主義を宣言したのでした。そのために、多数派をいつ、どのように味方につけるかについては、彼女にとってもかなり曖昧でした。
ローザ・ルクセンブルグは、革命勢力が分散して浪費している事、そして、多くの労働者そして兵士の行動意欲が衰えている事実をつくづく見て取ったのです。それにもかかわらず、彼女は、さらに大衆を政治的成熟過程へ持っていくことに大きな期待をし、大衆への無条件の信頼を通じて自分と自分の同志に行動をするための力を与えるように努めたのです。1918年12月1日ベルリンにある教職員会館において、「スパルタクス団は何を欲するのか?」という題で、彼女は、6回行われたスパルタクス団公開集会の一つで話をしました。彼女の細かい説明に続いてより長い討論へとつながっていきました。約3,000人の出席者は、わずか3人の反対意見を除いてローザ・ルクセンブルグの演説に同意する決議を表明し、そして、国民議会召集に反対の意見を述べたのでした。彼らは次のように要求したのでした。「労兵評議会に完全な権力を明け渡し、その(レーテ)第一の責務は、労働者階級と社会主義の裏切り者であるシャイデマン、エーベルトそして将軍を政府から追放し、勤労国民を革命の防衛として武装させ、そして社会の共有化のためにあらゆる精力的な断固たる対策をとることである」。彼女は、そのような反応から過度な楽天主義になり、次のように結論づけたのでした。伝統的なSPDそしてUSPDを支持する大衆を、これにより彼女とカール・リープクネヒトが指導するスパルタクス団へと方向転換させ、そして、それと同時に、またUSPDがより強く左派の影響力に入るとしたのです。こうした困難な闘いのなかで、彼女はより明確な綱領とカリスマ的中心人物による決定的効果を期待しました。革命の客観的条件と主体的条件の間の緊張関係、たびたび変わる大衆のメンタリティーと自発性、人民代表委員の会議、労兵評議会の執行評議会そして様々な労働者党と団体の相互に矛盾した態度は、しかしながら、個人的参加を通じての組織化によっては、ほとんど影響を及ぼさなかったのです。
11月終わり、ドイツ社会主義青年同盟中央機関誌「若き親衛隊」は、ローザ・ルクセンブルグに12月4日号の記事を依頼したのでした。彼女は、そのなかで青年労働者へ訴える決心をしたのでした。「今や、すでに、彼らは、人類の未来の担い手として、その大きな任務に応えることができるのは明らかである。それは、完全に古い世界を打倒することであり」と彼女は書き、「そして、完全に新しい世界を建設することである」。この革命の間、日々、労働者階級にとって社会の変革は、非常に困難な、そして時間のかかる仕事であり、その解決には、危険な抵抗を伴うことを考慮に入れなければならないということが明らかになったと述べています。さらに、資本主義的な人を駆り立てる方法によらない経済、科学技術、高い労働生産性と言った「社会全体の為の思想」は、直接的な革命的反乱よりも、生み出すのにより困難であると述べたのでした。しかし、一つが次を引き起こすと、ローザ・ルクセンブルグは、記事のなかで強調し、「社会の社会主義化」と表題を付けたのでした。「怠惰で、軽率で、利己的で思慮の無い、そして無関心な人々には社会主義を実現する事はできないのである。社会主義社会は、常に情熱に満ち溢れ、そして、みんなの幸せに感動し、友愛と犠牲的精神に溢れ、そして、同胞に対する共感、勇気に満ち、そして、粘り強く最も大きな困難に命を賭ける人々を必要としているのである。(中略)私たちは今日の革命の優れた戦士を広く集めることによってあるべき新しい秩序の基礎となる将来の社会主義的労働者を作り出すのである。」
大混乱
1918年12月初め、より一層に封建的で軍国主義的な集団が指導的な反動将校の下で義勇兵部隊として徒党を組み、そして、彼らは良心の呵責なく、残忍な方法で革命的前進と反乱に反対して流血の鎮圧をするような、反革命の反撃が現れたのです。街頭の広告塔、壁、家の側面にますます頻繁に、国粋主義的そして、反ボルシェビキ的な酷い中傷のスローガンが突然に姿を現したのです。
例えば、ある宣伝用には次のように書かれていたのです。
「カール・リープクネヒト、レヴィ何がし、口の減らないルクセンブルク、奴らは、万力台や作業台の前で働いたことはないくせに、我々と我々の父たちが夢見ていたものを、破滅させようとしているのだ。すでに、ブルジョワジー、財閥、そして、ついに廃止となった軍部の陣営は動揺している。そして、もし、一流ホテルだけの住人である、カール・リープクネヒト殿や、同様に自発的に動員された反動の手先どもの有害な手段を、大至急鎮圧しないと、我々の真っ当で、そして正当な希望が簡単に葬り去られることになる。例え、トロツキー、ラデック、ヨッフェ、リープクネヒト、レヴィ、ルクセンブルグのボリシェビキ主義が平和を妨げていようとも、我々は、もはや、餓死するわけにはいかないのである。 |
12月6日、反革命主義者の一隊が、最初の反乱の試みを企てたのでした。エーベルトを共和国の大統領として告示し、そして、労兵評議会(レーテ)執行部の逮捕を要求したのでした。街頭で非武装のデモが銃撃されたのでした。「赤旗」編集局が襲われたとき、ローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトは、プロイセン内務省においてUSPDの指導団体の会議に出席していました。スパルクス団は、ただちにその翌日に大規模な抗議デモを組織したのです。ローザ・ルクセンブルグは、驚きそして怒りを覚えたのでした。彼女は、ヴィリー・ブディヒ(39)の容態を心配し、問い合わせたのですが、彼は、スパルタクス団本部のメンバーであり、赤い兵士団の指導者でもあり、この銃撃のとき、街頭で重傷を負ったのでした。彼女は、彼が生きているという非常に嬉しい通知を受け取ったのです。「『私の財布は何処?』とローザ・ルクセンブルグは、興奮し大声で叫んだのです。それは、言うまでもなく、いつもの机の中にあったのです。彼女は、財布の中から唯一持っていた20マルク紙幣を取り出し、私の手に愛情を込めて押し付け、喜び、興奮に満ちて『彼の花を買って!』と言ったのです。何ということでしょう。私は現実的人間でした」とロッテ・プロヴァカは述べています。「当時はお金がなかったです。そこで、尋ねたのです。私がそのうちの一部を赤ワイン1本か何かを買ってもよいでしょうかと。『もちろん、必要なものは買いなさい。再び元気にしてあげなさい。我々は彼を必要としている』とローザ・ルクセンブルグは言ったのです。私は、ローザ・ルクセンブルグのこれらの依頼を実行したのです。」
この反乱の試みは、USPD-代表者にとって政府における立場を明確にすべきときであることを立証したのです。もはやスパルタクス団支持者だけでなくゲオルク・レデブーア、そして他のUSPD左派メンバーもUSPD人民代表委員の多くの犯罪的な怠慢を非難し、そして、エーベルト、シャイデマン政府から脱退することを要請したのでした。「12月6日反乱の時」ローザ・ルクセンブルグは、大ベルリンでUSPDの臨時連合通常大会で、次のことを明らかにしたのです。「エーベルトそしてヴェルス(ベルリン地区司令官)の手に繫がるすべての反革命勢力が合流しているのである。すべての将校と将軍たち、とりわけレクイスそしてヒンデンブルグは政府の立場に立っており、そして、ハーゼは、我々に政府は社会主義的政府であると言っている。政府のこうしたやり方は、まさに、プロレタリアートを動揺させている。12月6日の後、USPDは、政府を脱退すべきであり、彼らは今回の事件の責任を認めないに違いない、そして、大衆を目覚めさせて彼らに革命が危機であると伝えるべきであった。そうならなかったことによって大衆を寝づかせ、そして催眠政治の継続が、今日のハーゼの演説であったのである。
ローザ・ルクセンブルグは、スパルタクス団のなかでUSPDの内部で、そして、彼女の聴衆あるいは読者に対して明確化を求めて闘ったのです。「スパルタクス団は何を欲するのか?」という問いかけの下で彼女はスパルタクス団の綱領の草稿を書いたのですが、それは、11月28日、カール・リープクネヒトとの一致した指導原理であったのです。その綱領は、12月14日の「赤旗」で公表されました。わずかな革命週間の間に究極の搾取階級としての帝国主義的ブルジョワジーは、その役割を果たし、彼らの利益と搾取の特権のためには野蛮で、そして下劣さにおいて彼らの前任者をはるかに凌駕したのでした。彼らはプロレタリアートの運動に対抗するためなら何でもするでしょう。
「彼らは農民階級を都市へと移動させ、時代遅れの労働者層として社会主義的先駆者に対抗すべく扇動し、将校等とともに大虐殺を引き起こし、幾千の消極的抵抗手段を通して社会主義的措置を麻痺させることを模索し、20人のバンデーン(スラブ系ならず者)を革命の首筋を摑まえるようにけしかけ、外敵であるクレマンソー(40)、ロイド・ジョージ(41)、そしてウイルソン(42)匕首を国内へ救世主として呼び込むのであり、敢えて言えば、彼らは、自主的に賃金奴隷制を放棄する位なら国を瓦礫の山にするだろう。」
ローザ・ルクセンブルグは、最近の経験から暴力について率直に自分の意見を表明するのでした。
「資本家が、国会や国民議会の社会主義的審判に素直に従ったり、彼らが財産、利益、搾取の特権を平穏に放棄したりすると考えるのは、ばかげたことである。すべての支配階級は、しぶとく精力的に戦って、死ぬまで彼らの特権を持ち続けるのである。これらすべての抵抗は、鉄拳で情け容赦なく精力的に打ち砕かなければならない。ブルジョワ的反革命の暴力には、プロレタリアートの革命的暴力で立ち向かわなければならない。ブルジョワジーの襲撃、陰謀、策略に対しては不屈の明確な目的とプロレタリア大衆の警戒心そして常に断固たる行動で立ち向かわなければならない。反革命の切迫した危険に対しては国民の武装、そして支配階級の武装解除で立ち向かわなければならないのである。」
この表現は、ローザ・ルクセンブルグが以前から相変わらず風評として言われていたような赤色テロルを突然支持したのではありません。逆に彼女は、リンチ・殺人そして他の人命を無視するような方法を原則的に拒否していたのです。正しい目的であってもこうした手段を正当化することはできないし、社会主義的考え方を著しく害することになると述べていました。プロレタリア革命は、その目的の実現の為に流血の惨事やテロや暗殺を必要としないとも述べています。
反革命は、労働者階級に階級闘争の形成を準備することを強いていました。「全体的に働く国民大衆の革命課題に答える完全な政治権力の装置(手段)は、プロレタリア独裁でありそれが本当の民主主義である。資本家のすぐ横に賃金奴隷がいて、農業労働者のすぐ横に不誠実なユンカーが対等にいるような国会で、彼らの死活問題を議論するのではなく、幾百万のプロレタリア大衆が彼らの、タコのある拳に完全に国家権力をつかむ事、つまり、トールの神(北欧神話)が支配階級にハンマーを叩きつけることによって民主主義が実現し大衆欺瞞がなくなるのである。」
25項目にわたって彼女は、スパルタクス団が即座に要求すべき政治的社会的経済的そして国際的分野における革命の防衛対策を要約したのでした。そのなかで、最も重要なことは次のことである。反革命勢力の武装解除と労働者国軍として国民の武装、そして精鋭部隊 として、赤い親衛隊を創設し、革命裁判所を指名し戦争責任者と反革命のすべての共謀者を厳しく裁くこと、ドイツ社会主義共和国の統一を成し遂げること全権力をレーテへ集中すること労働時間の短縮の立法を行いそして食料品、住居、教育制度の根本的改革を行うこと、即座に外国の友党と連絡を取り社会主義革命の国際的基礎を築きそして全世界プロレタリアートによる平和を作り上げそして守ることであるとしたのです。彼女は、経済について次のように要求したのです。
1. 王家の全ての財産と収入を社会のために没収すること。
2. 国その他の公的負債、同様にすべての戦時国債の無効宣言、ただし、労働者、兵士レーテの中央評議会を通じて決定した程度の公債引き受けを除外する。
3. すべての大中企業による農場の土地収用、つまり、帝国全体の統一的中央管理下での社会主義的農業協同組合の形成、それは、農業の小規模経営は残し社会主義的協同組合への併合は自由意志とする。
4. 全ての銀行、鉱山、製鉄所およびすべての工業および商業の企業をレーテ共和国を通じて没収する。
5. 中央評議会の決定を通して定められた以上のすべての財産を没収する。
6. レーテ評議会を通して全ての公共交通機関を承継する。
7. すべての企業における企業レーテの選挙、それは、この選挙で労働者レーテと協調することによって企業の内部問題を整理し、生産物を管理し、そして最終的には企業経営を担うべきである。
8. 中央ストライキ委員会の任命、これは、企業レーテと常に協力して全国でストライキ運動が始まっときに統一的な指導と社会主義的方向性と労兵評議会(レーテ)が保障すべき政治的力を通じた力ある支持を与えることである。
カール・ラデック(43)が後に報告するところによれば、スパルタクス団の指導的メンバーがローザ・ルクセンブルグの草稿を合意しつつ討論したものでした。
ローザ・ルクセンブルグが公表した「赤旗」の「スパルクス団は何を欲するのか?」が出された翌日、「自由」では、この綱領は、「狂信的夢物語」であり、ブランキズムに行きつく危険な傾向にあると見られていたのでした。1918年12月15日、ローザ・ルクセンブルグは、大ベルリン地区のファールス会館でUSPDの臨時総会が開催され、そこで綱領の説明をすることに成功したのでした。彼女はエーベルト・シャイデマン政府からUSPDの代議員は脱退し国民議会の招集を拒否し労兵評議会(レーテ)への全権力の引継ぎ、そしてUSPD党大会の即座召集を要求する決議文を提起したのでした。しかしながら、提起された彼女の動議は195票だけでした。それに対してルドルフ・ヒルファーディング(44)からの動議、つまり国民会議への選挙を成功させることについては485人の代議員が支持をしたのでした。
次の日、12月16日にベルリンでの第一回全国労兵評議会(レーテ)大会が始まり、489人の代議員が参加しました。スパルクス団10人の代議員の中には、フィリッツ・ヘケルトそしてオイゲン・レヴィネがいました。ローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトは議席が無かったのです。「塹壕の上へ」、「赤旗」紙上でローザ・ルクセンブルグは彼女の大会へ向けた論文にこのような表題を付けたのでした。彼女は新たな切迫した反革命を警告し、そしてエーベルト・シャイデマン政府が大衆の革命的エネルギーを奪いそして、それでもって革命の敵を援護していると非難したのです。「この『社会主義』政府はいったい何ということをしでかしたのか! 日々、公布、公布、それは古い官庁組織を元の状態に修復することであり、それは、公布によってすべての追放された郡長そして警察本部長そして市長を元の状態に戻したのである。私有財産は侵害できないとする公布、階級的差別判決の機関である裁判官を独立したものとして宣言し、しかもそれに加えて階級的差別判決に許可状を与える公布、今までの税金支払いを命令する公布、nulla dies sine linea,(ラテン語)(※公布のない日はない)それは、今にも崩れ落ちる脆弱な資本主義的支配の建物から落ちる石ころを再び堅く築く様な公布である。」
少なくとも二回まで表決権をローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトに認める提案がなされました。しかし、両方の提案とも代議員のSPD多数派によって否決されたのでした。第1回全国レーテ大会のカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグの提案に対する態度は、スパルタクス団に対して全国レーテ大会に大衆デモを呼びかけさせるしか選択の余地が名井ものでした。25万人のベルリンの労働者、兵士が大会会場となったプロイセン議会の前に現れたのです。カール・リープクネヒトがデモ参加者に演説した後、大会で革命的勢力の要求を説明する代表団を派遣したのでした。
その代表団は会場に強行入場したのですが、しかし、SPDの右派執行部は絶対的多数派の勢力でこの大会を維持し彼らの政治を貫徹したのでした。12月18日、この大会で「別の統制までの間、国民議会を通して立法そして行政権を国民信託評議会」に移す彼らの提案を承認しました。「ドイツそしてプロイセン内閣の議会監視」の為に労兵評議会(レーテ)の中央評議会を指名したのですが、ただ単に政府の重要法案に対する助言だけの権利しか持っていなかったのです。この中央評議会は唯一SPD党員のみが選ばれたのでした。その事によって根本的な問題である「国民議会か評議会(レーテ)制度か?」については、国民議会そしてブルジョワ民主主義に有利なように決着したのでした。「革命家の『大通り』のロックアウト、労兵評議会(レーテ)の政治力の無効宣言、国民議会の召集、12月6日一派の独裁的暴力は、今日の状況からして、ブルジョワジーにとってみれば願ったり叶ったりではないのか?」とローザ・ルクセンブルグは、「赤旗」紙上にレーテ大会について書いたのです。したがって、この革命は、最初の未熟な段階を踏み越えることができなかったのであり、「資本主義か社会主義か?」という問題に実際に答えることができる前に困難なそして時間のかかる闘争が立ちはだかっていると述べています。
革命は正々堂々と
ローザ・ルクセンブルグとスパルタクス団の悲劇は、彼らが大衆の意思と準備を見誤ったことにあるのです。4年間の戦争の後、大方の人々は平穏に労働し、安心して住み、そして、まともな食料を得て、そして着るものに困らないことを望んだのでした。彼らは、大きく前進する革命が新たな流血となり混乱と不安へと導く事を恐れていたのでした。反革命勢力によってボリシェビキ政権下のロシアの恐ろしい知らせが広く伝播され多くの市民の不安が増大したのでした。ローザ・ルクセンブルグは、人々の意思に支えられた住民の多数派によって担われる革命のみが成功を約束されると、心の底から確信しており、独裁的手段による少数派の反乱を厳しく拒否していたのですが、彼女の人生の理想に照らして、大衆的基盤を見出せなかったのです。12月中旬での全国レーテ大会の事件において彼女が討論会に出て、活動家たちである出席者に彼女の革命に対する意見を説明することが閉ざされてしまったのでした。絶望した彼女は、スパルタクス指導部とともにUSPD執行部へ党大会を召集するように働きかけることを試みたのでした。12月22日に、ウイルヘルム・ピークは、スパルタクス団の指導部の指示であらためてUSPD執行部へこの要求を再度したのでした。ローザ・ルクセンブルグは、12月24日付け「自由」を読んで精神的ショックを受けたのですが、そこには、USPD執行部が1919年1月19日の国民議会選挙前の党大会に完全に反対したと述べられていたのです。ベルリンの状況は、ますます先鋭化していることを、彼女は、その翌日、クララ・ツェトキンへ知らせ、そして、エーベルト・シャイデマン政府との関係のみならずUSPDの内部との関係も同様な状況にあると考えたのでした。「党は、完全に解体です」と彼女は述べたのです。「シュトレーベル、ハーゼ、ボック!『自由』は『左翼への境界』をあからさまに要求している。他方、USPDとシャイデマン政府は、地方で融合の真っ最中である」。しかしながら。「解体」あるいはUSPDの退廃については、実際は間違っていたのですが、それは、ローザ・ルクセンブルグが間違った推論に陥っていたからです。
12月25日、彼女はブレスラウ刑務所から解放されて以来、ベルリン南端地区の彼女の住まいにある事務机の前に始めて座っていました。「どんなにか貴方の所へ飛んで行きたい!」と彼女はクララ・ツェトキンに書いています。「しかし、それについて発言できないのです。というのは、私は、編集に鎖で繋がっているからです。そのために早朝からほぼ毎日、会議そして相談その間に集会、そして気晴らしに2、3日ごとの『当局』からの至急の警告、これはカール(リープクネヒト)と私を人殺しのならず者が待ち伏せているというもので、そのために我々は家で寝ることができずに、毎夜どこかに宿泊所を探さねばならなくなるのですが、その後、軽率なことと判明して私は南端地区の自宅へ再び帰ったりします。そうして、私は騒動と異端者狩りの中で初めから住んでいるのでまともに物事を熟考することができません。」
12月24日、反革命部隊が人民海兵団を攻撃し、そして城と厩舎で新たな大殺戮を引き起こしたのです。それに対して約3万人の労働者と兵士が最初の休日(祭日)に抗議したのです。怒ったデモ参加者は「前進」社屋を自発的に占拠したのです。「そのなかに18丁の機関銃と装甲車が隠されていたのが判った」とローザ・ルクセンブルグは遠い女友達に伝えたのでした。彼女は大至急再びこの街に行かなければならないのと言ったのです。いつもそうでした。彼女は、それ以上に自分が如何にあるべきかをじっくり考える時間がありませんと述べています。「C’est la r’evolution(これが革命である。)」
12月27日「赤旗」は帝国議会へスパルタクス団を召集したのです。スパルタクス団の中央指導部は、USPDの危機、ローザ・ルクセンブルグの綱領作成作業、国民議会、そしてベルンでの社会民主主義政党の計画されている協議会についての意見を述べるつもりでした。ローザ・ルクセンブルグは、12月29日、「赤旗」のなかで、スパルタクス団はエーベルト・シャイデマンの人々そしてUSPDから破滅の淵で分離してしまっていると述べています。「彼らは、政治的に革命にとっても、プロレタリアートにとっても用済みである。(中略)革命は、中途半端ではなく、妥協のない、陰謀もないそして卑屈でもない、つまり、革命は正々堂々としたものであり、明快な基本方針、断固たる勇気、身命を賭した人間を必要とするものである。今のこの革命は、まずは初期段階にあり、大きな視点を持ち世界史的問題を克服し、確実な指針を持たなければならない。それは、闘争の各段階においてそれぞれの勝利とそれぞれの敗北を通して迷うことなき偉大な目的を指し示すことである。つまり、その目的とは社会主義世界革命であり、資本のくびきから人間を解放する為のプロレタリアートによる情け容赦の無き権力闘争である。この指導的指針、この前進的くさび、つまり革命のプロレタリアート的、社会主義的酵母の存在、これこそが現在論争となっている二つの世界の中にあってスパルタクス団特有の使命なのである。」
ベルリンのプロイセン議会ホールにおいて、この日、代表委員つまり赤い兵士団の代表、青年の代表、そして来賓が、ヴェルナー・ヒルシャー、レオ・ヨギヘスそしてカール・ミュンスターらの3票の反対を除いて、非公開会議のなかで、独立社会民主党から分離して自分たち自身の政党を設立することを決定したのでした。ローザ・ルクセンブルグは最後までこの決定をためらっていたのでした。しかしながら、革命の経過についてのUSPDとの批判的論争における解決の可能性がないように思えたことにより、彼女は合意したのでした。
1918年12月30日、ドイツ共産党の創立党大会としてスパルタクス団全国代表者会議が発足しました。この党の命名については意見が分かれていたのでした。ローザ・ルクセンブルグもまた、前日まで「社会主義労働者党」を支持していたのです。カール・リープクネヒトとヒューゴ・エバーラインの報告と再度の討論の後、党名をフリッツ・ヘッカートが提案した「ドイツ共産党」(KPD)に決定したのでした。
その党大会の議長として、ウイルヘルム・ピークとヤコブ・バルヒャーが選ばれました。議題は6点ありました。
1. USPDの危機、報告者:カール・リープクネヒト
2. 国民議会、報告者:パウル・レヴィ
3. 我々の綱領そして政治情勢、報告者:ローザ・ルクセンブルグ
4. 我々の組織、報告者:ヒューゴ・エバーライン
5. 経済闘争、報告者:パウル・ランゲ;国際会議、報告者
6. ヘルマン・ドウンカー、エルンスト・マイヤーが代表者と来賓に挨拶をし、そして、実際の会議が始まる前に、健康上の理由から出席できなかったフランツ・メーリングとクララ・ツェトキンに電報を送ることを決定
カール・リープクネヒトは、最初の討論の日にUSPDから組織を分離することの詳しい必然性を挙げ、それは、彼らが革命的大衆行動を指導するには、彼らの理論と実践が無原則であると理由づけたのでした。彼は、激しく告発したのでした。「彼らは、11月9日以来エーベルト・シャイデマンと共同行動し、それとともに2つのことを行っていたのである。彼らはまずはじめに、エーベルト・シャイデマンにとってイチジクの葉として役立ったのである。彼らは、協調のイメージづくり、つまり、協調のスローガンを代行し共同行動を通して多数派社民党との協調である。彼らは、USPDの政策と多数派社民党との間における大衆の違和感を端的に言ってぼかしたのである。彼らは、イチジクの葉としてエーベルト・シャイデマンに使われただけでなく、完全に反革命であり、彼らはシャイデマン・エーベルト両氏の秘密の代理人そして同志なのである。」
ヒューゴ・エバーラインは、この党大会は、「我々は今まで選挙クラブのような存在であったが、」むしろ、「将来において、我々の目的を現実化するような戦闘的組織にすべきではないか? もしそうだとするならば、我々は初めからすべて脱退し、これまでの組織的基盤を前提として、土台を新たに築き上げることから始めなければならない」。このことを決定すべきであると宣言したのでした。
最後に党設立の後、ロシア・ソビエト共和国の代理人としてのカール・ラデックが言葉を引き継いだのです。彼は、十月革命の経験に関して語り、ロシアとドイツのプロレタリアートとの親密な闘争同盟を守ることを保証し、そして、共同闘争の伝統を指摘したのでした。「あなたたちはロシア革命の模倣者と言われ、ソビエトロシアの代理人と言われている。その模倣に関して言えば、ロシア革命は、ドイツの労働者国民に関して極めて多くを学んでいるのである。そして、目下我々がロシアで実現しているのは、全世界の労働者階級の利益を代表するマルクスとドイツ共産主義の偉大な純粋教義とまったく同じものである。我々の指導、評議会システムの思想(考え方)は経験によって成長してきたのである。しかし、それは、今後の労働者階級の闘争を作り出すことを通しての大論争、つまり、戦前ドイツ労働界を動かした様なものが我々の思想を育てるのであり、そして、ロシア共産党は、あなたたちの精神的指導者として働いているローザ・ルクセンブルグとともにさらに同盟状態にあることが誇りである。あなたたちは、ボリシェビキ的ロシアの代理人として罵倒されているけれども、それは、我々が、資本主義のくびきから労働者国民を解放すると言う事実に立った共通の代理人であるからである。」
カール・リープクネヒトは、カール・ラデックに感動的言葉をもって感謝しました。ローザ・ルクセンブルグは、12月20日エドアルド・フックスにレーニン宛手紙を手渡し、そこには、「私たちの家族」つまりスパルクス団からの心からの挨拶と願いを伝えたのでした。「神よ、来年こそは全て我々の望みを叶えて下さいますように」。彼女は、党大会で彼女がつくった綱領の研究報告、国民議会選挙への参加についての討議、そして、経済闘争と労働組合の役割についての討議の3点について発言したのでした。
彼女の綱領演説は、嵐のような拍手で承認されたのでした。彼女は、ヨーロッパにおける偉大なブルジョワデモクラシー革命とドイツ社会民主主義の歴史についての展望とともにプロレタリアートと彼らの党の現在、そして未来の使命(課題)に対する深い理解を代表団に伝えたのでした。「我々は、再びマルクスの下にあり、彼の旗の下にある」。今や(次のことが)明らかになるのです。「本当のマルクス主義は何か、そしてこのマルクス主義の代用品は何か(聴衆 異議なし)この代用品は長い間ドイツ社会民主主義による公認のマルクス主義としてのさばってきたのである。あなた方は、このマルクス主義の代理人が今日では、エーベルト、ダビットそしてその一味の横そして脇で世話役になっていることがわかるだろう。そこで、我々は、人々や我々に数十年間、真実、純粋なマルクス主義として詐称された教義の公認代理人を見るであろう。違うのである、マルクス主義は、シャイデマンと一緒に反革命政治を行っているあちらへは導いていないのであります。」
実際は、政治的力関係として存在した1918/19年の変わり目における反逆にもかかわらず、彼女は、プロレタリア世界革命の幻想に固執するのでした。「巨大な70年の資本主義の発展は、我々に今日、本気で世界から資本主義を叩き出すことをやり遂げるように仕向けるのに十分であった。さらに進んで、我々は、今日、この任務を果たすための能力があるばかりか、それは、我々のプロレタリアートに対する責務であるばかりではなく、その解答は、今日一般に、人間的社会の存続の為の唯一の救済である。」(明確な賛成)
同時に、彼女は、ドイツプロレタリアートの歴史的使命は、一度きりの革命的行動で果たせるものではないことを強調したのです。党は、すべての労働者階級に一歩ごとに彼らの歴史的課題(使命)を指摘し、革命の各段階において社会主義の究極の目的と、そして、同時に全ての民族的利害関係において、プロレタリア国際主義による利害調整を代行(務める)する責務があるとしたのです。
労兵評議会(レーテ)の形成は、ローザ・ルクセンブルグにとって民族的特殊性にもかかわらず全般的に妥当な目標であったのです。「我々は確実に言うことができる」とローザ・ルクセンブルグは述べるのです、「ドイツに続いてどの国でも、プロレタリア革命が最初にやるべきことは、労兵評議会(レーテ)の形成にある」(異議なし!)。ローザ・ルクセンブルグは、労働者が力関係を見誤ることつまり自覚しつつ騙されることのなかに革命の危機を見たのです。その証拠に、エーベルト・シャイデマン政府は、権力と社会経済的関係の根本的変化なしに社会主義政府として登場しているのです。「社会主義化」とは、1891年エアフルト党大会以来の社会民主主義に関する明白な目的は表向きであって、事実は、新しい方法をもって古い権力関係の復活が始まったのでした。
レーテ体制に断固として賛成した多くの人々は、現実に権力を改造する能力は無く、自己欺瞞に陥り、無力であることが証明され、非常に早く影響力の機会を奪われ、そして、彼らは、政府機関に重要な決定事項に関して出し抜かれていたのでした。「我々はまずその点で、大衆を教育しなければならない」とローザ・ルクセンブルグは強調し、「と言うのは、労働者そして兵士は、全ての方向性に関する国家機関の推進力(要)である。つまり、労兵評議会が権力を担うべきでありかつ、労働者大衆がこの社会主義的大変革の航路を指導すべきだからである。その意味で、また当然にも、自らの明確な任務を自覚した個別的なプロレタリアの小さな少数派を除いて、現実に労兵評議会に組織されている労働者大衆は、かなり程遠いものだからである。」ローザ・ルクセンブルグは、この自発的な最初の蜂起そしてこの評議会(レーテ)運動を政治的革命と言う概念の下にまとめたのです。
彼女は、党がエーベルト・シャイデマン政府の崩壊と「明白な社会主義的プロレタリア的革命政府」へと大衆を指導するには「残念ながら、我々はこの政府の崩壊を通じて社会主義の勝利を保証することができない。」と言って、難しいことを認めたのでした。労兵評議会連合(レーテ)は、ブルジョワ国家を掘り崩しそして、公権力すなわち立法そして行政を担うべきであると述べたのでした。そのうえで、すべての国家権力を労働者評議会連合の下に置くよう努力すべきであると述べたのです。今なさなければならないことは、そうしたことを目指してエーベルト・シャイデマン政府の影響力をプロレタリアートの革命的経済的闘争を通じて一歩一歩、徐々に破壊して行く事にかかっていると主張していたのでした。
ドイツにおいて11月終わりに勃発したストライキ運動を通してこの革命はさらに高められました。ローザ・ルクセンブルグによれば、このストライキは、ドイツ帝国主義の崩壊と短期間の労働者と兵士の政治的革命の経験による資本家側の激震に対する大衆の回答であった。ドイツにおける資本家と労働者間、これらの全面的対決の解決は、ただ賃労働関係の廃棄と社会主義経済の導入しかないのです。
しかし、農業社会抜きに社会主義を実現するつもりであればそれは幻想となるであろう、と言うのは農業社会を組織化し社会主義的に直接統合させなければ、工業はまったく改革できないからです。さもなければ、農民階級は、反革命勢力の予備軍にとどまるのです。それ故に党は、「ただ、労兵評議会システムを強化するだけでなく農業労働者と小作農民にもこの評議会連合(レーテ)システムを導入する」ことであると、ローザ・ルクセンブルグは要求したのでした。ドイツ労働者階級は、革命の間、打ち寄せた反ボリシェビキの非難の波に直面して、彼女は、力を込めてボルシェビキから革命のイロハを学んできたことを決して忘れてはならないと促したのでした。「ロシアからあなたたちは、労兵評議会(ソビエト)を持ってきたのである。」(その通り!)
彼女の綱領発言の後に提出された決議文は、満場一致で受諾されたのでした。党大会は、エーベルト・シャイデマン政府は、ドイツプロレタリアートの仇敵であり、それはドイツ軍がバルト三国の貴族とイギリス帝国主義と一緒になってロシア革命へ備えているからであると表明したのでした。
ローザ・ルクセンブルグの講演の後にとりわけ党の革命戦術と社会主義社会の形成についての討議がなされました。1918年12月31日の午後の会議において議事日程について閉会の挨拶に、ローザ・ルクセンブルグは出席する力がありませんでした。彼女の報告は、党大会で原則的に賛成を得ました。その結果、すべての提案と意見は、選挙された25人の代議員の委員会に委ねられたのです。その委員会は、次の党大会までに党綱領の全ての問題そして組織規約の大枠について協議するように求められていたのでした。
アジテーションパンフレットとしてローザ・ルクセンブルグの演説を出版すると言う16人の代議員による党大会の動議を決定したのでした。パウル・フレーリッヒそしてオットー・ルーエは「アウグスト・ヴィニッヒ(45)裏切りについて」と言う一節、そしてロシア革命の敵のために下僕として働いていることを論じ、ビラにして広く知らせる動議をしたのでした。また、これら動議は党大会で承認されたのです。
1月9日に開催される国民議会選挙への参加についての討論において、ローザ・ルクセンブルグ、カール・リープクネヒト、パウル・レヴィ、ロベルト・ゲルク、ケーテ・ドウンカー、フリッツ・ヘッカー、ウルリッヒ・ロック、ヴェルナール・ヒルシェ、そしてカール・ミュンスターは、KPD(スパルタクス団)の国民議会選挙参加への代議員多数派獲得ができなかったのです。62人の代議員は、中央本部も国民議会は反革命の旗印であるとみなしているのですが、それにも拘らず、選挙戦と国会活動は、彼らの意見を広めそして、大衆的影響力の掘り起こしに役立てるのに必要であると言うことに対して反対したのでした。彼女は、最も多くの男たちそして女たち、そして、革命を通して、そもそも始めて選挙権を戦い取った、特に女たちにとっては、選挙のボイコットは、理解できないと見て取ったのですが、しかし、彼女は、代議員の多数派を説得することができなかったのです。
しかしながら、この大衆の意思とスパルクス団の新しく設立された党の革命概念との間の大きな亀裂を、誰一人気づかずまたローザ・ルクセンブルグも気づかなかったのです。したがって、彼女は、彼女の党綱領の仕事を革命綱領として看做しており、そして、わずかでも大衆的影響力拡大の可能性がある目下の現実的情況に一致した行動綱領を持っていなかったのです。数週間後に国民会議への選挙においてほぼ1,400万人の女性、男性市民、すなわち、ドイツにおける全有権者のほぼ50%がSPDとUSPDに投票したのでした。KPD(スパルタクス団)は登場しなかったのです。反対2票で、スパルタクス団中央本部のメンバー、ヘルマン・ドウンカー、ケーテ・ドラッカー、ヒューゴ・エバーライン、レオ・ヨギヘス、パウル・ランゲ、パウル・レヴィ、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルグ、エルンスト・メイヤー、ヴィルヘルム・ピーク、そして、アウグスト・タルハイマーは12月31日に党指導部として信任されたのでした。スパルタクス団と一体となったドイツ国際共産主義者の代表者として、パウル・フレーリッヒが中央本部のなかに選ばれました。
ローザ・ルクセンブルグは、その結果に満足でした。国民議会選挙に参加しないと言う決議は、彼女を落胆させはしなかったのです。1月11日に彼女は、その決議にショックを受けたクララ・ツェトキンに次のように書いたのです、「我々の『敗北』は、何か子どもっぽい未熟で生真面目なラディカリズムの大勝利であった。しかし、これはただ会議の始まりにしかすぎないのです。会議が更に経過すると、我々(中央本部)と代表団との間のつながりが確かなものになり、そして、私は研究報告のなかで選挙参加問題を再び取り上げたときに、私は、はじめの時とはまったく違った共感を感じたのです。スパルタクス団員は、大部分がフレッシュな世代であり、『古くて信頼できる』陳腐化した伝統的党ではないことを忘れてはならないのであり、そして、光と影の部分を合わせ受け入れなければならないのです。我々は、全員の満場一致で、(選挙不参加の決議を)指導部問題にせずに、そして、(選挙不参加の決議を)悲劇的に受け止めないで決定したのです」。そのうえ、ローザ・ルクセンブルグは、この運動は立派に展開していると付け加えています。
ドイツ共産党の設立がなされ、それは、「確かに型にはまったものではなかったが、無責任な一握りの過激な指導者による、世論を無視して成功した『分裂』ではないのである」とローザ・ルクセンブルグは、「赤旗」のなかで党大会の彼女の評価を強調したのでした。ドイツ共産党は、「歴史的発展の当然の成果であり、ドイツ革命の発展のなかでの断章としてあり、プロレタリア大衆の政治生命の発露として生み出されたのである。共産党の設立は、ドイツ革命の最初の段階を終えた転換点であり、そして、第二段階が始まるのである。」
国家の上層部による突然の右翼化に対しては、新しく設立された党を通じて決然とした態度で、労働者そして兵士の陣営とその基盤を左翼化するように精力的な指導を対置しなければなりません。ローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトは彼らの思想そして目的をより多くの人々に今まで以上にわかりやすく示すことができるかどうかに14日間も残ってはいなかったのでした。彼らは、第三の労働者党の発生を通じて労働運動の分裂が強まる事にどのように対処したのでしょうか?
貴方たちの助けになれば
「親愛なる人、くじけてはいけない、あなたの家でいつも輝いていた太陽を、このように恐ろしい事の背後へ消し去ってはいけない」とローザ・ルクセンブルグは、1918年11月18日にマリーそしてアドルフ・ゲックに書き、それは、ブランデル・ゲックの死を知った時であり、彼女は、彼を党にとっても、人間的にも非常に期待していたのでした。「我々は皆、見えない運命の下に立っており、ただ、次のようなひどい考えだけが慰めとなっています。つまり、私は、ひょっとしたらまもなく向こう側に運ばれる、それは、ひょっとしたら至るところで待ち伏せしている反革命の弾丸によって」。1919年1月11日、彼女は、クララ・ツェトキンに、1月闘争のなかで荒れ狂うベルリンでの1週間以来、多くの若い戦士が倒れたと言うことを伝えなければならなかったのです。レオ・ヨギヘス、ゲオルク・レディボーア、そしてエルンスト・メーヤーは逮捕されていました。
年明け以来、反革命の非難と迫害はドイツ共産党(スパルタクス団)そして、とりわけ完全にローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトに対して向けられたのでした。すでに、1918年12月30日において「ドイツアルゲマイネ新聞」では、彼らに対する「鎮圧の論議だけでは不十分である」と書かれてあり、そして、そのうえで「暴力を差し向けろ」と書くに至ったのです。公然と新聞雑誌で殺害を呼びかけていたのでした。至るところに、巨大なポスターで憎悪を扇動し、ついには革命の首をはねることを要求したのでした。「彼らの指導者をたたき殺せ!リープクネヒトとルクセンブルグを殺せ!そうすれば君らの安全、労働そしてパンが得られる」。社民党機関紙「前進」までもが憎しみの歌の合唱に加わったのでした。
グレーナー将軍(46)の報告では、「1919年初めに、ベルリンで襲撃し、そして一掃することができると信じてよいのである。現在そしてその後の全ての措置は軍司令部との緊密な協議で行われる。しかし、政府と国民に対してその成果と責任を負う国防大臣にノスケ(47)が任命され、エーベルトの足跡をたどりながら将校達との堅い同盟を結んだのである」。1919年1月1日に「前進」は、ベルリン警察本部長のエミール・アイヒホルンに対する中傷記事によって挑発を開始したのですが、彼は、USPDの左派に属しており、そして反革命の策謀に対抗して精力的に活動していたのですが、その挑発は、ベルリンの革命的な人達に対して向けられ、1月4日、社会民主主義のプロイセン政府によるアイヒホルン解任へとつながったのでした。
10万人以上の男女労働者が、革命的オプロイテやベルリンのUSPD指導部そして共産党本部の声明に従ってティアガルテンやアレキサンダープラッツの警察本部前で抗議行進をしたのでした。この闘争を指導するために革命的行動委員会が、33人のメンバーで形成され、それは、USPDの支持者、革命的オプロイテ、人民海兵団、ベルリン駐屯軍、そしてカール・リープクネヒトとウイルヘルム・ピークが所属していました。議長はカール・リープクネヒト、ゲオルグ・レディーボーアそしてパウル・シュルツでした。壮大な大衆デモンストレーションの影響の下、行動委員会は、「下劣なエーベルト・シャイデマン政府!」そして「政府の崩壊!」とのスローガンを決定したのでした。これは、非現実的な決定でした。混乱と破壊が急激に増大し、その理由は、行動委員会におけるUSPD指導部が、大衆を路上へと呼びかける一方でエーベルト・シャイデマン政府との交渉をも求めていたからです。共産党本部は、有効な戦術が取れず不安定な状態であり、ローザ・ルクセンブルグとレオ・ヨギヘスは、権力奪取の為の直接的闘争(武装蜂起)へのアピールは、正しくないとみなしていたのでした。そこで、1月8日ついに共産党本部は、「政府崩壊」の行動スローガンに反対したのでした。共産党本部は、行動委員会のトップに立っているUSPD指導部の敗北主義的態度を厳しく非難し、そして、カール・リープクネヒトとウイルヘルム・ピークを委員会から召還したのです。全ての意見の相違は、ともかくとして共産党本部は、「もし、革命的オプロイテがつねに断固たる革命的行動に着手するのならば、彼らと力を合わせて戦う」つもりでいたのでした。
その間に、SPD指導部とりわけノスケ、そしてかつての帝国将校たちは、1月闘争の反乱に対する血にまみれた鎮圧を準備し、そして1月8日、攻撃に移ったのです。政治的ゼネラルストライキは、新たにクライマックスを実現するけれど、しかし、白衛軍の攻撃とその優位を阻止することはできなかった。次の数日の間に血にまみれた闘争で労働者の多くが殺され、負傷しそして、逮捕されたのでした。「ベルリンでのこうした状況は、君は想像もできないだろう」とヒューゴ・ハーゼは、愕然として書いたのです。「白色テロルが全くもってツアーリズム体制と同様に荒れ狂っている。[中略]ランツベルグ、エーベルト、シャイデマンらが法の番人として威張り、かつての将校と下士官連中とブルジョワのお坊ちゃんが集まってできている規律なき軍隊を扇動している。[中略]ボリシェビキのテロルに対して野蛮であると叫んでいる者が、恐ろしい公示を不当に行い、あるいは、それを容認しているが、もし、彼らがペテルブルグやモスクワから同じような報告を受ければ、いわゆる文明社会からの悲鳴が解き放たれる事になる。」
ローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトは迫害され、そして追跡され、大急ぎで別の非合法宿泊所へ行くといった、劣勢側に立っており、そして、全ての偉大な革命家たちの様に歴史的楽観主義の精神でした。ペーター・ヴァイス(48)は、彼の「抵抗の美学」のなかでローザ・ルクセンブルグの人生最後の数週間における状況のドラマを的確に述べています。「レーテ形成は、早すぎたのであった。スパルタクスの要求の下にある労働者階級は少数派であったが、多数派は、生産が再び戻れば労働者の発展もまた保証されると言うスローガンに騙されていたのである。啓蒙するには時間が無い。(中略)働者階級に反対するブルジョワ階級の戦争は、惑わされ弱体化された前衛に反対する少数派の戦争であり、そして、父が言うには、我々は、ローザ・ルクセンブルグと行動をともにしたが、我々は半ば無意識に行ったが、彼女は、同じことを明確に意識して行動し、彼女は、こちら側にとどまり、現在、道は、はずしていても、正義に適っていたのである。(中略)我々は、他人の模範になっていると言う希望的観測に立っていた。それから後、我々はこれが間違っていることに気づかざるを得なかった。事柄そのものが間違っていたのではなく、時期の選択が、間違っていたのである。つまり、正しい時期を確定して、はじめて史的唯物論の理解ができるのである。と彼は言った。」
1919年1月7、8、11、そして13日の間に「赤旗」でローザ・ルクセンブルグの記事「指導部は何をしているのか?」「責任の放棄」「指導部の失敗」そして「砂上の楼閣」が発行され、彼女は、優柔不断な組織、そして11月9日以来の革命週間の苦しい教訓を欠いた首脳部について、そして、今や敗北が避けられないことについて反省したのでした。「『ワルシャワの秩序は維持されている!』『パリの秩序は維持されている!』『ベルリンの秩序は維持されている!』そのように、半世紀ごとに次々に世界史的闘争の中心地となった町から法の番人の報告がある」とローザ・ルクセンブルグは、1919年1月14日に書きそれは彼女の最後の記事でした。「歓声を上げる『勝者』は気づいていない、つまり、彼らの『秩序』なるものは血にまみれた大虐殺によって常に維持されており、止まるところを知らない彼らの歴史的運命は破滅へと向かって進んでいる。{中略}革命は無駄な時間は無い、それは、開いたままの墓を乗り越え、『勝利』も『敗北』も乗り越え、偉大な目標に向かって突き進むのである。インターナショナルな社会主義にとって革命の方針、革命の方法を自覚的に行うことは戦士の第一の任務である。」
1919年1月の時点において、資本主義社会の「秩序」は、4年間の戦争の終わりに、革命的大衆行動によって、そのトップに社会民主主義の政府を抱え、確かに困難そして興奮に遭ったが、しかし、もはや無力化することはなかったのです。前進を続ける変革の力があまりに分散し浪費し、これまでの達成があまりに大きな幻想であり、国内そして国外へ向けた休息と平和への要求があまりに強すぎ、そして反革命的陰謀があまりに残忍であった。
1919年1月15日、革命の敵は決定的な一撃を構えていたのです。ローザ・ルクセンブルグとカール・リープヒトは、ベルリンのヴィルメァーにあるマンハイム通り43のマルクシオン宅におり、そこで発見され、自警団によって逮捕されました。夕方、彼らはエデンホテルにある近衛騎兵師団の司令部へ拉致され、そこではパプスト陸軍大尉(49)が指揮を執り、そして、ノスケから電話による2人の殺害についての事実上の許可を得たのでした。カール・リープクネヒトは、激しい暴行のあとティアガルテンで背後から射殺され、そして無名の死者として殺人者によって死体安置所へ搬入されたのです。その後、ローザ・ルクセンブルグは、彼女をモアビット刑務所へ連行すると言う口実でホテルから引っ張って行かれ罵倒され暴行され、狙撃兵ルンゲから銃床で打ち倒され自動車へと突き飛ばされ、飛び乗った陸軍少尉ヘルマン・W・ズーヒョンが射殺し、そしてラントヴェアー運河へと投げ込まれたのでした。次の日「ベルリナーツァイトング」は、「リープクネヒトは、逃走により射殺―ローザ・ルクセンブルグは、群集によって殺された」との偽りの報道をした。
2人のドイツ共産党(スパルタクス団)の指導者の殺害は、厚顔無恥に企画され、そして残忍に実行されたのでした。この事は、革命から最高の頭脳を奪うことを意図していました。
「我々の偉大なプロレタリア革命の先駆者、2人の真新しい死体を前にして、諸君らと我々の胸を満たし、諸君らと我々の胸を引き裂く感情を表明するには、我々の言葉はあまりに弱いのである。」とドイツ共産党(スパルタクス団)本部は、1月中旬、ドイツの労働者そして女性労働者そして革命的兵士への檄のなかで述べるのです。「嘆き罵る必要はない。この死者たちは、ドイツの社会民主主義が、ドイツ労働者を戦争の悪魔に売り渡した、正にその瞬間に、プロレタリア的蜂起の旗を掲げ、そして、投獄をものともせずに、革命的労働者に対する無慈悲な資本主義の爪からの解放闘争を呼びかけた人たちとして、ドイツプロレタリアートの心の中に、永遠に生きるのである。(中略)今や、嘆くつもりも、我々の先駆者殺しに個人的に闇雲に報復するつもりもない。ここに、血まみれの死体に我々は、彼らの事業を最後まで指導することを誓う。(中略)我々には長い闘争が迫っているのである。」
カール・リープクネヒトは、1月25日、1月闘争で殺された31人とともに墓へと運ばれました。詳細を知ることなしに、そして軍部と政府の協力に関する事実を文書で証拠立てすることなしに、1919年2月12日、「赤旗」のなかでレオ・ヨギヘスは「リープクネヒトとルクセンブルグの殺害」と言う彼の記事によってその犯罪の真実に迫ったのです。
ローザ・ルクセンブルグの死体は、1919年5月31日、ベルリンラントヴェアー運河のフライアルヘン橋近くの水門で発見されました。マチルデ・ヤコブは、この死者の着衣、手袋そして首飾りのロケットを手掛かりに身元確認せざるを得なかった。1919年6月13日に、ローザ・ルクセンブルグは、ベルリンフリードリッヒフェルデ墓地にカール・リープクネヒトの隣りに安置されました。「長い葬列が、フリードリッヒハインツから動き出し、革命的労働者による大きな政治集会になった」とマチルデ・ヤコブは、思い出すのです。「先頭に水兵と軍服の兵士が行き、そして、その後すぐに友人たち、そして闘争の同志、それにベルリンのサークル、工場の仲間が従った。葬列は、フリードリッヒ広場にある墓地の前で解散した。埋葬に限っては、支給された券の数で決められた。最初にパウル・レヴィが死んだ女性闘士そして友人の開いたままの墓にむかって話した。クララ・ツェトキンが彼に続いた。かつての党学校の女生徒は、愛しそして尊敬した女教師を偲ぶ。この青春時代の代表は、ハインリッヒ・ハイネの賛歌を演説の中に織り込んだ。『私は剣である。私は炎である。私は闇を照らし、そして、戦いが始まるとき、私は隊列の先頭で戦う。私の周囲には、私の友人の死体が倒れている』。我々は、喜んだり悲しんだりする時間はないのである。新たにラッパが鳴り響き、新たな戦いを告げた。(中略)そのあと、『インターナショナル』の調べの下、死んだヒロインの墓穴の上に赤旗を沈めたのだった。」
この忌まわしい殺人は、殺人者とそれを扇動したすべての者を糾弾しています。
ローザ・ルクセンブルグが最後に出版した言葉は、自らを革命に託したのです。
「私(革命)は、かつて居て、今居て、今後も、居ます。」
Ich war, ich bin, ich werde sein!
【注】
(1)ロシア生まれ。ドイツで学び哲学博士の学位を取得し、カール・リープクネヒトの前妻の死後、彼と結婚し、前妻との間の子供3人を育てる。ナチ政権後モスクワに亡命。
(2)GB(書簡集)5 409頁
(3)1864年9月24日、ロンドンにて第一インターナショナル設立
(4)1889年7月14日 パリにて第二インターナショナル設立
(5)1871年のパリ・コンミューンのことです。
(6)プロイセン・オーストリア・ロシアの3国によって第1回ポーランド分割が行われ、3国はそれぞれ国境に隣接する地域を獲得した。その後、ヨーロッパ初の成文憲法成立(1791年)となります。
(7)古参のSPD党員にして国会議員、1900年以降、頻繁にローザと連絡を取り合っていました。
(8)マクシミリアン・フォン・バーデン、バーデン大公の長男にしてプロイセン軍人。1918年10月にドイツ帝国宰相に任命され帝国議会最大党派SPDに協力を仰ぐ
(9)カッセル出身の国会議員にして1918年当時SPD党首。多数派SPDの幹部
(10)SPDは、ドイツ社民党のことですが、ドイツ革命当時は、MSPD(多数派社民)とも言われカッセルに置かれた統帥部のグレーナー将軍とエーベルトやシャイデマンとが、直通電話で連絡を取っていたと言われています。
(11)1895年からドイツ事務所従業員組合の会長に就任に組合活動の専従となり、1912年からSPD国会議員、1919年2月に労働大臣に就任し民主化に貢献する。同年8月に首相となり、カップ一揆の時はゼネストを呼び掛けに署名しています。
(12) USPD中央委員書記、人民代表委員を務め1933年まで国会議員、その後亡命、戦後、西ドイツSPDのアーカイブで働く。
(13)バイエルン州出身のSPD党員、ミュンヘン革命の立役者にしてバイエルン共和国の初代首相。1919年2月殺害される。
(14)ローザの盟友にしてスパルタクスグループの指導者、1919年1月15日にローザと共に虐殺される。
(15)ローザの速記タイピストおよび翻訳者として秘書を務める。ローザの死後、共産党で活動し1943年テレージエンシュタット強制収容所で死亡
(16)SPD古参党員にしてソーシャルワーカー、ジャーナリスト、彼女はナチ政権成立時までSPDとUSPD両方の国会議員でした。
(17)フランクフルトの弁護士、SPD党員、ローザの愛人でもあった時期があり徹底したローザの信奉者、ローザが虐殺された後、共産党の党首になったヨギヘス殺害の後に共産党党首となるが、21年に除名されSPDに合流して30年死亡。
(18)ローザの終生の友人にして同志、プロレタリア女性運動に貢献し、ローザの死後、共産党に入党し国会議員となるもナチ政権後モスクワへ亡命
(19)USPDは、SPDの分派で独立社民党と言われ、ベルンシュタインやカウツキーも所属していました。ローザやリープクネヒトも所属していたのですが、1919年12月に共産党(KPD)として分離するのです。その後、USPDは、左右に分裂し左派は、共産党と一緒になり、右派は多数派SPDと統合してSPDとなって今日に至るのです。
(20)SPD古参党員、「新時代」の編集者、作家、共産党の創立メンバー
(21)シュトゥットガルト出身の植字工、SPD党員、ヴュルテンベルク州の11月革命の組織者
(22)ヴェルテンブルグ出身の理論家、言語学で博士号取得、ローザ死後1920年代からレーニン主義に転向し、その後、亡命を繰り返しオーストラリアで、1990年に98歳で亡くなっています。
(23) オーバーシュベーベンの農家出身、旋盤工からSPD党員、ベルリンの党学校でローザ・ルクセンブルグの指導を受ける。KPD創立メンバー、亡命生活の後、戦後は東ドイツのSED(社会主義統一党)に入党する。
(24) ᤘ1918年11月10日から1919年2月13日まで在任したドイツの臨時政府であり、ドイツ帝国からワイマール共和国への移行を形作り、MSDAPとUSPD のそれぞれ3人のメンバーによって結成された。
最初のメンバーは、MSPD、は、エーベルト、シャイマン、ランツベルク、USPDは、ハーゼ、デイットマン、バース。
(25)ObleuteはObmannの複数形 直訳は「革命の議長団」、第一次世界大戦中の労働者問題に対応して結成されました。組合から選出されたボランティア的な利益代表であり、組合からは独立していました。山猫ストライキの組織者でもありました。
(26)ローザと同郷のポーランド出身、チューリッヒで留学中にローザが一目惚れした終生の愛人にして同志、ローザの死後、共産党党首となるも、虐殺の真相を暴露したために逮捕された後に警察署内で殺害される。
(27)ホーエンツォレルン家最後のドイツ皇帝、退位後、戦犯訴追を危惧して早々にオランダへ亡命する。
(28)ハイデルベルグ出身のSPD国会議員、初代大統領
(29)東プロイセン出身のSPD国会議員、1911年ベーベルと共に党首となり、その後USPDの指導者になりますが、SPDの合同を主張し孤立した後1919年10月に銃撃されて一ヶ月後に死亡する。
(30)現在はポーランドのヴロツワフ、1945年までドイツ領だった。
(31)ポーランド国境に近い東部に流れるオーデル川にある都市、フランクフルトは、他にも有名なマイン川にある都市の名前にもなっています。
(32)かつてのベルリン中央駅、現在壮麗な壁が残されています。
(33)ブレーメンのSPD党員、共産党創立メンバー、後に東ドイツ初代大統領
(34)スパルタクス団の機関紙、「赤旗」(ローテ・ファーネ)は、ローザの名と共に有名ですが、SPDの機関紙は「前進」であり、USPDの機関紙は「自由」でした。
(35)ローザ、カールと共にスパルタクス団そして共産党の共同創立者。ケーテは彼の妻、戦後東ドイツのSEDに入党する。
(36)この時よりUSPDのスパルタクスグルッペからスパルタクス団(ブント)となる。
(37)SPDの大物政治家にして党内随一の文筆家、ローザ虐殺の悲報に落胆して1919年1月29日に死亡
(38)ポーランドの革命家、1913年までSPDの「前進」のジャーナリストとして勤務。その後ローザと行動を共にし、逮捕され1918年に釈放、ロシアに追放され、ボルシェビキに参加するも、19年1月に戻るなど波乱万丈な半生を送る。
(39)スパルタクス団のメンバーにして赤い兵士団の活動家、12月の戦闘で片腕を失う。
(40)ジョルジュ・クレマンソー:フランスの首相
(41)デビッド・ロイド・ジョージ:英国保守党出身の首相
(42)ウッドロウ・ウィルソン、米国民主党出身の大統領
(43)ポーランド出身、ウクライナ、ポーランド、オーストリア、ドイツで活動し1917年2月ロシア革命時にボルシェビキに入党し、ボルシェビキの代理人として派遣されていました。
(44)マルクス経済学者、ウィーン大学医学部時代に社学同に参加、その後SPDの理論的指導者となり、党学校ではローザと同じ経済学を担当した同僚でした。ワイマール共和国時代、2度にわたって財務大臣を務め、ナチ時代に亡命先のパリでゲシュタポによる拷問により死亡。
(45)ブランケンブルグ出身のSPD党員、ハンブルグの組合活動から市議会議員となり軍部と結託したSPD右派に属し1919年に東プロイセン総督に任命される。後にナチのシンパからキリスト教保守派となったと自伝で述べています。
(46)帝国最高司令部は、皇帝の要請によってヒンデンブルグは留任させ、その第一参謀長としてグレーナーを任命したのですが、彼とノスケは、戦前から帝国議会において行政問題などで知己の関係にあったと言われています。
(47)グスタフ・ノスケ、帝国議会議員、ワイマール共和国初代の国防大臣、グレーナーや右翼義勇軍と親しくして「ボルシェビキ」の芽を摘むことに専念する。親ナチとしてナチ時代も生き延びるも1944年に逮捕され強制収容所送りとなる。SPDでは最悪の人物とされている。
(48)ドイツ出身の小説家、劇作家、美術作家、ナチ時代をスウェーデンに亡命し同国共産党に入党し国籍も取得しました。
(49)JPネットルは、次のように述べています。「パプスト自身は―かれは、つづくドイツのいろいろな事態をことごとく生きのびて、大いなる名誉とは言えぬにせよ、得をした人物だが―1962年に次のように言明している。『事実上、国家の権威は、義勇軍の掌中にあった。そして、ノスケはこれを完全に支持していた』ノスケは、人民委員のメンバーで軍事部門を監督していた。たぶんローザの鋭い応酬が将校たちをいっそうひどく怒らせたのだろう。」同著「ローザ・ルクセンブルク」下 河出書房新社344頁
ドイツ革命について
鳥羽幹雄
ドイツ革命を語るにあたって重要な点は、キール軍港の反乱時に結成された兵士評議会がその後、労兵評議会(レーテ)となりドイツ革命の牽引力となるのですが、そのような運動は、突如として沸き起こったのではなく、ドイツ社会民主党(SPD)の永年の労働運動や文化スポーツ活動(1)、生活協同組合、党学校などによる労働者の階級形成への努力と議会闘争があったからです(2)。この党は、帝国議会選挙において不平等選挙制の下でも、1890年の選挙以来、常に30%以上の得票を得て議会第一党の地位(3)を占めていたのであり、文字通りドイツ労働者階級の唯一にして最大、最強の階級政党であったのです。
とりわけ、ドイツ革命直前の1912年の帝国議会選挙では、得票率34.82%で425万399票を獲得して第一党となっていました。これは不平等制を考慮すると当時も今もたいへんな獲得票数であり支持率でした。日本でいえば、安倍政権時代の自民党の得票率(29%)を遥かに凌駕するようなものであり、このことを前提にして考えれば、戦地に徴兵された兵士のなかには、SPDの党員やその支持者が多く含まれていたことを意味します。
ゾルゲ事件で有名なリヒアルト・ゾルゲは、愛国青年として志願し、第一次世界大戦に参戦するのですが、前線でSPDやUSPDの党員兵士の戦友によって、ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトのことを知り、社会主義者となったことを語っていました(4)。
しかし、巨大化したSPDは、階級政党から国民政党(5)へと変貌していく過程でもあったのであり、革命の主体を担う労働者兵士の先頭で戦う部分(革命的オプロイテ(6)やスパルタクスグループ等左派)と、敗戦処理を担わせようとするドイツ帝国大本営(OHL最高軍司令部)に利用された日和見的な部分(シャイデマン、ノスケら多数派)とに事実上分裂するのです。それが、1917年にゴータで結成された独立社会民主党(USPD)となって表面化します。他方、多数派社会民主党(MSPD)は軍部の支援によって11月9日に初代大統領エーベルト、首相シャイデマンによる共和国政府を宣言します。したがって、ドイツ革命の性格は、よく上からの革命であったと言われるのは、こうした背景があったからです。
そうしたことを踏まえて述べると、1918年10月末に起きたキール軍港の反乱は、前年1917年の夏に命令不服従事件があり、これが当局によって、独立社会民主党(USPD)の扇動によるものとして、告発され、多くの逮捕者が出て事実上USPDのキール支部は活動停止に追い込まれたのですが、翌年の反乱は、USPDとは関係のない、SPDの古参党員兵士、カール・アルテルトの指導によるもであったのです。
反乱の直接的原因は、英国艦隊による海上封鎖のために、潜水艦作戦しか作戦活動が出来ない状態に追い込まれていたドイツ帝国海軍が、敗戦間際の1918年10月30日に、英国との艦隊決戦をすべく自暴自棄的な出撃命令を発令したことで生じました。
アルテルトらは、皇帝の退位、戒厳令の廃止、逮捕者の釈放、男女普通選挙権の導入など6項目の要求を出し、兵士評議会の選挙を求め、これがドイツ最初の兵士評議会となったのです(7)。
11月4日早朝から蜂起した水兵たちは、午後にはキール軍港を制圧し、大洋艦隊第三戦隊は赤旗を立てて帰還するのでした。そこで当局は、その日の決定として、ベルリンから帝国政府代表として次官のコンラート・ハウスマンとMSPDのグスタフ・ノスケ(8)がその日の夜到着することを伝えたのでした。この日の夜、彼ら一行の到着は、駅頭にリーダーであるアルテルトらを先頭に武装した水兵が待機して、万歳をもって大歓迎されたのでした。その後、蜂起鎮圧部隊が解体され、政府代表と兵士評議会の代表との交渉となりました。
翌日の5日の午前に労働者評議会が結成され、兵士評議会と共闘することになりました。同じ日の午後ウイルヘルム広場でノスケ主催の集会が開かれ、そこで、運動には強力な指導部が必要であるとの彼の説得で、早くもノスケは兵士評議会の指導を掌握してしまうのでした(9)。つまり、レーテ運動(労兵評議会)は、残念ながらその誕生のときに、最高軍司令部(OHL)の参謀将校であり事実上の軍部代表のヴィルヘルム・グレーナー(10)との政権密約を交わしたMSPDのノスケに水兵たちは騙されて指導権を預けたことにより、この革命の泉となる組織は、自由を奪われたものとなっていたのでした。
そうは言っても、ノスケは、SPD出身でしたので、兵士評議会運動を一定程度認め、全国に波及することを容認していたので、兵士・労働者評議会は、11月7日から9日の短期間、権力を奪取したのでした。しかし、こうした制約があったためにドイツ革命では、レーテ運動は、ロシアの2月革命時のソビエト運動のように新政権を追い詰めるような革命的役割を果たせなかったのです(11)。ロシアの経験からボルシェヴィキ化を恐れた、軍部と多数派SPDの利害が一致したことによる革命の初期段階での迅速な行動が功を奏してしまった、とみるべきでしょう(12)。その意味で、ドイツ社会民主党の多数派は、ブルジョワ革命の推進と同時にプロレタリア革命の裏切り者として、登場したのでした。
その後、キール軍港の反乱は、全国に波及し、バイエルンでは11月9日には、SPDのクルト・アイスナーを首班とする社会主義政権が誕生します。そして、主戦場は、首都ベルリンに移ります。
首都政治決戦で左派にとって致命的だったのは、レーテに何ら支持基盤がない状態にもかかわらず、MSPDの政府参加の呼びかけをUSPDの代表だったカール・リープクネヒトが拒否をしたことです。ここに至ってUSPDからも孤立する道を選んでしまったのです。その後、USPDは左派を除いてMSPDと臨時政府である人民代表委員会を構成します。
そうした緊迫した状況において軍部とMSPDは、早期のレーテ骨抜きと、憲法制定国民議会の成立に向けて動き出すのですが、そのために、日程が、12月のレーテ全国大会の開催と翌年1月に初めて女性が参加する普通選挙の実施による国民議会選挙といった非常に短期間の勝負に打って出たのです。
しかし、ローザ・ルクセンブルグやレオ・ヨギヘスらの意思に反して、カール・リープクネヒトは、国民議会の選挙に参加しない旨を決議し、誕生したばかりのドイツ共産党(13)の孤立を決定的なものにしてしまったのです。その結果、MSPDの思惑通りに、レーテ全国大会はエーベルト政府を追認し許可をあたえ、国民議会選挙を認めたのでした。そして、翌年1月の政府容認の下での非正規義勇軍による共産党の指導部に対する白色テロルを含む軍事的弾圧の後、革命後初の選挙が行われたのです。
国民議会選挙では、その後、ワイマール連合と称されるSPD、中央党、民主党が過半数を獲得したことでワイマール体制が始まるのです。こうして、ドイツ革命といわれるものは、きわめて短命であったのです。その後、ワイマール共和国の下でのドイツでは、カップ一揆や各地での内戦状態が続くのですが、労働者革命といえるものは、残念ながらローザ・ルクセンブルクの虐殺とともに潰えたのでした。そして、ローザらを虐殺したノスケが引き寄せた極右軍人パプスト大尉ら義勇軍団(Freikorps)の火種は、ヒトラーの登場によって燃え盛り、ドイツ全土を焼き尽くすことになります。
ドイツ歴史学会において権威ある学者ハンス・モムゼム(14)は、その著作のなかで、愛情を込めた眼差しでローザを客観的にしかも的確に評していますので、最後に彼の言葉を記しておきます。これが、ドイツにおける歴史学での確定したドイツ革命におけるローザ評と言えるでしょう。
「目標とされたプロレタリア独裁は、少数派支配であってはならないということは、特にローザ・ルクセンブルクにとっては自明のことであった、その限りでは、彼女は民主的立場を代表していた。理論的相違はあるものの、彼女とカール・リープクネヒトは、プロレタリアートの未組織の労働者に希望を繋いでいた。かれらによれば、一連の革命的な個々の行動の波が全般的な革命化を引き起こすはずであり、ローザ・ルクセンブルクが、その後の数週間に行った多数派社会民主党の妥協政策への辛辣な批判は、そのためになされた。しかし、彼女は、スパルタクス団内部での無政府主義の影響を受けたテロに賛同する一揆主義者と、リープクネヒトの現実離れした理想論に対して、自己の主張を貫くことができなかった。このことは、先見の明のあったパウル・レーヴィやレオ・ヨギヘスのような人物につても同様であった。」(15)
【注】
(1) サッカーは、SPDが労働者のスポーツとしてイギリスから導入し各州のスポーツクラブで定着させたものがベースとなってブンデスリーグへと発展していくのです。
(2) この点につき、山本左門著「ドイツ社会民主党日常活動史」北海道大学出版会を参照のこと
(3)当時のビスマルク憲法は、大日本帝国憲法が範としたプロイセン憲法のことで、欽定憲法であり、第一党でも組閣はできず、皇帝の勅撰組閣であり、議会も行政も単なる皇帝の輔弼機関でした。
(4)オーウェン・マシューズ著「ゾルゲ伝」みすず書房23頁
(5)“Vom Proletariat zur Neuen Mitte“(プロレタリアートから新たな中道へ)としてこの表現はSPDに関してよく言われます。Franz Walter „Die SPD“など参照 公然と国民政党と名乗ったのは、1959年バートゴーデスベルク綱領からです。
(6) ObleuteはObmannの複数形 直訳は「革命の議長団」、第一次世界大戦中の労働者問題に対応して結成されました。組合から選出されたボランティア的な利益代表であり、組合からは独立していました。山猫ストライキの組織者でもありました。
(7)木村靖二著「兵士の革命」筑摩書房158頁以下
(8)帝国議会議員、ワイマール共和国初代の国防大臣、グレーナーや右翼義勇軍と親しくして「ボルシェビキ」の芽を摘むことに専念する。親ナチとしてナチ時代も生き延びるも1944年に逮捕され強制収容所送りとなる。SPDでは最悪の人物とされている。
(9)木村靖二著 前掲書 174頁
(10)帝国最高司令部は、皇帝の要請によってヒンデンブルグは留任させ、その第一参謀長としてグレーナーを任命したのですが、彼とノスケは、戦前から帝国議会において行政問題などで知己の関係にあったと言われています。
(11) 池田嘉郎著「ロシア革命 破局の8か月」岩波新書 128頁以下
(12)ハンス・モムゼム著「ヴァイマール共和国史」水声社35頁以下
(13)1918年12月30日の結成大会でスパルタクス団はドイツ共産党(KP)になりました。
(14)ハンス・モムゼムは1930年マールブルグ生まれの曾祖父からの歴史学者の家系に生まれ自身もルール大学ボーフム現代史教授となる。その後、プリンストン、ハーバード、バークレー、ヘブライ大学などの客員教授を歴任した。
(15)ハンス・モムゼム著前掲書 38頁
ローザ・ルクセンブルグとハンナ・アーレント
世界への愛の物語
鳥羽幹雄
本稿の初めの意図は、ローザ・ルクセンブルグの簡単な紹介をと思ったのですが、私の拙い紹介文よりも彼女の人となりを含めた素晴らしいパンフレットのような文献が最近出版されましたので、それを紹介しておきます。東大名誉教授姫岡とし子著 世界史リブレット「ローザ・ルクセンブルグ」山川出版社です。非常によくできた簡潔なパンフレットです。興味のある方は、むしろ、これを参考にしていただくといいでしょう。私が紹介するよりも遥かに要領を得た正確な彼女の情報が得られると思います。
そこで、本稿では、私のローザ・ルクセンブルグに対する個人的興味の動機から始まって今日までに彼女の研究において、気づいたきわめて重要な人物を述べることにします。
まずローザとの出会いですが、私が高校時代に所属していた組織の綱領的文献からでした。この文章のなかで、彼女こそが「共産主義の魂を最も正しくつかんでいた人であった」と称賛し、社会主義の実現は、「ローザの道の現代化なしにはそれは不可能であろうと考える」(1)と述べられていたことに衝撃を受けました。レーニンやトロツキーの道ではなく、それはまた当然にもロシア革命の道でもなく、いったいどうやって革命を成功させるのか、この疑問は今でも続く課題となったのです。
確かに、当時もローザの名前は、新左翼運動のなかで広く知られていたのですが、それは、「ゲバルトローザ」といったような暴力や粗野なイメージと結びついており、今にして思えば、1918年11月ドイツ革命初期の社会民主党多数派(MSPD)の機関紙「フォアヴェルツ(前進)」で、「血のローザ」と言って煽るようにして書かれた彼女への侮蔑的な表現とまったく同じ表現が当時の日本で流布していたことでもわかるように、浅薄な理解しかできていない時代でした。しかも、彼女の思想を高く評価した私の属する組織も内ゲバ戦争によってレーニン主義からブランキ、ジャコバンのような組織へと変貌してしまったこともあり、全共闘や新左翼運動が衰退した後でも日本では、ローザの理解は深まらず、革命といえば、世界でも珍しいぐらいレーニンとロシア革命が健在のまま、年月が経っていくのでした。
そうしたなかで2013年に公開された、ドイツ映画『ハンナ・アーレント』を鑑賞したときでした。何と主人公ハンナ・アーレントの役者が、映画『ローザ・ルクセンブルグ』と同じ役者だったのです。勿論、監督も同じマルガレーテ・フォン・トロッタです。
この映画を契機に、アーレントの著作、書簡集、伝記の証言録等を読み始めてわかったのですが、それは、ローザ・ルクセンブルグの第一級の研究者は、ハンナ・アーレント以外にはないということです。驚愕と同時に素直に喜びを感じたものです。そして、ドイツやヨーロッパでは、「ローザと言えばアーレント」「アーレントと言えばローザ」と言うくらいに、この二人の女性は思想的に硬く結びついていることがわかりました。
ところが、日本では、彼女とローザ・ルクセンブルグとの関係を意図的に“秘匿”しているとしか思えないアーレント研究者が、圧倒的です(2)。ドイツ共産党の創立者にしてレーニンに対する最もラディカルな批判者と一緒にしたくない、という意図(3)は、わかるのですが、これでは正確なアーレント研究は不可能です。それと、最大の原因は、アーレント自身が特段イデオロギー的に色分けできる学者ではなく、ローザにつては著作の注書き、書簡集、証言録にしか本音が垣間見られないこと(4)、さらに、ローザ自身が冷戦時代はもとより今日に至るも単純な左翼の基準で識別できない人物であり、ある意味二人とも時代を超えていたのだと思います。
つまりそれは、具体的に言えば、大胆にも暴力やテロルや政治的力関係等とは一切無縁(5)な、真に人民(労働者階級)による「革命」を論ずるのが二人の特徴であり、さりとて、マハトマ・ガンジーのような徹底した「無抵抗主義」を説くのでもないからです。それが、日本の学者の知的水準では理解できないところに、両者の関係性が見いだせない根本原因があります。“ゲバルトローザ”がまだ日本では生きているのです。たいへん残念な結果だと思います。しかし、それでも、アーレントによって指導された学生にして、唯一博士号を取得したエリザベス・ヤング=ブルーエル女史の執筆したアーレントの伝記を読めば明らかです(6)。
この伝記によってアーレントは、ローザだったらどう考えていたかなど頭の片隅に常にローザ・ルクセンブルグがいたことがわかります。それは、そもそもが、彼女の母、マルタが、ローザ・ルクセンブルグに心酔していたこと、そして東プロイセンのケーニヒスベルクでの幼少時にアーレントは、母親に連れられてスパルタクス・ブントの集会に参加していたことや、ドイツ革命最中でのベルリン蜂起のときに、二人は通りから通りを歩きながら母親から「よく注意して見ておきなさい。これは歴史的瞬間なのよ!」と言われた記憶があることが述べられているのです。その意味で、彼女の政治研究の原点にローザ・ルクセンブルグの存在があったとみるのが自然です。
さらに、J・Pネットルが書いたローザ・ルクセンブルグの伝記(7)に対するアーレントの書評があるのですが、これは短い文章ですが深い理解と洞察力がなければ書けない内容です。とりわけ、レーニンによって成功したロシア革命と、ローザの敗北し、そして本人も殺害されたドイツ革命につて、彼女は、ローザが「革命の失敗よりも醜悪な革命のほうをはるかに恐れていた」と述べ、これが、「ボルシェビキと『彼女の間の相違』だったのである」と評したのです(8)。たいへん驚きました。と言うのは、この指摘は、革命とは労働者大衆が権力を握ることであり、特定の革命政党が権力を奪取することではない、というローザの思想的神髄を理解し、かつ歴史的背景から政治技術的思考、そして1918年11月から1919年1月15日までのローザ個人の心情など、すべてを理解したうえでなければ、この一行は書けないはずです。したがって、この言葉だけでもアーレントが、いかに深くローザ・ルクセンブルグの思想や政治行動を理解しているかを多くの人に得心させることができます。
次に、政治的動物と言われた夫・ハインリッヒ・フリードリッヒ・エルンスト・ブリュッヒャーのことです。彼は、彼女の名著『全体主義の起源』を世に出した最大の協力者といわれています。その彼こそは、ドイツ革命の時のスパルクス・ブントのメンバーだったのです。彼は、1899年生まれで学歴はなく第一次大戦後に一介の兵士としてベルリンの兵士評議会に参加し、ローザ・ルクセンブルグの指導の下、ドイツ共産党に入党し1919年のローザ殺害の後の春のストライキにも参加し、同年の夏まで戦うのでした。
過去、ハイデッカーなど高名なインテリと浮名を流したアーレントが最後に結婚した男は、「レーテ戦士」だったのです。ここに彼女の政治的答えが出ています。
それでは、ハンナ・アーレント本人のローザに対する思いは、どうだったのでしょう。これに関する記述が二つあります。
ひとつは、1958年ミュンヘンの講演会のときのことです。
「講演に先だってわたしをみんなに紹介した人が、わたしをローザ・ルクセンブルグとリカルダ・フーフになぞらえたんですよ(誰かになぞられるという手法は、どうも避けられないようですね)。わたしは、フーフには触れずに、ローザ・ルクセンブルグと並べて呼ばれるとは、大変な名誉だと応じました。すると会場にいた一人の青二才が、なんととっさに大きな拍手! 教えてくださいな、いったい彼はどこで彼女の名を知ったのかしら、彼女の本はどの本屋さんにも一冊もないんですよ。“中略” 若い人たちには何かが始まっている、それにひきかえほかの連中ときたらおよそ信じられないほど鼻持ちなりません。大言壮語し、勿体ぶり、得意がる。吐き気がしますよ。(9)
冷戦下の西ドイツで、しかも、超保守的なバイエルン州の州都ミュンヘンでの彼女の発言です。当時まだ評価が定まっておらず「血のローザ」の記憶があり、彼女の著作はなかば発禁状態だった保守の地でローザ・ルクセンブルグと言われたハンナ・アーレントは「大変な名誉だ」と応じたことは、彼女の終生変わらぬ政治的核心に触れたからだと思いました。それが、ローザ・ルクセンブルグだったのです。
さらにもう一つのエピソードは、1955年、カリフォルニア大学バークレー校で授業を行った際、学生たちが少数定員のゼミなのに100人クラスに変えてしまい、彼女は驚いたのですが、「しかし、彼女がいちばん驚き、そしていちばん喜んだのは、ある若者が彼女の講義にあたえた評価であった。『ローザ・ルクセンブルグの再来だ』。彼女はこの『大きな褒め言葉』を、喜びを隠しもせずに知人のブルーメンフェルトに向かってくりかえした。」(10)
さて、ハンナ・アーレントの政治思想においてローザ・ルクセンブルクの影響はあるのでしょうか。そこは何とも言えないのですが、ただ一つ、評議会連合(レーテ)制度につてはたいへん高く評価していることです。
彼女の有名な著作について次のような証言があります。すなわち、弟子のエリザベスによると、彼女の主要作品『全体主義の起源』『人間の条件』『過去と未来の間』『革命について』『暴力について』、これらの著作のなかでアーレントが注意を向けたのは全体主義そのものではなく、より深くひそむ諸力と観念(アイデア)であったと述べています。
そして、彼女の訪問を期待していた恩師カール・ヤスパースに「あなたのもとに世界の広がりを今回運んでゆきたいものです。わたしは世界を真に愛することをこんなに遅ればせに、本当のところ近年になってようやく始めたのですから、それができなくてはいけませんね。感謝の気持ちからわたしの政治理論の本『人間の条件』を『世界への愛』と名づけるつもりです」。
つまり、彼女の政治思想は、「世界への愛」であったとのことです。そして、エリザベスによれば、「世界への愛」というアーレントの性格を貫くものは、「彼女が『評議会制度』に燃やした情熱の底にあるものだった。この政治形態が全体主義への解毒剤だと考えたのだ。彼女は、活動と合理的な言論を可能にする評議会制度が、真正の政治的生活に最良の形態であると判断した」(11)と述べています。そう、つまり、その「世界への愛」をともに見出した畏敬する先駆者として、彼女は、ローザ・ルクセンブルクを想っていたのではないかと思います。
それでは、アーレントのいう評議会とは具体的にどのような性格のものをいうのでしょうか。それは、彼女の著作「革命について」でローザ・ルクセンブルクの言葉を引用して詳細に述べています。ちなみにこの著作の最新ドイツ語版は、表題が『革命論』となっています。その改題の意味を訳者である森一郎東北大教授があとがきで、熱く語っていますので、主題とは少し外れますが、紹介しておきます。
「翻訳を進めていくなかで、私は本書に、英語版からの既訳に付けられた書名『革命について』ではなく、ずばり『革命論』というタイトルを冠したいと考えるようになった。それはたんに英語版からの訳書と区別するためではない。本書がその内容からして、学問上の対象『について』論ずるものではなく、真っ向勝負で革命の本義を問う正真正銘の『革命論』の書だと確信するに至ったからである。むろん本書を読んだからといって革命を成し遂げられるわけではないが、新しい始まりを志向する者にとっては不朽の洞察が本書ではちりばめられている。理論的かつ実践的な革命論があるとすれば、本書はまさにその名に値する。」(12)
本書でアーレントは、評議会運動について次のように具体的に説明しています。
「評議会は、今日に至るまで、党への帰属性を一切欠いたまま人民が役割を演ずることのできる唯一の政治的機関であり続けてきた。もちろん評議会は、議会や議会制度とも、また議会の形で選ばれた憲法制定会議とも、紛争とならざるをえなかった。というのも、立場的に両極端の人々が大同団結したとしても、彼らが例外なく政党制の存在に依存していたという事実は何一つ変わりようがなかったからである。革命が進行する中で、たいていは、党の綱領だけでもう抗争のきっかけとなった。というのも、党の綱領において大事なのは『処方箋』だけだったからである。しかもその処方箋通りにやれば、なるほど大量のエネルギーは消費するものの、機械的に変換されて実践となる仕組みなのである。―ローザ・ルクセンブルグはこの仕組みを、ロシアで本当に起こったことに対する驚嘆すべき洞察(13)によって分析してみせた」として、「国全体で政治的生が圧殺されるにつれて、評議会における生もどんどん麻痺せざるをえない。普通選挙、無制限な出版・集会の自由、自由な論争がなければ、労働者の中から選ばれた精鋭たちが、指導者の演説に拍手喝采を送ったり、提案された決議に満場一致で賛成したりするために、時おりかり集められる。要は根本から派閥支配なのだ。―プロレタリアート独裁ではなく、一握りの政治家の独裁なのだ」と、ローザの「ロシア革命論」を引用し、「この文言に付け加えるべきことは何一つない」(14)と結ぶのです。
そして、「一国の政治的生は、評議会に懸かっており、具体的自由は、評議会の枠内にしか存在しない」(15)と断ずるのです。さらに、「レーニンが、『すべての権力をソビエト(評議会)へ』と約束しなかったなら、十月革命は決して起こらなかっただろうし、このことはよく知られている」(16)と皮肉ってもいます。
ハンナ・アーレントは、14歳でカントを読破し、ギリシャ語も独学でマスターして原書で読めるようになったと言われているように(17)、哲学とりわけギリシャ哲学(18)に明るいのですが、彼女は、人権の基本である自由や平等についてたいへん興味深い論考をしています。
我々にとって、人間は生まれつき自由で平等である、と言われていますが、彼女によると、ギリシャでは、人間は自由でも平等でもないけれど、ポリスと言う空間で、つまり政治の世界で初めて、自由であり平等であるとされていたと指摘し、かつ、「平等とはもともと自由と同義であったことを、とりわけ心にとどめておかなければならない」(19)と、その同義性を強調しています。
そして「自由とか平等は、人為的慣習によってであった。自由と平等は、いかなる種類であれ何らかの人間本性の属性などではなく、人間によって打ち立てられた世界の性質なのであった」(20)と、つまり、「天賦人権」のような偽善的思考ではなく、「ポリス」と言う自由な政治的空間のようなものとして「評議会」が機能することが「自由や平等」を保証すると説くところに彼女の政治的核心がありますが、それは、ローザ・ルクセンブルグの有名な言葉「異なった考えをもつ者の自由」と同じ趣旨であることに気づくはずです。
ローザ・ルクセンブルグが「スパルタクス・ブント」を組織した意図は如何なるものだったのかが、疑問でしたがアーレントの「自由に対する思考」を頼りに考えれば、明らかに彼女は、SPDからの分派闘争を意図したものではなく、その逆で、党における「言論の自由」を保証することで社会のあらゆる問題に対応できる党へと、つまり、「自由な言論」によってのみ問題は解決され、それこそが理想社会を実現出来る党へと成長させることができるとの確信からであり、それは、最近発見された、新資料(21)によっても明らかです。
そして、重複になるかもしれませんが、最近のトランプ現象や日本の極右安倍政権による長期政権やヨーロッパ極右勢力の大幅な台頭を、既にアーレントは予想していたのです。そして、その「解決策」も具体的に提示していました。つまり、形骸化したブルジョア民主主義による議会政治は、「民意」によって簡単に全体主義になると、そして、その「全体主義の解毒剤」は、ローザ・ルクセンブルグが、断固として推し進めた「評議会」であると確信し、提示したのです。アーレントのこの指摘は鋭く、そもそも、「民意」など存在しないと断言し、それは、現在フェークニュースや権力に操作されたSNSやインターネット情報で作られる「民意」に政権を託しているところに問題があるのです。本当の人民の意見=民意は、「意見交換・議論」の中にしかなく、しかも、そのような意見交換の「空間」がなければならないと述べます(22)。それが、労働者、兵士、農民、学生、地域住民等の「評議会と言う空間」であり、その中にしか「本当の人民の意見=民意」は存在しないのであり、この評議会(レーテやソビエト)が全政治権力を掌握することが本当の民主主義の実現であり、民主政治なのです。それをプロレタリアート独裁と敢えて言わなくても、ブルジョア政治に代わる人民の政治になることだけは確かです。60年代末期に起きた教育職場闘争において、私たちは、「職場地域末端から、クラス・サークル末端から行動委員会(評議会)運動を!」というスローガンをその「本当の価値」を知らぬまま持ちました。このスローガンこそは、労働運動・社会主義運動としては、最も正しいスローガン、いや、普遍的なスローガンであったのです。そして、この評議会運動は、ハンナ・アーレントによっても高く評価されていました。
いずれにしても、ハンナ・アーレントは、ローザ・ルクセンブルクのよき理解者であり、研究者としては第一人者でした。そして、巷間言われているような単なるリベラルな政治学者や卓越した女性哲学者ではなく、活動的であるばかりか、真剣に「革命を考える学者」だったという意味で、まさに「ローザ・ルクセンブルクの再来」と言ってもいい人物だったのではないでしょうか。それは、もしかすると、本人も望んでいたのではないかと思います。「世界への愛」と言う言葉とともに。
【注】
(1) 滝口弘人著「共産主義=革命的マルクス主義の旗を奪還する為の闘争宣言(草案)」東京大学教養学部新聞会出版局 1968年12月16日 35頁
(2)日本アーレント研究会編「アーレント読本」法政大学出版局 ローザ・ルクセンブルクについて書かれた論文は一編もなく、名前が唯一出てくるのは「暗い時代の人々」の書評の時だけです。
(3) これは日本で、ローザ・ルクセンブルクの評価が決まっていない証でもあり、裏返しで思えば、厄介な人物を避けるという研究者としてはあるまじき態度だと思います。
(4) その例として「新版 全体主義の起源1 反ユダヤ主義」に、次のような注記があります。ドレフュス事件が、反ユダヤと言うことではなく、「フランス軍部が自立的な利益集団として、共和政の中に地歩を占めるための口実にすぎなかった。」との彼女の意見の注として「これは、ローザ・ルクセンブルグの考えである。1890年代において軍のクーデター計画を見抜いたのはほとんど彼女だけだった。『高級軍人の拒否の根底にはそれゆえ、共和国の文民権力に対して反対の意志を見せつけながら、君主につくことによって反対の意志をまったく失ってしまうまいとする志向があった』。」”Die soziale Krise in Frankreich“in Die Neue Zeit,Jahrgang 19,Bd 1,1901.この彼女の表現は、ローザに対して、半ば畏敬の念を持って述べていることが行間から伝わってくるようです。ハンナ・アーレント著「新版 全体主義の起源1 反ユダヤ主義」みすず書房 285頁
さらに決定的なのは、同著「新版 全体主義の起源 2 帝国主義」50頁以下において、ローザ・ルクセンブルグの「資本蓄積論」から、帝国主義の分析を試みており、ローザの「剰余価値の実現は、第一条件として、資本主義社会以外の購買者の一団を必要とする」との記述、そして「資本主義的生産は最初から、その運動形態および運動法則において、生産諸力の宝庫としての全地球を計算に入れた」との結論まで本文に引用しています。これは、現在、斎藤幸平氏が、自著「マルクス解体」の中で自然環境の破壊をローザが「資本蓄積論」で指摘したことを評価しているのですが、アーレントは、既に70年以上も以前に評価していました。更に、これに対するアーレントの評価が同書の(注)に出ています。「帝国主義に関する書物のうちでは、ローザ・ルクセンブルグの労作(資本蓄積論)ほどの卓越した歴史感覚に導かれたものはおそらく例がない。」 ハンナ・アーレント著「全体主義の起源 2 帝国主義」みすず書房 337頁
(5)ハンナ・アーレントは、そもそもマルクスの「革命の助産婦論」には反対でしたし、ローザも、「スパルタクスブントは、何を欲するか」(KPDの綱領)で制度と戦うのであって暴力は必要ないと明言しています。アーレントは、「暴力と権力は同じものではない」とする独自の見解があります。牧野雅彦著「権力について ハンナ・アレントと『政治の文法』」中公選書 に詳しい。
(6)エリザベス・ヤング=ブルーエル著「ハンナ・アーレント〈世界への愛〉の物語」みすず書房
(7) JP・ネットル著「ローザ・ルクセンブルク」上下 河出書房新社
(8)ハンナ・アーレント著「暗い時代の人々」ちくま学芸文庫 88頁 同様な表現はJ・Pネットル著「ローザ・ルクセンブルク」下 河出書房新社270頁で「そして、ローザは革命が失敗におわることよりも、革命がかたわになってしまうことの方を、より恐れていたのだった」と述べています。
(9) ロッテ・ケーラー編「アーレント=ブリュッヒャー往復書簡」1936-1968 みすず書房439頁
(10)エリザベス・ヤング=ブルーエル著前掲書 439頁
(11) エリザベス・ヤング=ブルーエル著前掲書 xliv頁
(12)ハンナ・アーレント著「革命論」みすず書房 443頁
(13)ローザは1918年と言うロシア革命の初期の段階で、ソビエト体制が全体主義に変貌することを予言した意味で驚嘆に値するからです。
(14) このアーレントによる最大限の賛辞に関しては、「革命論」の訳者である森教授が、別の自著で次のように述べています。「ここでアーレントは、ロシア革命の『ソビエト』が無残な経緯をたどることを慧眼にも洞察したとしてローザ・ルクセンブルクを長々と引用して(348頁から349頁)讃えている。ドイツ革命のこの悲劇の職業革命家が、アーレントの描いてみせた人物類型に当てはまるかどうかは、ここでは問わないことにしよう。」とアーレントにとってローザ・ルクセンブルクは特別な人であることをこの文脈で言えば結果として同教授は認めています。森一郎著「アーレントと革命の哲学 『革命論』を読む」みすず書房 284頁
(15) ハンナ・アーレント著 前掲書 341頁
(16)ハンア・アーレント著前掲書 341頁
(17)ケン・クリムスティーン著「ハンナ・アーレント、三つの逃亡」みすず書房17頁
(18)ちなみに、マルクスの哲学博士の学位論文のテーマもギリシャ哲学でした。ジャック・アタリ著「世界精神マルクス」藤原書店 60頁参照
(19) ハンナ・アーレント著前掲書 36頁
(20)ハンナ・アーレント著前掲書 37頁
(21) 赤海勇人著「ローザ・ルクセンブルグの『社会主義的民主主義』論」一橋社会科学 第15巻 2023年7月号 72頁以下 1917年、SPDがUSPD と分裂する直前に出された「Der Kampf」第43号に掲載された論文で、ローザ・ルクセンブルグによるものであることが判明しています。
「しかし、このような問題と対立は、純組織的分裂という機械的なやりかたではなく、体系的な政治闘争によってのみ、同じ運動・同じ党の内部での両派の公然たる絶え間ない論争によってのみ決着がつけられ、最終的には客観的・歴史的諸条件の影響によってのみ決定されうるのである。」(無署名論文 Die Schicksalsstunde der Partei)
(22)ハンナ・アーレント著「革命論」みすず書房 346頁
あとがき
著者のアネリーズ・ラシツァ(Annelies Laschitza 1934年2月6日―2018年12月10日)は、ライプツィヒ生れの歴史学者です。彼女は、ライプツィヒ大学で歴史学を学び、その後SED(社会主義統一党)中央委員会付属社会科学研究所で博士号を取得、専門は、19世紀から1918年までのドイツ労働運動のようです。とりわけ、ローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトにつて詳しく、多くの著作がありました。また、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の映画『ローザ・ルクセンブルグ』の映画コンサルタントを務め、1986年に大きな注目を集めました。ベルリンの壁崩壊後もブレーメン大学で教鞭をとり、東ドイツ時代には出版できなかった、ローザ・ルクセンブルグのポーランド語からの翻訳を2017年にベルリンで出版しています(1)。
この本(Annelies Laschitza著「Im Lebensrausch, trotz alledem Rosa Luxemburg」)のカヴァーに書かれた本書紹介文が簡潔にローザと著者を的確に表現していますので、以下、参考に記しておきます。
ローザ・ルクセンブルグ(1871-1919)は、すでに学生のときから世界を変えたいと思っていました。チューリッヒでの学業の後、彼女は、すべてを政治活動に捧げ、そして、たちまちヨーロッパ社会民主主義の指導者になりました。彼女の人格は、極端が一体化しており、鋭い知性と芸術的才能、激情と落胆などです。ローザ・ルクセンブルグは、理想的な社会のために生き、そして、彼女の予言は、リアルなものとして、人々に衝撃を与えました。アネリーズ・ラシツァは、ローザ・ルクセンブルグの手紙と作品の類い稀な出版を通して世界的に評価を得ているのですが、今回、この神話にまでに高められた夫人の信頼できる肖像画を描きました。
この拙訳は、この著のなかの最終章「反乱」(1918年11月から1919年1月)の全訳です。翻訳を思い立ったのは、ローザ・ルクセンブルグの最後の戦いを知りたいという、好奇心と、高校生のときに参加した組織の思想的な原点でもあった、彼女の思想的葛藤をドイツ語の文章で知りたかったことでした。優れた伝記としては、J・Pネットルによる「ローザ・ルクセンブルグ」上下があり、日本のローザ・ルクセンブルグ研究家伊藤成彦氏が訳されたパウル・フレーリッヒ著『ローザ・ルクセンブルグ その思想と生涯』(東邦出版社、 1968)もありましたが、どちらも冷戦時代の古い出版ですので、資料も制限されており、そのうえ、思い入れが強かったり著者の政治的バイアスがかかっていたりしていたので、客観的表現と距離感をもった評伝が読みたかったのです。その点、本書は、著者の序文にあるように、国際ローザ・ルクセンブルグ協会のパリ(1983年)、東京(1991年)、北京(1994年)でのシンポジウムに参加することで伝記の課題に直面したと述べているように、きわめて最新にして自由な立場での研究の成果となっています。したがって、1996年、ベルリンのAufbau出版社から出された本書は、現代においてローザ・ルクセンブルグを再評価するのに最もよい素材を提供していると思います。
本訳文のなかで重要な事実関係をいくつか指摘することにします。まず、著者が序文で強調したのが、「ローザ・ルクセンブルグの思想と行動は、おおむねレーニンとの測定と、型にはまった英雄崇拝への十分な反論のなさによって矛盾に陥ってしまった」ことの反省、つまり、レーニンとの比較という人物評価や悲劇そのものではなく、より高みに立った考察によってのみ、正確に彼女を評価できるとしています。
そのことを前提にしてまず重要なのは、ローザ・ルクセンブルグが革命の「核」とした労兵評議会連合(レーテ)(2)の第1回全国大会が1918年12月16日、ベルリンで開催されたのですが、彼女とリープクネヒトが参加できなかったことです。これは、代議員の資格要件が現役の労働者・兵士に限るとした、現場主義が逆に仇となったのと、二度にわたる多くの代議員の参加動議が多数派SPD代議員によって封殺されたのが悲劇でした。
しかし、ネットも携帯もない時代に、それに憤慨したベルリンの労働者、兵士25万人もが大会会場に押し掛けた事実は、何とも表現できないぐらいに彼女の人気の高さをあらためて認識するところです。さらに、初の男女平等の普通選挙権による国民議会への参加を希望した彼女の願いが否決され、それに対して彼女は、「あなた方は、こういう手段(国民議会選挙への参加)を革命的な意味で用いることを考えることができないで、機関銃か議会主義か、と考えている。もっと洗練されたラディカリズムで行こうではありませんか。こういう粗っぽい二者択一ばかりでなく。それは、気楽で簡単ですが、しかしこういう単純化は大衆の訓練や教育の役には立ちません」(3)と説得もしていたのです。そのうえ、共産党の党名やUSPD(独立社民党)からの離脱時期の齟齬など、革命の土壇場で彼女の思いが何一つ通らないことの連続であったのです。その一つひとつを知ることは今さらながら辛いです。
しかし、そのうえで、重要なことは、ローザ・ルクセンブルグは、1回のチャンスで権力を奪取するような革命を予定していなかったのです。そうしたことは、彼女にとっては、本来のプロレタリア革命ではないと言うことでした。つまり、彼女によれば、「ドイツプロレタリアートの歴史的使命は、一度きりの革命的行動で果たせるものではないことを強調」しており、それは、プロレタリア独裁という「本当の民主主義」を得るためであり、そのためには「幾百万のプロレタリア大衆が彼等の、タコのある拳に完全に国家権力をつかむこと」でしか実現することはできないと確信していたからです。それこそが、「つまり、トールの神(北欧神話)が支配階級にハンマーをたたきつけることによって民主主義が実現し大衆欺瞞がなくなるのである」と彼女は述べるのでした。
このような考えは、少数精鋭の前衛党による暴力革命を主張したレーニンの考え(4)とは根本的に異なっているのですが、プロレタリアート独裁とは、彼女が主張するように、幾百万のプロレタリア大衆が完全に国家権力をつかむことであり、前衛党の独裁ではないはずです。このことに関して、ローザは、党の軽視に陥った、と批判されてきたのですが、彼女は、党派性に固執することが、実は、プロレタリアート独裁を限りなく遠ざけることになることを見抜いていたのです。
つまり、ローザにとって、指導部の重要性と党派性とは、区別するものであって、共産主義者は、運動においては断固たる推進部分ではあるが、存在においては、労働者階級の一部分でしかないということは自明のことであったのです。そのことは、彼女の起草になる、ドイツ共産党綱領(5)で宣言もしています。
ローザ・ルクセンブルグが虐殺後百数年経った今日でも、その革命的精神が色あせることなく、多くの世界の民衆を鼓舞し続けているのはまさに、この労働者自身を解放の主人公とする点にあります。「労働者階級の解放は、労働者階級自身の事業でなければならない」としたマルクスの言による第一インターナショナルのスローガンは、このようにして、ドイツ革命の始まりに、ローザ・ルクセンブルグによって果敢に実践され、堕落したドイツ社民党(SPD)のマルクス主義を乗り越えて、その悲劇的な虐殺の直前まで戦い続けたことによって、彼女こそが、まさに本来の意味での革命的マルクス主義者(6)の名に値することを全世界に示したのです。
【注】
(1)以上、ドイツ語版Wikipediaより要約
(2)労兵評議会について若干解説すると、一般にレーテと言われていますが、これは、ドイツ語のRat(ラート・評議会)の複数形Räte(レーテ)のこのことを言います。このレーテ運動と言われるものの原型は、ロシア革命で生まれたソビエト(評議会)なのですが、この重要性に着眼したのがローザであったのです。皮肉なことに、レーニンは、単なる手段とプロパガンダにしか意義を見出さなかったのですが、ローザは、正に評議会こそがプロレタリア独裁の「核」だと認識したのでした。
(3)ローザ・ルクセンブルグ著「ロシア革命論」伊藤成彦訳 論創社 215頁
(4)10月革命(武装蜂起)のシナリオはトロツキーによって計画され、レーニンはそのようなブランキ的手法には当初否定的でしたが最終的には同意したのでした。クルッツオ・マラバルテ著「クーデターの技術」中央公論社 75頁以下参照
(5)ローザ自身の遺言ともいうべき「スパルタクスブントは何を欲するのか」(ドイツ共産党綱領)の中の有名な一節「スパルタクスブンドは、労働者大衆を超えて、もしくは労働者大衆によって支配権を得ようとする政党ではない」と明確に表明されています。
(6)彼女こそ、真の革命的マルクス主義者であるということは、世界的にも多くの識者によって言われているところですが。次の文献を紹介しておきます。
J・Pネットル著「ローザ・ルクセンブルグ」下 河出書房新社 356頁
「ローザ・ルクセンブルグは、ただその死によって、革命的マルクス主義の伝統にたって指導する一方の領袖としての地位を展開することも防衛することも出来なくなった。にもかかわらず、その地位がもっともふさわしいひとこそ彼女だった。この地位は、トロツキーを含めてのちにボルシェビキ共同体から抜け出していった人々のものではない。」
初出:「原発通信」2322号(2024年1月15日)より転載
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