小伝 宇野弘蔵(4)
- 2024年 1月 31日
- スタディルーム
- 大田一廣宇野弘蔵
第二章 ベルリン留学と経済学への途
ワイマール期ドイツにて――革命の挫折の渦中に――
大原社会問題研究所では『資本論』を読むという初志の希望とはほとんど縁がなかった。そこで宇野は、研究者や文化人など多くの日本人が留学していたドイツへ1922(大正11)年9月に私費留学を決行し、ベルリン大学に籍だけは置いて24年9月に帰国するまで『資本論』の研究に打ち込むことになった。マルクスの母国ドイツではじめて宇野は、『資本論』そのものをほぼ全巻を通して読んだのである。
ドイツへの出発にあたって大阪の大原社会問題研究所を宇野は訪ねている。たまたまその日は大原社研の理事会が開かれていて大原孫三郎らが出席していた。散会のあと、ベルリンへ旅立つ宇野の歓送会がもたれ、河上肇、米田庄太郎、ドイツ留学から帰国したばかりの櫛田民蔵らがそこに出席していた。学生時代から熱心に親しんでいた河上肇に宇野は自分の歓送会ではじめて会ったのである。のちに宇野は、河上肇の『資本論』研究、とりわけ彼の価値形態論をめぐる思考を本格的に検討することになるが、貨幣―価値形態の問題構制は生涯にわたる宇野の研究課題のひとつとなるはずである。
宇野が神戸から乗船した日本郵船の鹿島丸に当時住友の社員でヨーロッパへの留学に発つ黒崎耕吉が乗っていた。黒崎は東京帝大教員時代の高野岩三郎の学生で大原社研とは縁があったから、宇野は大原社研の研究員として黒崎に紹介されたらしい。この黒崎との偶然の出会いは宇野にとってある種の衝撃だったにちがいない。すでにふれたように内村鑑三門下の矢内原忠雄と同門のキリスト者黒崎耕吉は宇野の高梁中学時代からの級友松田亨爾の信仰上の師であるが、その黒崎から聞かされたのだ――君の言う松田享爾なら神戸埠頭に見送りにきてくれて、わかれてきたばかりだ、と。それを耳にして宇野は“絶句”したにちがいない、惜しいことをした……。松田はその後、若い生命をキリスト者として閉じている。おそらく敬虔なキリスト者であった兄とおなじく病没だったと思われる。このとき、もうひとりの級友西雅雄と交わしたM.ベーア『マルクスの生涯と学説』の翻訳の版権を取得するという約束が、ベルリンに向けて旅立つ宇野の脳裡をやや熱くよぎったかもしれない。
宇野が留学したワイマール体制期のドイツは、第一次大戦後、ドイツ帝国が崩壊し極度のハイパー・インフレーションに見舞われ、対仏戦後賠償、フランスによるルール占領、戦後処理をめぐる英米の角逐など複雑な外交問題を抱えていた。マルクス主義諸派においてもドイツ革命の貶質と敗北、世紀末から続くいわゆる修正主義論争、ドイツ資本主義の性格規定などマルクス、エンゲルス以後の西欧世界の革命運動をめぐる社会民主党(SPD)、独立社会民主党(USPD)、共産党(KPD)をはじめ諸派の対立と抗争が続いており、一方、ビスマルク時代からの旧来の利害に固執する退役軍人などをも糾合したいわゆる「保守革命」派(A.モーラー)の運動なども絡んで、暗躍、陰謀、暗殺などが横行し政治過程と社会秩序は混乱の極みに達していた。そこにまたドイツ表現主義、ベルリン・ダダイズム、バウハウスなど〈形態(フォルム)の美学〉を標榜する“モダニズム”もその破壊的な意思とともに澎湃として沸き起こった。
第一次世界大戦(1914年―1918年)の終結からドイツ帝国の解体(1918年)、ドイツ11月革命と敗北(1918年―1919年、1923年)、ワイマール体制(いわゆる“ワイマール連合”)の成立と展開(1919年―1933年)、そしてヒトラーによる〈1933年〉の“歴史的事態”へといたるドイツ社会の再編過程は、旧来の政治体制、経済構造、学術、芸術・文学などの文化様式、そして大衆の生活世界を支える日常の基層をおおきく転回させ、行方の見通しも立たぬまま絢爛たる狂騒と深刻な生活不安を露呈させていたのである。そのころ刊行されたO.シュペングラーの『西洋の没落』(1918-1922年)は、 “生の破滅”をもたらす貨幣の力を憎悪し「血の共同体」の復権を理念とする〈陽の没する黄昏の大地〉のひとつの象徴だったし、C.シュミットが『現代議会主義の精神史的状況』(1923年)で、「反議会主義」と「神話の創造力」を主張し〈例外的決断〉の意思を公言したのも、破壊と再生をめぐるドイツ社会の混迷を背景にしていた。
虚栄と騒乱と倦怠に包まれたベルリンにパリを経由して1922年10月中旬に着いた宇野は森戸辰男夫妻の出迎えをうけ、その後もあれこれ世話になっている。モスクワから帰った森戸に11月のロシア革命記念祭に誘われ、そこではじめて「インターナショナル」を聴いたこともあったし、片山潜の歓迎パーティにも出たらしい。SPDの機関紙『フォアヴェルツ』やKPDの『ローテファーネ』は毎日読んでいて、ドイツの政治状況、とくに“マルクス主義派”の動向には眼を配っていた。『ローテファーネ』の方がわかりやすく、SPDは「マルキシズムの正統」ではないというのが、当時の宇野の判断であった。『フォアヴェルツ』社には留学の前にUSPDの『フライハイト』を通じて知っていたルードナーに連れられて足を運んだこともあった(但し、USPDは1922年9月にSPDと合流し、カウツキーやベルンシュタインはSPDに“復帰”していた)。このルードナーは宇野によれば、KPDのローザ・ルクセンブルクとともに虐殺されたカール・リープクネヒトの父(ヴィルヘルム)の友人と多少の繋がりをもつ人物だった。
ポツダム広場の南にあるシェーネブルク街の下宿に宇野が移り、やや遅れて文部省在外研究員としてベルリンにやってきた東京帝大以来の知友たる向坂逸郎がブランデンブルク門の西のシャルロッテンブルク街に宿を得てから、宇野は向坂と「毎日のように」頻繁に会って、ドイツの政治状況や経済的諸問題、マルクス主義関係の諸文献、現代トイツの学問や日本の現状などについて情報の交換に努めていた。だが、『資本論』そのものについて向坂とはあまり議論はしなかったようだ(向坂はすでに『資本論』と『剰余価値学説史』を読んでいたらしいというのが、当時の宇野の感触であった)。向坂は、さきに大原社研の櫛田民蔵や森戸辰男が文献収集に利用していた古書商H.シュトライザントに足繁く通い、経済学や社会学をはじめとする社会科学や人文学関係の古典文献の探索と収集を精力的に行っている。現在、大原社研(法政大学所轄)には櫛田らが購入したクーゲルマン宛のマルクス署名の『資本論』初版(1867年)が、向坂のコレクション(「向坂文庫」)とともに所蔵されている。こういう高価な稀覯書の “買物”が可能になったのは、ドイツを襲ったハイパー・インフレーションの“お陰”、つまりマルク銀行券価値や為替相場の暴落が与っていた(たとえば1923年11月1日、1ドル=千三百億マルク。そして同年11月15日に発行されたレンテンマルクの“交換比率”は、1レンテンマルク=1兆紙幣マルク。殆ど流通性のないレンテンマルクはその場凌ぎの「奇蹟」と言われた。)
シュトライザント書店には革命(1917年)後のソヴィエトのマルクス・エンゲルス研究所の初代所長リャザノフもマルクス主義文献の収集に来たようで、櫛田や森戸はそこで知り合ったリャザノフに招かれてモスクワを訪れたほどである(森戸はトロツキーの演説を聞いたという)。シュトライザント書店には、宇野もベルリン大学で聴講した「人気のあった」W.ゾンバルト(“転向”後に売却した「ゾンバルト蔵書」は現在大阪公立大学所蔵)、「豪華本」を好んだハイネやヘルマン・ヘッセなども出入りしていた(H.シュトライザント「私の生涯から」1947年)。また、G.ルカーチの『歴史と階級意識』(1923年)を出版したベルリン・ダダ系のマリク書店は、宇野の下宿に近いところにあった。マリク書店は『破産』なる象徴的なタイトルの雑誌を1924年まで刊行しつづけていたが、ベルリン・ダダへの関心をもったかどうかは別として、宇野はルカーチの『歴史と階級意識』やK.コルシュの『マルクス主義と哲学』(1923年)を知っていた。ルカーチの「階級意識」論やコルシュの「社会的生活過程の総体性」の理論はのちに、帰国途上の香取丸の船上で偶然出会った福本和夫とのあいだで多少とも話題になったはずである。
西雅雄に頼まれたM.ベーア『マルクスの生涯と学説』の版権について宇野は、ベーアを直接訪ねてその許可を得ている。ベーアはイギリス在住期には『フォアヴェルツ』の実質的なロンドン “特派員”として活動し、さらにK.レンナーらが同人の雑誌『鐘』(1919-21年)の編集にも携わっている。ドイツ革命をめぐっては1919年以降、エーベルトやノスケが「ナチへの途」を準備したと批判してKPDに近づいたようであるが、マルクス生誕100年を記念した本書(初版1918年)はマルクスの“入門書”としてよく読まれた模様で、第四版(1922年)まで出されている。西が翻訳したのは第三版(1921年)で、もともと山川均の『社会主義研究』に訳載されたものである。「序文」で山川均は「最も簡潔にして要を得た」ベーアのマルクス論の意義を強調し、巻末にはベーアの『イギリス社会主義の歴史』(1919年)の記述から西が訳出した「原著者略伝」が付されている(白揚社刊、1923年)。
ベーアのマルクス論はマルクスの思考を、「唯物史観」と「経済学説」を中心にして初期から「収奪者が収奪される」という『資本論』まで辿ったものだが、「唯物史観」が認識と方法の両面をもつこと、マルクスの体系は「無産階級の感情の革命的表現」たることにおいて「弁証法」による「総合的体系」であると断定し、理論的表現(剰余価値)と経験的表現(利潤)、資本家と企業家の“区別”などを指摘する一方、“頭脳労働”をめぐる科学・技術の進化による生産力上昇と価値の産出との関係について“配慮に欠ける”マルクスへの疑問を呈している。宇野はベーアをそれほど評価しなかったようだが、すくなくともベーアの『資本論』紹介に貨幣―価値形態論(従って信用論)への参照が欠けていることをひとつの疑問としたにちがいない。貨幣や銀行に関する問題は学生時代から継続する宇野の関心のひとつであって、ワイマール体制期における喫緊の重要課題であった通貨改革(マルク紙幣“価値”の安定問題と金本位制への“復帰”の条件など)と関税問題が巨額にのぼる戦後賠償の「合理的解決」と一体の課題として議論されたこと(「ドーズ案」)など、ドイツの政治・経済問題の対外的・対内的な事情に宇野は関心をもって臨んだであろう。
実際、A.ランスブルク(A.Lansburgh)が1910年から編集・発行していた『銀行』という「ブルジョワ的な」(レーニン)雑誌を宇野は定期購読していた。この雑誌は宇野が読みすすめていたレーニンの『帝国主義論』で引用されているもので、それが彼の眼にとまったにちがいない。ランスブルクは基本的には「金本位制」への復帰を主張する経済学者で、『ドイツの銀行制度』(1909年)や「金利生活者国家ドイツ」に関する論攷もある。宇野はベルリンではじめて読んだレーニンの『資本主義の最新の段階としての帝国主義』(ドイツ語版、1917年)から多くを得ているが、とりわけ「金融資本」の動向が世界史における資本主義の「最新の」“現段階”を牽引する特徴のひとつたることを注意深く観察していたように思われる(レーニンは『ノイエ・ツァイト』に載ったM.ベーアのイギリス帝国主義論にも触れている)。因みにランスブルクの「金本位制復帰」論は日本では大蔵省理財局が紹介していた(『貨幣論叢』第5号、1922年)。
さらに宇野はミュンスター大学組織学・一般比較社会学研究所のJ.プレンゲ(J.Plenge、1874-1963)に関心を示していた。プレンゲには『比較経済論の祖型』(1911年)、『割引政策から貨幣市場の統治へ』(1913年)、『クレディ・モビィリエの創設と歴史』(1921年)など多くの著書があるが、宇野はもっぱら「唯物史観を横にしたような」プレンゲの比較経済論や銀行・信用制度論に注目していた。とくにプレンゲも関与していた〈国家学の模範叢書〉のなかの一冊、A.ワーグナーの『ピール銀行条例の貨幣-信用制度』を態々挙げている。プレンゲやワーグナーがそれぞれ紹介する銀行・信用制度による産業の国民的な組織化を主張するサンシモニアン(ペレール兄弟)の所説やピール銀行条例をめぐる銀行券発行の制限問題などを参照しながら、競合する国家間の政治力学とこれを背景にした銀行・信用制度の政治的な管理による資金の社会的配分という市場統治の工学的政策論が当代の資本主義体制の性格規定にとっていかなる関係にあるのか――このような論点を宇野は『資本論』の読解と並行して考えていたのではないかと思われる。
一方、「有機体的社会」論を掲げるプレンゲの『マルクスとヘーゲル』(1911年)も宇野は読んでいるが、ヘーゲルとマルクスを“総合”したとされる「国家=組織された社会」概念に潜むある種のイデオロギー性には感心しなかったようだ(因みにレーニンは『哲学ノート』で『マルクスとヘーゲル』のプレンゲを「超俗物」と断定していた)。当時、新カント派マルクス主義者のK.フォアレンダーが『カントとマルクス』(1926年)のなかで、雑誌『鐘』に寄稿されたプレンゲの論攷を、いかにも新カント派の彼らしく「因果論と目的論の結びつき」を無視する国家主義的な「有機体的社会主義」と批判していたが、プレンゲはナチスの社会秩序構想を自分の〈民族共同体〉を基盤にした「国家的社会主義」の実現と見做すといったプレ・ファシズムの前哨のひとりと目された人物である。そういう保守主義的傾向のプレンゲを宇野が実際にどのように思って読んでいたのかは分からないが、当時のドイツでは解体に瀕した社会秩序の諸形態をいかに“組織化”するかにあたって、左右の政治的立場を問わず、一般に〈社会化と共同体〉が枢要な論点だったことは確認できると思う。ゲゼル派の通貨改革・「自然的経済秩序」運動もこの文脈を構成する要素のひとつだったといってよい。
『資本論』を読むためにドイツ・ベルリンに留学した宇野ではあったが、ドイツ革命(KPD)の敗北(1923年11月「ルール闘争」)、バイエルン「レーテ」の組織と運動、“ワイマール連合”の実態などその流動的な政治過程を間接的にせよ身近に経験し、しかもサンディカリズムに親和的な共感を寄せていた宇野がその間に、『資本論』そのものをどのように理解し受容したのか。たとえば宇野は、『資本論』(第一巻、カウツキー版、シュトットガルト、1914年。二巻・三巻はエンゲルス版)の論点のひとつとして資本利子論における〈フェティシズムの問題〉が「面白かった」と回想している。後に1924年9月に帰国して赴任した東北帝国大学でも学生の「社会科学研究会」でマルクスの利子論を話したというから、宇野はベルリン時代に、資本利子をフェティシズムの形成において捉えるという視点、資本利子の生成とフェーティッシュの契機という近代資本主義に内在する問題構制(資本の機能形態とこれに応ずる経済的意識形態との“相互関係”)を抱懐した可能性がある。それは、いわば体系期の宇野原論を構成する最終章「それ自身に利子をうむものとしての資本」へといたる理論的な歩みのひとつだったように思われる。
宇野が留学する前から猪俣津南雄など一部には話題にのぼっていた『金融資本論―資本主義の最近の発展に関する研究―』(1910年)の理論家R.ヒルファディングが、1923年にはシュトレーゼマン内閣の財務相として通貨・財政改革にあたっていた。この時期のヒルファディングの姿を宇野は眼にしているが、文部省給費留学生・福本和夫も「社会化委員会」に関係していたK.コルシュを通じてヒルファディングに“ストウンデ”(時間決めのドイツ語学習)を申し込んだらしいが、真偽のほどは分からない。宇野はベルリン大学にときおり出かけ「明快な口調」のゾンバルトの講義なども聴いたが、ほとんどもっぱら下宿にこもって『資本論』をひたすら読んでいたのである。ヒルファディングの『金融資本論』は手に入れていたが、ゾンバルトの『近代資本主義』(初版、1902年)とともに、読んだのは帰国後東北帝国大学に赴任してからのことである。「私のベルリン留学は、『資本論』と『帝国主義論―資本主義の最高の発展段階としてのー』とを読んだというに尽きる」のであったが、『金融資本論』は宇野が帝国主義段階論を着想するうえで想源のひとつになったはずである。
ベルリンで宇野が日課のようにして『資本論』に沈潜していたころ、さきにみた福本和夫(1894-1983)が文部省給費留学生としてドイツにいた。宇野の留学からほぼ一年後のことだが、1923年5月にチューリンゲン州ゲラ(現ゲラベルク)で「第一回マルクス主義研究週間」がフランクフルト社会研究所を創設するF.ワイルの呼びかけで開かれたとき、福本は企画者のひとりであるKPD(当時)のコルシュの誘いで参加している。この「研究週間」は当のワイルもふくめロシア・ボルシェヴィキとKPDの影響下に開かれてはいたが、危機・方法・組織をめぐる全体討議をリードしたのは「方法論の問題」について報告したルカーチとコルシュだった。ルカーチは出版間際の『歴史と階級意識』を、コルシュはすでに脱稿していた『マルクス主義と哲学』を、それぞれの課題と方法に即して展開したにちがいない。この「研究週間」合宿の散会後、『歴史と階級意識』は1923年6月にマリク書店から発売され、コルシュの『マルクス主義と哲学』も同年に刊行された(福本は『歴史と階級意識』をルカーチから献呈され、ベルリン勤務の外交官・神田㐮太郞とともに熟読したという)。だが『歴史と階級意識』は刊行されるとすぐに、『ローテファーネ』によって「物象化」をこととする〈危険な思想〉として批判に晒された。これはKPDの敗北と貶質、「ボルシェヴィキ化」をめぐるコミンテルンの内部対立、そしてレーニンの死(1924年1月)など政治・社会革命をめぐる理論形成と党派の編成が一つの、しかし大きな転機に差し掛かっていたことを窺わせる。事実、1924年夏のコミンテルン第五回大会に出席していたルカーチとコルシュは「極左派」として名指しで批判されたのである。
ロンドン経由で帰国の途についた宇野は、マルセイユから同じ香取丸に乗船した福本和夫と偶然一緒になっている。宇野の回想によれば、ロンドンで読んだボグダーノフの社会史に関する英訳――ボグダーノフには『経済学小教程』(1897年)、『史的観点からみた認識』(1901年)、『経験一元論』(1904-06年)、『社会意識学概論 イデオロギーの科学』1930年、林房雄訳。この林訳は『社会の発展諸形態と科学』ドイツ語版、1914年からの重訳)などがある――を引き合いにだして、「唯物史観と経済学の関係」について福本と議論しているが、ほとんど噛み合わなかったという。その際、福本は帰国後の研究計画として河上肇批判を語つたらしいが、河上肇の思考といかに対質するかは宇野にとってもおおきな課題のひとつであった。ルカーチの『歴史と階級意識』やコルシュの『マルクス主義と哲学』を精読していた福本のマルクス論に「コルシュの匂い」を感じた宇野は、いずれもイデオローギッシュで「ピント」が合わなかったと述懐しているが、逆に福本はかれらから一定の積極的な意想を得ていた。推測に過ぎないが、ここで宇野と福本が岐かれるのは、ルカーチのいう「社会的存在」の「物象化と階級意識」、コルシュが主張する「意識諸形態」を構成要素のひとつとする「社会的生活過程の総体性」をどのように評価するかにあったのではないかと思われる。近代資本主義社会の存立にとって意識形態ないしイデオロギーの能動的な機能を強調するルカーチやコルシュの論調に対して、宇野のいう「ピント」のズレという違和感は、歴史的世界としての資本主義社会におけるイデオロギーの機能的なあり方という問題構制に向けられていたはずである。
すでに『帝国主義論』を読んで感銘していた宇野が、当のレーニンによってマッハ主義の主観的観念論と烙印されたボグダーノフではあるが、E.マッハや新カント派の影響下に書かれたボグダーノフの『経験一元論』や『テクトロギア』(「組織形態学」1913-22年)に関心をしめした可能性は否定できない(ボグダーノフの「テクトロギア」はL.ベルタランフィの「一般システム」論やN.ウィーナーの「サイバネティックス」論に一定のヒントを与えたといわれる)。このとき宇野はどういうつもりでボグダーノフを口にしたのか、それは分からないが、日本資本主義の性格規定をめぐる講座派の形成がいわゆる福本イズムの批判とともに行われた経緯からすれば、宇野の理論形成にとって福本和夫の思想は重要な契機となったにちがいない。そういう福本は、思想史的にみれば、コミンテルン・マルクス主義につらなる素朴実在論にもとづく実証主義的マルクス主義を批判していたルカーチやコルシュの、いわゆる西欧マルクス主義の先端に触れていたことになる。(続)
2024年1月29日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1289:240131〕
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