混在したジャンルの向こう側にあるもの
- 2024年 2月 13日
- 評論・紹介・意見
- 髭郁彦
ミハイル・バフチンはテクスト空間の統一を支えるものとしてのジャンルの意義を強調している。ジャンルからジャンルへの越境は、固定されたジャンルが崩れ去り、新たなジャンルへと向かう解体構築の一つの創造となる可能性が内包されている反面、ジャンルとしての統一が粉砕され、テクストが完全に崩壊に向かう可能性も内包されている。それゆえ、ジャンルの問題はエクリチュールの問題に収斂するものではなく、テクスト空間内でのイマージュ (image) の飛翔が成功するか否かというテクストの存立基盤に係わる大問題ともなる。いくつものジャンルが組み合わされ、その配列が何故こうであるのかという方向性が示されないままにテクスト空間に放り出されたならば、読者は砂漠の中を彷徨せざるを得ない。そうした孤独な彷徨に耐え抜くためには自らのイマージュの力を最大限に働かせることが必要となる。「論理よりも、イマージュを」、ガストン・バシュラールならば、こう言うかもしれないが、それが過酷な忍耐を強いる苦行であることも確かである。だが、アントロデュクション (introduction) は、ここまでにしよう。こうしたディスクールをいくら並べてみても、砂漠の中での言語ゲームが行われるだけだからだ。
林完枝氏のテクストである『あらぬ年、あらぬ月』について、私はここで語ろうと思っているが、このテクストに言及することは容易なことではない。何故なら、固定されたジャンルの枠をはみ出たこのテクストは、私のイマージュの及ばない事象がびっしりと詰まった作品であるからである。それだけではなく、私はこの作品の中に連続性を求めることができず、このテクストに対して統一した何かを語ることができないからである。そうであるにも係わらず、『あらぬ年、あらぬ月』に対してコメントしようと思ったのは、この作品に不気味とも言い得る、底知れぬイマージュの広がりの可能性を感じたからである。それゆえ、私がこれから語ろうとする事柄は書評というジャンルのディスクールと言い切ることはできない。それは、イマージュの可能性を問うための、間テクスト性 (intertextualité) を問うための語りと呼ぶべきものである。
しかしながら、『あらぬ年、あらぬ月』を読んだ後に、私が抱いたイマージュを列挙するだけでは、そこに、テクストとテクストとの対話関係を、すなわち、間テクスト性は見出せない。間テクスト性構築のために、私は三つの導き糸を導入する。「死のイマージュ」、「キッチ」、「メタモルフォーゼ (Metamorphose)」である。この三つの導き糸が選ばれたのは、恣意的な理由からである。イマージュの問題、それも、私がテクストを読むことから生成したイマージュは主観的であることを逃れられない。つまり、最も印象に残ったイマージュを示すことしか私にはできないのだ。また、最初に断っておかなければならない点が一つある。それは、林完枝氏は出版された創作テクストとしての前作、『青いと惑い』においてもそうであったが、今回の作品でもオートフィクション的色彩を強調しようとしているように思われるが、その点は考慮に入れなかったという点である。何故なら、連続する短編小説、詩、俳句などの後に、林氏は作品の自己解説を書いているが、もしもその解説も参照したならば、テクストと解説文との関係性や、林氏自身の人生に対する正確な考察に関する膨大な検討が必要になるからである。私はここで厳密な作家・作品論的な書評を書こうとはまったく思ってはいず、そうする力も持ち合わせてはいない。それゆえ、ここでは、あくまで、あるテクスト空間を横断しながら私が抱いたイマージュの問題だけを記述しようと思う。
死のイマージュ
『あらぬ年、あらぬ月』は死のイマージュの満ちた作品である。それが私の第一印象であった。如何に軽妙な色彩のタッチを重ねようとも、その奥には常に死の影がある。冒頭の小説「のちから」以降、全ての作品が死のテーマのエクリチュールに覆われている。この小説の「黒い鳥」と名付けられた第一章では、仲間の少年から受けたリンチによって死ぬ少年が登場する。母親は多分シングルマザーで、兄弟はいない。一人残される母親。残酷な現実を見つめながら、母親は空想する。この小説の最後に書かれた「窓の外、非情に白くおおわれた空、黒い鳥が翔けりゆく」という言葉は、死の象徴である。第二章「蟲たちの徹夜祭」では、孤独死した男の肉体が、死によって崩れ去っていった後の姿が描写されている。「死体の腐敗現場を見た。職業柄これまでも何度か見たことがある。これからも見ることになるだろう。見たことを忘れたい、同時に忘れてはいけない、とも思う。忘れたら、死んだ人はかつて生きていた、笑ったり泣いたり苦しんだりしただろう、それら生きた年月のすべてが無に帰す。無に帰してはいけない、なぜそんな義理人情が生まれてしまうのか」と、腐乱死体を見たソーシャルワーカーは思ってしまう。第三章「捧げもの」では、「(…) キリストは全人類の罪を背負って死んだ、とも聞かされた。すると、キリストの磔刑後には、全人類が贖われたことになる。一人の無辜の死をもって全人類を救済するとは、なんと途轍もないバランスだ」と語られている。死の意味、それは価値への問いであろうか。
死の影が映し出されているのは二番目の小説「子子の子」においても、三番目の小説「アクロポリス」においても変わらない。二番目の小説は、死の影よりもキッチさが勝っていると述べ得るが、それでも、「(…) 不安が忍び寄ってきた。父は高血圧だったし、夕食には、日本酒を飲んでいた。ある程度アルコールの分解が進んでから入浴したはずだ。しかし、寒い冬の夜である。母はおそるおそる風呂場の扉を開けた。バスタブの中、父の顔面は沈んでいて見えなかった」という描写がある。SF小説とも言える三番目の小説にも「誰でも死後は土の中で温まりながら、魂は上空を憧れ続ける」という言葉がある。どのようなテーマを語ろうとも、死のイマージュがエクリチュールの中に忍び込んでいる。私にはそう思われる。
詩と短歌などの韻文のセクションにも死のイマージュは付き纏っている。「骨壺の中」という詩の中にある「骨灰はなお残るのか この世界に未練は残さない 何も / そう努めてきたと今更に主張できようか 怨嗟が」という詩句。「マスカレード」という詩の中にある「耳をそばだて息をひそめ 怨憎会苦の深度をはかる 底知れぬ / この世で決択をつける 赦しは あの世あれば乞うがいい」という詩句。「水な月、神な月」という詩の中にある「今あるのはぬけがら 七年を経て残ったのは / 「なんじ我らが屑となれ」 連祷を響かせ / 土の中 水の中 木の中 焔の中に遁れ隠れよ」という詩句。死の臭いは詩句の中から漂い出ている。軽妙な俳句の中でさえも、「落ち葉踏む 骨壺重く 青山へ」や「病高じ 素敵なヒトも ゾンビー化」という句が見つけられる。死、死、死。死のイマージュを何故そこまで執拗に描くのか。
ヴラジミール・ジャンケレビッチは『死』において、死のイマージュを三つのタイプに分類している。一人称的死、二人称的死、三人称的死である。最初の死のタイプは私自身の死であり、それは知ることができないものである。二つ目の死は親しい人の死であり、私がその死を傍らで見つめることができ、その死に大きな痛みを感じる死である。三つ目の死は私が見知らぬ人の死であり、交通事故死の統計のように平均化され、数量化された死である。このタイプ分けに従えば、『あらぬ年、あらぬ月』の中に書かれた死のイマージュは二人称的なものが殆どであり、僅かに三人称的なものが見られると述べ得るだろう。しかし、それは偽装された死のイマージュの描写のように私には思われた。何故なら、これだけ多くの死のイマージュが連続するゆえに、私はそれらのイマージュの群れが収斂して行く方向をどうしても見つめてしまう。イマージュの群れの目指す方向、それは一人称の死である。小説における一人称の死は主人公の死であるだけではなく、作家の死をも意味する。それは語り手を不在にするという意味ではなく、実際の死である。だが、ここでは作家・作品論的アプローチを拒否している以上、この作品の持つ死の問題にこれ以上近づくことはできない。
キッチ
ミラン・クンデラはキッチというものを追求し続けた作家である。キッチとは何かを彼は『小説の精神』の中で、「キッチな態度があり、キッチな行為がある。キッチな人間 (Kitsch-mensch) のキッチへの欲求。それは、あばたもえくぼと化する虚偽の鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求である」(金井格、浅野敏夫訳) と述べている。こうした虚偽を真実に変えるマジックがキッチである。通俗性に隠された自己陶酔。譬えそこに嘘があろうとも、それは無効にされる。キッチの中にある真実、キッチの中にある美は、虚構であるからこそ真実であり、美であるのだ。
「のちから」の第二章にある「起き上がるのをやめると腹もへらなくなる。これぞ、どん底省エネ生活、エコモード、地球に優しいライフスタイル。動かさないと動けなくなる」という言葉はキッチである。「子子の子」の第三章「シュレーディンガーのヒヨコ」では、着ぐるみを着たカップルが登場するが、「彼は猫姿で友人を出迎えたのである。こんなもの、来てるんだぜ、どうよ、大金かけたんだぜと自慢したかった。(…) 大金をかけた甲斐があったと思えることが大事なのだ」という言葉にもキッチがある。「アクロポリス」の第二章「古文書断片」に書かれた再生される肉体について語られている「あなたは再生する。腐りつつあるあなたの手足は切断されるが、名匠名工の技が疲れを知らぬ代替可能な義肢を植え付けてくれる。強度も伸縮性もあなたの自由裁量に任される。その性能はいくらでもアップデートできるだろう」という言葉もキッチだ。三つの短編小説にはキッチな描写が点在している。虚構の真実を求め、キッチはここにも、あそこにも存在する。
詩と短歌のセクションにある「ポンコツ屋」にある「何でもかんでも写真に撮っておけ 充電忘れず にっこりピースサイン」という詩句。「葉見ず花見ず」にある「わたしは幸せになるために生まれてきた 高度な脳はストーリーに溺れる / つづきつづきを読みたがる 書きたがる 書きかえたがる 気が済むまで」という詩句。「ひとごとひとりごと」にある「試着室の鏡の前できめポーズ おめめパッチリ / マスカラばっちり いつも応援 鏡はウソつかない」という詩句。俳句の中にも「なくせない スマホは家族 アップデート」や、「素面でも お喋り怪獣 大暴れ」や、「ポケモンと ヒトは一体 背後霊」という句がある。これらは全てキッチの色合いを帯びている。
しかし、こうしたキッチを表す言葉が何度も語られるのは何故だろうか。擬態の中の真実がキッチの中にはあると私はこのセクション初めで述べたが、何故、真実らしさが必要なのだろうか。虚構を示すからこそ、真実が見えるのだろうか。あるいは、真実を提示することができないからであろうか。キッチは卑俗さを装いながら、光り輝く宝玉を何処かに隠している。だが、隠された宝玉は探し出せるだろうか。イマージュにイマージュを重ねることによって、隠されたものは更に遠くへ遠くへと離れていくのではないか。逃げ去るものを追い求めることはよそう。イマージュは戯れであり、消えゆくもの。それは真理ではない真理。意味ではない意味だから。
メタモルフォーゼ
エマヌエーレ・コッチャは『メタモルフォーゼの哲学』の中で、「メタモルフォーゼとは、すべての自然のあいだの等価性の原理であり、この等価性を生み出すことを可能にするプロセスであるのだ。あらゆる形態、あらゆる自然は、他の形態や自然に由来し、それと等価である。その一つ一つが同じ平面上に存在している。それらは、それぞれ異なる様態においてであるが、他の形態や自然が共有しているものを持っている。変質は水平的なのだ」(松葉類、宇佐美達朗訳) と書いている。メタモルフォーゼとは差異の思想ではなく、同の思想に基づく、存在論的な問題設定である。われわれが差異を強調する時に構造という問題が現出するが、同を基準にディスクールを展開する時にメタモルフォーゼという問題が現出する。メタモルフォーゼは不変への願望であると共に、イマージュの旅立ちを告げる合図ともなる。ある形態は形態を変えなければ、静止したものと見做される。最初の形態も後の形態も同一であるという保証は、静止性によって不変と見做される原理に基づいている。だが、変化がありながらも同一であるならば、それはメタモルフォーゼである。
ポール・リクールは『他者のような自己自身』において、自己性 (ipséité) と自己同一性 (identité) との違いについて論じている。前者が日々変わる「私」が問題であるのに対して、後者は主体である「私」を生涯貫く同一性を示している。前者の立場に立てば、不変的な「私」とは虚構であり、後者の立場に立てば日々変わりゆく「私」はメタモルフォーゼしていると述べ得る。自己同一性を問うならば、あらゆる場に、あらゆる存在にメタモルフォーゼを求めようとするコッチャの主張は正しい。
『あらぬ年、あらぬ月』の問題に戻ろう。コッチャの視点を取るならば、この作品はまさにメタモルフォーゼのテクストである。ここでは、煩雑さと、いたずらに長くなることを避けるために前のセクションや前の前のセクションのように作品を構成する三つの下位作品カテゴリーのそれぞれからメタモルフォーゼのイマージュを列挙することはせずに、いくつかの例だけを提示しようと思う。「のちから」にある「何かが残る、何かが生き続ける、そういうことだ。どうやら現世は貪欲な亡者たちに取り憑かれているらしい」という言葉。「アクロポリス」にある「大多数の人間は自己複製に未来を託す。自分の子どもが未来だ。自己複製と拡大再生産が未来だ」という言葉。「木の子」にある「わずかは無数 無数はわずか 自然数にゼロはない」という詩句。「葉見ず花見ず」にある「突然変異が未来を作る その未来を見たい 最新の集積データを解析中」という詩句。「水な月、神な月」にある「今が昔か 昔が今か 月は現れ隠れる / あらぬ年あらぬ月 あらたに創らん」という詩句。これら全てはメタモルフォーゼのイマージュを帯びている。変化する様態。再生のドラマ。
どうしてメタモルフォーゼのイマージュがこのテクストの中で連続するのか。私にはその理由が判らない。しかしながら、メタモルフォーゼが再生のドラマであるならば、先ずは死がなければならない。死のイマージュからの再生。そうでなければメタモルフォーゼはない。そして、メタモルフォーゼが驚嘆すべきものであるのは、異なるものが同一のものになり、同一のものが異なるものになるという奇跡が現出するからである。コッチャは上記した本の中で、「メタモルフォーゼとは、二つの身体が同じ一つの生であるという奇跡である」と、また、「生とは、ガイアという並外れて巨大なイモムシにとってのチョウにほかならない。生とは、この惑星のメタモルフォーゼなのだ」と述べている。だが、忘れてはいけない事柄がある。それは、あるイマージュが他のあるイマージュに変わること、それもメタモルフォーゼであるということだ。
結局、私はここで、私のイマージュを列挙しただけなのではないか。このテクストには対話性などなく、単なる独りよがりの語り (soliloque) があるだけではないのだろうか。ロラン・バルトは『彼自身によるロラン・バルト』の中で、エクリチュールと文体との関係性に触れながら、この関係性において、「(…) 文体は、あるひとつの新しい価値すなわち≪エクリチュール≫を称揚するという役目をはたしている。そのエクリチュールとは何かと言えば、それは、文体をあふれ出させ、言語活動と主体との、いままでとは別の領域へ、文体を運び去るもの、≪分類ずみの≫文学的コード (…) から遠く離れたところへ導くものである」(佐藤信夫訳) と語っている。確かに、ある作品のエクリチュールを追うことで、必ず何らかのイマージュが誕生する。作品の持つイマージュだけではなく、そこから範列的 (paradigmatique) に拡大する様々なイマージュが。しかし、そうしたイマージュの連鎖とは何であろうか。そこには何らかの統一された法則や、方向性があるのだろうか。
バルトは今挙げたテクストの中で、「省略法ということばのあやは、あまり理解されていない。それが人を困惑させるのは、それが、言語活動における恐るべき自由を体現しているからである」とも書いている。われわれは全てを語ることなどできない。それゆえ、どんなディスクールの中にも省略法が存在している。それも何が現前し、何が消去されるのかということに対しては確固とした規則性がある訳ではない。われわれは自由にディスクールの流れを決定できる。イマージュの開放性はこのディスクール内での語の自由な省略可能性に依拠している。何を省いてもよいということは、何を補ってもよいということを意味するのではないだろうか。イマージュのメタモルフォーゼは、いつも欠如でありながらも、過剰である。
擬態したメタモルフォーゼの向こう側にあるものは何であろうか。その問いは、混在したジャンルを持つテクストが目指す方向性は何であるかと問うことでもある。今、私はその答えを用意してはいない。結局、私は最初の問いに返っただけではないだろうか。では、ここで長々と書いた事柄は無駄なことであったのか。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。イマージュにイマージュで答えることは透明なガラス越しにある事象と対峙することにではなく、洞窟の中を明かりもなく彷徨することに似ているのではないだろうか。
最後にもう一度、コッチャの言葉を引用しよう。「未来とはメタモルフォーゼの純然たる力である。(…) 将来とは、変態することを個体や生物群に強いる病である。つまり、わたしたちが自分たちの同一性を何か安定したもの、決定的なもの、リアルなものとして考えることを妨げる病なのだ。」未来が病であるならば、未来は死の影を宿している。死は正常さから遠く離れた異常さの悲劇と喜劇。そこには、キッチな形態が記されている。そして何よりも、死はメタモルフォーゼを生み出す。混在したジャンルから成り立つテクストであるがゆえに、イマージュはイマージュを殺し、イマージュを生む。停止することなく、生成し続けるイマージュ。それが『あらぬ年、あらぬ月』の向こう側に私が見たイマージュである。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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